シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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業界人の見た聞いたオケ逸話2

2013年12月23日 | 音楽関係の本を読んで
写真は左から、篠崎史紀 (N響の首席コンマス)、「指揮者の役割―ヨーロッパ三大オーケストラ物語」(新潮選書)、小澤征爾 (1961年9月)、ハノーヴァー・バンドのベートーヴェン交響曲全集 __ 女性指揮者が半分振っています。
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本の著者は超有名楽団関係者と親交があり、それらの裏話が色々と読めて面白かったですよ。

コンマスは指揮者とオケ全体の橋渡し役、コーディネーターだと理解しています。 オケ全体の利益を代表しつつ、指揮者の意図を最大限汲み取り、オケに伝達し、指揮者にもオケの対応ぶりを納得させるのが仕事で、そのために高給をもらっているはずです。 決して ソロ受け持ち部分を弾くためだけに座っているのではないでしょう。
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「指揮者の役割 ― ヨ-ロッパ三大オ-ケストラ物語」(新潮選書 著者/中野雄 2011年9月刊) __ コンサートマスターの仕事とは? (※追加1へ)。

内容紹介 __「良い指揮者はどんな指示を出すのか?」(※追加2へ)
「在京メジャーオケと某女流人気指揮者とのリハーサルに立会う機会があった」(※追加3へ)

 ウィキペディアから __ N 響事件 (※追加4へ)
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指揮者の要求とオケの対応が合致しなかったら、どうなるのでしょう __ 恐らく 殆どの場合はどちらかが我慢するのでしょうが、非常にマレなケースで 我慢できなければ演奏会はキャンセルものになりますね (昔 小澤征爾が NHK 響指揮者だった当時、楽員全員がボイコットして演奏会が流れた事件がありました __ ※追加4を参照下さい)。 

だけど 切符が売り切れていたり、本番直前だったりの場合は、簡単に代役指揮者を立てることはまず不可能となりますから、そんな事態になったら “プロ集団として欠陥がある組織”、または “プロ指揮者とはいえない” との烙印が押されてしまいかねず、指揮者が我慢することが多いのではないでしょうか?

また オケの知名度・伝統・技術対応力が指揮者よりも上だったら指揮者が譲り、指揮者の実績・経験・技量がオケよりも上だったらオケが譲るのでしょうね。 ですから、指揮者とオケの関係は複雑多岐にわたっており、とてもとてもヒトコトやフタコトではいい表せないでしょう。

たとえ 非友好的な関係であっても、”演奏会を成功させること” が最終目的ですから、聴衆を満足させることができる指揮者とオケこそがプロとなります。 そうできないのは、プロ指揮者とオケではありません。
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ピアニスト上がりの指揮者は多いですが、ヴァイオリニスト上がりの指揮者はあまりいないようですね、なぜか分かりませんが。 ベルナルト・ハイティンク (蘭)、ウェルザー=メスト (オーストリア) はその中でも数少ないヴァイオリニスト出身です。

以前 読んだ記事に、ソ連の名ヴァイオリニスト ダヴィッド・オイストラフ (1908〜74) が指揮して あるオケとの練習中、オイストラフが要求するような音色は出せないとコンマスがいったら、オイストラフがコンマスのヴァイオリンを借りて、「こういう音だよ」と弾いてみせたという。 コンマスはお手上げだったそうです。 あんまり楽器のことを知り過ぎていても、オケにはありがた迷惑かも知れませんね。

オイストラフのエピソードをもう1つ。 彼が米国で若いアイザック・スターンと2台のヴァイオリン協奏曲で共演した時 彼がスターンに、「君は僕みたいに “太っている” から きっといいヴァイオリニストになるだろう」と冗談をいった __ 幸か不幸か “予言” は的中しました。
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※追加3の例に限らず “女性指揮者という存在” はナカナカ難しいと想像します。 世界でもいることはいますが、そんなに有名な指揮者はいないのではないでしょうか? 100人のオケは殆ど男性ですから (まれに殆ど女性奏者のオケもありますが)、その男性たちを相手に ある意味 けんか腰で自分の音楽的主張をぶつけ、納得させ、妥協するところは妥協し、オケとうまく付き合いながら、最終的に自分の音楽表現を作り上げ、本番で最高の演奏をオケにさせる、というのは女性にはかなりキツイ仕事だろうと思います。

