シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

"独断と偏見" で世相・経済からコミックまで 読んで楽しい 面白い内容を目指します。 

リンドバーグの栄光と影

2013年11月20日 | 歴史をひも解いて
写真は、ポーズをとるリンドバーグ Charles Lindbergh、アメリカの国立航空宇宙博物館に保管・展示されているスピリット・オブ・セントルイス号、ユーリイ・ガガーリン Yuri Gagarin。
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昔から 米飛行士リンドバーグの大西洋横断飛行が賞賛されていますが、なぜそんなに賛えられているのかようやく分かりました。 まずは その快挙のあらましから __
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中公バックス『世界の歴史14 第1次大戦後の世界から』(1969年) 抜粋 __ 1926年 リンドバーグはまだ全く無名であり、セントルイス・シカゴ間を往来する郵便飛行の1パイロットに過ぎなかった。 大ホテル経営者オルテーグがニューヨーク・パリ間無着陸飛行について 25,000ドル の賞金を提供していたが、26年末から27年初めにかけて6人もの飛行士が命を失っていた (※追加1へ)。
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… と、これを読むと当時の無着陸飛行についての熱狂の一端が伝わってきますが、その熱狂の背景 根拠が今ひとつよく理解できませんでした。 しかし 次の本を読んで、やっと分かった気がします。
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講談社『興亡の世界史19 空の帝国アメリカの20世紀』(2006年) から抜粋 __ 実は航空機による大西洋横断それ自体は、リンドバーグが最初ではなかった。 1919年には英国人2名によるニューファンドランド島~アイルランド間の無着陸飛行が既に達成され、同年 英飛行船も31名の乗客を乗せてスコットランド~ロングアイランド間の折り返しの往復飛行を行っている。 24年には2機の米陸軍機が世界一周の途上で アイスランド、グリーンランド、ニューファンドランドを辿って北大西洋を横断した。

リンドバーグの独創性は、単独飛行、正確に目的地に着いたこと、その離着陸地がニューファンドランドのような片田舎ではなく 花のニューヨークから麗しのパリだったというだけのことだ。 では なぜ、リンドバーグはいまなお歴史を越えて続くほどの神話的な名声を得たのか (※追加2へ)。

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時代が彼のような人物、ヒーロー像を欲していたのです。 米国は第1次大戦後の繁栄を謳歌していた一方で、戦争中の忍耐からくる反動の享楽的な世相や相次ぐ醜聞などにうんざりしていた国民に、彼は米国人らしい美徳を欧州に印象づけたことを物語る、誇らしい米国青年像だったというのです。

ただ 文面や写真から想像すると、謙虚・控えめな微笑・飾り気のない仕草というのは、裏返して悪く解釈すると あまり社交的とはいえない性格、つまり 垢抜けしない米国の田舎青年だったのかも知れません。

また 多くの米国民が欧州の出身者やその子孫という背景からして、米国人が欧州人から その快挙を褒め讃えられるのは この上ない喜びの1つだろうと推測します。 いわば 田舎の出稼ぎ者が華やかな都会で成功して、本家スジから「よく頑張ったね」と賞賛されるようなものでしょう。

私は、“前方窓なし” の飛行機で直接前方が見えず、潜望鏡のようなものを使うか、機体側面の窓から顔を出して前を見なければならなかったスピリット・オブ・セントルイス号という “操縦し易いとはいえそうもない” 困難な機体で、よくもニューヨーク・パリ間を飛び続けたものだと まず感心してしまいます (ヘタしたら “7人目の” 挑戦犠牲者になったかも)。 これは、彼の曲乗り飛行経験の技術が活かせたのでしょうね。

そして 運も彼に味方したのでしょう、彼が飛んだ5月には 他に2機が機会を窺っていたのですから。 もしかしたら、『翼よ! あれが巴里の灯だ』の著者は別人の名前になっていた可能性も __

ただ その人物がリンドバーグのような人柄でなかったら (つまり 社交的な人物か 自分をアピールするのに熱心な お調子者だったとしたら)、その名声はリンドバーグほど賞賛されなかった可能性もあったでしょうから、やはり “時代が彼 リンドバーグを待ち望んでいた” のかも知れません。
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と、ここまではリンドバーグの栄光ですが、栄光でも何でも光りがあれば その影もあるものです。 影の1つは、”リンドバーグ愛児誘拐事件” です。 捜査機関によって犯人が特定されたものの冤罪説もあり、謎が多いことで知られています。 そして この事件には “リンドバーグ関与説” まであるのです (詳細はウィキペディアなどで読んで下さい)。

