ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

スシラ ブディ ダルマ・4章 動物力とナフスsupiah//

2018-01-15 | 日記

さて動物力によって発生するナフスはsupiah(スピア)であるとバパは言います。

例によってコーランの記載から。
・・・残念ですが、このナフスはコーランには載っていません。
イスラムの神秘主義者・スーフィーsufiが使っていた「Nafs al-Safiyah」をジャワ神秘主義者が転用しジャワ語化したものと思われます。<--リンク

Wikiより世界標準の7つのナフス(Nafs)によれば、<--リンク
7.ナフス・サフィーヤ・ワ・カミーラ an-nafs aṣ-ṣāfīyyah  純粋の魂

そしてワヤン(Wayang)での4ナフスシステムからは、<--リンク
3、黄はスピヤ supiyah の欲望すなわち肉欲を象徴する。

ジャワの伝統を述べたGumelaring Jagadの第41節4つのナフスでは<--リンク
3.スピアSupiyah、色は黄色です。
場所は脾臓にあります。
肉体は、良いもの、美しいものを所有することを熱望しています。

あるクバティナン流派での分類では、<--リンク     
第一はソフィアsofia, つまり物質欲,

そうして、最後はあるトークでのバパの説明からは、<--リンク
スクマ(sukma、精妙体)の色      対応するナフス(nafsu)
第三は黄               supiah 欲望、願望(desire)


そうして、バパは多くのトークでナフス・スピアnafsu supiahについて語っています。
以下はそこからの引用になります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

7月20日 1957 - Bapak 
3番目はナフス・スーリヤnafsu surlyah、スピリチュアルな言葉で呼ばれているように、その光の性質は黄色です。
・・・
三番目、ナフス・スーリヤnafsu surlyahは物を欲しがる者です。
(注:通常は「所有欲」といわれるもの)
(注:3番目はスピアsupiahですがこのトークを含めて2つのトークの中ではスーリヤsurlyahというコトバが使われています。)

9月29日 1957 - Bapak
三番目がスピアsupiahです。
その希望は、自分自身が最も有名でよく知られているようになる事です。、

8月6日1959 - Bapak
第三番目がスピアsupiah、それは欲望、願望です。

8月7日1959 - Bapak
第三番目がスピアsupiah、それは願う事、欲しがることです。

3月5日1963 - Bapak
3番目の情熱はスピアsupiahです。
それは、「あなたの望む情熱」として説明することができます。
それは、あらゆる種類のものが欲しいのです。

それで、それがあなたの心に影響するならば、あなたはこれを望み、それを望みます。
あなたはこれを見たいと思うし、それを見たいと思う。

あなたはあなたが望むものの使用を考慮していませんが、 あなたはただそれを望み、それを取得したいと思っています。
(訳注:それは通常は「所有欲」と言われるものです。)

9月13日1963 - Bapak
これらの2つの種類の欲求と同様に、インドネシア語ではスピアsupiahという3つ目の欲求があります。
スピアsupiahは、物事を欲しがっている、厄介である、または誤りを見つけることを意味します。
それは小さな事に注意を払い、考えていることを意味します。

たとえば、魅力的な服を着た友人がいる場合、あなたはそれを放棄することはできません。
あなたは羨望を感じるでしょう。
(注:通常はねたみ、あるいは 妬み心と言われているものです。)

あなたは魅力的な服を着ているあなたの友人を見て気になります。
あなたの友人が昇進しているのを見ても同じことが言えます。
それはあなたを混乱させます。
できるだけそのような見栄えの良い出来事を受け取れないようにしているかのようです。
それがsupiahと呼ばれる願いです。

7月8日1970 - Bapak
動物の生命力の本質は、動物の生命力が人間自身の中で働くとき、スピアsupiahと呼ばれるナフスnafsuとして現れる。
動物と同様に、人間の生命力でも同様です。

12月5日1970 - Bapak
動物の生命力から生まれるナフス nafsuは、スピアsupiahです。
・・・・・・
もしあなたがナフス・スピアnafsu supiahなしで生きていたなら、仕事のエネルギーと性的エネルギーが減少します。


11月26日1972 - Bapak
あなたは生命力、あるいはスピア supiahと呼ばれるナフスによってエネルギーを供給される必要がありますが、ナフス スピアnafsu supiahは動物の生命力(ロホ へワニアroh khwaniah)にその起源を持っています。

