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原発問題

原発事故によるさまざまな問題、ニュース

『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<未知の症状で死んでいく被爆者> ※15回目の紹介

2015-09-16 22:10:31 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。15回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<未知の症状で死んでいく被爆者> ※14回目の紹介

 髪の毛がなぜごそっと取れてしまうのか。髪の毛を1本ぬいてみるとわかりますが、根本に白い実のような毛根細胞があります。この細胞は人間の細胞の中で一番生きる力が強く、どんどん分裂して、毛が伸びていきます。このような勢いのよい細胞が、強烈な放射線を浴びると壊されてしまうのです。すると、髪の毛が毛穴につっ立っているだけになる。だから、すーっと取れてしまう。

 お坊さんは髪の毛をそりますが、毛根細胞があるから、そったあとの頭皮は青い。ところが、放射線にやられると毛根細胞が死んでしまって、髪の毛が取れた頭皮は真っ白なのです。

 もう一時間ぐらいしか生きられないだろうと思われた女の患者さんが、髪に手をやりました。すると、指にからみついて髪がどさっと取れてしまった。彼女は、息をふりしぼるような声で「私の髪が・・・」と言って大声で泣き出しました。これを見て、女の人は死ぬ間際まで、自分の髪の毛がなくなることをあんなにも悲しむのかと知りました。

 口の中が腐敗するのも放射線の影響だと、ずっとあとになってわかりました。口の中にはいろいろな細菌がいます。その細菌が何かいたずらをしようとすると、白血球という防衛部隊が細菌とたたかってやっつけようとします。それが真っ赤になって熱が出ている状態なのです。これを炎症と言います。ところが、強い放射線を浴びると白血球が死んでしまい、戦うことができなくて腐ってしまうのです。

 穴という穴から出血するのも、血液のなかにある血小板という、血をおもちのように固くして止める働きをする小さな粒が放射線のためになくなってしまって、血管の外に血がにじみ出たときに、自分で血を止める力がなくなり、ドバーッと血をはいたり、下血したり、大量出血するのです。その様子を見ていると、それが人間の死んでいく姿とはとても思えません。おそろしくて。

 申し合わせたように同じような時刻に発病して、相前後して死んでいった理由も、十何年もたってからわかりました。それは、爆心地から等距離で被爆したことを示していました。もし地図上に爆心地から同心円を描いたらなら、だいたい同じ時間に発病して死んでいった人たちは、同じ円上にいただろうと思われます。

 こうした理屈は、みんな後になってわかったことなのです。


 やがて呉(広島市街から20キロメートルあまり南東に位置する市)を拠点にする海軍から、「使用したのは原子爆弾である」とのアメリカの放送があったという話が伝わってきました。ですが、私たちには原子爆弾という言葉と、目の前で起こっている説明しようのない症状と、いったいどういう関係があるのか依然として不明でした。原子爆弾とわかったからといって、効果的な治療法があるわけでもなく、5つの症状が現れた被爆者の死の脈をとって、やりきれなさをかみしめるほかありませんでした。

 訪れた8月15日。小学校の校舎の一室で、勲章をつけた院長と黒の礼装にかしこまる校長と一緒に、私は敗戦の詔勅(天皇の考えを示す文書のこと)を告げるラジオを聞きました。雑音の中からようやく聞きとった天皇の言葉をつなぎ合わせてわかった日本の降伏。無念というより、遅すぎた決断に腹が立ちました。

 軍医とはいえ、現役将校のはしくれです。戦争に負けた責任の一端は負わねばなりません。院長が何か言いたげに私のほうを向きましたが、会釈して早々に立ち去りました。院長とあれこれ語る前に、医者としてやるべきことが戸坂村には多すぎたからです。

(「6 未知の症状で死んでいく被爆者」は今回で終わり、次回は「7 ピカにはあっとらん」人が死んでいく」)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/17(木)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<未知の症状で死んでいく被爆者> ※14回目の紹介

2015-09-15 22:02:02 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。14回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<未知の症状で死んでいく被爆者> ※13回目の紹介

 よく見ると、火傷していない健康なきれいな肌に紫色の斑点がありました。これは特定の病気のとき、たとえば白血病の末期で死んでいくときなどにあらわれる紫斑というもので、えんぴつのうしろ側に紫色のインクをつけてポツポツとはんこを押したかのように、20か30個の紫斑が出ています。