というのも、女性の性格というのは元々妥協するようにできているからです。 その理由は、男性に比べ 体格体力で劣りますから、”腕力勝負の取っ組み合い” になったら圧倒的に不利です。 ですから自分自身を守るために、闘争的というよりは妥協的に性格ができているのです。 

母体や子どもを守り、本能的に自分自身の遺伝子を残すという目的から、与えられた状況下で最善の道は闘争せず妥協することなのですから。 そうやって女性は何万年も生きてきましたから、男女の性格はそうそう簡単には変わりません。

※追加3の中の美女指揮者は、管楽器奏者から罵声を飛ばされ、いちゃもんを付けられても、反論せず 無言で立ち往生してしまったのも、女性としての性格 __ 闘争しない __ つまり反論しない性格が出ています。

これをどうやって切り抜けたのかは書いてありませんが、私の想像では __ スコアに眼を落として片手を口にやり、「ゴホ … では、もう一度 楽章最初のスコアXページからやってみましょう。 最初は弦楽器だけでお願いします」とかいって お茶を濁してしまったかも? 管楽器奏者も「しょーがねぇな この辺で止めてやろうか …」なんて小声でぼやいてオトナシクなったかも?

1人の女性指揮者によるベートーヴェン交響曲全集はまだありません。 手持ちコレクションの中で、女性と男性2人の指揮者による全集がありますが、最初の企画段階では女性指揮者による全集録音が始められたが、何らかの事情で途中から男性指揮者に切り替わり、全曲録音に至ったということらしいですから、やはり 女性が指揮し続けるのはかなり厳しいように思いますね。

モニカ・ハゲット指揮 (1・2・5番) 、ロイ・グッドマン指揮 (3・4・6〜9番) 英ハノーヴァー・バンドの古楽器による録音 (英ニンバス盤 80年代 冒頭右写真) です。
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“N 響事件” については、私ごとき野次馬がコメントする立場にはありません。 色々な当事者関係者の行き違いからコジレてしまうケースなんて、現実社会では山ほどあります。 お互い、「そんな積りじゃぁ …」なんて思っていても、悪い方へ 悪い方へと行って泥沼にハマってどうしようもなくなる、そういうケースの1つだったのでしょう。

多くの修羅場をくぐり抜けてきた辣腕の指揮者やコンマスなら、お互い譲り合ったり、話し合ったりして解決の糸口を見つけられたかも知れませんが、62年当時の小澤征爾は27歳、コンマス海野義雄は26歳、まだまだ演奏家人生としてはお互いヒヨッコ同士だったのでしょうね (因に、海野は小澤ボイコット事件に際しては「あいつは耳がわるい」と小澤を批判し、小澤排斥の急先鋒に立っている __ ウィキペディアから)。

以上


※追加1_「完璧に弾けることがコンマスの第一条件というなら、諏訪内晶子か五嶋みどりを連れてくれば済むことですよ。 コンマスの仕事の第一は、第一ヴァイオリン群のパート譜に、指遣いと弓遣いを書き込むことです。

指遣いとは、音符の一つ一つをどの指で、どの順序で弾くのかで、開放弦や移弦を用いると技術的に楽でミスも少なくなるが、一連のメロディの中で音色が微妙に変わったりする。 弓遣いもある楽句を上げ弓で弾くか、下げ弓で弾くか、どの部分で弓を返すかで曲想は一変します」(NHK 響の首席コンマス 篠崎史紀)

常任指揮者とか音楽監督でも、指揮者は所詮客人、組織体としてのオケ構成員から見れば あくまでも他人。 コンサートが終了すれば指揮者は去る。 常任指揮者でも任期が到来すればいなくなる。 しかしコンマスは「生死を共にする仲間の代表」。 接触する時間が短いだけに、指揮者がオケ・プレイヤーの代表コンマスとうまく行かなかったら、とんでもない事件が起こる。

「各パートの首席奏者は何かコトが起きれば 指揮者にではなくコンマスの指示に従いますからね。 そして 次席以下は必ず首席に倣う。 それがオケ集団の鉄則です」(ウィーン・フィル フルートの元首席奏者ウェルナー・トリップ)
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※追加2_「一番困る指揮者は、成り行きで振る指揮者。 曲に対するイメージを持たないで、ただ棒を振るだけの人。 その曲をどう弾いて欲しいのか、どんな音色とテンポ感が欲しいのか、さっぱり判らない」(ベルリン・フィル主力奏者) 