これはナフス スピアnafsu supiahと呼ばれ、それから衝動、願い、自分と同族の種と一緒になりたいという欲求が発生します。
それは他の(対になる)人間と結合、あるいは一体化することを意味し、そして性交渉を通じて、人間の種子を調達します。<--リンク
それがあなたがへワニアkhewaniahの生命力と欲求のナフス スピアnafsu supiahを持っている事が必要である理由です。

そのため、欲求は女性の中にあるのが自然です。
それは明らかです。
はい、それは男性の中ではより明白であるにもかかわらず、またそれは女性の中にも存在しており、実際それは同じ重要性を持ちます。

6月18日 1981 - Bapak
ナフス スピアnafsu Supiahは壮大なデザイン、素晴らしい願い、そして計画のナフスです。

1月19日 1985 - Bapak
これらの力のもう一つは、動物の生命力と呼ばれ、それが人間の自己の中に現れたときにナフス スピアnafsu supiahと呼ばれています。

このように動物の生命力が強い欲望として現れるので、人間はこの欲望とその影響を取り除くことができるはずですし、また彼らが受けるその影響を確認することができるはずだと主張します。

そこで彼らは肉、ほかの物ではなくまさに肉を食べることを避けます。
純粋であり正しいことをする、という人間のこの願いは、神の意志によって、そのような思いの中に確かに存在しています。
・・・・・
これは人々に大きな影響を与えます。
それで肉を食べない人の多くは、これを行うことで(肉を食べない事で)、ナフスnafsuを内部自己の外に締め出すことができると言います。
しかしそれが締め出された場合、それは死を意味しますので、彼らはそのように行うことはできません。

それは昔から道を求めていた人たちがイルム Ilmu(霊的な知恵)と呼んでいたもので、それにより彼らがまだ生きているのに(そのままの状態で同時に)死ぬことが出来る方法だと言われたものです。

それが彼らの話でした。
それは人形遣い(パペットマスター)によって語られた物語でした。
そして人形遣いはそれを実行する人ではなかったのです。

これが何故、これらの真の教えが宗教の中に存在しているのかという理由です。
それにもかかわらず、彼らはかろうじてシャリアット(イスラム法、外から見える儀式)と、タレカット(宗教の研究)までしか到達しません。
しかしながら、それはそこからハケカット、真のリアリティーにまでさらに深く広がるのです。

6月24日1985 - Bapak
第三のナフスの種類はナフス・スピアnafsu supiahです。
それは欲望のナフスです。
つまり、あなたはこれを達成したいのです。
あるいはあなたはそれを達成したいのです。
あなたはこれとそれを行うことに非常に野心的です。

あなたは達成したいと思っている目標や目的をいつも持っています。
・・・
それを超えるとそこには動物の生命力があり、それはナフス スピア nafsu supiahを生じるものです。

動物は私たちの周りにいるものがすべてであるとは想像しないでください。
我々はまた肉を食べているという事実を除外したとしても、実際に、私たちの周りの空気の中にも動物の生活があり、これは、医療科学によって確認されていることをバパは知っていますが、私たちの周りのどこにでも、私たちの内部にさえも動物が存在します。
(注:善玉菌などの各種体内微生物のこと)

そしてよく知られている様に、私たちは肉を食べていない場合には、私たちは、仕事に対する熱意を欠いてしまいます。
したがって、やはり動物性食品はこの世界で私たちの生活のためには重要であることは明らかな事なのです。

6月25日1985 - Bapak
ナフス スピアnafsu supiahは肉、つまり動物の肉を食べるという人間の必要性に基づいています。

12月16日1999 - Ibu
黄色のものはナフス スピアNafsu Supiahです。

7月12日2001 - Ibu
黄色いものは物事を知りたがります。
(注:通常は知識欲と言います。)

2月28日2002 - Ibu
黄色のものはスピアsupiahと呼ばれ、それは「物事を知りたがる」という情熱です。

3月3日2002 - Ibu
情熱スピアsupiahは黄色、黄色のものは、あなたが望むものを達成しようとする欲求を与えます。

3月10日 2002 - Ibu
黄色のもの、スピアsupiahは本質的に好奇心であり、人々に「知りたい」という願望を与え、彼または彼女が経験したことを理解します。

11月25日 2002 - Ibu
スピアsupiahと呼ばれる第三の性質は「知りたい」ということです。
あらゆる種類のことを知りたいのです。
「知りたい」と言う意味は「発展させたい」ということです。
自分自身を発展させたい、そうして世界について知りたい - 知りたいのです。