 そうこうするうちに、患者の様子が急変して、下血と言って、おしりの穴から出血しました。まぶたの裏や口内からも血が吹き出ます。鼻血や口からの出血ならまだわかりますが、普通は絶対に出血しないまぶたの裏側からも、タラーッタラーッと血が流れ出るのです。

 苦しがった患者が頭に手をやると、ふれたところの髪の毛が、まるで掃き落としたかのようにスーッと取れてしまいました。髪の毛がぬけるとか、脱毛というよりも、ごそっと取れると言ったほうが正確です。

 結局、この患者はゴボッと血をはいたのを最後に、血の海のなかで亡くなりました。

 高熱、口中の壊疽、紫斑、出血、脱毛という、教科書にもない症状の死にぶつかったのは私一人ではありません。担当地域を巡回して治療にあたっていた軍医たちの報告では、似たような症状が寄せられました。誰一人として経験したことのない症状に首をひねってあれこれ意見を言い合っているうちに、急変する患者がたくさん出始めます。まるで伝染病のように、たちまち戸坂村全体に広がったのです。それも5人、8人と申し合わせたように同じような時刻に発病して、相前後して亡くなっていきました。

 原因はまったくわかりませんでしたが、広島に落とされた爆弾によって、火傷と大ケガをして人が死ぬだけでなく、高熱、口中の壊疽、紫斑、出血、脱毛という5つの症状がそろうと、1~2時間くらいのうちに死んでしまうということが、医者も被爆者も3~4日間のうちに経験してわかったのです。これは「急性放射能症」と呼ばれる症状だと、あとから知りました。

(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/16(水)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに

『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<未知の症状で死んでいく被爆者> ※13回目の紹介


『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<未知の症状で死んでいく被爆者> ※13回目の紹介

2015-09-14 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。13回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※12回目の紹介

 6 未知の症状で死んでいく被爆者

 8月8日の朝、四国や九州の部隊から、薬をたくさん持って、看護婦や衛生兵をたくさん連れて、元気のいい軍医たちが広島に応援にやってきました。戸坂村にも応援部隊がきてくれて、私たちを含めて27人の医者、100人の看護婦で治療にあたるようになりました。村の記録によると、広島から戸坂村に逃れてきた被爆者は2万7千人にのぼったそうです。

 私たちが「この人はもうダメだ」と見放さざるをえなかった重傷者の大半は、2、3日のうちに亡くなりました。ですが、3日をすぎるころには、どんなに火傷を負っていても、どんなケガをしていても、なんとか治療をつづければ、助かりそうな人たちが残るようになりました。これからは医者の働きどころだと、大いにはりきった矢先、生き残った負傷者のなかから、不思議な症状の急病があらわれ始めたのです。

 9日朝から、100人の看護婦たちが、村中に散らばって寝ている負傷者たちたちを診てまわりました。重傷者がいるのを見つけては、大声をあげて軍医を呼びます。

 「軍医殿、熱が出てます」と呼ばれたので行ってみると、若い兵士の患者が汗をかいてポッポッと湯気を出すほど発熱しています。体温計で測ってみると、40度をこえていました。この患者は顔と左上半身にひどい火傷があり、脱水症状が強く重傷ではあったものの、命の危険があるとは思われなかった人でした。前日には笑顔を見せて冗談が言えるくらいだったのに、1日で症状が激変したのです。

 高熱が出たというと、私たちは経験からマラリアと肺炎を疑います。また、広島はチフスの発生地で有名でしたから、チフスではないかとも疑います。チフスだったら感染が村全体に一気に広がって大変なことになります。

 しかし、この患者を診ると、どうもチフスではないようです。野外で寝ていたからカゼでもひいたのだろうと思い、口を開けて扁桃腺を見ることにしました。患者が苦しそうに横向きになって、ほっぺたを地べたにくっつけ、足を縮めて丸くなっているので、私もはいつくばります。農家から借りたおさじを使ってようやく口をこじ開けると、うわーっと顔をそむけるくらい、ものすごい臭いがします。腐敗臭です。カゼなどでは普通、扁桃腺が真っ赤になっていますが、この人は真っ黒で壊疽、つまり腐り始めていました。まだ生きているのに、身体の組織が腐っているのです。

(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/15(火)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※12回目の紹介

2015-09-10 22:03:14 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。12回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※11回目の紹介

