旗掛石(はたかけいし)。
場所:静岡県焼津市石脇下705(「(石脇)浅間神社」の住所)。東益津小学校の北東、約400m。石脇公民館の北側にある。駐車場なし。
石脇の「浅間神社」の鳥居脇に、注連縄が張られた巨岩が2つ並んでいる。これが「旗掛石」(または「鞍掛石」)で、徳川家康公がこの石に旗を立てかけ(鞍を置き)、傍らの松の木に馬を繋いだという。その名から、機織りの上達を祈願する信仰も生まれたという(近くの「勢岩寺」には機織地蔵が祀られている。)。また、そもそも「石脇」という地名も、この岩に因むという。
石脇「浅間神社」の社伝によれば、天正年間(1573~1592年)、当地がまだ武田領であったころ、「旗掛石」の近くに居館を構えていた原川新三郎は家康公に忠節を尽くしたことから、家康公が原川家を訪れた。「旗掛石」の故事は、そのときのものである。原川新三郎は元々、遠州・原川村(現・掛川市)の出身で、当神社は延徳3年(1491年)に出身地の「浅間神社」から原川家の屋敷神として勧請されたものという。
江戸時代の絵図によれば、「旗掛石」はもっと高い岩として描かれている。現在はかなり地中に埋まってしまっているのかもしれない。当地は、高草山の登山口の1つであり(案内板がある。)、高草山を見上げる位置にあることから、古代からの磐座だったとされている。そして、諸資料でも言及されていないが、当「浅間神社」の社殿の背後にも大きな石が露出している。社殿の向きも南向きではなく、南西を向いているのは、この石を祀りたかったからではないだろうか。
それはともかく、神体山としての高草山に対する信仰、及び古代東海道の守り神としての聖地であったところに、「浅間神社」が勧請された、ということになるのだろう。
「神社探訪・狛犬見聞録」さんのHPから(浅間神社)
写真1:旗掛石
写真2:「(石脇)浅間神社」鳥居。祭神:木花咲耶姫命。
写真3:社殿の背後にも大きな石が露出している。
場所:静岡県焼津市石脇下705(「(石脇)浅間神社」の住所)。東益津小学校の北東、約400m。石脇公民館の北側にある。駐車場なし。
石脇の「浅間神社」の鳥居脇に、注連縄が張られた巨岩が2つ並んでいる。これが「旗掛石」(または「鞍掛石」)で、徳川家康公がこの石に旗を立てかけ(鞍を置き)、傍らの松の木に馬を繋いだという。その名から、機織りの上達を祈願する信仰も生まれたという(近くの「勢岩寺」には機織地蔵が祀られている。)。また、そもそも「石脇」という地名も、この岩に因むという。
石脇「浅間神社」の社伝によれば、天正年間(1573~1592年)、当地がまだ武田領であったころ、「旗掛石」の近くに居館を構えていた原川新三郎は家康公に忠節を尽くしたことから、家康公が原川家を訪れた。「旗掛石」の故事は、そのときのものである。原川新三郎は元々、遠州・原川村(現・掛川市)の出身で、当神社は延徳3年(1491年)に出身地の「浅間神社」から原川家の屋敷神として勧請されたものという。
江戸時代の絵図によれば、「旗掛石」はもっと高い岩として描かれている。現在はかなり地中に埋まってしまっているのかもしれない。当地は、高草山の登山口の1つであり(案内板がある。)、高草山を見上げる位置にあることから、古代からの磐座だったとされている。そして、諸資料でも言及されていないが、当「浅間神社」の社殿の背後にも大きな石が露出している。社殿の向きも南向きではなく、南西を向いているのは、この石を祀りたかったからではないだろうか。
それはともかく、神体山としての高草山に対する信仰、及び古代東海道の守り神としての聖地であったところに、「浅間神社」が勧請された、ということになるのだろう。
「神社探訪・狛犬見聞録」さんのHPから(浅間神社)
写真1:旗掛石
写真2:「(石脇)浅間神社」鳥居。祭神:木花咲耶姫命。
写真3:社殿の背後にも大きな石が露出している。