出だしを正確に揃えたり、音のバランスをを整えたり、キチンとテンポを刻んだりということはできても、楽譜の裏に託されている作曲家のメッセージが読み取れず、音楽が脳内にイメージとして確立していない指揮者が立つと、ステージで、特にリハーサルの時に問題が起こる。

「振る技術だけマスターしてきて 中身が何にも無い奴が指揮台に立つと、オケは参る。 その音楽で何を語ろうとしているのか 全然解らない」(篠崎史紀)
「いやなのは合奏の精度にしか興味がなくて、音楽の中身が空虚な指揮者。 指揮のテクニックを振りかざしてオケをひたすらドライヴしようとする奴」(読響ソロ・コンマス 藤原浜雄)
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※追加3_ 曲間の中休みに背筋が凍り付くような罵声が、ある管楽器奏者から指揮者に向かって飛んだ。「そんな棒じゃ、俺たちの『出』が分からないじゃないか。 キチンと振ってくれよ」 次いで同じ仲間のいちゃもん。「その足の格好、何とかならんのかな。 目障りだし、音楽には何の関係もないだろ」

昔バレエをやっていたという 女性指揮者が指揮しながら動かす足のステップが、客席から観ていると実に格好いいのだが、ステージ上の楽員にしてみれば 音楽の指揮法とは何の関わりもない無駄で余計な動きに映るのだろう。

親しい奏者に本番終了後、「あれは指揮者が美女故のイジメか」と問うと、「否、要するに指揮法が拙劣なんだ。 キチンとした拍子も振れない。 指示も不明確。 格好だけつけても意味が分からなかったんだ」と彼はいう。 本番はコンマスが (一切指揮者に目をやらず 楽譜を睨みつけたままで) 獅子奮迅の働きをしたので、演奏自体はそれなりの出来に終了した。

プロオケはリハーサルで指揮者とトラブルがあっても、いざ本番となればコンマスの身振りに従って、一応はキチンとした演奏をする。 プロ根性と、アンサンブルが乱れたり、ソロがトチッたりしたら、客席からは「オケが下手だから」と非難を浴びる可能性が高いから、彼等はお互いの音を聴き合いながら懸命に演奏する。 客席の大多数の聴き手には、指揮者の無能ぶりの程度は解らない。

その夜も客席は湧き、終演後の CD サイン即売会には長蛇の列ができた。
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※追加4_ ■軋轢に至る経緯 ■
小澤征爾と NHK 交響楽団 (N 響) が初めて顔合わせしたのは、1961年7月の杉並公会堂における放送録音であった。 翌1962年には、半年間「客演指揮者」として契約。 当初は6月の定期を含めた夏の間だけの契約予定だったが、秋の定期を指揮する予定だったラファエル・クーベリックが出演をキャンセルしたため、12月まで契約期間が延長された。

7月4日にはオリヴィエ・メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」日本初演を指揮するなど 小澤と N 響のコンビは順調に活動しているかのように思えたが、10月2日の香港を皮切りとするシンガポール・マレーシア・フィリピン・沖縄への演奏旅行で N 響と小澤の間に感情的な軋轢が生じ、11月の第434回定期公演の出来ばえが新聞に酷評された直後、11月16日に N 響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明。

小澤と NHK は折衝を重ねたが折り合わず、N 響の理事は小澤を「あんにゃろう」と罵り、N 響は小澤に内容証明を送りつけ、小澤も1962年12月18日、NHK を契約不履行と名誉毀損で訴える事態となった。 このため 12月20日、第435回定期公演と年末恒例の「第九」公演の中止が発表された。

■ マニラ公演の失敗 ■
このトラブルの原因について、小澤が遅刻を繰り返したためという説を八田利一が述べている。 原田三朗もまた、小澤が「ぼくは朝が弱い」と称して遅刻を繰り返し、しかもそのことを他人のせいにして謝罪しなかったのが N 響から反感を買った一因だったと述べている。

東南アジア演奏旅行における小澤はホテルのバーで朝の6時半まで飲み明かした状態で本番に臨み、マニラ公演で振り間違いを犯して演奏を混乱させ、コンサートマスターの海野義雄らに恥をかかせた上、「38度の熱があった」「副指揮者が来なかったせいだ」と虚偽の弁解を並べて開き直ったために N 響の信頼を失ったといわれる。