 顔から胸にかけて焼けた若い娘の乳房に食いこんだガラス片をぬきとろうとしているときでした。すぐそばに荒縄で赤ん坊を負ぶった母親がいて、泣きながら、「3人の子供が焼け死ぬのを見て、この子だけ負ぶって逃げてきたんです。背中の子供は3人の子供の身代わりです。この子を助けて!」と訴えます。背負われた子供は、ふとももの後ろが大きく切り裂けて、すでに冷たくなっていました。母親にはそれまでにも何度も言い聞かせていたのですが、理解できる状況ではありません。

 全神経を指先に集めて、乳房からいままさにガラス片を引きぬこうとしたその瞬間、母親がわっと私にとりすがりました。ガラス片はくだけて、さらに奥深く乳房に食いいり、まわりにいた者が息をのみます。

 「助けてあげる。さ、おろしなさい」

 手を合わせて祈る母親の腕をつかむと、かたく結んだ荒縄を切って、私は子供を抱きとりました。冷たくなったその皮膚はどこも焦げていません。切り裂けた傷口にヨードチンキをつけ、ぼろ布で丁寧にしばりました。

 「明日になったら元気で乳をほしがるから、今夜は起こすんじゃないよ。むこうへ行って休むんだ。乳がよく出るように」

 母親は私にむかって手を合わせると、血だらけの胸にわが子を抱いて、どこへともなく去って行きました。


 村全体が野戦病院と化した戸坂村に、やがて夜が訪れました。燃え続ける広島の空が赤く焼けるのが見えます。そして、星明かりを飲みこむ「きのこ雲」。爆発直後の形をだんだん変えながら、それでもなお君臨するその姿は、昼間にもまして不気味で威圧的でした。

  うめく声、叫ぶ声、すすり泣く声、どなる声、さまざまな人間の赤裸々な声が入りまじる校庭では、ろうそくの灯を頼りに、夜を徹して治療が続けられました。夜になっても、街道から流れこむ負傷者は引きも切りません。犠牲者の数もあとからあとから絶えることはありませんでした。

 翌8月7日になると、もっと上流のほうの村からも元気な村民がムシロをかついできてくれて、空き地の乾いた土の上や道路にもムシロをどんどん並べて、患者をそこへ寝かせます。カンカン照りでしたから、ヨシズを上に張って竹を柱に4本立てて日よけを作る。それが私たちの病室になりました。名もなき人々のやさしさを感じるときでした。

 焼けただれた重傷の人、ガラスが刺さった酷い外傷の人、とにかく最初の3日間くらいは治療している最中にどんどん死んでいきました。一人死ぬと、そこへ新しい患者を寝かせる。死んだ人の死亡診断書に「火傷」と書く。火葬にする。その繰り返しで、ものを考える余裕はありませんでした。

(「5 直後の戸坂村、被爆者救援に奔走する」は今回で終わり、次回は「6 未知の症状で死んでいく被爆者」です)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/14(月)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※11回目の紹介

2015-09-09 21:59:05 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。11回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※10回目の紹介

 逃げるわけにもいかないので、その男の人のそばにひざをついてしゃがみました。男は横たわったまま、獣のように食いつきそうな目で私を見るのです。でも身動きはできない。さわってやろうにも、上半身は皮膚がむけて血みどろのうえに埃まみれだから、コールタールをつけたように黒い。のどが焼けただれているのか、呼吸も苦しそうでした。ところがいま思い出すと、左の頬が少し焼け残っていて白かったのです。なんの気もなしに、私は右手を開け残った頬にそえました。すると、いままでカーッとおそろしく光らせていた目から、スーッと光がなくなって優しい人間の目になった ー 。その途端に、その人はカクンと頭を落として亡くなりました。

 地獄のようにおそろしい状況で、私が手を触れたのが慰めになったのでしょうか。安心したように、人間らしく死んでいった ー 。私にはそう思えました。いまでもこの人の夢を見ます。

 こうして校庭や道路にところかまわず転がっていた負傷者たちが少しずつ整理されて、心づくしのムシロの上に横たえられていきました。しかし、ムシロの上で多くの負傷者が死者にかわり、青竹の担架で運ばれ火葬される。そのあとはすぐにまた新しい負傷者で埋まりました。

 私たち4人の軍医は、ともかく応急手当をしました。ですが、とても手当なんて言えるものではありません。乱暴そのものです。ガラスの破片が体のほうぼうに刺さっている患者から、三角に割れたガラスのとがった先が皮膚の下をクルッとまわって刺さっているのを、せまい入り口から抜き取るのは大変な仕事でした。切れた傷口は縫わねばなりませんが、道具もないので、一時は縫い針を火で焼いて、ヨードチンキにひたした絹糸を通し、やっと縫い合わせたりしました。使えるかぎりの資材をかき集めて、止血、縫合、ガラス片の除去、創傷治療など、私たちは休む間もなく治療に没頭しました。

