原発問題

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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<「ピカにはあっとらん」人が死んでいく> ※18回目の紹介

2015-09-24 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。18回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<「ピカにはあっとらん」人が死んでいく> ※17回目の紹介

 旦那さんのほうはというと、8月6日の当日、早く出勤して県庁の地下室で書類の整理をしていたそうです。そのときにいきなり天井が落ちてきて下敷きになり、右大腿を骨折。骨が外へ突き出るほどの大ケガをしました。まわりにいた仲間がみんなで担ぎだしてくれ、火が出始めた市内から逃げおおせて、親戚だったこの家の土蔵にやってくることができました。衛生兵が回ってきて、その当時は包帯もなかったときで、骨が突き出た太ももを、無理やり足を引っ張ってもとに戻し、ぼろ切れを巻いて、竹の棒をあてて荒縄でしばってもらったそうです。「そのうち骨がくっつくから、歩けるようになったら這ってでも帰れ」と言われて、あとは何もしてもらえずじまい。寝ているところに、奥さんがたどり着いたということでした。

 衛生兵の手当はかなり乱暴だったように聞こえますが、これは副木治療という応急手当です。

 そして、奥さんは旦那さんを看病したり、まわりの重傷患者の治療や介護を手伝ったりしているうち熱が出て、紫斑があらわれたのです。私には何が起こったのか、わけがわかりませんでした。

 そうしているうちに、奥さんはどんどん悪くなって、出血が始まりました。血をはく。下血する。髪の毛が抜ける。県庁で原爆にあった旦那さんのほうは大腿骨折以外はなんともないのに、原爆が落とされてから1週間後に松江から出てきた元気な奥さんのほうがおかしくなっている。直接ピカを浴びた人とまったく同じ症状の経過で、奥さんは亡くなりました。身動きできない旦那さんが必死に名を呼ぶ声も届かず、抜け落ちた黒髪を真っ赤な血で染めながら ー 。

 似たような症例は1人や2人じゃありません。死亡した例は戸坂村では3、4例でしたが、発病者は多数ありました。

 もう1人、例をあげましょう。

 私は広島に赴任して以来、何かと世話になった友人の親戚で、中島さんという人がいました。中島さんは釣りが大好きで、8月6日の早朝も、市街から60キロメートルも離れた大畠(山口県の南東部にあった町。現・柳井市)の海に舟を出して釣りをしていたそうです。奥さんは家の納戸で探しものをしていました。そのとき、原爆が落とされます。新築の自慢の家だたためか、爆心から1・2キロメートルの距離にもかかわらず、家は倒壊をまぬがれ、奥さんはかすり傷一つ負わずにすみました。ですが、隣の家から出た火に追われて、奥さんはにぎつ神社下の猿猴川の河原に逃げ、そこで一夜を明かします。

 中島さんが、広島が大きな被害を受けたと聞いたのは正午近くでした。半信半疑で汽車に乗ったものの、五日市で下ろされ、それから先は不通。行く手に巨大なきのこ雲を見ながら線路伝いに広島にむかいます。到着したときには、夜空を真っ赤に火柱が染めていました。どこをどう歩いたのか、奥さんらしい人を見かけたという人の話をたよりに訪ねまわって、ようやくにぎつ神社にたどり着き、猿猴川に半身をつけ震えている奥さんを見つけたのは翌日の早朝近く。その日、2人は戸坂村に私がいることも知らないまま、太田川をさらにさかのぼり、親戚のいる町に避難したそうです。

 戸坂小学校が授業を再開するというので、戸坂分院を閉鎖するとの方針が伝えられ、移転先の交渉やら何やらで忙しく駆け回っていた私のところに、突然、中島の奥さんがあらわれました。あまりにもやつれていたその姿にはじめは誰ともわかりませんでしたが、奥さんからご主人が亡くなったことを告げられて、2度、驚かされました。

 親戚のいる町に落ち着いて間もなく、熱が出始め、紫斑があらわれ、下痢がつづいたので病院に行ってみると、そのうちに鼻血と血便がつづき、そうしているうちに髪の毛が抜け、最後は大量に血をはいて亡くなったのだと言います。爆発のとき、中島さんは60キロメートルも離れた海で釣りをしていたというのにー。

 いまから振り返ると、後から市内に入った人たちに現れた急性の症状は、爆発後あちこちに残っていた放射性物質を体内に取り込んだことによる内部被曝が原因かもしれないと疑われるのです。もしかすると、昔から病気があってそれがたまたまその時に発症して死んだのかもしれません。確証はないのです。

 当時、日本にやってきた占領軍は私たち広島の医者に、放射能症の記録をとってはいけないと命令していました。私が目撃した出来事ーピカにあっていない人たちが、なぜピカにあった人たちと同じ症状で死んでいったのか、それを十分に検証する術は、当時、残念ながらありませんでした。

(「7 「ピカにはあっとらん」人が死んでいく」は今回で終わり、次回は「9 アメリカによる原爆被害の隠蔽」)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/25(金)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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