シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

"独断と偏見" で世相・経済からコミックまで 読んで楽しい 面白い内容を目指します。 

人の評価は亡くなったとき

2007年11月13日 | 電子産業は花形?
電子業界のかつての大物が亡くなりました。
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「元 NEC 社長・経団連副会長の関本忠弘氏が死去」(11月12日 読売新聞) _ ※追加1へ
「訃報 NEC『中興の祖』… 浮沈激しく 関本忠弘氏」(11月13日 毎日新聞) _ ※追加2へ
「関本忠弘氏を悼む 論戦いとわぬ “新興の祖”」(11月13日 産経新聞) _ ※追加3へ
「NEC 元会長の息子逮捕 IT関連人材派遣会社から 5600万円 横領」(10月9日 iza) _ ※追加4へ

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私がこの人を知ったのは、マスコミ記事などからでした。 前社長との確執の末、NEC 社長に就任、PC 事業を推進して日本一の PC メーカーに押し上げました。 また一時は半導体売上も世界一のメーカーに牽引するなど、功績は数知れません。

直接話したことはありませんが、私が若い頃 晴海の見本市会場のエレベーターの中で一緒になったことがあります。 当時は NEC 社長か会長で電子工業会会長も兼任されている業界の有名人です。 黙礼しましたが、どういう訳か横を向いてぷいっとしたままで無視されました。

その後、関本氏が NEC 社長か会長時代 TV 討論会での一こまでも目にしましたが、社外の人の発言の途中で その発言をさえぎって自説をとうとうと述べるのを聞くと、あまり他人の意見を聞かない わがままな人柄とお見受けしました。

会長を退いた後も、NEC の経営で事業を取捨選択すべき岐路にあったとき、海外の買収した PC 会社 (仏と米の) を切ることに反対し、それで随分と赤字が流れ続けました。 当時の役員全てが関本氏が選んだ人ばかりでしたから、関本氏の思い入れの強い海外 PC 事業を切れなかったのです。

下り坂は、防衛庁の調達品をめぐる背任事件を受けて会長を退いた後、後任の経営陣が取り組んだリストラを雑誌で公然と批判し、相談役も解かれたことですね。 

結局14年も社長を続けたのですが、トップに君臨する期間が長過ぎました。 長く社長を続けていると、いいこともあれば、悪いこともあります。 いくら有能でも品格があっても 同じ人がトップに居座り続けると、人事がよどみ その下の人はトップの顔色をうかがうようになるものです。

業績のいいところで退けば いい評価が残りますが、居座り続けると 結局は業績悪化か不祥事の責任を取らされることになり、後はその時の評価のイメージしか残りません。 この人は有能すぎたのですね。

以上


以下は興味ある人のみ お読み下さい。

※追加1_ 元 NEC 社長、会長で、経団連副会長などを務めた関本忠弘氏が11日午前8時20分、脳梗塞のため死去した。 80歳だった。 通夜、告別式は近親者で行う。 後日 NEC と、関本氏が名誉顧問を務めていた国際社会経済研究所が合同で「お別れの会」を開く予定だが、詳細は未定。 喪主は二男、澄人氏。

1948年に東大理学部物理学科を卒業し、NEC 入社。 通信畑が長く、65年に出向した米通信会社コムサット社でデジタル衛星通信システムを開発し、頭角を現した。 常務、専務を経て80年に社長に就任した。 社長時代はパソコンの国内市場占有率をトップに押し上げたほか、官公需に依存していた収益構造を民需中心に転換した。 94年に会長に就任した。
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※追加2_ 11日死去した NEC の元社長・会長の関本忠弘氏は、旧電電公社 (現 NTT) のファミリー企業だった NEC を世界的ハイテク企業に飛躍させ「中興の祖」と呼ばれる一方、晩年は会社や家族の不祥事が相次ぎ、自らも NEC 相談役を解任されるなど浮沈の激しい人生だった。

工学博士号を持つ関本氏が頭角を現したのは研究分野。 65~67年に米企業に出向し、当時は実用化のめどが立っていなかったデジタル通信の商用利用に道を開いた。 この功績で、04年に「IT (情報技術) 分野のノーベル賞」と呼ばれる IEEE (電気電子国際学会) の「栄誉賞」を受賞している。
 