 火のついたように泣き叫ぶ4,5歳くらいの男の子は、どこにも火傷はなかったものの、丸裸の腹に大きなガラス片が突き刺さり、傷口からあじさいの花のように内蔵が飛び出していました。泥まみれになった内臓に腸管(小腸や大腸のこと)がないことを確かめてから、その根本をしばり、切断。泣く声もかれて意識を失った男の子を、村人の一人が自分の家へ引き取っていきました。

(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/10(木)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※10回目の紹介

2015-09-08 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。10回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※9回目の紹介


 小学校の隣にある役場に集まっていた村長はじめ村の幹部たちに頼んで、村で保管している陸軍の疎開米を出させ、おむすびをたくさん作らせることにしました。ところがこれは失敗でした。手を焼かれ、顔を焼かれて、おむすびを口に運んで食べられるような人は一人もいなかったのです。それであわてて、おむすびを鍋にもどして、グツグツ煮てゆるいおかゆにしました。

 村の人たちはその日早朝から、中学生以上は男女とも広島へ動員されていて、残っていたのはほとんど老人と小学生と赤ん坊ばかり。そこで小学生を集めて、上級生の男の子2人におかゆを入れたバケツを持たせ、女の子にしゃもじを持たせて、寝ている負傷者の口におかゆを流しこんでいきました。

 そして、とにかく治療できる場所をつくる必要がありました。校庭にぎっしり横たわる被災者のなかで、死んでいる人を見つけては運び出し、空いた場所に治療所をつくることにしました。明日からは歩ける負傷者には治療所にきてもらうという段取りです。

 私は動かなくなった人のそばに行って、生きているのか死んでいるのかを見分ける仕事を始めました。情けないことですが、医者がやる以外に、「この人は死んでる、この人は生きてる」ということを確かめる人は誰もいないわけです。「この人はダメ」と指示すると、村のおじいさん2人が、青竹2本に荒縄を編んだにわかづくりの担架にのせてかつぎ出しました。遺体は小学校裏の林に臨時につくった火葬場で焼いていきます。残酷な仕事でした。

 そういうなかに、いまでも忘れられない人がいました。

 私は横になって動かない人のところへむかって歩き回ります。まだ真っ暗になる前の時刻。夏ですから、夜7時ごろまで明るかったわけですが、明るいなかをまともな格好をしている私が歩いて行くと、負傷して横になっている人たちは「助けてほしい」、「なんとかしてほしい」と、みんな必死に私の目を見つめてきます。私は目が会ってしまうと、どうしてもそこへ座らなきゃならない。ところが一目見て「ああ、この人はあと30分」、「この人はもうあと10分もダメだろう」、あるいは「半日生きられるかもしれないけどダメだ」というのがわかりますから、そういう負傷者に手をとられたらなんにもできない。だから目を合わさないようにしていました。

 ところが、とうとう目をそむけそこなって、ある若いらしい男の人と目が合ってしまった。

(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/9(水)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※9回目の紹介

2015-09-07 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。9回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※8回目の紹介

5 直後の戸坂村、被爆者救援に奔走する

  3時間ぐらいかかったと思いますが、ようやく見覚えのある堤防の階段をあがり街道に出ると、戸坂村はおしよせる被災者でいっぱいで、私は度肝をぬかれました。

 村の大部分の家は、原爆の爆風で屋根が飛ばされたり、倒れたりしていました。倒れた家のなかでなくなった村人もいます。まともな家などほとんどありません。村の人たちはみんな家の外に出て、田んぼのあぜ道に呆然と立っているような状態です。

 そこに、広島からつぎつぎやってくる血みどろの負傷者の群れが、道路とか農家の軒先の空き地、学校の校庭や役場の広場など、乾いた土の上は見るかぎり、足の踏み場もないくらいぎっしりと横たわっているのです。あとから来た人は、寝ている負傷者、死んでいる人の上を乗り越えて、さらに奥へ行こうとしています。みんな顔が焼けていて、人間らしい顔をした人は誰もいない ー 。どこの誰だかぜんぜんわからない。なんと言いますか、地獄としか言いようがありませんでした。