2月25日2005 - Ibu
そして人に物事を知る欲求を与える力、スピアsupiahがあります。
人間の努力を引き起こすのは、この欲求や好奇心です。
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上記バパのトークの部分についての英文からの引用は以下を参照願います。
・Chapter 4 Animal force and nafsu supiah<--Link
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PS
ご参考までに。
Sedulur Papat Limo Pancer(4人兄弟、第5は中心)より引用<--リンク
『スフィヤSufiyahの欲望は、賞賛される、豊かになるために、度とランクを取得するために、ロバ、欲望など世俗的な欲望に関連しています
この渇望は身体形成要素となる空気の性質に対応しています。
空気の性質は、空間が空いている所は常に空間を埋めるということです(からの空間)。』

PS
こうして上記の様に二代目は決して「動物力がナフス スピアnafsu supiahを生み出す。」というバパの説明には言及しません。

動物力とナフス スピアnafsu supiahの関係には言及する事はないのです。

なぜでありましょうか?

ここで、動物力とナフス スピアnafsu supiahの関係に言及すると、「それでは物質力に対応するナフスは何?」と言う事になります。

同様にして「植物力に対応するナフスは何?」ということになるのです。

そうしてその事は二代目にとっては決して触れてはならないタブーの様であります。<--リンク

この事は見方を変えますと、2代目のトークはバパのトークの一部分しかカバーしていない、二代目による編集物である、と言う事になります。

そうでありますから、我々はやはり原典にもどって、バパの主張を確認してゆく事が大事な事になりそうです。

PS
ロホとナフスの対応、あるいは4つの生命力と4つの欲望の対応というのはバパの主張の眼目、キーポイントであります。

そうして、その主張を無視する、横にどかして言及せずにバパの主張を説明して理解してもらう事は不可能でしょう。

ロホとナフスの対応の一部にある時期混乱が見られたので、そこに注目するのは会員に対して悪い影響が及ぶ、というような、こうするのが会員の為である、というような判断の上で今の様な対応がなされているとは思います。

ようするに「良かれ」と思ってされている事とは思いますが、その事によるディメリットの方がはるかに大きい様であります。

バパの主張を説明する、説明して理解してもらう、ということに限ればほぼ致命的なミスといっても過言ではありません。

そうであれば現状は本当に残念な状況なのであります。


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PS
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ジワJiwaとスクマSukmaの物語(その2・インド哲学、ヒンドゥー教各派での扱い)/

2018-01-01 | 日記
以下「ジワJiwaとスクマSukmaの物語(その1・バパと二代目の認識)」から再掲示します。<--リンク

『スクマSukma、ファイン・ボディー(微細体)
インドの哲学と宗教における本質的な教義である三体論は、特にヨガ 、 アドヴァイタヴェーダーンタとタントラで重要です。
そうしてヒンドゥー教の教義の中にある三体論の Sarira Trayaによると、人は
1、Karana sariraカラナ サリラ - 因果体 causal body
2、Suksma sarira スクスマ サリラ - 微妙な体 subtle body(サンスクリット語:sūkṣma śarīra)
3、Sthula sariraストゥーラ サリラ - 肉体 physical body
の3つの体を持つとされています。<--リンク

これがまさに二代目がトークで示している以下の文章に見事に対応しています。
「私たちの中には3つの要素があります:
魂Jiwa(Soul)があり、
スクマSukma、ファイン・ボディー(微細体)があり、
そうして物理的な肉体があります。」

こうしてインドネシア語にSukmaとして吸収されたコトバの語源がSuksma(サンスクリット語:sūkṣma )であるという事が分かります。』


次に5つのコシャkosha(鞘:サヤ)について話したいのですが、一番簡潔にまとまっているヨガでの説明を引用します。
ヨガ101:コシャスkoshas<--リンク
『ヨガでは、私たちの存在の層をkosha(鞘:サヤ)と呼んでいます。

私たちの個性を構成する5つの徐々に微妙なボディは、 Taittiriya Upanishadと呼ばれるヨガのクラシックに記述されています。

・身体:皮膚、筋肉、靭帯、関節、骨、重要な器官(Annamayakoshaアナマヤ コシャ)
人間は、食べ物から作られた肉体で構成されています。
この身体を気遣う人は、宇宙そのものに栄養を与えられます。

