Jun日記(さと さとみの世界)

趣味の日記&作品のブログ

石鹸箱2

2016-01-17 19:30:32 | 日記

 思い出してみると、以前にも書いたような気がする石鹸箱。

そうして、セルロイドの華奢な石鹸箱以外にも、ポリ容器の同じ色合いの石鹸箱があったような気がする。

そう考えてくると、今回の小箱は、本当にもろく華奢なセルロイドの薄く軽い石鹸箱だった。

かなり昔の物なのだろう。

デザインというものは、繰り返し繰り返し復刻版として甦って来るのかもしれない。

品物に纏わる思い出というものも、繰り返し繰り返し甦ってくるのだろうから、また何処かで同じ石鹸箱に出会うことがあるかもしれない。

全く同じ石鹸箱ではないだろうが、また淡く苦いような懐かしい思いに捕らわれることだろう。

父にもそうした懐かしい思い出があった石鹸箱なのかもしれない。確かに、父は自分の石鹸箱だと私に話していた。

淡いブルーが男性的であり、淡いピンクが女性的でもあり、白とグレーのモノトーンが品を寄せていた。

万人受けのする配色と、今はないセルロイドの質感がマッチした、アンチークな逸品といえる小物だったのかもしれない。

読んで思い浮かんだ人も少なからずいるかもしれない。

 


石鹸箱

2016-01-17 14:13:27 | 日記

 最近気になったのがこの石鹸箱です。

昔の旅行用の携帯だと思う石鹸箱です。携帯だけに小さな物。5㎝×3㎝ほどの、昔懐かしい小さな固形石鹸を収める箱です。材質は響きも懐かしいセルロイド製のようです。

何時頃から家にあったのか、かなり幼いころから目にしていたものでした。色合いも多色の淡いブルー、グレー、ピンク、ホワイトが混ざり合った、品の良いデザインとなっていました。昔から目にすると心地よい嗜好というものを感じたものです。

思い出としては、父が旅行や温泉などに行く時に、風呂用セットとしてけ携帯袋に入れていた記憶があります。時代と共に台所の隅のお風呂用道具、洗面器などに、置き忘れられたように収まっていたものです。銭湯用の石鹸箱も大きくなりましたから。

無造作に置かれていたというよりも、可愛らしくそこに貝のような光沢を放ち載せられていた、螺鈿作りのようにさえ思えるような小箱でした。

私は久しくその姿を見ていなかったので、全くこの小箱の事は忘れていた、頭の片隅にさえついぞ浮かんだことがなかった数十年でした。

それが、まだあったのだと、思いがけず手にしたのが2、3日前の事でした。

新しくなった家でありながら、やはり洗面所の片づけをした時に、用具としてのその置き場にあったものでした。

変わらぬ柔らかな美しい色合いに改めて魅せられて、汚れを落として再び洗面具の中に戻そうと洗い場へ、片付け物の多さに後から洗い上げようと水に浸しておきました。

さて、片付けが済んで他にもいくつか汚れを落とそうと浸して置いた品を洗い始めて、よくよく小箱を見てみると、角が磨れたように壊れていました。壊れた個所はもろく擦り切れたようなぽろぽろとした柔らかさ、薄さとなっていました。崩れた中心はぽかりと小穴が開き、石鹸を収める用をなさないものとなっていました。

「美しい箱だったのに」

寂しく思ったものです。愛着のある品との別れ、思い切りよく綺麗に洗い上げた小箱は不燃物の袋に、ナイロン袋や、ポリ袋、容器などの重ねてある上にポンと置き捨てられて、それでも私は未練なく不燃物の袋をそのままにしておきました。次の日には母が袋の口を閉めて、まさに捨てる準備が整った形の袋になっていました。

ふと、母は何も思わなかったのかな?気付かなかったのかしら?と思いました。ゴミの袋類の上に、ちょこんと載せられた小箱、箱と蓋に分けて並べてふっさりと置かれていたのが目についたであろうと、閉じられた不燃物の袋に母の心情を思いやったりしました。

その後母も私も何も言わないので、母の心情を推し量ることはできないのですが、多分私以上に見慣れてきたであろう母の、この石鹸箱への愛着の度合いについては、母とこの石鹸箱について話した記憶がない私には推量以前に無縁な物と感じるのです。

私にとって石鹸箱と結びつくのは父。捨てられずに、壊れて汚れた小箱を、無造作なように汚れた茶碗の中に、溜まり水の中蓋と身を分けて忘れられたように取ってあった、その姿を見つけた時私は、父のその石鹸箱に対する愛着を思ったものでした。

とても気に入って好きな小物であったのだろう、まだこの色合いを見ていたかったのだろうと。

そして、片付け整理をしていた私は、家から去った父と同様に、嗜好品から本来の道具としての用を成さなくなった品を、家から葬り去るという判断に躊躇は起こさなかった、起きなかったものでした。