ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

トークの解釈

2015-05-29 | 日記
バパがいろいろな国でいろいろな聴衆を前に語った「おはなし」を書き起こしたものが「トーク」です。

多分ジャワ語で語られたのでしょうから、それから各国語に翻訳されています。

さて、バパが亡くなってしまうともう新しいトークは出なくなります。

そうすると今度は「トークの解釈」あるいは「トークの要約」が始まります。

たとえば「~ハンドブック」とかいうものですね。


1700もあるというトークをすべて読み切れる人はなかなかいません。

そうしてその結果として「トークが何を言っているのか」をすべて理解できた人はさらに少ないでしょう。

時代によってトークの語り口も変化しますし、その結果「表現上矛盾した言い方」も現れていますしね。


そういう訳で「用途に応じた要約集」が必要になってくるのでありました。

そうして「要約」というのはこの場合はほとんど「解釈」と同じであります。


さて、このあたりの状況はコーランでも全く同じでした。

以下は井筒俊彦著 『イスラーム文化 ―その根底にあるもの― 』(岩波文庫)についての紫源二さんの論考です。<--リンク

2、イスラーム法の成立 (シャリーア )

イスラーム法が成立したのは、預言者ムハンマドの没後まもなく、西暦八世紀の初めから九世紀にかけてのことである。
・・・・・・

そして、以上のような背景から、神の代理人としてのムハンマドの没後、イスラーム法の成立の過程で、“神の意志の探求”という大事業が始まった。

「元来、人間の理性ではどうにもならない、その意味でまったく非合理な啓示を素材としながら、それを徹底的な理性の行使、合理的思惟によって解釈していく。

そしてそれを法的組織にまで体系化したもの、それがイスラーム法です。」(p157)と著者は語っている。

そして、この神の意志の探求は、コーランという唯一の神からの啓示の書の“解釈学的展開”としてなされたものである。
・・・・・・

3、「イジュディハードの門の閉鎖」

 上記のように、『コーラン』と「ハディース」という絶対的権威を合理的に解釈して法的判断を下すことを、法学の用語でイジュディハードという。

しかし、西暦九世紀の中頃、このイジュディハードが公に禁止される。

人間生活に関するあらゆる重要な問題はもう出尽くし、それに対する法的解決も完全についてしまったとして、それ以降は、すべて昔の権威者が解釈してくれたとおりに判断すべきであるとされた。


この「イジュディハードの門の閉鎖」によって、「イスラームが収集すべからざるアナーキーに陥ることだけは避けられました。

・・・しかしその代わり、活発な論理的思考の生命の根を切られてしまったイスラームは、文化的生命の枯渇という重大な危険に身をさらすことになるのであります。

事実、近世におけるイスラーム文化の凋落の大きな原因の一つでそれはあったのです。」(p163)と著者は分析している。
・・・・・・

このようにイスラーム法によって、外面的には共同体の社会構造ががっしりと制度化され、宗教が政治の場となったが、「信仰の実存的なみずみずしい生命力は失われて枯渇しそうになってきたことも、また否定できない事実であります。」(p165)と著者は語っている。

注)ムハンマドの言行録を「ハディース」といい、「『コーラン』を補足し、補充するもの」の様であります。


さて、解釈を固定した結果起こったことのキーポイントは2つ。

「イジュディハードの門の閉鎖」によって、「イスラームが収集すべからざるアナーキーに陥ること」はさけられた、、、と。

でも副作用があった。

「文化的生命の枯渇」と「信仰の実存的なみずみずしい生命力は失われて枯渇しそうになってきた」という重大な危険に直面することになった、、、と。


まあたいてい物事には作用と副作用がつきものでありますから仕方のないことではありますが。

それでも「他山の石」と古人も申しております。

気をつけなくてはなりますまい。


さて次はシャリーアとハキーカについて少々。

以下、同様に上記論考からの引用です。

Ⅲ.内面への道 (スーフィズム)

1、ハキーカ(haqiqah)