 すでにお話ししたように、戸坂小学校では陸軍病院の戸坂分院を開く準備が進んでいました。原爆が落とされるとは思いもよらないことでしたが、8月2日には軍医3人をふくむ分院の要因が村に到着しています。その軍医3人と、広島からもどってきた私とで、なんとかしなくてはと話し合うわけですが、どうしていいか考えがつかないのです。小学校の校舎はやはり爆風で崩れ落ち、校庭は被災者であふれかえっていました。

 「いま、私は広島まで言ったけれども、広島からこの村に何万人もの人が逃げてくるよ。私たちは否応なしにその面倒を見なくてはならない。村の人を集めてむかえる準備をしなければならない」と言って、私がまずとりかかったのは食事の準備でした。軍医学校で戦地での軍医の仕事を習ったとき、「一度に大量の患者を収容したときは、治療よりもまず食事のことを考えろ」と教えられていたからです。

(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/8(火)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※8回目の紹介

2015-09-04 22:08:45 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。8回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※7回目の紹介

 川に落ちてそのまま流されていく人もいるし、立ち上がって歩き出す人もいる。川のなかには何段も死体が重なっています。そこに、後から後から人が飛び込む。河原といわず、道路といわず、焼けただれた人たちの大群 ー 。どこを見てもまともな人間の姿はないのです。

 私はそこから一歩も動けませんでした。どうしていいかわからない。感じたのは、恐ろしさよりも、無力感でした。私は医者だから何かしなくてはならない。だけど何をしていいかわからない。私がなんとかして間に合うような人は、一人もいないのですから。

 30分もそうして呆然としていたでしょうか。そのあいだ、流されてくる死体が私にぶつかってぐるっと回転してまた流れていきました。川は腰ぐらいの深さでしたが、川面だけでなく、底のほうも幾重にもなってたくさんの人が流されていきます。私の横を通って向こう岸のほうへ歩いていく人は、誰も私を見ていません。「大丈夫ですか、しっかりしてください」と声をかけた私を、誰一人まともに見ることもなく、幽霊のように手を前につきだして歩いて行く。生きた心地がしませんでした。残虐の極みです。よく気が狂わなかったと自分でも思います。

 ふと気がつくと、10人くらいの兵隊をのせた和船が川を下ってきていました。将校が川に飛び降り近づいてきます。私がいた戸坂村より一つ上流の隣村で、やはり穴掘り工事をしていた部隊の顔見知りの将校でした。その将校が言うのです。戸坂村は数えきれないほどの負傷者でいっぱいだから、軍医のお前は引き返して治療にあたれ、と。

 私は軍医だから陸軍病院へ帰る任務がある。けれど火で市内には入れない。目の前の状況を見て逃げていくようで、すまなくて、うじうじと迷っていましたが、その将校の説得にとうとう決心をして、ごめんなさいと詫びるように手を合わせて、村へ帰ることにしました。川をさかのぼっていく戸坂村までの道のりは、途方もなく長く感じられました。

(「4 初めて出会った”被爆者”」は今回で終わり、次回は「5 直後の戸坂村、被爆者救援に奔走する」です)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/7(月)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※7回目の紹介

2015-09-03 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。7回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※6回目の紹介

 きっと広島までの道は行けば行くほど負傷者でいっぱいになっているはずです。私は道をあきらめて、そばを流れる太田川を歩いてくだっていくことにしました。太田川はどの流れをくだってもかならず広島市内を通るからです。夏草がおいしげる川のふちを、腰まで水につかりながら一目散に進みました。

 どんどん川をくだっていくと、真っ黒な煙が水面でうずを巻いています。行く手に炎が舞っているのか、川下から熱風が吹いてきて息苦しいほどでした。川底の砂利が砂に変わって、どうやら太田川が最初に左へ分かれる猿猴川に出てことがわかりました。ここから先が広島市内になります。

 ちょうどこのあたりには工兵橋という橋がかかっているはずです。広島にたった一つある吊り橋で、土木の仕事をする工兵隊という部隊がつくったものでした。この左岸には工兵隊が兵舎をかまえています。煙のあい間から真っ黒になった工兵橋が見えました。春になると桜並木がみごとな長寿園という公園がある対岸の土手から上がろうと思い、川を右に横切り始めたとき、急に風が変わったのか、あたりをおおっていた真っ黒な煙が下流に消えたかと思うと、不意に青空があらわれ、真昼の光が輝きわたりました。