・エネルギー体:息切れ、熱、脈打つ、ストリーミング、うずき感(Pranamayakoshaプラナマヤ コシャ)
これは生命のエネルギーで作られた別の体です。
それは物理的な体を満たし、その形を取る。
この生命力を神として扱う人は、このエネルギーが身体的な生活の源であるため、優れた健康と長寿を経験します。

・パーソナリティボディ:思考と感情、感覚刺激と環境への直接的な反応(Manomayakoshaマノマヤ コシャ)
生命力の中には、もう一つの体があります。
これは思考のエネルギーでできています。
上記の2つの体を満たし、同じ形をしています。
精神的な身体を理解しコントロールする人はもはや恐怖に悩まされません。

・知恵の体:直感的な意識としても知られている非批判的な観察者(Vijnanamayakoshaビジュナナマヤ コシャ)
深いところはまだ知性で構成された別の体がある。
それは上記の3つの体に浸透し、同じ形をとる。
ここで彼らの意識を確立する人々は、不健全な思考や行動から自分自身を解放し、
目標を達成するために必要な自己制御を開発する。

・至福の身体:光、透明、内なる平和、無条件の愛(Anandamayakoshaアナンダマヤ コシャ)
それはまだ純粋な喜びで構成された微妙な体です。
それは他の全ての体に浸透し、同じ形を共有します。
それは幸福、喜び、そして至福として経験されています。』

そうして前述の3体論との対応は以下の様になります。

1、Karana sarira - 因果体 causal body<--至福の身体:(Anandamayakoshaアナンダマヤ コシャ)

2、Suksma sarira - 微妙な体 subtle body<--エネルギー体:(Pranamayakoshaプラナマヤ コシャ)+ パーソナリティボディ:(Manomayakoshaマノマヤ コシャ)+ 知恵の体:(Vijnanamayakoshaビジュナナマヤ コシャ)

3、Sthula sarira - 肉体 physical body<--身体:(Annamayakoshaアナマヤ コシャ)

以上の対応関係はインド哲学、ヒンドゥー教各派の中では一応の合意がありそうです。
そうして上記の2番と3番についてはバパと二代目もこまかな所に目をつむれば、まあそれなりに合意できる分類かと思われます。

:複数の層が重なり合った構造体として人のカラダを考えるのは、ヒンドゥー教でもバパの人体観でも同じです。
そうして、より微細なものがより粗いものに浸透し満たしていく、という考え方も同じです。
但しヒンドゥー教では無条件にこの浸透が起きているとしていますが、二代目の見方では「ジワJiwaが肉体の各部分に浸透する為にはラティハンの実習を重ねることが必要である」とされています。
そうして、そのようになってようやくジワJiwaを使いながらの日常生活が出来るようになる、ラティハンの一応の達成点に到達した事になるのでありました。)

それで問題は1番のカラナ サリラKarana sarira - 因果体 causal bodyの内容ということになります。
それが魂(Jiwa:Soul)なのかどうか、ということになります。
しかしながらそれは逆に魂(Jiwa:Soul)というコトバで我々が、あるいはバパ、そうして二代目が何を表そうとしたのか、示そうとしたのかにかかわる問題になります。

アートマンAtmanを不変で普遍な自己(Self)とするならば、そこには個別性、パーソナリティーは認められませんから、基本的にアートマンはKarana sariraを超えている、というのが一般的な認識の様です。
そうなりますと我々がジワJiwaを「個別性と普遍性を併せ持つ自己(Self)」として認めるならば、(この立場はバパの立場に近いように個人的には考えていますが)それはカラナ サリラKarana sariraと重なる部分があるととらえる事ができます。

以上の準備をしたところで、以下インドネシアにイスラムが展開される前におよそ一千年の間に渡って、その場所で受け入れられていたヒンドゥー教の世界観を概観していきます。
とは言いながら、この記事では主にジワJiwa(Jiva)とスクマSukma(Suksma)に関連している内容に限定しているものの、ヒンドゥー教でそれらについて言われている事の全てに言及できている訳ではない事には前もってお断りする必要がありそうです。


カラン シャリルKāran sharirあるいはKarana sariraカラナ サリラ - 因果体<--リンク

『ヒンドゥー教は私達の魂の周りのカラン シャリルKāran sharirを記述しました。
それは、魂のカラン シャリルは、ヒンドゥー教を除いて、他のどの宗教によっても以前に記述されていないようです。
カラン シャリルは因果体なのですが、因果体から解放されず、分かれていないような魂の次の誕生において、(その魂が宿る事になる)肉体と微妙な体を作り上げる唯一の原因(それゆえに因果体と呼ぶ)となっています。