「外に現れた形の背後あるいは奥底にあって、それを裏から支えている内的リアリティー、それをハキーカと名づけるのであります。

すなわちハキーカとは、可視的なものの不可視の根柢、文字どおり存在の秘密です。

「秘密」ですから、勿論、ふつうの人の目には見えない。

つまり、ふつうの状態における意識では認知することができません。

意識のある特異な深層次元が開けて、一種独特の形而上的機能が発動したとき、はじめてそこに見えてくる存在のリアリティーなのであります。」(p181)


この内面的形而上的リアリティーの根柢である“ハキーカ”と外面的世俗的リアリティーを規定する“シャリーア”とを対比させ、この間の相克がイスラームを歴史的に何度も危機に陥らせた原因であると著者は分析している。
・・・・・・

さて次はバパのシャリアットとハクカットについての説明ですね。

 『3.神への道を発見しようとするこれらすべての企ては、四つの形式を備えた二つの道に分けることができます。

最初の二つの形式は「シャリアット(shariat)」及び「タリカット」と呼ばれるものです。

シャリアットには神への道を探求するという意味は少しもありません。

なぜならそこで要求されるのは単に信仰だけであるからです。

つまり過去において啓示を受けた人々の助言を信仰していれば、そのような信仰によって、彼は真直に神のもとに到り、神は信仰あつい人を見守って下さると考えられます。

第二の形式がタリカットです。

これは、信仰の内面的な意味を発見する道ということです。

例えば、或る場所がよいということがわかっている場合、シャリアットとしては、その場所を知り、ただそこへ行けば充分でしょうが、タリカットの場合はそうではありません。

夕リカットは何故そのよい場所へ行くのか行った結果はどうなるか、そしてその場所でどんなことが発見されるかを知ろうとするのです。  


4.これら二つの形式とは別に「ハクカット(hakekat,hakikat)」及び「マクリファット」と呼ばれる高次の二形式があります。

真の人間は、これら四つの形式全部の特性を兼備しているべきであるといわれていますが、通常の人間は、最初の二つの形式を備え、実践しているだけであります。

これはハクカットが人間の努力の結果として生れるものではなく、人間の努力がすべて止んだときのみ現われるものであるからです。

このハクカットは、人間が、白已の努力はすべて無益であると悟り、ハクカットは神の御意志によってのみ人間におとずれるという真実をしるようになるときにのみ存在するのです。
・・・・・・』

こうして「シャリーアとハキーカ」、あるいは「シャリアットとハクカット」については「バパの認識と井筒俊彦氏の認識はほとんど同じである事」が分かるのであります。


最後にワリ(Wali)について少々。

3、スーフィー(修行によってワリーになる)

シーア派では、イマームは、ハキーカ(可視的なものの不可視の根柢、存在の秘密)に通じているワリーであるが、生まれや血筋によって先天的定められている。
( 引用注:たぶんシーア派ではワリというコトバは使わないはずです。)

しかし、スーフィズムでは、修行によって誰でもワリーになれる。

そして、この修行とは、現世否定、具体的には禁欲生活、苦行道の実践という形をとって現れ、自我の意識を払拭することによって、自分の内に創造的に働くハキーカを見出し、神に会うことを目的とする。



さて次はgkmond氏による同書への書評からの抜粋です。<--リンク


多数派のスンニー派の考え方では「隠者とか、世捨て人というものを人間の正しい生き方としては認めてない」様であります。


そしてシーア派やスーフィズムというものもあり、このふたつはハキーカ中心主義であるのは同じである。


シーア派は聖と俗をはっきり区別する点で、スンニー派と対立する。

シーア派の最高権威者をイマームと呼ぶ。

シーア派の中心を占めるのはそのイマームがこれまで十二人しか現れていないとする「十二イマーム派」という宗派である。


スーフィズムの方は、意識的に世をいとい、世に背く点でスンニー派と対立する。

またイマームを通さずハキーカへ至るという考え方の点でシーア派とも対立する。


この三つの流れが自らを正統とだと主張し合う歴史がある意味ではイスラームの歴史だと著者は言っている。
・・・・・・

こうしてバパのトークにもよく登場するワリ(Wali)というコトバですが、本来はスーフィズムのコトバであることがわかるのでありました。


それから、ジャワの伝統的イスラム(ジャワイスラム)とはどうやら「スンニー派とスーフィズムとkejawen(伝統的ジャワ神秘主義)が融合しあった、あるいは折衷しあった(おりあいをつけた)イスラム」の様でありますね。