 すると、長寿園の岸辺は、見渡すかぎり焼けただれた肉のかたまりでぎっしり埋まっています。倒れたままの姿はすでに息絶えた死体なのでしょうか。

 川のなかにも多くの人がいます。折り重なって倒れる肉体を乗りこえて、あとからあとから川から岸にはい出ようとする人の数は数えようもありません。

 猿猴川をまたぐ工兵橋ではつり手のあたりに炎がちりちりとあがり、その火のなかを虫がはうように赤く焼けた肉体がうごめいています。左岸の工兵隊の兵舎は、いままさに爆発の真っ最中です。黒煙が巻き上がり、大音響とともに吹き出す火花がその煙を赤々と染めます。火に追われて火だるまになった人々が、次々と川に飛び込んでいました。(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/4(金)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※6回目の紹介

2015-09-02 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。6回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※5回目の紹介

  倒れたのを見て、私ははじめてその人が生きた人間だということがわかりました。かけ寄って「しっかりしてください」と言ったのは覚えています。脈をとろうと思いました。医者は倒れた人を見ると、最初に脈をとります。心臓に勢いがあるかどうか知るためです。ところが、私がふれようとした腕にはどこにも皮膚らしいものは残っていません。赤むけの状態なのです。

 私がはじめボロきれと思ったのは、素っ裸の人間の生皮がはがれてぶらさがっているのでした。したたり落ちる黒い水は、人間の血でした。けれども、男とも、女とも、兵隊とも、一般の人とも見分けることができない、焼け焦げた肉の固まりが、泥にまみれて倒れている! そのように見えました。

 こう状態の人間を私は見たことがありません、どうすることもできずにおろおろしていると、その人はピクピクッとけいれんを起こして動かなくなってしまいました。重傷のまま数キロも歩いてきて亡くなったのです。

 それが私が最初に出会った被爆者の死でした。


 見たことも聞いたこともないような大怪我です。私は何をどうしたらよいかわかりませんでした。こんなふうに焼かれる人がいるのだとすれば、いったい広島のなかはどうなっているのだろう。とにかく広島に急がなければと、勇気をふるい起こして自転車にまたがって走りだそうというとき、さっきの人と同じような人が大勢やって来ていたのです。

 立っている人、ひざをついている人、腹ばいの人、となりの人に寄りかかっている人・・・。誰もが焼けただれて赤むけの状態です。道いっぱいにひしめいて、私の行く手をふさいでいました。

 恐ろしくなりました。その人々にとりすがられても、私は治療の道具、薬品の一つも持っていないのです。そうかといって、重傷を負っていたましい姿の人たちをおし分けて道を通っていく勇気はさらにありませんでした。(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/3(木)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※5回目の紹介

2015-09-01 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。5回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※4回目の紹介

 4 初めて出会った”被爆者”

 太田川沿いの道をしばらく行くと、まわりの村では大騒ぎになっていました。つぶれた家もあるし、死んだ人もいます。広島市街までちょうど半分というあたりで、市街からのがれてきた被爆者に、私ははじめて出会いました。原爆が落とされてから一、二時間くらいたっていたと思います。

 広島へむかう道が、長い直線の下り坂になっていて、その先が急角度で左に曲がっています。その曲がり角から突然、何かの影があらわれました。私はブレーキをかけました。

 かなり遠くから見たのですが、その影は「人間」には見えません。全体が真っ黒で、人間くらいの高さの棒のようなものがゆらゆら動いている。そう見えました。

 だんだん近づいていくと、ボロを着ているように見えます。ボロきれを胸や腰のあたりからぶらさげているようです。胸の前にだらんとつき出している両方の手の先にもボロがたれ下がっています。そして手の先からは黒い水がしたたり落ちていました。

 その顔は ー 、それはいったい顔なのでしょうか?!