因果体は、以前の出生の間(生きた期間)に取得された情報または知識を運ぶ。
世俗的な目的や快楽のための興奮と強烈な、あるいは深い欲求は、それに含まれます。
魂はこの因果体またはカラン シャリルにしっかりと取り付けられています。

カラン シャリルKāran sharirはマヤMāyā(幻想)を基本的に構成しているので、マヤMāyā(幻想)のすべての特徴を持っています。
それは、anādi(始めと終わりなし)、avidy(本質的に無知)、anirvāchya(記述不可能または不可解)のような属性を持つと記述されています。

死に至ると、ストゥーラsthulとスクスマsukshmaのボディーは「ほこりのほこり」や自然の物理的要素の一部になります。(地球に帰ります。)
しかし、魂が完全に切り離されたり解放されたりしなければ、死後の因果体あるいはカラン シャリルは、解放されていない魂(māyānvit マヤンビットはmayaマヤで覆われたという意味)に移動します。
魂がMāyāマヤでできた因果体から完全に切り離されると、それはBrahmdhāmと呼ばれる神の住居に行きます。


アートマンAtman、それはヒンズー教の永遠の魂soulまたは自己Self<--リンク

『ヒンドゥー教徒は、魂の存在を信じます。
魂は、永遠で、目に見えず、不滅で、不変であり、心と感覚を超えて存在します。
ヒンドゥー教徒はそれをアートマまたはアートマンと呼んでいます。
それは、内部に深くあるものの呼吸であり、起こる事すべての証人です。

これは、呼吸を意味する "an"というルート単語から派生したものです。
Atmanは呼吸するものです。
Atmanはajobhagaであり、存在の生まれていない部分(Rigveda)であり、身体や心とは異なり、身体や心とは混同しないで下さい。

ヒンドゥー教によれば、人は自己の真の性質を認識している範囲で、進化しているか自己認識している。
無知な人と自己実現した人を区別するのはこの意識です。

ヒンドゥー教の魂は、アブラハムの宗教の魂と同じではありません。
前者は、性格や特性がないため、互いに区別できません。
したがって、彼は一般的に魂soulというよりもむしろ自己Selfと呼ばれています。

魂や自己に関する適切な知識を持つことが重要です。
・・・・・
それらはVaishvanara、覚醒状態、Taijasa、夢の状態、Prajna、深い睡眠状態、そして最後にTuriya、超越状態へと続きます。
最後のものは、自己専念の状態で、心と感覚が眠っている時、そうして知識と知性の二重性がない時に生じます。
その状態で、人は本物の自己real selfを経験する。
:夢のない眠り、そうしてそれを超えた所にある超越状態、そこまで降りていかないと本物の自己real self.は体験できない、という主張です。
さて、通常は人は夢見の状態までしか意識を保っている事はできません。
夢見は少なくとも夢を見ている意識がそこにはあります。
しかし、夢が消えたら通常はそこには意識がありません。
我々の意識はいつも「~に対する意識」でしかないからであります。
ところで、夢のない眠りでも、脳波は発生しています。
つまりそこには「何か」が存在はしているのですが、動いているものはあるのですが我々はそれを知りません。
そのような我々がそこを超えてさらにその下にある超越状態に至る、ということは、これは至難のわざなのであります。)

個々の魂individual soul と普遍的な魂universal soulは同じ現実の2つの側面です。
個々の魂がネイチャー(自然)に出会い、マヤMāyā(幻想)の網に入り込むと、彼女はそのマテリアルを周囲に織り込み、それらを体系に結びつけます。
魂のために、身体が畑になる。
身体はグナ gunaの影響を受けているので、欲望の激しい行動に巻き込まれ、カルマkarmaと誕生と死のサイクルに縛られます。
具現化された魂はまた、自然の現実または修正(tattvas)である自我(ahamkara)の影響を受ける。
自我は、分離感と個性(anava)を作り出します。

人類は非常に貴重です。
なぜなら、人間だけが、解放を達成し、ブラフマンの世界に到達するために、創造全体において特権と機会を持っているからです。
神々でさえ、そのような特権を享受することはできません。
神々が解放を望むなら、人間として生まれなければならない。
これは、ヒンドゥー教に従う魂の概念です。』
;ヒンドゥー教で解放とはモークシャに到達すること。カルマを終わらせ、輪廻の輪から離れることを意味します。)


