ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

雑記帳16・正しさを追い求めること/

2019-03-30 | 日記
バパに言わせれば「宗教は正しいものである」となります。

しかし、「人間が、その宗教の信者が間違えるのである」と言います。

この相互に関連している間違いには二つあります。

一つは信仰がファンタジーになっている、というものです。

もうひとつは、それに加えて狂信的になっている人がいる、というものです。


宗教は正しいのですが、その正しさを人の心で、感情心と思考心で追い求めすぎるところから間違いが出てくる様です。

つまりは「正しさを要求しすぎる」、「正しさを欲望しすぎる」のであります。

それゆえにそれが人として許されている限界を超えてしまい、そうなってはそれはもはや「正しいもの」ではなく「正しくないもの」になってしまいます。


ラティハンはそのあたりのバランスを正常に戻してくれます。

欲望は不必要なものではなく、「正しさ」も不必要なものではありません。

しかしながら何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」なのでありますよ。


PS
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雑記帳45・Budhiについて//

2019-03-19 | 日記
September 12, 1977 - Bapak トークからの引用

『兄弟姉妹の皆さん、全能の神は、人間の生命の中で、あるいは人間の自己の中で、思考心と感情心があるべきであることを宣言しました。
そしてこれらの他にもBudhiまたは内なる力があるようにしました。

Budhiと思考心または知性との関係は何ですか?

Budhiというコトバは力やエネルギーを意味します。それは強さです。

感情心と思考心、あるいは知性は考える事と感じる事です。

人類の中には、自分自身の内なる自己の感動/動きを知りたい、受けたいという人がたくさんいます - それはBudhiなのですが- 思考からも感情からも解放されています。

しかし、人々は低次の諸力の影響を受けているので、好きであろうとなかろうと、Budhiとその動きから離れ、思考と感情/感覚の領域に入ることを強いられます。

そして、思考と感情は、生命と人生の問題を研究する上での主な原動力となっています。
つまり、これらは一つの全能の神に対する彼らの礼拝の中心となっています。

このようにして、人々は思考と感情の領域にとどまるとき彼らの表情は平坦であり続けます。

ですから人々はすべて、ラティハンの時のようにジワの動きや生命からではなく、Budhiからではなく、思考心から考えています。

兄弟姉妹のみなさん、現在に至るまで人類の習慣は、彼らの感情や彼らの考えと関係を持ち、それらの考えによって影響を受けています。
従って彼らの神への礼拝と彼らがジワで証拠と確証を得る方法は彼らの思考と感情によって非常に影響される事になります。注1

そしてこれらの感情や思考は常に低次の諸力とつながっていますが、それらの性質は真の人間のありようからはかけ離れてしまっています。


聖地と呼ばれるものをとても好むのは、人間の習慣のようです。

彼が過去の機会にイギリスに来たとき、バパ自身はしばしば歴史的に興味のある場所にベネット氏によって連れて行かれました。 「聖地」へ。

実際、これらの聖地を探すのは霊的専門家の習慣です。
彼らが物質力によって彼らの実践において影響を受けるように、一方、これらの物質力は悪魔的と呼ばれる力です。

それは過去に起こったことのようなものです。

それは現時点でまだ起こっています、そしてこの習慣はまだインドネシアに存在します。

多くの人々は、彼らがilmu(霊的知恵)を求め、霊的慣行に従事していると言いますが、実際には彼らは禁欲主義を実践しているので、バパが今言及した「聖地」の場合のように悪魔的と呼ばれるものである物質的な球(訳注:あるいは物質的な領域)に巻き込まれるようになります。
・・・・・』
注1
つまり、過去からの習慣、あるいは伝統にしたがった形で、それはバパから見ると「誤ったやり方」となるのですが、「神への礼拝と彼らがジワで証拠と確証を得る方法」を実行している、という注意喚起、あるいはクレームになります。