そして次に何といっても 英雄リンドバーグの “汚点” となってしまったのが、第2次大戦前のドイツ空軍の優秀さに驚嘆してドイツびいきとなったことと、ゲーリングから勲章を授与されたことでしょう。

ゲーリングにしても、米国の有名人を持ち上げることで、米国内のナチスへの反感を和らげようという魂胆があったことは明白で、リンドバーグは受けるべきではありませんでした。

だが これらの影の部分を光りから差し引いても、リンドバーグの栄光は少しも曇ることはないようです。 1920年代の米国のヒーローはしっかりと米国民の心に焼き付けられ、もうこれを引きはがすことは殆ど不可能のように思います。

ソ連のガガーリンが、ロシアのみならず 世界の宇宙飛行士第1号として、永遠にその名を留めているように (ガガーリンの方が写真写りが良く見える)。
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日本の、世界に誇るべき人物は誰なのでしょうか? 私が思うに、まだ存在していません。 そういう人物 (経済 芸術 スポーツ 冒険 学術 政治 宗教 発明などのあらゆる分野の) が出現した時、恐らく 日本にとって “リンドバーグのような扱い” になるに違いありません。

今 日本はそんな人物を求めています。 91年のバブルが弾けて20年、いやもっというと 戦後70年近く経っても、世界第2の経済大国になっても (最近は3位ですが)、日本人の心は何か満たされていない、それこそ ”精神的飢餓状態” にあるといえるのではないでしょうか。
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ウィキペディアから__ “スピリット・オブ・セントルイス号 Spirit of St. Louis” とは、1927年にリンドバーグによって、ノンストップでの大西洋横断単独飛行に成功したライアン・エアラインズ製の単発機ライアン NYP-1 の愛称である。 機体正面に窓が無いことと、機体全長に対して翼長が長いことが外見上の大きな特徴である (※追加3へ)。

チャールズ・リンドバーグ (1902~74) は、アメリカ合衆国の飛行家で、ハーモン・トロフィー、名誉勲章、議会名誉黄金勲章の受賞者。 1927年に「スピリット・オブ・セントルイス」と名づけた単葉単発単座のプロペラ機でニューヨーク・パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した (※追加4へ)。

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以上


※追加1_ 27年5月 リンドバーグの他に2機が機会を窺っていた。 リンドバーグは急いでニューヨークに飛来し、大西洋上の荒天の去るまで幾日かを待った。 19日の夜 パリへのコースが晴れかかっていると天気予報が告げ、彼は決意した。 その知らせによってアメリカ中が興奮のるつぼと化した。

飛行中最も彼を苦しめたのは睡魔だったが、ともかく 33時間を費やしてパリのル・ブルジェ空港に着陸した。「機の車輪が地に触れたとき、何万という男女が垣を破り警備員を乗り越えて洪水のように …」(リンドバーグの著書『翼よ! あれが巴里の灯だ』から)__彼はやっとのことで機体からはい出したが群衆にもみくちゃにされる有様。

米国民は安堵と歓喜で狂わんばかりだった。 新聞という新聞はリンドバーグのの記事でうずまった。 米大統領は、この若き英雄とその愛機をフランスから連れ戻すために、巡洋艦を差し向けた。 ワシントンの歓迎行進では、祝電はトラック1台に積み込まれてリンドバーグの後に従った。

この壮挙から3、4年の後でさえ 彼の農場の回りの道は、終末になるとこの国民の偶像を一目見ようという崇拝者たちの自動車でうずまった。 至る所 学校にも家庭にも彼の肖像画が掲げられたが、その尊敬の有様は米史上 リンカーンに次ぐものだったという。

しかし その後のリンドバーグは必ずしも幸福ではなかったようだ。 32年に長子チャールズが誘拐され、身代金を渡したにもかかわらず 愛児は殺害されてしまった。 このショックもあって 35~38年に欧州で暮らしたが、この時 ドイツ空軍の威力を知る機会を得るとともに “ドイツびいき” となった。

