Jun日記(さと さとみの世界)

趣味の日記&作品のブログ

母伏せる

2016-03-24 14:04:08 | 日記

 本当に、母の風邪には困った物です。

というのは、まず腰が立たなくなってしまうんですね、年のせいでしょう。

もう2年ほど春先になると立ってトイレに行けないとハイハイ。その後、大抵は休日に合わせたように具合が悪くなるので救急医へ、施設の車いすに乗ってご満悦風にしたり顔で不調を訴える割には特に異常がなく、風邪。インフルエンザでもなく風邪。

薬をもらって帰宅して服用、翌朝起きてみると家には居ず、どこへ行ったのかと思えば散歩。

「気分が良くなったから散歩に出た。」

そうだ。

そんな2年の春が過ぎて今年です。

 今年も同じく腰が立たなくて、…と思っていると、今年はハイハイではなく仰向けにお尻でずりずり、手で体を押し出すようにしてトイレに通っていたと思ったら、毎度のことで熱もあるので、またまたこちらも救急医という連休中の発病。

ここここ、…。

そんなわけで、今回もすぐ翌朝には散歩と思いきや、全然でしたね。

まず、食欲が戻ってこないので、相変わらず寝たっきり。トイレの便器に這い登る力もなく、はっていく力もなく、手がしびれて物が持てないとか。

これは、何時もと少し様子が違うとは思いましたが、救急医の先生も、診断は風邪。主治医の先生も風邪、転んでいるね、との言葉に、指示通り足の湿布をして、漸く翌日にはお尻ハイハイが復帰でき、今朝は膝での普通のハイハイが出来るようになりました。

あー、長かったと数えてみると、6日目の闘病生活になりました。

この間、やはりトイレに行けないためオムツ。これが、少々のおもらしにも快適だったらしく不思議とお気に入りです。今も自身で装着中。

お昼に着替えをさせたところ、快適だからこのまま下着に替えないでいいとか。

へー、そうね、濡れていちいち着替えるより、さっとポイ捨ては便利なものだし、肌さっぱりで、どこかのCMじゃないけれど、お尻さっぱり赤ちゃん(こちらはばばあ)にっこり。

 何だか、思うに、車いすで世話されていた頃からご満悦だったように、介護されて嬉しいなんて、内の母だけでしょうか?

介護されたい、世話されたい、手間かけさせたいなんて、世話するこちらがとても…迷惑。仕事だって穴あけたし…


明日は春分

2016-03-19 20:56:42 | 日記

 明日は春分ですね。

手紙の追伸があるように、記事の追記です。

 祖父母はきちんと遺言状で父や兄弟に土地を分割してくれました。私がその区分を見た時、多分皆がそう感じるように私も妙に思ったものです。

上の伯父の土地が兄弟の中間にポツンと配せられていました。何故ここだけ伯父の物に?何故ここを伯父の物に?そんな疑問が湧きました。

父ともう一人の伯父の間にその土地はぽつんと取り残されていました。その土地の意味を何度か考えたものです。そして、『子は鎹』という言葉が何度か浮かんだものです。この言葉が浮かぶのが自分でも不思議な気がしました。

祖父母の記憶を辿ってみると、二人の居室で頭を寄せてぼそぼそ何やら相談していたことが思い起こされます。 

何度かの、記憶に残る言葉を思い浮かべてみると、そこでいいじゃないか、持っててもらおう、あの子じゃないとなどなど、

…、…、…、

ちょっと言えない言葉もあるので、

あれこれ考えると、祖父母が大枚叩いて買った土地、子孫の代になって失くして欲しいはずがありません。

それでも、やはり祖父母が予想していた通りになっているのだと思います。

ここで、この土地を持ち堪えさせるのはなかなか難しいことです。周りの家を見ていてもそうです。土地だけ残して住人がいない、そんな所でもあります。土地を売りたくないけれど住むことができない。そんな事情が多々あります。

 私も、父の存命中から将来のことを考えてどうしたものかと思ったものです。まだ相続していない土地の事なので、もし相続したらと仮定形で言ったものです。

 そうして、祖父母の名の付く公園にして、お茶など飲んで一服できる茶店などがあれば良いかな、家が老朽化する迄は観光などの保養所に使われてもよいな、など、私も皆と気持ちは同じ、売りたくないのです。

何かしら祖父母の名の残る場所として、住民の憩いの場になればと、永く残って欲しいと思ったものです。


時の流れ

2016-03-08 11:07:48 | 日記

 そのような訳で、

大体の祖父のボケていたらしい、またはボケはじめていたらしい様子が分かっていただけたかと思うのです。

 祖母が亡くなってから3年は経過していたかと思うこの頃。諸事情も判明し定着していただろう頃なのに、祖父は伯父が家に帰ってくる事を喜ぶ状態にあった。また、家に帰って来て欲しいと願う状態にあった事がうかがえます。