米国流の先進的経営手法も習得し、80年の社長就任後はパソコンで国内首位、半導体製造で世界首位に立つなど強力なリーダーシップを発揮し、NEC の最高実力者として君臨した。 論客としても知られ、政財界の幅広い人脈を生かし、国の産業政策にも積極的に提言した。 98年には経団連 (現日本経団連) の豊田章一郎会長の後継候補にも名が挙がった。
 
だが これを頂点に、その後は NEC の業績悪化と不祥事に揺さぶられた。 直言が持ち味だったが、後任の経営陣が取り組んだリストラを雑誌で公然と批判し、相談役も解かれた。 今年10月には、IT会社を経営していた長男が業務上横領容疑で逮捕され、晩年は不遇だった。
 
NEC の佐々木元会長は、「機を見るに敏な経営者だった。 NEC を世界の名だたる企業に成長させ、日本の電子産業の発展に多大な貢献をした」としのんだ。
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※追加3_「財界、政界にもいいたいことはまだまだ山ほどある。 また聞きにきてくれよ」。 国際社会研究所の理事長を退く前だったと思う。 昨年 東京・白金の「NEC 泉華荘」で聞いた言葉が忘れられない。 経団連副会長時代と変わらぬ野太い声。 都内の自宅で幾度となく聞かされた響きと何ら変わっていなかった。

「ドン」「ワンマン」「恐竜」…。 異名を挙げればきりがない。 典型的な直言居士。 相手が誰であろうと論戦をいとわない態度は、良くも悪くも最近にはない骨太の財界人だった。 14年に及ぶ社長時代。 その多くが小林宏治・元社長との確執に費やされた。 だが小林氏が築いた「C&C (コンピューターと通信の融合)」路線は曲げず、NEC を世界有数企業に育てあげた。

ただ 小林氏を意識してたのだろう。「中興の祖」という言葉を嫌った。 好きな焼酎を片手に「おれは新興の祖」といってはばからなかった。

その能弁ぶりは「広報担当社長」とも揶揄されたが、ひるまず正論を吐く潔さはすがすがしくもあった。 防衛庁の調達品をめぐる背任事件を受けて会長を退いた後のこと。 半導体部門を分社化するために NEC が開いた臨時株主総会に、相談役の立場でありながら分社化反対の質問状を送りつけたことも。

自ら熱望した「財界総理」はかなわず、背任事件に関連して、経団連評議員会議長も半年弱で辞任。 不遇だった晩年だが「変即不変」という自らの哲学は力説していた。「変化の中に変わらないものをみる」。 変わる財界、政治の姿をどう見ていたか。 関本氏にもう一度問うてみたかった。

御手洗冨士夫日本経団連会長の話__「日本企業の海外ビジネスの水平線を限りなく広げた国際派経営者。 さまざまな活動を通じて関本さんと交流のあった内外の関係者が、その理想、業績、人柄を忘れることは決してない」
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※追加4_IT関連技術者の派遣代金 5600万円 を横領したとして、警視庁捜査2課は9日、業務上横領の疑いで、ITマーケティングインテグレーションズ社長、関本雅一容疑者 (48) を逮捕した。 関本容疑者は NEC の元会長、関本忠弘氏の長男。 関本容疑者は容疑を認めているという。

調べでは関本容疑者は平成17年11月ごろから18年3月ごろにかけて、IT技術者などの人材派遣会社「アイ・ティーマーケティングソリューションズ」が、同業の「アイ・ティーマーケティングヒューマンズ」に技術者を派遣した際、ソリューションズ社に支払われた代金約 1億円 のうち、約 5600万円 を着服した疑い。

関本容疑者は当時、ソリューションズ、ヒューマンズ両社の社長や役員を兼任し、総務・経理業務を担当していた。 横領した金は自分が社長を務めるインテグレーションズ社の口座に送金し、運転資金などにあてていたという。 横領の発覚を防ぐために2種類の請求書を用意し、つじつまを合わせる工作をしていた。

関本容疑者は12年7月 広告費を水増し請求していたなどとして大手広告代理店を懲戒解雇され、直後にインテグレーションズ社などの前身となる会社を設立。 インテグレーションズ社には忠弘氏も監査役として役員に就いていた。

以上

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