原発問題

原発事故によるさまざまな問題、ニュース

『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<アメリカによる原爆被害の隠蔽> ※19回目の紹介

2015-09-25 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。19回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあたり、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

----------------

**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<「ピカにはあっとらん」人が死んでいく> ※18回目の紹介

 9 アメリカによる原爆被害の隠蔽

 1947年からは、私は東京へ出て、国立病院労働組合の専従役員として活動していました。開設後間もない1946年1月には国立柳井病院にも労働組合が結成されて、何もわからないまま役員をやっていたのですが、東京の本部から執行委員を派遣するようにとの依頼があり、上京したのでした。そんな私のところに、広島県の五日市で開業員をやっている母方の叔父・三宅坦医師からめずらしく手紙が来ました。1948年12月のことでした。

 三宅医師は整形外科医で、広島の被爆者をたくさん診ていました。私の知っている被爆者のなかにも、三宅医師のところでガラス片をぬいてもらったり、ケロイドの治療をしてもらった人がいます。

 その三宅医師が、私が労働組合の役員をしていることを知って、送ってきた手紙には、つぎのように書いてありました。

 「近くアメリカのABCCが広島に病院を開くが、被害の調査研究だけで治療はしないらしい。占領軍は日本の医者や学者が被害者を医学的に調べたり、医学的被害を研究することを好まないように見える。医師会の幹部もアメリカの指示には逆らわず、被爆問題には深入りしないようにつとめている。疑問に思うが、ものを言う場がない。厚生大臣に頼んで、医師が原爆被害の研究・調査を自由にできるよう、また米軍が持っている医学的資料を現地の医師に公開するよう、占領軍総司令部(※)に陳情してほしい。ただし三宅の名は絶対に出さないこと」

 このなかに出てくるABCCというのは、アメリカが作った原爆障害調査委員会(のちに放射線影響研究所)とよばれる機関のことで、1947年、広島・長崎両市に設けられました。その後、広島のABCCは、1951年に市内比治山の高台に研究施設を建設し、そこに移ります。原爆の人体への影響を長期的に調査することが目的で、被爆者の治療にあたることはありませんでした。

 ※占領軍総司令部・・・GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)とも呼ばれました。その主力はアメリカ軍でした。

「9 アメリカによる原爆被害の隠蔽」は、次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/28(月)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


最新の画像もっと見る