 たしかにまるい頭があるのだけれども、顔があるのかないのかわからないのです。おまんじゅうのようにはれ上がったところに二つの穴が開いていて、鼻はありません。上下のくちびるがふくれあがって、耳のほうまで口が広がっています。髪の毛はあるかないかわかりません。とても「人間」だとは思えませんでした。

 その人が「ウッウッ」とうめき声を上げながら、私のほうにむかって歩いてきます。私は自転車に乗っていたのですけれど、おそろしくなって自転車から降りて、自転車をおしながらゆっくり歩いていきました。早く助けてほしいのか、その人はよろよろしながら急ぎ足でやってきます。

 私はすがりつかれるとこわいと思いました。悪いけれど、自転車をおいてだんだんと後ずさり。ほんとうに悪いことをしてしまいました。私のおいた自転車につまずいて、その人はばったりと倒れたのです。(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/2(水)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※4回目の紹介

2015-08-31 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。4回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※3回目の紹介

 あちこちに痛みを感じますが、たしかめている余裕はありません。目や鼻や口に入った泥を夢中でぬぐいながら、明るいほうにむかってがれきのなかをはい出しました。

 私は男の子がいたことを思い出しました。見まわすと、泥にうもれた花もようの夏ぶとんから、小さな手がのぞいています。力まかせにふとんから引きずり出し、私は男の子をかかえて表へ転がり出ました。

 庭先の広場に子供を横たえましたが、聴診器はどこかに行ってしまって見当たりません。私は耳のなかに入りこんだ泥をかき出し、その子の胸に直接耳をあてて心臓の音を聞きました。元気な音がしています。ほっとしました。

 男の子の意識もかえって、あたりを不安そうに見まわしました。おそろしいのか私の手にしがみついてきます。その手をにぎりかえして、あらためて広島の空を見ました。

 ああ! なんてことだろう!

 広島に紅蓮の火柱が立っています。おそろしく激しく燃え立つ火柱は空へ空へとのぼり、巨大な雲となってどん欲にわきたっていました。

 不意に背すじが寒くなって、下腹のあたりに言い表しようのない恐怖がにじり上がってきます。

 私がいま、見ているのはなんなのだろう!

 28歳の人生で出会ったことのない未知の世界が、そこにありました。広島の街全体を火柱の下にふみしだき、壮大にそびえ立っている「きのこ雲」。おさないころに間近で見た、浅間山噴火の噴煙とはくらべようもない異様な巨大さ。私はいつの間にかその場にひざまずいていました。

 村のあちこちから互いによび合う声が聞こえてきます。まわりには霧のように砂ぼこりがたちこめていました。裏の畑のほうからこの家のおじいさんが、おろおろしながらやってきましが、巨大なきのこ雲を見てその場に座りこんでしまいました。

 「孫はここにいるよ。大丈夫だからね」

 私はおじいさんにむかってさけんで、庭に転がっていた自転車にまたがり広島の病院をめざして走りだしました。ほんとうは、後ろをむいて逃げ出したい気持ちです。でも、任務だからしかたありません。

 きのこ雲へつづく太田川沿いの道を、私は自転車でひた走りました。いまでは4車線の大きな国道になっていますが、当時は荷車がやっとすれちがえるくらいの砂利道です。人の姿も犬ころ一匹も見かけません。おそろしさを必死にこらえてベダルをこぎました。

(「3 八月六日」紹介は今回で終わり、次回は「4 初めて出会った”被爆者”」です)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/1(火)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※3回目の紹介

2015-08-28 22:07:24 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。3回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※2回目の紹介

 かっ、と目の前が真っ白に光り、熱風が顔や腕の皮膚をすべり去りました。

  あっと声に出したのは覚えています。とっさに両手で目をおおって、はいつくばりました。強烈な光を受けたせいで何も見えません。注射器もどうしたかわかりません。

 目のくらみが落ち着いてきたので、はいつくばったまま顔をわずかに上げて、あたりの様子をうかがいました。嘘のように静かでした。何ごともない青い空が広がっています。あの閃光と熱風はどこへ行ったのでしょう。私は目をこらして、もう一度、広島の空を見つめました。

 広島の市街と戸坂をへだてる山なみの向こうの空に、突然、真っ赤な大きな火の輪がうかびました。その輪の中心に真っ白な雲のかたまりができたかと思うと、またたく間にふくらみます。それが火の輪にふれたとたんに、巨大な火の玉ができました。

 目の前に太陽が生まれたかのようです。この火の玉の直径が700メートルくらいあったことを、あとになって知りました。

 火の玉は上にどんどん白い雲をたちのぼらせ、下のほうは火柱となって広島の街をふみしだくように立ちはだかっているのが、山の向こう側に見えます。5色の光をはなってチカチカ輝く火柱はきれいで、それはおそろしいものでした。私は縁側に腰をついたままながめていました。

 すると山なみのむこうから帯のように長く真っ黒な雲があらわれ、一気に山の斜面をなだれ落ちてきます。見る見るうちにうずを巻きながら戸坂村をおしつつんでいきます。私のいる農家の正面に立っていた小学校にも黒いうずがやってきて、かわら屋根を木の葉のように舞い上げます。