私もまだこの頃は家督が定まっていたことを知らない状態だったので、祖父の意向をくんで、父に家を出て暮らすことなど勧めたりしたものでした。私達一家が出れば伯父一家も帰って来易いだろう。祖父の為にもその方がよいのではないかと、真面目に父に言ったものでした。

が、もう当時は父が家を継ぎ、祖父の面倒を見るという状態になってしまっていたので、私のこの意見は全く相手にされなかったものです。

それどころか、折角固まっている家の体制を揺るがせる事になってしまったようです。

 今から考えてみても、祖母の死後半年過ぎからの祖父の言動は、親戚との間に相当の軋轢が生じたらしいことを窺わせました。

外出先から帰ると相当疲れた表情で何度か独り言をつぶやいていた祖父。青息吐息というものでしょう。

かなり赤くなったり青くなったり、顔色さえ冴えない、青ざめた表情でがっくりと疲労感を漂わせていたものです。

私は常と違うこんな状態の祖父に、外で何かしらの荒波に立ち向かっているらしい、そして相当な波に揉まれているらしい祖父の心労を感じました。

大丈夫なのかと、外での諸事情が分からないままに祖父の身を案じ、父や周囲の人々に何かが起こっているのを感じていました。祖母の亡い中、祖父もはかなくなってしまうのではないかと案じたものです。心配になり、いたたまれず周囲の人々に相談さえしたものです。当時子供の私でさえ、これだけ親戚内で何かがあったことを感じ取れたのです。

 今事情が分かってしまえば、当時祖父が伯父を家に呼んだり、帰ってくることを願ったり、もう父の家になった所へ伯父が戻って来ることなど無いのだ、そうしてしまったのは祖父母自身なのだと、諸事を全く把握できなかった祖父は、やはりボケていたのだと、今の私は思うのでした。

 


青葉は和シュロ

2016-03-07 19:35:51 | 日記

さて、

ここで元の祖父のボケていたという話に戻る。

 ある日のこと、もう私は小学校の高学年か、中学にはまだ上がっていなかったと思うのだが、祖母の死後かなり経ち、仏間には祖父だけという生活にも慣れた頃、気候の良い頃だったと思う。

私は外出から帰り、洗面所で手など洗っていた。日差しや水が気持ちよかった。

台所は明るく、庭から入る午後の日差しに溢れていた。

「やあ、帰ってきたね。」

そんな声に振り向くと、伯父が傍に立っていた。

普段めったに家には来ない、珍しくにこやかな伯父の様子に驚いた。そんな私をよそに、伯父は話し続けた。

「父さんから連絡があって、家に良い木が生えたから見に来いというので、見に来たんです。」

との事だった。

良い木?何の事だろうと私は思ったが、それはどうも和シュロの事であったらしい。

一昨年前、近くの城跡で土の中から見つけた球根を庭に埋めて置いたところ、昨年芽が出てぐんぐん成長し、今は50センチを超え、見事に特徴のあるばらばらと細い葉を広げた柄が、何本か木の先端から生い出る状態になっていた。

「ビロウの事ですか?」

と、私は図鑑で調べて自分なりに見当を付けた植物名を言った。

「シュロだよ」と、伯父はやや渋い顔をしたが、私は成長したこの木の姿を知らなかったので、当時幼木の形から図鑑の絵で近いものを選ぶ事しかできなかった。

「ビロウです、図鑑で調べましたから。」

そんなやり取りを伯父としながら、なぜこの木が良い木なのか疑問に思ったものだった。

 伯父とのやり取りはさておいて、珍しく伯父は爽やかでにこやかに人当たりがよかった。いつもほぼ真面目な顔しか見たことがなかった私は、何があったのかと怪訝な気がしたが、親戚の伯父の機嫌の良い様子を見ることができて、姪としては好ましい事と思った。当時、それが礼儀だろうと思っていた。

 どうも、祖父が庭の木を見て気に入り、叔父に見に来るよう、近所の伯母に電話させたようだった。伯父も良い木だといって、この木が庭に生え成長したことを気に入った風であった。

