ニルソン自伝。 中央と右はネットから拾った写真。 右はいわずと知れたブリュンヒルデに扮したもの。
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スウェーデン出身のニルソン (1918~2005) は自伝の中でこう述べています __
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『ビルギット・ニルソン ~ オペラに捧げた生涯』(ニルソン著 春秋社 2008年刊 ⁂) __ 6章 ウィーン わが夢の街 から
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「1954年 9日間に4種もの役を歌いに、アン・デア・ウィーン劇場にやってきたが、大変だったのは、初めての原語で『ローエングリン』のエルザ、『フィデリオ』、『ワルキューレ』のジークリンデをドイツ語で、『アイーダ』をイタリア語で歌う事だった。
『ローエングリン』『ワルキューレ』で振ったルドルフ・モラルトは、堅実で信頼できる指揮者だった。
公演2日前になって『フィデリオ』が中止となり、『タンホイザー』に代わったと知らせを受け、エリーザベトを歌ってくれないかといわれて 心の中はポプラの葉のように震えたが、平気な顔をして引き受けた。
だがすぐに この役はスウェーデン語でしか歌えない事を思い出し、急いで2日2晩かけて詰め込みで習った。 指揮者のフェリクス・プロハスカは、私のスウェーデン風ドイツ語に気がついて、本格的にピアノ・リハーサルをしてくれた。
『アイーダ』の指揮者はベリスラフ・クロブチャールで、彼には感激した。 彼は本当に “歌手のための指揮者” だった」(191~192p)
__ この時点ではクロブチャールを高く評価していますね。 私が驚くのは “9日間に4種もの役を歌う” 事です。 36歳でかなり手慣れたオペラ歌手と見られていたのですね。
「1ヶ月後 『オランダ人』『ワルキューレ』を歌った。 ゼンタが初めて登場する第2幕の前の休憩のとき、当日の指揮者ルドルフ・ケンペがやってきて曲の一部を省略する事を知っているかと聞いた。
舞台では大してしくじる事もせず済んだとはいえ、最高の出来だったといえば嘘になるが、その程度で十分だったらしく、さっそく次の出演依頼が舞い込んだ。 1954年のクリスマス直前に イゾルデを素晴らしいハインリヒ・ホルライザー指揮で歌った」(193~194p)
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「1961年 新演出の『トゥーランドット』が演目に上がった。 指揮はフランチェスコ・モリナーリ=プラデッリ、レオンタイン・プライスのリュー、ディ・ステファノのカラフだった。 大成功で、聴衆が払った通常の倍の切符代の倍返しをしてもらったかのような大喝采だった」(222p)
__ トゥーランドットは、ニルソンにとって実力を見せる 得意の演目だったのでしょう。 録音は、このライヴ盤と、65年の EMI 盤 (プラデッリ指揮ローマ国立歌劇場管弦楽団) です。
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「ミュンヘンの公演後、ウィーン行きの飛行機の中でバーンスタインと一緒になった。 私たちは暫く黙っていたが、まもなく彼の心にわだかまっているらしい “カラヤン” について話しが及んだ。
カラヤンがスカラ座で『カルメン』を振ったとき、レニーは会場にいた。 しかし彼は箸にも棒にもかからないと感じたため、彼に挨拶しに行く気になれなかった。 序でながら、私は “レニーが他の指揮者を褒めるのを1度も聞いた事がない”。
政治的過去があってアメリカでは歓迎されないというカラヤンに対し、レニーはアメリカでの指揮のつてを探してみる気になった。 その結果 カーネギー・ホールでコンサートが開催される事になり、大入り満員になったホールにレニーも出向いた。
しかし 公演はカラヤンに対する激しいブーイングで終わった。 レニーはカラヤンを慰めようと楽屋に急いだが、秘書がドアを閉めてしまった。 レニーは、ザルツブルクでもウィーンでも もう1度カラヤンに話しかけようとしたが無駄だった。 レニーは、ニューヨークで屈辱的な目に遭うように仕組んだのは彼だとカラヤンは思い込んでいると語った」(230~232p)
__ この辺りの経緯は既に幾つも書きましたが、以後カラヤンが米演奏旅行に消極的になった理由の1つでしょう。
「短い旅は、この刺激的で魅力的な話し相手のおかげで、さらに早く終わった。 飛行場では 大勢のカメラマンやジャーナリスト、劇場関係者、秘書らが待ち構えていた。 飛行機から降りると、バーンスタインはこの大群に気づき、腕を私の肩に回しながら『Just married! (新婚ホヤホヤだよ)』と叫んだ。
その場にクスクス笑いが広がった。 慌てた秘書は急いで私の方へ走ってきて、口籠もりながら『おめでとうございます、ミセス・バーンスタイン!』といった。 新聞はさっそく この驚くべき冗談に乗ったようだ」(233p)
__ これはバーンスタインがやらかしそうな事ですね。 カラヤンは、まず考えられないです。 カラヤンが自分から冗談をいったとは記事で読んだ記憶がありません (受け売りは多かったようですが)。
「残念なことに 私はオペラで彼と一緒に仕事をした事はないが、コンサートでは欧米で何回か共演した。 レニーは何人かの歌手を育て上げたといい張った。 マリア・カラスとかクリスタ・ルートヴィヒとか。
彼はクリスタが歌った公演で指揮したのは自分だったか尋ねたが、ベームでしたと答えると、『あのベーム、私がクリスタに教えた事を全部だめにしてしまった』と語った」(234p)
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「1965年秋 ベーム指揮、ヴィーラント・ワーグナーの舞台美術・演出で『エレクトラ』を歌った。 1年前 カラヤンから、ザルツブルクで彼の指揮で『エレクトラ』を歌ってくれと頼まれていたが断り、彼を非常に怒らせていた。
残念ながらベームはリハの間 あまり機嫌がよくなくて、オケ団員に対し愛想が悪かった。 そのうえ ベームは “端役の歌手をいびるという悪癖” があり、その歌手に怒りをぶつけて発散していた。 彼はそうしたワガママを許された世代の最後の指揮者だった」(235~238p)
__ ベームのイビリは若手楽団員にも向かっていたようです。 他の本にも載っていますね。 一種の老害だったのかも。
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「私がウィーンその他でよく共演する指揮者の1人は、ベリスラフ・クロブチャールだった。 歌手に寄り添ってくれる素晴らしい指揮者で、膨大なレパートリーを持ち、堅実な実力を備えていた」(238p)
「ウィーン・オペラに出演していた28年の間、『バラの騎士』元帥夫人を除いて 私の全レパートリーを歌った。 また この歌劇場で十人をくだらない元帥夫人を見た。 ヒルデ・コネツニが最も私の心を捉えた。
素晴らしいハインリヒ・ホルライザーの指揮で歌ったコネツニを忘れられない。 コネツニが次のマルシャリンを歌った時の指揮者はベームだった。 ところが ベームとコネツニの息が合っていないのにすぐ気がついた。 彼女はまるで金縛りにあったようで、以前私を深く感動させたものは全て消えていた」(246p)
__ これは相性が悪かったのでしょう。 そういう事はどんな組み合わせでも あり得ると思った方がいいと思います。 ニルソンが歌手だから気付いたまでで、歌手でなかったら気付かなかったかも。
この伝でいくと イゾルデ役のニルソンとベームは相性が良かったというわけですね。
今日はここまでです。