それに対してムハマディアのようなモダニストイスラムはスンニー派と思われます。

ちなみにスンニー派とは「預言者ムハンマドの時代から積み重ねられた『慣行』(al-Sunna スンナ)に従う人々」ということだそうです。


PS
バパの新しいトークが出なくなりました。
   ↓
「トークの解釈」あるいは「トークの選択」によって「~ガイドブック」ができました。
   ↓
「~ガイドブック」が「教本化」します。
   ↓
「教本」ができたので「教義」がきまります。
   ↓
「教義」がきまりましたので、これで「宗教化」の完成です。
   ↓
・・・・・・
というような事にしてはいけませんよね。


バパも言っておられます。
『・・・・・・・・
あらゆる宗教(に従う人)はラティハンヘ来て、そこで礼拝している。

若し、人が自分の固有のそういう本を受けたならば、その時には彼は最早、他の全ての本を受ける事はなくなるであろう。

何故ならば、そういう本というものはドグマだからである。

そして、一つのドグマは他のドグマと決してピッタリ一致はしない。

しかし、我々の会の中にはドグマはないのだから、そういう本、聖典はないのだから、 あらゆる宗教が我々の協会に入る事ができる。

或る宗教の信者が一度我々の会に入れば、彼に与えられるものは、彼の自我から、そして、彼の自我に合致して訪れて来る。

そこで、そういう人達は知るのだが、 宗教、つまり、真の宗教というのはナショナリスティックなものではない。

そこにはナショナリスティックなものはないのである。

「神は全ての人間にとって同じであり、一つであるから」という事を悟る事が出来るのである。

そして、各人が自分の性質に則って、添って受けるのである。
・・・・・・・・』
(84・7・6 CDK)


PS
「イスラーム文化」井筒俊彦著 はイスラーム入門には良い本でした。

バパという方を理解するためにはイスラムの理解はマストでありましょう。<--リンク

そしてジャワイスラムはスンニー派の教えにスーフィズムが色濃く混じり合ったものです。

ですので、ジャワイスラムを理解する上でもぜひご一読の程を。


PS
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ロホとナフスの物語(その5、ロホ+ナフス システムの誕生)

2015-05-08 | 日記

インドネシアでのロホとナフスの合流の経緯

ジャワ           中東      <--発生場所
(4人兄弟)       (クラーン)   <--概念の起源
ナフス            ロホ
  |             |
  |             |     ナフス ロホ共に
デワルチ     マルタバト・トゥジュ<--一応の完成
  ↓              ↓
    →→→→   ←←←←
         ↓
1802~1873年   R.Ng.ロンゴワルシト(Ranggawarsita)
   「Bima Suci Wirid」で「インサン・カミル」の誕生を語った。
   「Wirid Hidayat JatiDari 」でナプスとロホ(napsu,roh) を語った
         ↓
1923年  KRT ウレクソディニングラト Wreksadiningrat
   「スラット・ランパハン・ビモロドロ Serat Lampahan Bima Rodra」を書く
   4つのナフスの名称の明示
         ↓
1936年  Tjan Tju An
   スラット・ビモ・ブンクスで9つのロホと4つのナフスを語る。
         :
         :
1952年  バパ(Bapak)
   スシラ ブディ ダルマ(susila budhi dharma)を語る。


ビモ・ブンクス(Bima Bungkus)は本来はデワルチの主人公であるビモの誕生の物語でした。

でもTjan Tju Anさんはこの物語を借りて「人間の誕生」、違うコトバでは「アダムの誕生」を語ったのです。

そうして、もともとスーフィズムの中の一つの流れであった「マルタバト・トゥジュの教え」では「アダムの誕生」は「完璧な人間(Insan kamil)の創造」として語られていたものでした。<--リンク