体の中の魂の存在<--リンク

『それぞれの魂は、自然の構成要素(タッタバスtattvas)で構成されたフィールド(身体)の内側に包まれています。
そして身体は、サトヴァsattva、ラジャスrajas、タマスtamasのようなグナgunasの影響がしみ込んでいます。
これらの3つの特性は、私たちの思考と行動にとっての責任になります。

体内では、魂は証人意識のままです。
それは何も変わることはありませんが、それは心と体の不純物によって包まれています。

魂の質の反射は自我egoです。
それは、魂のアイデンティティ(個別性)を仮定し、その主な欲求に応じて行動します。
これは、体に存在する支配的なグナgunaによって引き起こされます。

それらの影響力の下で、自我egoあるいは存在(ジバjiva)は世界の対象物に結び付けられ、誘惑と嫌悪を経験する。
自我egoは現実ではなく自己 self を反映しており、欲望と愛着に従って行動するため、欲望の激しい行動に耽り、その行動の影響を受けます。

これはカルマkarmaです。
存在がカルマkarmaを連続的に蓄積するにつれて、彼らは出生のサイクルに縛られ、限りある生存という生命形体を繰り返します。』


ヒンドゥー教と転生の信念<--リンク

『ヒンドゥー教によれば、魂は完璧になり、それと再会するまで、地球上で何度も生まれ変わります。
この過程で、魂は多くの体に入り、多くの形態をとり、多くの出生と死を経る。
この概念はBhagavad gitaの以下の詩で簡単に説明されています:
「人が疲れた服を捨てて新しい服を着るのと同じように、魂は疲れた身体を捨て、新しいものを身に着ける。 (2.22)」
ヒンドゥー教によると、存在は多くの人生を過ごし、完璧に到達する前に多くの経験を経て、神と一つになる必要があります。

ヒンドゥー教の創造論は、個々の魂が未分化のものから分離されると創造が始まることを示唆している。
それは、物質の生命と意識の進化が段階的に進行するにつれて続きます。
このプロセスの間にいくつかの魂は、彼らには隠されたまま、そして縛られたままなっている問題、あるいはプラクリティPrakritiを変容させる事を通じて、その源である神に帰ることができます。<--リンク
(注:これがヒンドゥー教徒の望んでいる姿
残りの魂は、その存在を継続し、最終的には彼(源である神)に帰ります。
しかしそれは変容によってではなく、各時間サイクルの終わりに起こる大きな破壊を通してなされます。
(注:これは望ましくない姿
したがって、創造の大きなサイクルは、何百万年もの間にわたって伸びており、論理的な終わりに達しています。
(注:この様に考えるのがヒンドゥー教の宇宙観:世界観になります。)

創造的なプロセスが始まると、個々の魂が引き出され、ジバjiva(生き物)と呼ばれる偽の性格に結びつく。
このジバjivaは、人間だけでなくすべての生きものを表しています。
具体的には、具体化された自己embodied selfまたは要素的自己elemental selfとしても知られています。
それは内側の微妙な体と外側の肉体を持っています。

魂soulは微妙な体の中に閉じ込められています。
微妙な体(linga sariraリンガ サリラ:スクスマ サリラの別の呼び名)は、微妙な感覚、微妙な心、息、自我と知性で構成されています。

肉体(総体:全体 gross body)は全体的な心gross mind(動物の心)、基本的な身体とその器官から構成されています。

それぞれのジバjiva(存在)は、知覚、知識、思い出、欲望、愛着、そして多様性と分離という概念から生まれる自我感覚(anava)または自己意識self-senseを持っています。
自我感覚のために、ジバjivaは真のアイデンティティについて無知なままで、暑さや寒さ、痛みや快感などの対立するものに対して、妄想(moha)、二重性(dvanda)、引力(raga)、嫌悪(dvesa)を経験する。

付着物(パッサpasa)と妄想の結果、ジバjivaはあたかも「自分以外の創造物と自分は違うものである」という様に自己利益的に行動します。
そうしてエゴイズム、欲求不満な行動、利己主義のために、彼らは驚異的な世界で絶望的につかまれ、苦しみにたどり着きます。

技術的には、身体は刑務所であり、物理的な自己physical selfの罪のために囚人として魂がそこに保持されています。
死の時、肉体とその心は地球の要素に戻ります。
しかし微妙な体の一部は生き残り、魂を次世代に引き継ぐ。

