ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

群盲象をなでる(群盲撫象)

2016-04-29 | 日記
盲人が象を語る、群盲象をなでる(群盲撫象)は、数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話。

世界に広く広まっている。

真実の多様性や誤謬に対する教訓となっているものが多い。

群盲象を評す - Wikipedia<--リンク


ジャイナ教

ジャイナ教の伝承では、6人の盲人が、ゾウに触れることで、それが何だと思うか問われる形になっている。

足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。

尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。

鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。

耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。

腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。

牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。

それを聞いた王は答えた。

「あなた方は皆、正しい。

あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。

ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」と。


イスラム教

13世紀、ペルシア人の詩人でスーフィズム教師のジャラール・ウッディーン・ルーミーは、その著書『精神的マスナヴィー(英語版)』の中でこの話を詩にしている。

この詩は、あるヒンドゥー教徒が暗闇にゾウを連れてきたことで始まっている。

数人の男が暗闇の中でゾウに触れて感想を述べ、鼻を水道管、耳を扇、足を柱、背を玉座のようだと感想を述べた。

ルーミーはこの詩を「視野の狭い者は、手の感触で物を知ろうとしているに等しい。

手の感触では物事の全体は分からない。

各々がロウソクを持っていれば、認識の違いは無くなるのに」と結んでいる。


この話の難しいところは、我々は皆「自分は目が見えている」と決めつけているところにある。

特にラティハンはその広がりが広大であり、そうしてラティハンを引き起こしているものについての知覚、認識ときたらまさに「群盲象をなでる(群盲撫象)」状態であるほかはない。

しかるに、我々は自分自身の限られた知覚や体験から「ラティハンとはこういうもの」、「ラティハンを引き起こしているものはこういうもの」と言い争っているにすぎないのである。


さて、バパは我々とは違って、よほどその全体像が分かっていたのでしょう。

しかしそれを我々に伝える方法はコトバによる以外にはなかった。

さてそうなると、全体像が分からない我々にとっては「バパのコトバによる説明」がとても大事なものに見えてしまう。

そうして、自分自身のラティハンに頼るのではなく、「バパのコトバ」に頼っていく。

しかしながら、象は生きてそこにあり、我々はさわることが可能です。

そうして「バパのことば」は紙の上に印刷された記号であり、そこには生命はありません。


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2016-04-16 | 日記
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