ですのでここでのTjan Tju Anさんの仕事は「マルタバト・トゥジュの教えにそった形で4つのナフス(nafsu)をアダムに付け加えた」ということになります。

こうして目出度く別々の進化をしてきたナフスの流れとロホの流れが一つになれたのでした。


さてビモ・ブンクス(Bima Bungkus)でのナフスとロホの人への入り方の説明です。

マルタバト・トゥジュの教えに従ってゼロから人間が順次作りだされていくのですが、その過程でまずはナフスが順次付与されます。

そうして次ぎに9つのロホが一度に付与されて「物理的な体を持った人間」の完成、アダム、あるいはインサン・カミル(Insan kamil)の完成となります。

このあたり、詳細は「Bima bungkus」 を参照願います。<--リンク

但しこのページの記述ではスフィア(supiah)の記載が抜けていますがこれは記述ミスです。

うまく見れる様でしたら「SERAT ”BIMA BUNGKUS” KARANGAN TJAN TJU AN 」をどうぞ。<--リンク

こちらがミスがないのですが、広告表示が邪魔をしますのでご注意ください。(うかつにOKとかYesはクリックしない方がいいですよ)


それで次はバパによる説明ですね。

即ち地上に降される前の彼(アダム)の存在は、まだロホ(スピリット)又は生命力のエッセンスという状態でありました。

なぜならば、まだ人間として形成されていなかったからであります。
・・・・・・・・
彼が人間の形の容器に作られ、素材的・植物的・動物的及び普通の人間的生命力を与えられた時、彼の人間としての性質が生じたのであります。

このことはすべて彼が地上に降された後で起こりました。

なぜならその時始めて、 素材的・植物的・動物的そして普通の人間的生命力から生ずるナフスを所有したのであります。  

そして素材的生命力から生ずるナフスはアマラー(nafsu amara)、植物的生命力から生ずるナフスはアルアマー(nafsu aluama)、動物的生命力から生ずるナフスはスピアー(nafsu supia)、普通の人間的生命力から生ずるナフスはムトマイナー(nafsu mutmina)であります。
・・・・・・・・
70・12・5 チランダ


以上の説明から分かる様に「4つのロホを与えられると同時にナフスが備わった」というのがバパの説明でありました。

まあ、Tjan Tju Anさんの説明とは順序が前後しますが、いずれにしても「人としての完成」あるいは「アダムの誕生」の直前の出来ごとであったのは同じであります。


さあそれでかなりユニークなことはバパは「4つのナフスと4つのロホを対応させた事」であります。

この対応付けは「従来の伝統的な流れの中には見当たらない、バパ独自のもの」の様に見受けられます。

但し、現代のジャワイスラムでも「ロホ ロハ二は4つのナフスをコントロールできるもの」とするとらえ方があることには注意が必要ではありますが、、、。


こうやってインドネシアでは理解するにはまことにやっかいな「ロホ+ナフス システム」が誕生してしまったのでありました。

PS
バパのトークで気をつけなければいけない点、それはナフスを上げる順序です。

物質力にはアマラー(nafsu amarah:赤)が、そうして植物力にはアルアマー(nafsu aluama:黒)がいつも対応しています。

ですので4つの諸力の順番にならべる場合は1、アマラーamarahーー>2、アルアマーaluama ・・・となります。
(70・12・5、72・11・3、85・6・25、85・7・2 etc)

しかしながら単にナフスの事を述べる場合(諸力との関係を言わない場合)はインドネシアの伝統にそった順番になります。

つまり1、アルアマーー>2、アマラー ・・・と順序が逆転するのでありました。
(57・9・29、59・8・6、59・8・7、63・9・13、81・6・18 etc)

そうして、二代目の並べ方は常に後者であります。
(99・12・16、01・7・12、02・2・28、02・3・3、03・2・14 etc)


そういえば2代目のトークではスシラ ブディ ダルマであつかわれている物質力から始まる4つの諸力についての言及がほとんど無いようであります。

そうして、この4つの諸力を介して我々は世界と、社会と、文化と、人々と相互作用をするものでありますれば、この事に注目しないということと、2代目の内向きの態度と言うものの間にはなにやら関係がありそうな気がいたします。(16.10.1)

追記
残念ですが植物力にアマラーamarahを、あるいは物質力にアルアマーaluamaを対応させているトークが見つかりました。

ですので、上記の対応関係は基本的にはそうである、という程度にご理解願います。

そしてこの件につきましては、ページを改めてまとめたいと思います。(16.10.8)