その一例としてここでは「聖地巡礼」のような方法、そのような礼拝の仕方について語っているのであります。

さてそれではBudhiというのはいったい何であるのか?
それはまた後日言及する事にいたしましょう。

参考記事はこちら、あるいはこちらになります。
・スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力-2<--リンク
・スシラ ブディ ダルマ・はじめに<--リンク

PS
さてそれではバパにこう問わねばなりません。

「イスラムで決められているメッカへの巡礼はどうなるのか」と。

あれこそまさに「聖地巡礼の最たるものではないのか?」と。

さて、そう言う訳でバパは決してメッカに出かける事はありませんでした。

中東の上空は何度も飛行機で通過しましたが、その地に着陸する、ということはなかったのであります。

そうして「バパのイスラム」というのはそのようなイスラムでもありました。

PS
以下、上記相当部分の英語版です。

Brothers and sisters, the One Almighty God has decreed that in human life, or in the human self, there should be the mind and the heart, and besides these there is also the budhi or inner force.

What is the relationship between the budhi and the mind or intelligence?

Budhi, the word budhi, means force or energy; it is strength.

The heart and mind or intelligence is thinking and feeling.

In the human race there are many who would like to know and to receive the stirring of their own inner-selves - that is, the budhi - free from thought and from feeling.

But because people are influenced by the lower forces, they are forced, whether they like it or not, to go away from the budhi and its actions and to enter into the realms of thinking and feeling.

And thinking and feeling have become the prime movers in studying questions of life and living; that is, these have become the mainstay of their worship of the One Almighty God.

In this way people continue to fall flat on their faces when they remain in the realms of thought and feeling.

So human beings consider everything from the mind, not from the budhi, not, as happens in the latihan kejiwaan, from the actions and the life of the jiwa.

Brothers and sisters, up to the present time the customs of mankind are still involved with and affected by their feelings and their minds, their thoughts, so that their worship of God and the way that they obtain proof and evidence in their jiwas are very much influenced by their thinking and feeling.

Whereas these feelings and thoughts are always connected with the lower forces, whose nature is far removed from the reality of the true human being.


It seems to be a habit of human beings to be very fond of what are called holy places.

Bapak himself, when he came to England on past occasions, was often taken by Mr. Bennett to places of historical interest; to 'holy places'.

For it is indeed the custom of spiritual experts to seek out these holy places, so that they are influenced in their practices by the material forces, while these material forces are the forces which are called satanic.

It is like what used to happen in times past.

It is still happening at the present time, and this custom still exists in Indonesia.

Many people say that they are seeking for ilmu ( spiritual wisdom ) and engaging in spiritual practices, but in reality they are practicing asceticism, so that, as in the case of the 'holy places' to which Bapak has just referred, these people eventually become involved in the material sphere which is what is called satanic.

