ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

57LON11.29(ロンドン)

1957-11-29 | 日記
カディム・・・4行・1ページ上段

死の経験・・・6行・1ページ下段~2ページ

死の意味・・・20号・2ページ中段

預言者・・・13行・3ページ中段

待つこと・・・4行・4ページ中段
    ・・・8行・4ページ下段~5ページ




2013・3.28



入口におかれた石ころ

1957-11-24 | 日記
バパは「ラティハンを受ける事は宗教ではない」といいます。

「ラティハンは地球上の希望する全ての人のもの」とも言います。

ラティハンとは「歩きやすく、まっすぐに続く広い道」だともね。


ラティハンを受けることに何の格差があってもいけません。

当然のことですよねえ。

受けることを希望する万人に開かれた道なのですから。


バパがラティハンを受けた以後の人類にとっては生得的な権利みたいな
ものです。

どこに住んでいようが、肌の色が何色だろうが、どんな生活習慣をもって
いようが、そんなことには関係ありませんよね。

ラティハンとは何であって、それを受けるとどうなって、そしてどこに続く
道なのか、理解して手を上げればオープンされる。

そうあってしかるべきものですよねえ。


でも実際はその道の入口に石ころが置かれています。

つまずく人もいれば、目にも入らない人もいます。

ある特定の宗教グループの人達にとっては目にも入りません。

そうでない宗教グループの人達、宗教をもっていない人達にとっては
まるで道をふさぐ「大きな岩」のようです。


特定の宗教グループに所属してしまうと、そのグループの常識は所属
メンバーには見えなくなります。

バパが「よかれ」と思って発言したことでも、2代目が「よかれ」と思って
善意で補強したことでもそうなります。


これは人間生活に課せられた限界の様にも見えますね。

特定の認識様式、行動様式をもっていなければ安定した社会生活が
できませんものね。

そして文化や伝統や宗教がそうした様式を作り上げています。

でもその様式の中での常識は違う様式の人には常識ではありません。


バパはそれぞれの国の法律や文化や風習には寛容でした。

「それぞれの所で常識に合わせなさい」とね。

でも残念なことに宗教にはあまり寛容ではなかったように見受けられます。


ラティハンには宗教という色が付いていないことは経験者には誰にでも
明らかな事です。

ですから、どのような宗教をもっていようが、無宗教だろうがラティハンを
受ける事ができるのですよね。


ラティハンを受けると、ずうっと受けていくと特定の宗教が好きになって
その宗教に改宗する、なんて事があると大変です。

それはなにやらおかしなことに思えますもの。

それではその宗教のお先棒かつぎがラティハンになってしまいます。


ラティハンは無色透明で宗教の色はついていない。

それが事実そのものですよね。

それならばラティハンという広くて歩きやすい道の入り口に無意識に、
よかれと思っておかれた石ころをどかしてほしいものですね。

人類の46%が「その石ころは邪魔だ」と言っていますよ。


                             2012・12・25

PS
インドネシアでは憲法の定める所、彼の地のどの宗教も「唯一神を信仰」
していること
になっています。<--リンク

そしてインドネシアではすべての人がいずれかの宗教に属していなくては
いけないのです。

従ってインドネシアの人にとってはこの入口の「大きな岩」は認識できないのですね。

まるで透明で目に入らないのです。

でも、「自分には邪魔ではないからどうでもいいや。」という態度ではねえ、
世間では通用しないというものです。

少なくとも「良い知らせを広く世間に伝えたい。」と思っている人の態度では
ありませんね。

追伸
59LON8.1(ロンドン)
アブラハムの宗教がお気に入りですね。

PS
結婚している女性は入会にあたっては夫の了解を得ること。

現状の入会ルールではそうなっています。

しかしながら、これはもはや時代に合わないものの様です。

バパが生きておられた1960年代のジャワでは「妻は夫に従うもの」というのがその社会の常識であったと思われます。

そのような中で、妻が自分の意志でオープンを受けてラティハンに従い、その結果として夫婦間のバランスが変化していまい、最悪離婚に至る、というような事が起こったとしたら、バパは社会から非難される事になります。

「バパの協会に妻が夫に無断で入会したので、夫婦が離婚した」という訳です。

バパはそのような非難を受ける事を望みませんでした。


さて、パートナーのいずれかがラティハンを始める事で、二人の間の関係に変化が起こりうる事は確かにありえます。

しかしながら、それは社会生活では一般的な事。

それぞれが社会の中で独自の体験をしていくのですから、「体験を共有する」という事がなければ、考え方や認識が合わなくなるのは致し方ありません。

そうであれば、結婚している方の場合はオープンにあたってはパートナーの了解を得ておく方が良いでしょう。

この事は男性、女性という性別を問いません。


しかしながら、それでも「道を求める」という事は究極は個々人のテーマでありますから、最終判断は個々人の責任でなされるべき出であり、協会はその結果を尊重すべきでしょう。

そうであれば「結婚している女性は夫の許可を得ること。」というルールは廃止するのが時代の流れ、現状では妥当な判断である様に思われます。(2018年10月)

追記
以下は、関連した記事になります。
ご参考までに。
・バパの”人間の種( human seed:biji manusia)と誕生論”<--リンク


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