PS
上記と同じ内容を別の表現で、つまりJiwa(ジワ)とSukma(スクマ)を使って説明したトークもあります。ーー>(59OSL3:59・8・7オスロー)

・・・ですから、JiwaはSukmaを満たし、目覚めさせ、命を与える生命力です。

それによってSukmaは本当に働くのです。

そしてSukmaはこの粗い肉体の精妙体です。

実際にはSukmaは一つではなく五つあります。・・・

そうして「バパは人の形をしたバパ自身のSukmaを見たことがあります。」・・・と続きます。

5つのSukmaはジャワの5人兄弟の教えに対応しており、その内の4つが4つのナフス(Nafsu)に対応していることは前述した通りです。<--リンク

それから、Jiwaについてはこちらを参照願います。<--リンク


対応関係を整理すると、Jiwa≒Roh 、Sukma=Nafsu ということになります。

この対応関係のキーはジャワに古くから伝わる「4人兄弟+主人公=>5人兄弟の教え」です。

この教えを媒介にしてSukmaとNafsuが結びつき、その結果JiwaとRohの対応関係が生まれたように見えます。


JiwaとSukmaはもともとサンスクリット語が起源の様です。

つまり、生まれはインドということになります。

そうしてヒンドゥー教や仏教とともにジャワに伝わったのでしょう。

RohとNafsu(語源はNafs)はアラブで生まれ、イスラム教とともにジャワに伝わりました。

そうやって伝わった4つのコトバが最終的にバパの中で結び付けられました。

そうして、この多様性、複雑さはジャワという土地ならではのもののように思われます。


PS
Nafsu mutmina(ナフス ムトマイナー)には注意が必要です。

上記70・12・5 チランダ ではムトマイナーは「普通の人間的生命力」と結び付けられて説明されていますが、63・5・13 サンチアゴ では「普通の人間力」(ジャスマニ)ではなく「完成された人間力」(ロハ二)に近いように記述されています。

そうしてムトマイナーをそのように「高級な欲望」として他の3つの欲望から区別して扱うやり方はジャワ神秘主義(クバティナン)においても見ることができるものであります。

こうして、ジャワの伝統とイスラム神秘主義との融合を試みたバパの説明ではありますが、やはりそこには多少とも無理をした様な跡が、時と場所によっては違う説明内容と受け取れるものになってしまう様な事がある様であります。


PS
バパ独自の世界観をもう一つ。

7層の生命世界の構造はすでにお話した通りであります。

しかしながらバパはそれに加えて「それぞれの生命世界はまた7層の内部構造をもつ」と説明しています。

これではお話が非常に複雑になってしまいます。

そうして、もちろん伝統的な考え方には似たものがありません。

という訳で、詳細は原典を参照ねがいます。-->(63・3・30 AKL)

追伸(2018・9月)
バパはなぜ「7層の生命世界の構造はすでにお話した通りであります。
しかしながらバパはそれに加えて「それぞれの生命世界はまた7層の内部構造をもつ」と説明しています。

それは現世に生きる人間の中のジワがその7つのどのレベルにも存在可能であるから、と言うのが理由の様です。
つまり物質のレベルからラバニと呼ばれるレベルまでです。

人間力以下の4つのレベルには人間が4つのナフスを使う事もあり、そのいずれの世界に対しても人は親和性を持つようです。
そうして、実際にバパに言わせれば「人間力レベルのジワを持つ人はほとんどいない。」という事であり、良くて動物力レベルのジワ、多くは物質力レベルのジワの持ち主である、とされます。

さて、そのようである我々が死後に向かう事になる世界、死後の生命世界はどこになるのでしょうか?
たとえば、一番多いとされる物質力レベルのジワを持った人が亡くなりました。
その人のジワはどこに行くのでしょうか?

ロハニでない事だけは確かです。

それで、考えられる可能性は2つ。
ジャスマニレベルの世界にとどまるのでしょうか?
それとも物質の世界に落ち込んでしまうのでしょうか?