PS
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雑記帳15・バパの平和論、あるいは人類救済計画/

2019-03-05 | 日記
1、ラティハンが人類の三分の一に広まれば、戦争はなくなるだろう。

2、ロハ二レベルが7万人登場すれば、人類の意識は変化し、人が作り出すであろう災害はなくなる。

3、ラフマニレベルが200人登場すれば、同上。
(2,3、については「Subudについて」の108~109ページを参照願います。)<--リンク

これがバパの人類救済計画でした。

そうなる為にも一刻も早く多くの人にラティハンを広めたかったのであります。

そうしてこれらは1から3という順序で達成されるものです。

つまりは、会員数が増えないとジャスマニ男とジャスマニ女の出会いによる結婚が起こらず、ロハ二レベルでの子供が生まれる可能性がなくなります。

そうして、ロハ二レベルの会員が増えないとそこからラフマニレベルへの進化が起こる可能性がありません。

そうであればまずは会員数をふやし、ラティハンによりジャスマニレベルまで引き上げ、そうして結婚させる。

そうやってロハ二レベルの子供を誕生させる、のがなによりの希望であったかと思われます。

その為の世界旅行でありエンタプライズであったことでしょう。

そうでなければあればあれほどにはスシラ ブディ ダルマの人間力の項目で夫婦間の行為については語らないと思われます。

そうして本来ならば人間力については語るべきことは他にもたくさんあったかと思われます。

さてそれで実情は、といいますと、会員数はそれほどふえずに、そうしてまたジャスマニレベル同士の結婚もそれほどおこらず、ロハ二レベルの子供の誕生はなかった模様です。


あるいは、そのように熱心にその行為について語られるのは、人類の堕落(人類全体のカルマ)を引き起こしてきたその原動力、原因とまでは言いませんが、それに強く関係しているものがその夫婦間の行為とその結果誕生することになる子供にある、というバパの認識があった様に思われます。

従って、そのような状況は正されねばならない、、、と。

他方で、バパはかなりそのような事が起こる事を急がれた印象があります。

なぜでしょうか?

アルカイダやISISの登場と関係があるのでしょうか?

バパが存命中はこれらのいわゆるイスラム原理主義によるテロと呼ばれる行為はまだありませんでした。

そうしてこれらのテロ行為はイスラムの評判を落とすのには十分でした。

このような事態は到底バパには受け入れられなかったものでしょう。

なにせイラン革命やホメイニ師の登場にすら批判的でありましたから。

現在のようなイスラムを語る者たちの武力闘争というものも、もし中東のイスラム圏にラティハンが広く受け入れられていたら状況はまた違ったものになっていたかもしれませんが、そのような事は起こらなかったのであります。

そして残念ながらラティハンの中東イスラム諸国への展開はその入口でつまずきました。

この件、詳細は「カイロからのニュース」をご参照ねがいます。

PS
↓関連記事です。
雑記帳14・宗教的寛容性<--リンク

PS
バパの人類救済計画、この大前提は17歳でオープンされた若者が15年から、遅くとも20年ぐらいでジャスマニレベルを卒業出来るほどに浄化される事が出来る、というものでした。

これは今の我々のラティハンのペースから考えると、「とてつもない早さ」ということになります。

68.2.15 バンドン 20年から30年後、神の力を全世界が知り衝撃を受けるだろう。

かつてはこのようなトークがありました。

その頃のラティハンはとても強かったのか、あるいはこれは単なるバパの予測ミスなのかは不明であります。

但し、バパと共に行うラティハンはとても強かったのは事実ではあります。

しかしながら、我々の進み具合はとてもゆっくりとしたものであって、到底先の予測には合致してはいませんでした。

その為に後日のトーク(1979年)で修正が入りました。  

20年から30年後→800年後に変化、30から40倍に年月が伸びる。

これでは当初、バパが考えたような「新しい人類の誕生による、人類の救済」というのは無理という事になります。

17歳でオープンした若者がその一生のうちにジャスマニレベルまで到達できるかどうかさえ、不確かな事になりますので。

それでは到底「新しい人類を生み出す事」など出来はしないのであります。

そうして残念ながら、状況はそのように推移したのでありました。

PS
ラティハンの登場によって今までなかった、覚性への道が開かれたことは明らかでありましょう。

しかしながら、その道は当初言われてたほどには「楽に歩ける道」ではなかった様です。

結局のところ、自分たちの心、ナフス、思考心と言うようなものが邪魔をします。

そうして、それらの事にどれほど自覚的になり、対応していけるのか、と言う事が問われる事になります。

確かに「一人静かに座って心を落ち着けて悟る」様な道ではありません。

世間の中にあって、世間と共に動いて、それでもなおかつ悟る、という道であります。

そうであればそれなりの覚悟と言うものがそこには必要になってきます。


まあ人類全体の事は人類にまかせましょう。

我々はこの自分一人の身をまずは面倒見ることからはじめる事ができればそれで十分であります。


PS
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