彼らの過去の行為の性質と、彼らが成長させた微妙な身体の程度に応じて、ジバjivaは祖先の天国(pitr lok)に上昇するか、地獄に降下する。

内在する精神を中心に隠しながら、微妙な存在は、その良い、あるいは悪い行為の成果が完全に尽きるまで、これらの世界にとどまります。
(カルマが尽きるまでその世界にいる。)
カルマが尽き、新しいレッスンを学んだ後、それは再び生まれ変わり、その過程を繰り返すために地球に戻ります。

こうして、ジバJiva(生きているもの)は寿命のある生き物という世界で無数の出生と死を経る。
彼らは欲望と愛着のために死の定めのある世界と自然の法則に縛られたままです。
死は地上の苦しみから一時的な救済を与えますが、悲しみと苦しみの深い深層に落ちる危険にさらします。
そしてそれぞれの(次の)出生は新しい挑戦をもたらし、彼らを善と悪の両方の無限の可能性と機会に開放します。
これは、解放を達成し、ブラフマンの不滅の世界に入り、彼らが最高自己Supreme Selfとの統一の状態で永遠に解放されたままになるまで続きます。
(注:これがヒンドゥー教で言うところの解脱)

仏教を創設したブッダbuddhaは、神の存在について沈黙していて、永遠の魂が存在しないことを提案した。
それにもかかわらず、仏教を設立したブッダbuddhaでさえ、生まれ変わりを否定していませんでした。

彼は、永遠の不滅の魂のようなものはなかったと説いた。
誕生から次の誕生で生まれ変わったのは微妙な体だけであり、一時的な構造物の形で存在する痕跡、または常に変化する個々の人格または性格の残余、そういうものがある出生から別の出生に移ったのであり、八正道による正しい生活と、法Dharmaの実践によって、それらのすべての変化の終わりが来ます。
・・・・・
聖句は、原子の大きさを持つそれぞれの魂が、受胎時に母親の子宮の中の新しい体に入って、その転生を開始する方法を説明します。
提案された復帰旅行は、月に位置する先祖の天からの雨滴とともに、個々の魂が地球に落ちることから始まります。
:亡くなった人の魂はお月様の食べ物、、、という話、聞かれた事はありませんか?
どうやら元ネタはインドの紀元前の話の様ですね。)
彼らが雨とともに地上に落ちると、それぞれの魂は雨水に含まれる形で大地に沈着します。
そこで彼らは(根から)吸収される水を通して植物や樹木に入り、樹液の一部になります。

これらの植物や樹木が人間や動物によって消費されると(食べられると)、それらの魂はそれぞれの自分の体に入る。
動物の体に入る魂は動物としての誕生を取るか、人間によって奪われて(食べられて)自分のカルマに従って、人間としての誕生をとるまで待つかのどちらかです。

前述の過程を通じて魂が男性の体に入ると、その人が父親になることが運命づけられていれば、それは彼の精液(リタスretas)の一部となる。
魂は彼女が母親になることが運命なら、そこから性交渉を通じて女性の体に入り、その転生を待つ受精卵を抱く子宮に落ち着く。
(:上記の様な説明では、当該の性交渉によって受精卵が誕生し、その受精卵が子宮に確実に着床する事が前もってわかっていないと、男性の精液の一部として魂が女性に受け渡される、という事は出来ないという事になります。
つまりこの部分は「当該の性交渉の時点で魂は精液と一緒に女性に入るのだが、その後に起こる受精から着床のプロセスの成否はすでに性交渉の時点で決定されている」という「強い運命論」になっていると解釈されます。
そして、そのような運命論というのは、基本的には「各自の主体性を認める、各自の努力を認めるカルマ論」とは相いれないものであります。)<--リンク

ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シークヒンドゥーに共通する生まれ変わりという概念は、アブラハムの宗教を習う人にとっては馴染みのないものです。
生まれ変わりは西側世界ではほとんどが誤解され、あやまって判断されています。
それは部分的には無知のために、あるいは一部は迷った道に沿った宗教的信仰を盲目的に追求する人達、あるいは独断的な宗教に従う人達はある種の固有の精神的ブロックを持つのですが、そしてそれは自然な事ではありますが、それが誤解の原因になっています。

それは、過去に多くの論争をもたらしました。
なぜなら、それは一回のみの誕生、1つの神、1つの天国、そして審判の日という西洋の概念に直接挑戦するからです。
・・・・・
ヒンドゥー教は、人類がただ一度の人生でその不完全さを克服し、解放された魂として創造者のもとに戻れるという前提を受け入れていません。
それは魂が無数の出生および死亡を経験した後という、格別な状況でのみ起こる可能性があります。

