原発問題

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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<アメリカによる原爆被害の隠蔽> ※20回目の紹介

2015-09-28 21:59:58 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。20回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかった からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<アメリカによる原爆被害の隠蔽> ※19回目の紹介

 1949年が明けてすぐ、私は三宅医師の依頼のことで厚生省に出かけました。当時の厚生大臣は林譲治という人で、私は労働組合の団体交渉でしょっちゅう会っていましたから、このときも、労働組合の役員としてではなく、医師として頼みたいことがあるので短時間会ってほしいと言うと、林大臣はすぐに会ってくれました。当時、厚生省は三宅坂の元陸軍参謀本部の建物の中にあり、いつ行っても汚くてみすぼらしかったものです。占領下の日本政府の、それも厚生省などには誇示しなければならない権威もありませんでしたから、始終会っている人間には気安く対応してくれました。

 私は、米軍が持っている原爆被害の調査資料を公開し、ABCCが治療もおこなうよう、総司令部に嘆願してほしいと頼みましたが、「そんなことできない」と言下に断られました。”天皇陛下でもマッカーサー総司令官には簡単に合うことができないのに、そんなことができるか”、と動こうとしません。それでも根気強く頼むと、「そんなに言うなら、厚生大臣の代理と名乗ってお前が行け」と言うので、乗りかかった舟というわけで、私が総司令部に行くことになりました。

 翌日から私は総司令部の医療関係者に会うため、日比谷に通うことになりました。日比谷交差点の角にある、総司令部がおかれた第一生命相互ビルには、星条旗がひるがえっています。正面玄関に衛兵が立っていて、「軍医に会いたい」と伝えると、何かベラベラと英語で言われて、早口でよくわかりません。そのうちに「予約はあるか」と聞かれていることがわかり、「ない」と答えると門前払いです。もとより覚悟の上なので、翌日また出かけました。

 戦争中、陸軍病院にも面会禁止の兵士に会いに来る家族がいて、衛兵は断るのですが、何度もやってきて顔なじみになるうちに人情が通って、中に入れてやることはできないけれど、相手の兵士を営門までつれだして会わせていました。一目会いたいと願う家族があみ出した奥の手でした。それを知っていたので、何回も通えば道は開けると思いました。

 同じ衛兵と3度目に顔を合わせたとき、「用件はなんだ」と聞いてくれ、「医者に会いたい。大事な用だ」と言うと、「つれてきてやる」と、若い軍医に会わせてくれました。準備した英語のメモに身振り手振りを交えて、調査資料の公開と治療の依頼を伝えます。ところが、原爆関係は軍事機密で、その問題は自分の権限外だと言うのです。それでもせっかく来たのだからと、要望の点は調べて返事をくれることになりました。

「9 アメリカによる原爆被害の隠蔽」は、次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/29(火)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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