原発問題

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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<「ピカにはあっとらん」人が死んでいく> ※17回目の紹介

2015-09-18 22:00:28 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

◎読者の皆様へ 

「つぶやき」の記事は、9月21日(月)~24日(木)は休みます。

『被爆医師のヒロシマ』の紹介は、9月21日(月)~23日(水)まで休みます。

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*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。17回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<未知の症状で死んでいく被爆者> ※16回目の紹介

 その日、朝はなんとも変わった様子はなかったのですが、午後の回診時に、土蔵の隅にきれいな着物を来た女性が横たわっていました。来ている衣類を一目見て、被爆者でないとわかります。隣に寝ていた重傷の兵士(彼はこの3日後に死にました)が私のズボンをつかんで、「軍医殿、お忙しいでしょうが、この奥さんを診てあげてください。熱を出しているから」と言います。昔の人は親切ですね。当の女性は仰向けになって寝ているだけで、何にも言いません。きっと気分が悪かったのでしょう。

 私は不眠不休でろくに寝ていませんでした。「忙しいのにカゼぐらいで」と内心では思いながらも、女性の口を開けて喉を見、胸元に聴診器をあててみます。

「カゼだろうから、これを飲んで寝てなさい。2、3日で良くなる」と、解熱剤を一包み渡して帰りました。

 その女性は、3日間、寝ていました。私はたいしたことないと思っていたので、その間、特に気にもとめませんでした。4日目の朝、まだ寝ているので、さすがにそばへ寄ってみたら、着物の襟の合わせ目からのぞく白い肌に、紫色の斑点が出ているではありませんか。「これは!」と驚き、「奥さん、どうしたんですか」と訪ねました。

 奥さんが語ったのは次のような事でした。

 「1年前の7月、松江市で島根県庁職員の主人と結婚。主人がすぐに広島県庁に転勤になったので、宇品に住まいをかまえました。1年たった今年の7月始め、臨月になったので、松江の実家に帰り、出産しました。8月7日、ラジオは『広島市にB29が新型爆弾を落として相当な被害が出た模様』と報じたきり、それしか言わない。新聞にも同じ文句が書いてあるだけ。心配していたら、広島から松江に逃げてきた人が『広島は全滅して誰も生きていない。家は全部焼けた』と言うではありませんか。驚いて13日に五日市(爆心地から12キロメートルほど西に離れた町)の友人の家まで出てきて、毎日、広島の焼け跡を探し歩きました。生きていればどこかの村にいると聞き、20日にようやく戸坂村で主人に会えました」

(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/24(木)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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