創造は神によって、自身の喜びのためにのみ制定された神の劇です。
彼は彼がプロデュースする世界で楽しくさせるものであるだけでなく、それ自体を楽しんでいるものです。
(注:行為者であり、その結果を受け取る者でもある。)
彼は拘束力のある人、拘束されている人、苦しんでいる人、自分自身が苦しんでいるのを見ている人、同時にそのような流転と騒ぎの影響を受けない人です。

したがって、人生はその時間の終わりまで、定められた道に沿って続けなければなりません。
この期間中に各人(Jiva)は、道を見つけて不滅の世界に入るというメリットを得るまで、試行錯誤しながら奮闘し、努力しなければなりません。
各人は完璧に達する前に、無数の出生と死のサイクルを通して徐々に進化しなければなりません。

不活性で控えめなものから遅いものまで、
身体の意識、そしてそこからダイナミックで微妙な意識に至るまで、
完全な無知から部分的な意識に至るまで、そしてそこからインテリジェントな自己認識に至るまで、
付属物から感覚を持つものへ、世界的な喜びから分離へ、そしてそこから完全な自由へ、
妄想から分別まで、そしてそこから真実と現実まで、
暗闇から夜明けまで、そしてそこから光まで、
限りある存在から不死まで、これは創造における「生命は前に進む」という動きです。

これらのすべては、一回の人生で、または数百年程度の生まれ変わりでは起こることはありません。
その魂は、その不純物を落とす為に知識と禁欲行為の火の中で焼かれなければならず、そうすればそれは完全な光輝をもって再び輝きます。
(注:これがヒンドゥー教のある宗派の解脱に到達するための手段、方法になります。)』
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・一応のまとめ
バパはジャワの人でありました。
そうして、やはりジャワの文化の中にはイスラムが到達する前に栄えていたヒンドゥー教(や仏教)の影響が色濃くその根底に存在している様です。

そうでありますから、バパはジワ(Jiwa)とスクマ(Sukma)の事を語り、5人兄弟の事、生まれ変わり(リンカネーション)やカルマ(Karma)の事、クリシュナやビマ(Bima)やワヤン(Wayang)の事を当然の事のようにジャワ人として語るのでありました。<--リンク

それに加えてジャワ・イスラムというジャワで独自の発展をした『ワリ(Wali)達のイスラム』にも帰属しています。<--リンク
そうであればまたイスラムの用語でも語るのです。
いわく、ロホ(Roh)やナフス(Nafsu)そうして唯一神(アッラー)と信仰告白、アダムとムハンマドとジン、審判と天国と地獄であります。

そういうものが混然一体となっているのがバパのトークでありますから、それを解釈する、理解する、納得するということは、それほどたやすい事ではないのです。

追記1
ヒンドゥー教的、仏教的なものもジャワの文化に同化されている為に、特に何の断りもなくジワ(Jiwa)とスクマ(Sukma)というコトバが普通にトークで使われています。
それらのコトバはジャワの文化圏に暮らしている人たちにとっては改めて説明する必要がないのです。

しかしながら、異なった文化圏の人たちには、それゆえにそれらのコトバを理解することが難しくなります。

他方でバパはよく「イスラムでは・・・」というコメント付きでイスラムで使われているコトバを引用します。
その場合は少なくとも我々はコメントがない場合の様に混乱することはありません。

追記2
バパはヒンドゥー教的、仏教的な事柄をまとめて「仏教では・・・」と言われます。
そうして、「ヒンドゥー教では・・・」というコメントは見た事がありません。
つまりバパの中ではヒンドゥー教も仏教もそんなに違いはなく、「仏教」というカテゴリーに分類されている様です。

ですからバパのあるトークについて「それは仏教ではなくヒンドゥー教の事では?」と疑問を投げかけられる事になり、それに対して二代目が「バパはイスラム教徒でした。(だから仏教の事は専門外です)」と答える事になったものと思われます。

PS
上記本文中にある様に仏教では基本的にジワ(Jiwa,Jiva)というような「実体としての魂の存在」を前提としていません。

しかしながら、輪廻転生は認めているのです。

そうでありますので、「ジワでないとしたら、いったい何が転生するのかね?」という質問に対して仏教は難解な答えをする事になりました。


ジワJiwaとスクマSukmaの物語(その1・バパと二代目の認識)」にはこちらから入れます。<--リンク

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「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク

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