人間の世界にとどまって、しかしそのジワの状態は物質力レベルと親和性が高いという状況が一つ、考えられます。
このようなジワは多分物質力レベルにあるジワをもつ2人の男女の性行為にひきつけられる事になるでしょう。
つまり「人としてリンカネーションする」という事になりそうです。

他方で、本当に物質力にのみ目を向けてそれを追い求めた場合はどうなるのでしょうか?
そのようなジワはジャスマニの世界、人間の世界をはなれて物質の世界に入り込むことになると、そのようにスシラ・ブディ・ダルマは言うのであります。<--リンク
そうして、そのようなジワがまた人間として再誕生する、という事の可能性はゼロではないものの、なかなか難しいという事は明らかな事なのであります。
(まずは物質の世界から抜け出して人の世界に戻らなくてはなりません。
人の世界に戻って、しかしながら物質力と親和性が高いジワである、という状況にまで移動する必要があります。)

さてそういうわけで、ジャスマニレベルの生命世界にも動物力レベルから物質力レベルの内部構造をもつ、という事が明らかになるのであります。

ちなみに、現世にはジャスマニレベルのジワで生まれたが、ラティハンによってロハニレベル(聖人レベル)、あるいはラフマニレベル(預言者レベル)に到達する方もいるでしょう。
そうであれば、現世の人間のジワのレベルは7つのレベルのいずれにも存在可能である、と言うのであります。

PS
ワヤンの演目からの参照。
16. Bima Bungkus<--リンク
  ビモ・ブンクス

 このラコン(Lakon演目)はラコン・パクムに属し、アスティノ王妃デウィ・クンティがバトロ・バユを迎え、第二子を誕生させることが語られる。 

 その赤子は厚い皮に覆われた固まりで誕生した。様々な武器がその表皮を破る為に使用されたが成功しなかった。
ブガワン・アビヨソの命により、包まれたままの赤子はガジャ・セノ象の前に運ばれた。

その時、バトロ・バユが聖なる象の体内に入り、踏みつけられ、牙に突かれて、赤子のえなが破れた。

 そのときまた、えなの中にはバタリ・ウモが入り、バユ専用の衣服、カムプ・ポルン・バン・ビントゥル・アジを着せた。
えなから出た赤子のビモは既に衣装を整えていた。

 破れると共に竜巻が起こり、えなをシンドゥ・カランガン国へ飛ばした。
かくてビモのえなは、ブガワン・スムパニの膝元に落ち、ジョヨドロトという武将となった。

 このラコン・パクムはわりと有名で、しばしば演題に昇る。


PS
ワヤンとその登場人物 マハバラタ 第31章
1976年11月28日  ユダ・ミングさんのジャワ神秘主義によるビモ・ブンクス解説<--りんく

31. ウルクドロは自分自身と邂逅し合一したが、責務を負うサトリアとして生きた

●ブンクス〈羊膜〉を破る
 ビモはブンクスに包まれたままこの世に生まれた。(ビモはウルクドロの別名で、デワルチの主人公:引用注))
彼をこの世に出現させることができるのはシヴァ神だけであった(バタリ・ウモとして表される)。

これは、すべての人間が『現前』(生まれ出る前の世界)、つまり『空』なる世界にあるとき、宿運を負った世界に現れる以前に彼に触れることのできる力を持つのはマハ・ガイブ Maha Gaib 〈大いなる神秘の神〉のみであることを表す(ウモはシヴァの超能力を象徴する)。

数年間ビモのブンクスはセトロ・ゴンドラユ Setra Gandalayu 〈バタリ・ドゥルゴ(ウモ)の支配する精霊界〉に止めおかれ、誰もそのブンクスを破る(赤子を産む)ことはできなかった。

 ビモ・ブンクスを破ったのはガジャ・セノ Gajah Sena (シヴァの息子)という象であった。
ブンクスを破った後、ガジャ・セノはビモと一体となった。
かくてビモはブロトセノ Bratasena 〈セノの創りし者〉と名付けられた。

というわけで、ワヤンの時代にも帝王切開のできる外科医がいたのである。
その時代、メスはなかったが象の牙があったのだ。

どうして象牙が『外科医』のシムボルとなったのか?
それは多分、バトロ・ゴノBatara Gana 〈シヴァの息子ガネーシャ。象の頭を持つ〉が『知』、『知識』の象徴であり、その『牙』〈象牙〉が『力』、『鋭さ』の象徴とされたからであろう。