そしてにこやかなまま祖父の部屋へと戻って行った。

暫くしてまた台所に取って返して来ると、「私はこれで帰るから」と告げ、すぐに仏間へと戻り、そのまま帰宅したようだった。

私も伯父とあいなしに仏間に向かったが、部屋に入るともう伯父の姿はなく、祖父一人が布団に座っていた。

祖父も晴れ晴れと穏やかな表情で、何だか嬉しそうだった。

「あれは、伯父さんはどこへ行った?」

と、祖父が言うので、私は

「帰られたよ。」

と答えたのだが、祖父はびっくりしたようで、帰るはずがないから何処にいるか探してくれという。

私は家内を一通り探索してみたものの、やはり伯父の姿はなく、音もなく忽然と家から消えてしまった伯父の素早さに、やはり帰られたのだと祖父に報告したものだった。

 その時の祖父の様子と来たら、見るも哀れな落胆ぶりであった。

「帰ったのか。」

「帰ったのか、この家以外にあの子が帰る家などないのに…。」

そう呟いてがっくりと肩を落とす祖父の姿に、私は祖父の、伯父に対する一方ならぬ愛情の深さを感じたものだった。

父親にするとやはり上の男の子は可愛いのだろう。

そう祖父の心情を推し量たりした。そして、父や、私達家族の事を考えないではいられなかった。

 


3月3日の続き

2016-03-05 11:37:51 | 日記

 さて、前回は題名の雛祭りとは関係ない内容を書いてしまいましたが、

祖母が亡くなったのは3月であったので、共に三月の行事、出来事という繋がりで納得していただきましょうか。

 あまりにしばしば、祖父が日にちの経過を尋ねるので、私をはじめ、いとこ達の間でも、祖父は何だか様子がおかしいのではないかと取り沙汰されるようにもなりました。

が、その他には特に目立った今でいう認知症状もなく、おじいちゃん変ね、でも特に何ともないみたい、で過ぎていきました。

そして、ある日祖父は私に言ったものです

「お祖母ちゃんが死んでから、もう6カ月たったかな?」

6カ月?私はその頃になると、もう指折り数えないと何カ月過ぎたと計算できないくらいでした。4月の何日に1か月後、5月の何日で2カ月…。

そんな計算を目にしながら、祖父は

「いつになったらお祖母ちゃんが死んでから6カ月になるかな?」

と聞いたものです。

単純に3+6で、9月かな、9月の月命日の日が済めば6カ月過ぎるのかなと私は考えました。

あれこれ言う私に、祖父は焦れたように

「それで、何時になったらお祖母ちゃんが亡くなってから半年過ぎたことになるんだい?」

と、不満そうに言うので、

そういう半ば怒った言い方をされても、と、私も不満げに、少々むかっ腹を立てて、9月が済んだらもう確実に半年は過ぎているわと答えたものです。

 本当に、6カ月や半年が、祖母の死と何の関係があるのかと、祖父の執拗なまでの言動に、ここまで来ると私も不思議さが募ってきて、父、母、年の近いいとこ、近所の伯母と不満げに質問を浴びせて回った物でした。

そして、多分10月に入った頃だったでしょう、祖父はもう半年が過ぎたねと私に確かめると、

「さて、出かけて来なければいけない、行く所がある。」

と、何だか晴れ晴れした感じで、今まで床に居ついていた様子とは打って変わって、てきぱきと自身で余所行きの身支度を整えると、本当に何処かへ出かけて行ってしまいました。

それまでの祖父の様子から、何だか外出中の祖父の身の上が心配になって、祖父の無事の帰宅を待っていた覚えがあります。

 その後も、祖父は

「あの子には言って置かないといけない」

「あの子があんなになるなんて」

などなど、仏間であれこれ独り言のように私に話す事がありました。

私は何があったのかと思ったものですが、さっぱり、「子」が誰をさすのか、何がどうなったのか、当時は全くもって謎の中、伯父、いとこ、などなど。誰が誰ともわからない「子」について思案を巡らしたり、想像したりしましたが、分からないものは考えてもしょうがないと一人納得したものでした。

 ただ、私はかなり後年になって、私に子供もでき、子供が私くらいの年齢になった頃、この時の祖父が何をしたかったのか、また、祖父母が何をしたのか知ったのでした。

祖父母は私の父に家督を継がせるよう、祖母が亡くなった時点で父が遺産相続するよう遺言書を作ってありました。今住んでいる家は祖母の名義であり、父の物となる内容でした。

他の兄弟から物言いが成されないよう、祖父は祖母の死後半年の経過をじっと待っていたのでしょう。誰もが家は祖父の名義と思っていましたから、当時の世相、まだ男尊女卑の年代である明治生まれの祖父母が、そんなことをするとは誰も想像していなかったことでしょう。

私も、遺言書を母から見せられて、この当時の祖父の言動を思いだし、なるほどと合点したものです。母が言うには、この遺言書が父の偽造だとまで言われたとか、そうかと、祖父の言動があれほど執拗でなければ、私も真実を疑ったかもしれないと祖父の、そして祖母の所作、先見の明をありがたく思うのでした。