39年 帰国し空軍で働いていたが、第2次大戦が始まるとアメリカがドイツを敵とすることに反対し、一時 その職から解任された。
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※追加2_ この無口で内気な青年は、パリで受けた大歓迎の人波にも思い上がったそぶり1つ見せず謙虚に振る舞い、ジャズエイジの享楽的な世相にうんざりしていた1927年当時の人々に、久しぶりに素朴で温かみのある好もしいアメリカ的な青年像を体現した存在として受け入れられ、熱烈に歓迎された。

1920年代のアメリカは、未曾有の繁栄を謳歌する一方で長い戦争が終わったあとにつきものの 虚無的で冷笑的な気運が高まり、特に若い知識階級の間には幻滅と投げやりな態度が目立つようになっていた。

米国は第1次大戦で国土を破壊されたわけではなかったが、5万人を越える戦闘中の死者を出した。 加えて 大戦中に展開された国民向けの強烈なプロパガンダは、政府ばかりか教会や種々の権威ある組織までが過剰な美辞麗句で団結と忍耐を繰り返し訴え続けるものだったために、戦後になると 国民の間に反動が生まれ、知的な青年たちの間では公的な道徳論に一切耳を貸さない風潮が強まった。

他方 有名人や公人の醜聞が相次ぎ、国民をうんざりさせた。 こうした状態の中で、”米国民は精神的飢餓状態にあった”。 大衆は私生活、社会生活では安穏に暮らしているとはいえ、彼らの生活には必要な何かが欠落していた。 そしてその全てを直ちにリンドバーグは与えたのだ。

リンドバーグが、事績以上にその人柄で世界中の人々の好意と共感を勝ち得たのは間違いなく、横断翌年に出版した自伝『我ら』を見ても分かる。 中の写真の大半が飛行成功後に世界各地で歓迎を受けたときのスナップショットで、それらの中のリンドバーグはいつも同じような地味なスーツとネクタイ姿で控えめな微笑を浮かべ、相手が大統領であれ、フランス首相であれ、英国やベルギーの皇太子であれ、終始一貫して飾り気のない仕草と物腰を見せている。

それはアメリカ人がいかにもアメリカらしい美徳を保ったまま ヨーロッパに存在を印象づけたことを物語る視覚的な証言であり、また そのことをアメリカの読者たちにさりげなく、しかし誇らしく伝えるメッセージにもなっている。

それ故にこそ リンドバーグは、ライト兄弟以来アメリカが世界に先駆けてきた航空の歴史をより一層に輝かせる誇らしい神話のヒーローとなって、享楽に倦んだ1920年代の人々の心を感動で一杯にする存在となった。
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※追加3_ ライアン NYP-1 は、リンドバーグの発注を受け、大西洋横断単独飛行を目的として特別に設計された機体であった。 多量の燃料 (ガソリン) を携行するために、機体を構成する部材のうち燃料タンク (と満載燃料) は最大の重量物となった。

重重量による飛行性能への悪影響を最小限に留めるため燃料タンクは機体の重心位置 (翼の直下) に置かれ、結果、操縦席は巨大な燃料タンクの後方に配置せざるをえなかった。 機体構成は機首側から順に、エンジン/燃料タンク/操縦室である。 このため 操縦座席からは燃料タンクが邪魔をし直接前方が見えず、潜望鏡のようなものを使うか、機体側面の窓から顔を出して前を見なければならなかった。

しかし 正面を見る必要は滑走路を視認しなければならない離着陸時に限られ、陸地上空の航行で使用した地文航法には機体側面窓からの地上観測で十分であった。 また 航行の大部分を占めた海上飛行では視認すべき前方目標物は無く、機体正面を観測する必要はない。 飛行姿勢を確認するための観測は、機体両側面の窓から見える地平線ないし水平線を左右見比べることで十分可能であった。
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※追加4_ ■ 生い立ち ■  スウェーデン移民の息子としてミシガン州デトロイト市で生まれ、幼少時から機械への関心を示したが、1922年には機械工学から離れ、ネブラスカ航空機でパイロットと整備士の訓練に参加したあと カーティス JN-4「ジェニー」を買い、曲芸飛行士になった。 1924年にはアメリカ陸軍航空隊で飛行士として訓練を始めた。 訓練を一番の成績で終え1920年代にはライン・セントルイスの民間航空便パイロットとして働いた。

