*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。25回目の紹介
被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎
はじめに
私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。
私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。
だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。
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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介
前回の話:『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<孤立無援の被爆者たち> ※24回目の紹介
孤立無援を強いられた被爆者の例を、もう一つお話しします。
1953年、埼玉県行田市に、貧乏人でも親切に診てもらえる民主的な診療所を新しくつくろうという運動が起こり、どういうわけか、ぜひ私にという話になって移住することになりました。親戚も知人もない、まったく無縁の土地でしたが、日本最大の足袋の産地として有名な街でした。
1955年3月、行田市に移って2年目のことです。ある日の深夜、近所の人から緊急往診を頼まれました。かけつけると、首をつって自殺をはかったのを発見されて、下ろされたとことでした。応急処置をしながら事情を聞くのですが、何も話さない。この人もだんまりなのです。
小学校6年生くらいの娘さんがいて、その子に聞けば、「お祖父さんとお母ちゃんがこのあいだ、死んじゃった。お父ちゃんは貧乏でどうしようもない。病院で肝臓が悪いと言われた」と言います。患者にいろいろ聞きましたら、次のようなことがわかりました。
32歳で、重い肝硬変があるが、お金がないので医療は受けていない。家族は12歳の娘だけ。妻は昨年、白血病で死亡。妻が生きているときに生活保護を申請したが、本籍地の養家の相続権があるという理由で却下されていました。
意外にも一家3人は広島の被爆者でした。広島の町工場で働いていたのですが、当日は早朝から五日市に出かけていて、帰り道でピカにあいました。遠かったので火傷もケガもありません。市電の線路沿いに広島市内にもどり、比治山から広島駅をまわって、爆心から4キロメートルの自宅に帰りついたそうです。
家は見る影もなく、戸や障子や屋根瓦が吹き飛んでいましたが、妻と2歳の娘はガラス片のケガがあったくらいで元気でした。仕事がなくて困っていたところ、三次市で工場を始めた仲間がいて、働けるなら来いと誘ってもらい、工場を手伝うことになりました。ところが、3年前に、体調をくずして働けなくなってしまいます。広島逓信病院で肝臓病との診断。アメリカのABCCからしつこく誘われて受信すると、大量に血を採られるだけで、治療はしてくれません。行かないでいると、ジープでむかえにきたと言います。
(「10 孤立無援の被爆者たち」は、次回に続く)
※続き『被爆医師のヒロシマ』は、10/6(火)22:00に投稿予定です。