ただし 小澤自身は、「副指揮者なしで、孤軍奮闘したぼくは、酷暑のこの都市で、首の肉ばなれのため39度の発熱をし、ドクターストップをうけたのだった。 このような状態で棒をふったために、些細なミスを冒してしまった。 しかし演奏効果の点では、全く不問に附していいミスであったとぼくは思う。 それを楽員の一部の人たちは、ぼくをおとし入れるために誇大にいいふらし、あれは仮病であるとまでいった」と反論している。

■ 紛争の原因 ■
後年 1984年の齋藤秀雄メモリアルコンサートを追ったアメリカのテレビドキュメンタリー (2007年9月にサイトウ・キネン・フェスティバルの企画として、NHK で放送された) で、小澤はこの事件の背景について「僕の指揮者としてのスタイルはアメリカ的で、いちいち団員に指図するやり方だった。 でも日本での指揮者に対する概念はそうではない。 黙って全体を把握するのが指揮者だ。 この違いに加えて 僕は若造だった」との趣旨の発言で振り返っている。 

しかし 原田三朗はこの見解を否定し、「アメリカで育ったような小澤の音楽と、ローゼンストック以来のウィーン楽派とシュヒターのベルリン・フィル的な訓練に慣れた N 響の音楽観のちがいが、紛争の原因だという見解が当時、支配的だった。

楽団員は若い指揮者をそねんでいるとか、もっとおおらかでなければならない、などという意見もつよかった。 しかし 本当の原因はそんな立派なことではなかった。 遅刻や勉強不足という、若い小澤の甘えと、それをおおらかにみようとしない楽団員、若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用だった」と述べている。

この時期 小澤が病気と称して N 響との練習を休んだ当日、弟の幹雄の在学する早稲田大学の学生オーケストラで指揮をしている姿を目撃された事件もあり、N 響の楽団員の間では小澤に対する反感と不信感が募っていった。

■ 社会問題に発展 ■
この事件は N 響にとどまらず 政財界を巻き込む社会問題に発展し、井上靖・石原慎太郎・武満徹・芥川也寸志・中島健蔵・浅利慶太・三島由紀夫といった面々が「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、NHK と N 響に質問書を提出すると共に、芥川也寸志・武満徹・小倉朗といった若手音楽家約10名が事件の真相調査に乗り出した。 小澤は活動の場を日本フィルに移し、翌1963年1月15日、日比谷公会堂における「小澤征爾の音楽を聴く会」の音楽会で指揮。

三島由紀夫は、『朝日新聞』1月16日付朝刊に「熱狂にこたえる道―小沢征爾の音楽をきいて」という一文を発表し、「日本には妙な悪習慣がある。『何を青二才が』という青年蔑視と、もう一つは『若さが最高無上の価値だ』というそのアンチテーゼ (反対命題) とである。 私はそのどちらにも与しない。 小澤征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。 もちろん彼も成熟しなくてはならない。

今度の事件で、彼は論理を武器に戦ったのだが、これはあくまで正しい戦いであっても、日本のよさもわるさも、無論理の特徴にあって、論理は孤独に陥るのが日本人の運命である。 その孤独の底で、彼が日本人としての本質を自覚してくれれば、日本人は亡命者 (レフュジー) 的な『国際的芸術家』としての寂しい立場へ、彼を追ひやることは決してないだらう。

私は彼を放逐した NHK 楽団員の一人一人の胸にも、純粋な音楽への夢と理想が巣食っているだろうことを信じる。 人間は、こじゅうと根性だけでは生きられぬ。 日本的しがらみの中でかつ生きつつ、西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、その夢が多少まちがっていても、小澤氏もまた、彼らの夢に雅量を持ち、この音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている」と概括した。

■ 和解の成立 ■
結局 1月17日に黛敏郎らの斡旋により、NHK 副理事の阿部真之助と小澤が会談し、これをもって一応の和解が成立した。 しかし「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」(先のドキュメンタリーでの発言) ほどのショックを受けた小澤が次に N 響の指揮台に立つのは32年3ヶ月後、1995年1月のことであった。 小澤は後年、N 響とのトラブルが刺激になってよく勉強したとも述懐している。

以上

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