 現世に現れたとき、セノは何も知らない状態だった。(セノはビモの別名:引用注))
なぜか?
厚い障壁(ワラナ warana またヒジャーブ hijab〈覆い〉)が自身を覆っていたからだ。

ワラナとは何か?
ワラナと呼ばれるものは、『人間の欲望』に他ならない。
ビモのように、『強欲、欲望を退ける』ことのできる人だけが自分自身、つまり自身の真の姿デウォ・ルチ Dewa Ruci と邂逅し、『彼の方』〈唯一神=トゥハン〉と一体となることができるのである。


 宗教は教えてくれる、自分自身を知る者は、誰あろうとかならず『トゥハン』を知るであろう、と。
『彼』を知ることは人間を知るようには容易ではないが、真摯に、平静に、強く、確固として迷い無く「行」を為せばかならず知ることができる。

ウェドトモに言う。
 『 Ngelmu iku kalakone kanti laku, lakune lawankas, tegese kas nyantosani, setya budya pangekese dur angkara. 』

 『英知(マーリファト)は真摯なる「行」(タリカット)を続けて生きる者が、平穏、すなわち悪しき欲望を退ける手立てとしての認識に対する平静さを得て初めて実現し得るものである。」


 詩節プチュン Pucung では、マーリファトのレベルを導いてくれる『行 laku 』を説明している( tur wus manggon pamucunging mring ma'rifat )。
先に挙げたシノム Sinom 詩節の最終連にある声明は、マーリファトへと導いてくれる『行法 tata laku 』以外のものではない。

この「行」はイスラーム・クバティナン〈クバティナン=ジャワ土着の信仰〉の教義において、タリカットと呼ばれるものであり、ウェドトモにおいては『スムバ・カルブ sembah kalbu 』と呼ばれる「行」である。

 であるから、『行 laku 』、『タリカット』、『タオ tao 』(支那のクバティナン〈道教〉)とは、神秘主義者、スーフィーがマーリファト、また『ウジュン/プチュック ujung / pucuk 』のレベルに到達するために通らなければならない道のことである。


スーフィーが通らねばならないこの道は容易なものではなく、ひとつのマカーム maqam すなわち段階 stasion に何年も費やす必要のある困難で険しい道である。<--リンク

 そして努力したとしても、自動的に『彼』と邂逅できるわけでもない。

人が『彼』にいたるには、『彼』を求め、『彼』へのリドー Ridho〈神への愛〉を保ち、神の恩寵を待つしかないのである。


●自身との邂逅
 人間は神〈トゥハン〉と出会うことができるのか?
答えはできる、である。
聖書に言う。
 『おお人間よ、真摯に神を求め続けるなら、きっと『彼』に出会うことができるだろう』(S.84;6)〈所出不詳〉

 『あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、』(Jer.29; 13)〈エレミヤ書29章13節〉

 ビモ・セノもまたそうであった。(デワルチの主人公:引用注)
年月を惜しまず自分自身を求め、彼は現世の師であるドゥルノ Drona に尋ねた。

師の命令であれば、どれほど奇妙でも、不合理でも、不可能と思えることでも従わねばならない。
これこそがタリカット、「行」、「タオ〈道〉」なのだ。
師に背くような弟子はタリカットをなし得た自身を見出すことはけしてできないのである。
・・・・・・・・

 その方法は真摯なる努力であり、かくてミスティカル・ユニオン mistical union (神秘的合一)に到達する。
それはウェドトモの72と76詩節によればこのようである。

 『 Krasaning urip iku, Krana momor pamoning sawujud [ mystical union ], Wujudullah sumrambah ngalam sakalir, Lir manis kalawan madu, Endi arane ing kono. 』(ガムブ 76)

 「生の感覚とは、宇宙にあまねくトゥハンの意志、その意志との合一に由来する。
蜂蜜の甘さのごとき甘き感覚。
その名を誰が知ろうか。」

1976年11月28日 ユダ・ミング著

PS
ロホ(roh)とナフス(nafsu)の物語・・・一覧」にはこちらから入れます。<--リンク

ラティハン日記目次にはこちらから入れます。<--リンク