■ 大西洋単独無着陸飛行 ■  1927年 リンドバーグはスピリット・オブ・セントルイス号でニューヨークのルーズベルト飛行場を飛び立ち、パリのル・ブルジェ空港に着陸、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。 飛行距離は 5,810km で飛行時間は 33時間29分30秒 だった。 これによりリンドバーグは、ニューヨーク-パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられるオルティーグ賞とその賞金 25,000ドル、さらに世界的な名声を得た。

パリまでの全行程を一人で操縦し続けるという過酷な飛行となり、飛行中リンドバーグは強い睡魔に襲われたが、これを克服してパリに到達した。 リンドバーグは、自分がパリに着いたことも分らなかったという。 実際に発した最初の言葉としては、「誰か英語を話せる人はいませんか? (この後 英語を話せる人に「ここはパリですか?」と尋ねる)」であるという説と、「トイレはどこですか?」であるという説の2つがある。

■ 結婚と子供の誘拐 ■  1929年に駐メキシコ大使ドワイト・モローの次女アンと結婚、夫妻は6人の子供をもうけた。 1932年に1歳8ヶ月の長男ジュニアが自宅から誘拐され、10週間に及ぶ探索と誘拐犯人との身代金交渉の後に、ニュージャージー州ホープウェルで死んでいるのが見つかった (リンドバーグ愛児誘拐事件)。

■ 人工心臓の開発 ■  (割愛)

■ 第2次世界大戦 ■  第2次大戦前夜 リンドバーグはアメリカ軍の要請でドイツに何度か旅行し、ドイツ空軍についての報告を行った。 1938年にはヘルマン・ゲーリングから勲章を授与されたが、この授与は、ユダヤ人を差別する政策やアンシュルスなどの強権的な対外政策を進めるナチス党政権と親密になりすぎているということでアメリカ国内で批判を受けた。 批判に対して、リンドバーグは「ドイツに対する過剰な非難である」と反論した。

ヨーロッパで第2次大戦が勃発した後、共和党員であったリンドバーグはアメリカの孤立主義とドイツの政策に対する支持者となり、各地で講演を行った。 1941年1月にはアメリカ連邦議会で演説し、ドイツと中立条約を結ぶべきと主張した。 リンドバーグは孤立主義者の団体であるアメリカ・ファーストの主要なスポークスマンであり、1941年9月のアイオワ州デモインでの演説では、イギリス人とユダヤ人がアメリカに連合国側での参戦を働きかけていると述べた。 この発言にユダヤ系アメリカ人が反発し、フランクリン・ルーズベルト大統領はリンドバーグのアメリカ陸軍航空隊での委任を解除した。

1941年12月に日本との戦争が開始されると、リンドバーグは陸軍航空隊への復帰を試みたが、上記のようないきさつがあったためにルーズベルト大統領とその補佐官らに拒否され復帰できなかった。 そのため 政府と航空会社 (トランスワールド航空) に対する民間のコンサルティング会社を通じて、アメリカ政府の戦争努力を援助した。 1944年までに太平洋で、民間人として50回の実働任務をこなしている。 ロッキード P-38 での長距離航法や F4U での離陸法の発展に貢献した。

また 連合国軍 (アメリカとオーストラリア軍) による日本兵捕虜の虐殺・虐待をしばしば目撃し、その模様を日記に赤裸々に綴っていた。

リンドバーグは著作『The Spirit of St. Louis』で1954年にピューリッツァー賞を獲得した。 1957年のリンドバーグの伝記映画『翼よ! あれが巴里の灯だ』(The Spirit of St. Louis) は ビリー・ワイルダー監督、ジェームズ・ステュアート主演、脚本はチャールズ・レデラー、ウェンデル・メイズおよびビリー・ワイルダーで、リンドバーグの単葉機による歴史的な大西洋横断飛行を、1927年5月20日のニューヨークのルーズベルト飛行場の離陸から、5月21日にパリのル・ブルジェ空港に着陸するまで描いたもの。

以上

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