 それを見てハッとした瞬間、私の身体は空中にすくい上げられていました。縁側から家のなかにむかって吹き飛ばされたのです。雨戸やふすまも飛びました。大きな重たいわらぶき屋根も天井もろとも吹きぬかれ、ぽっかり青空が見えます。私は背中をまるめたまま、奥の座敷にある大きな仏壇に打ち付けられました。そこに大屋根がくずれ落ちてきて、わらぶきの泥のなかに飲み込まれたのです。(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、8/31(月)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※2回目の紹介

2015-08-27 22:06:10 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。2回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあたり、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしています。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるということ、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※1回目の紹介

 3 八月六日

 まぶしさを感じて目がさめました。開け放した座敷から、すっかり朝をむかえた夏空が雲ひとつなく輝いているのが見えます。時刻は8時10分をすぎていました。

 昨夜、戸坂村から広島の陸軍病院にもどると、私は病院に泊まることになっている数人の高級将校の接待役をまかされました。ひさしぶりに酒を飲んだので、かなり酔っぱらって、寝ついたときにはさらに夜がふけていました。

 2時ごろだったでしょうか。戸坂の農家の子供が心臓の発作を起こしたので往診してほしいと、無理やり起こされたのです。その子の家は、お父さんが戦死、お母さんは病気でふるさとへ帰っていていない。おばあさんはすでに亡くなっていて、おじいさんが一人で6歳の孫の面倒をみているのでした。そのおじいさんのことを私は昔から知っていました。

 いまなら救急車で患者さんが病院にはこばれてきますが、当時はそのようなしくみはありません。おじいさんが私をたよって病院まで自転車でやってきて、荷台に私を乗せて戸坂へむかいました。私は酔っぱらっていて、荷台から落ちそうになりながらも、太田川の川面に満天の星が映っていたことを覚えています。

 応急処置をして男の子の症状が落ちつきました。私は朝7時に起きて陸軍病院へもどろうと思い、その家の座敷で仮眠をすることにしました。それがつい寝坊してしまい、目覚めたのが8時すぎだったのです。

 おじいさんはとっくに起きているようで、家の裏で水をくんでいる音がします。男の子は静かに寝ています。私はもう一度その子を診察して、目覚めたときに不安がってふたたび発作を起こしたりしないよう、鎮静剤を注射しておくことにしました。注射器をアルコール消毒して、薬剤のアンプルを切りました。

 上空のはるか彼方を飛行機が一機、銀色に輝きながら飛んでくるのが見えました。B29です。そんなに高いところを飛べる飛行機は日本にはありませんから、アメリカの爆撃機だとすぐにわかりました。B29が毎日のようにやってきても爆弾を落としていかなかったので、私はそれ以上、気にもとめませんでした。

 注射器の針を上にむけて空気を押し出し、子供の腕に注射しようとしました。その瞬間ー。(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、8/28(金)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※1回目の紹介

2015-08-26 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。1回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療に あたり、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしてい ます。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

 1 軍医になってしまった

 1917年1月1日、私は広島市で生まれました。父が銀行員で支店長として広島に赴任してきて、母と出会って結婚し、私が生まれたというわけです。広島では1年ほどすごしたそうですが、すぐに大分県のほうに転勤になりました。その後も父の転勤にしたがって、私は小学校を3回、中学校を2回も転校しましたから、幼なじみの友達というものがいません。

 15年におよんだアジア太平洋戦争へ突入した「満州事変」のとき、私は山好きの中学校で、山ばかり登っていました。日中戦争が始まった盧溝橋事件のときも、東京にある大学予科・早稲田第一高等学院の建築家に通っていた私は、相変わらず山へ登ったり音楽を聞いたりしてすごしていました。戦争が日1日と拡大していくものの、まったく無関心だったというほかありません。

 ところがあるとき、友人に連れられていった下町の工場街にある託児所で、私は衝撃を受けました。生まれて初めて尋ねた託児所は、あまりに不潔で貧しかったのです。院長である外国人牧師が怒りをこめていいました。

「日本人の医者にはヒューマニズム」がないらしい。貧しい子供たちは診ようともしない」

 その言葉が胸に突き刺さりました。この出来事だけが理由というわけではありませんが、私は建築科をやめて医師になろうと決意したのです。(略)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、8/27(木)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに