ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

神秘的体験とラティハンと

2015-07-22 | 日記
2代目に向かってしきりに自分のラティハン体験を語る人達がいます。

2代目に話すぐらいですから、その人達にとってはそれはもう飛び切りの体験でありますね。

それでその人達はいったい何を求めて話しているのでしょうか?

自慢話ですか?

いいや、2代目の体験に比べれば自慢などはできないでしょう。

さて、そうするといったい何の為でしょう?


どうやらそれは「体験はしてみたものの意味が分からないので説明して欲しい」と。

あるいは「この体験は本物なのかどうかわからない」から「2代目からのお墨付きが欲しい」、、、と。

それはまるで「師に自分の悟り体験の認可を求めるお弟子さん」の様でありますね。


さて、「ラティハンというものは理解のレベルまで到達するもの」とはバパのコトバであります。

さあそうするとこれらの人たちは「感覚のレベルには到達した」ものの、少なくともまだ「理解のレベルまで達してはいない」ということが分かってしまうのでありました。


さらに言いますれば、「バパが求めたラティハンの成果」はそうした「神秘的体験を排除するもの」ではありませんが、それよりも「外から目で見て分かる結果」が必要でありました。

そうでなければその体験は単に「体験した者の主観的体験」になってしまうからでありますね。

そうして、そのような「主観的神秘体験を追い求める」ならば、それは「超能力を求めること」とほぼ同等のことになってしまうのでありました。

以下ご参考までに、、、

シルバーコード<--リンク

【一歩間違うとあの世行き!?】幽体離脱の危険性まとめ<--リンク

Out-of-body experience<--リンク

2章:スピリチュアリズムの黎明期(江戸末期~明治期)②<--リンク

芸能人女性の落とし方(19)~ももクロ・高城れにと幽体離脱デート~<--リンク

幽体離脱やリモート・ビューイングをマスターしたら月の裏側や太陽系、銀河系の中...<--リンク


PS 
「ラティハンによる個人の成長と2つの成果」についてのバパの説明

1、ラティハンによる個人の成長のステージあるいはレベル

当然ながらそれぞれのレベルで個人が経験する体験は異なったものになる。

(1)、運動・浄化(身体、肉体のレベル<--運動神経系)
    ↓
(2)、感覚・準備(5感、その他の感覚レベル<--感覚神経系)
    ↓
(3)、 理解  (頭脳レベル<--中枢神経系) 
    ↓
(4)、真の個性・意識(通常の意識レベルを超える<--kejiwaanの領域)

(4)に達したものは時が至ればロハ二rohaniに至る、とは二代目の説明であります。(On The subud Wayより)

そこに到達したものは死後は輪廻転生の輪から離脱し、ふさわしい所に住む事になる、とそのように言われております。(ジャワにイスラムを広めたとされる、9walisの様な聖人レベル)


とはいえ、全てのレベルでラティハンの浄化の作用は働く模様。

そうでなければ成長などは起こり得ない、、、という印象です。

追記(2018年10月)
ラティハンの浄化は荒い部分から始まり細かい、繊細な部分に順次移行する、と言うのが一般的な原則の様です。

それで体が自分の意志でもないのに勝手に動く、というレベル(運動神経系のレベル)から始まった動き、浄化の体験はその後感覚レベルの体験、浄化に移行します。(浄化が感覚神経系に及ぶ)

ちなみにラティハン後に味覚が鋭敏になる事は、当方の個人的な経験になります。

次はいよいよこの頭の浄化になります。(中枢神経系の浄化)
今までよく理解できなかった事が「あ、そうか」と言うような事が起こりますか。

しかしながら、バパの様に「人類の知識が流れ込む」というような事は起こりそうもありません。
その人の生活に必要な事が分かる、たとえば人の考えが良く分かる様になる、などが起こりそうです。

頭の浄化というのは、生まれてからこの方積み重ねてきた「世の中の影響の浄化」でもあります。
それが浄化されると「浮世離れして、役に立たない人間になる?」。

いやいや、そんな事はなさそうです。
そこには一定のバランスがあり、世の中の事を考える頭と、それを超える事を考えられる頭とが並行して存在するようになる、と言うのがバパの説明になります。

それが4番目の状態の様です。
その状態では生まれる前と死後の状態がわかる、と言うのがバパの説明になります。


2-1、一番目の成果(世的成果)

平素ラティハン・クジワァンに従い、その感覚と皆さんの中にもたらされた、何にでも注意深くあることです。

受けた成果は、皆さんの中にはっきりと現われ、ご自分でそれがわかるはずです。(71.8.23)


そして実際のところ、バパが今やっておりますように、グルーブからグループヘとあちこち旅行をしている目的、願望はと申しますと、ラティハンを何年も、おそらくは10年以上も続けてこられて、ラティハンクジワアンの成果、利益、効用やら恩恵の証拠を生活の中で得た方がお出でになるかどうか、見たり聞いたりしたいということなのです。(77.7.16)


このことから分ることは、私達の 外的な生活においてラティハンの成果が現われるためには、私達が日常生活を通じて、この種の動 きを経験することができる必要があることです。

その結果、私達は働く時、歩く時、話す時、書く時、何をする時でも、私達の内部にある力によって動かされつゝあるかのように思われます。

これは或る時期の間にすぐに習得できるようなものではありません。

しかし事実は、皆さんがこのことを感じ始める時、ラテイハンの成果を感じ始めるでしょう。(77.11.12)


本当に、兄弟姉妹の皆さん、皆さんがラティハンの成果を経験すれば━━━バパが成果と言いますのは皆さんが確実に見ることのできる結果のことです━━━ その結果は皆さんだけでなく他の人々の目にも見えるものとなるでしょう。(77.12.6)


2-2、二番目の成果(kejiwaan 霊的成果)

ラティハンクジワアンに依って得られる成果の数々に付いて云えば、それは此の世界には本当は不必要なのであり、それは皆さんの生命にとって此の世を離れた後に必要なのであります。(72.4.22)

アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。

さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。

それではラティハンではどうでしょうか?

ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。

そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。

さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。

追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。

バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。

そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。

そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。

したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。

しかし、本質はごまかす事はできません。

そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。


さて、以上のことから分かりますように、バパは「神秘的な体験がラティハンの成果だ」と言われた事はないと認識しております。


このような状況は以前から少々気にはなっていたのですが、現状は神秘的な体験にスポットライトをあてすぎている印象があります。

そうしてこれは2代目の影響でしょうか、その傾向がだんだん強くなってきている様であります。

それで、けっして神秘的体験そのものを否定するものではありませんが、古人も言っております。

何事も「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」であると。

PS
必要な体験は神秘的なものまで含めて我々が自由にもとめられるものではありませんね。

それは「我々の成長に合わせて、必要に合わせて出現するもの」であります。

他方で、「ラティハンの内容に注意深くあり、そうして、日常生活にも注意深くあることは我々に求められていること」であります。<--リンク

そういう訳で「求められないものを求める」よりは、「できることをやる」、というのがまあ道理にかなっていると思われるのであります。

PS
この世でのラティハンの到達点はどこであるのか?

この問いに対する答えは「真の人間的なレベルであるロハニである。」となりましょう。

このロハニレベルに至りますれば、「真の人間の生命力(ロハ二)が下の4つのロホを導き調整する働きをします。(57・7・21 CSP)」のトークの様になります。

下の4つとは人間の生命力以下の4つの生命力であり、この4つの生命力は4つのナフスを動かすものでもあります。

つまり、ナフス、あるいは欲望、動機、意欲というものが自ずから道に従う状態になるのであります。

これがロハニに至る為の必要な状況であり、そうしてまたその結果でありましょう。


さて、そうなった人はいったいどうなるのでありましょうか?

何のことは無い、外面的には今までと同じ仕事をして、同じ暮らしを続けるのでありましょう。

しかしながら、その内面の状況は変化しており、そうしてその変化に対応するように外面の生活状況もまた変化すると思われます。

そうしてそれは、前もって用意されている贈り物を受け取る事が出来たことの表れとなるでしょう。<--リンク

そういうわけで、水の上を歩いたり、幽体離脱をしたり、、、などの神秘的な現象を積極的に求めるという事はしない方がよろしいかと思われます。

PS
以下、ご参考までに。
3月5日March 5, 1963 - Bapak
『・・・・・
Bapakがちょうど耳にしたメンバー、彼の名前はハドソン、に起こったように、彼はラティハンで彼自身が昼の明るさより明るい光に囲まれたのを見ました。
実際には、それは死の時の生命の雰囲気であり、この世界を超えた生命の雰囲気です。

だから、ハドソン氏が今死んでいたとすれば、彼はそのような状態になります。
つまり彼は暗闇の中にはいません。

それはバパが魂の目と呼んでいるもので、何の制限もなく知ることができる目です。

せいぜい1000マイルほどしか見ることができない物理的な目とは異なり、[魂の目にとっては](距離に)制限はありません。

彼が見たことは、ちょうど始めにある様なものと言うことができ、あたかも子供が遊んでいる様な、内容も意味もない、そのようなものですが、それにもかかわらずそれはラティハンの中では、予期せぬ素晴らしい状態を受け取ることができるという一つの例、あるいは証明の様なものです。

したがって、そのように見えるあなたのラティハンは、あなたの内部感覚を満足させることができる多くの内容や真実で満ちています。
・・・・・』
さて「自分自身を包む昼の様な光を見た」などというのは、まるでバパが最初にラティハンを受けた時の様子に似ており、とびきりの神秘的な体験の様にみえます。

しかしながらハドソン氏の話題はそれで終わりの様であり、そのような神秘的な体験をされたハドソン氏はその後、協会の中で指導的な立場に立って、多くの後輩を育てた、というような話は一向に聞かれません。

従いまして「神秘的な体験」そのものを否定するものではありませんが、それは求めて得られるものではなく、加えて「その神秘的な体験が何をもたらしたのか?」という事は慎重に評価・吟味する必要のある事の様であります。


PS
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インドネシア・クバティナンの歴史とバパの歩み(独立戦争~現在まで)

2015-07-03 | 日記

バパ(1901-1987)が生きた時代はそのままインドネシア独立の時代でもありました。

と言う訳でインドネシア専科で少々歴史をひもといてみましょう。<--リンク

友人たちの論文集<--リンク
(再公開に感謝!)


1924年  バパ初めてラティハンを受ける。

1926年  ナフダトール・ウラマ(NU)が設立される。<--リンク

1942年3月9日  日本軍 オランダに替わりジャワ島占領   C-5 299<--リンク

混乱の為、バパ オープン及び集団ラティハンを中止する。(自叙伝)

カリサリからテマングンまでの一カ月間の山中逃避行の断行。(自叙伝)


1944年4月  日本軍 インドネシアの独立を容認  D-1 365

  そうして独立準備委員会の設立  委員長スカルノ  C-5 313

1945年6月1日  パンチャシラがスカルノにより発表された  D-1 365

1945年8月15日 それまでインドネシアを占領していた日本の敗戦を受けて

     8月17日 スカルノ宅での独立宣言の発布   C-6 318
     8月18日 独立宣言の翌日 憲法制定

独立宣言を発した共和国はオランダとの戦いが始まった。 C-6 328
     10月    共和国軍が設立される

バパ ジョグジャカルタに移り、集団ラティハンを再開する。(自叙伝)

バパ マスユミ(又はマシュミ Masyumi 注1)で財務の仕事をする。(自叙伝)
           マシュミ Masyumi <--リンク

1946年11月~  休戦(リンガルジャティ協定)  C-6 325

          この年から宗教省が公式に認められる。

1947年2月1日  バパ、ジョグジャカルタにてスシラ・ブディ・ダルマという協会を設立する。
          (この時点での会員総数は300名を越えた程度)(自叙伝)


1948年9月18日  共産主義者との内戦勃発  C-6 326

     12月18日 共和国の混乱を契機にオランダの再軍事行動開始  C-6 326

  こうしてインドネシアでは共産主義が嫌われていくことになりました。


1949年1月  アメリカの圧力により国連でのオランダ非難決議採択  C-6 329

     11月  インドネシアの独立をオランダが認める  C-6 330


こうしてみると良く分かるのですが、独立戦争の中休みの時にバパはご自分の組織を立ち上げたのでありました。

そうしてバパもインドネシアの人でしたから、独立にかかわった欧米の国々、そうして日本という国についてもいろいろな個人的な思いはお持ちだったことでしょうね。


こうして苦労の末に独立を勝ち取ったインドネシアでありましたが、その精神的なささえとなったのがパンチャシラでありました。

そうしてそのパンチャシラの最初に登場する宣言、「唯一神への信仰」は全てのインドネシア人が要求される事になりました。

さてその「唯一神への信仰」という宣言でありますが、バパが作った協会では後日に至りて「入会の前提条件」のごとくに扱われる様にまでなりました。

しかしながらこれはパンチャシラのあるインドネシアでは何の問題も生じなかったのであります。

他方でパンチャシラのないほかの国々の非アブラハムの宗教の人々(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教でない宗教徒)には本当に大きな問題となっているのでありました。

・・・・・
この頃から多くのクバティナンと呼ばれる「新宗教運動」がはじまる。
アカデミズムの世界では、バパが設立した協会もこの運動の中の一つとされている。<--リンク

・・・・・

1950年 6月 バパ 「内なる我の光 (Sinar Pribadi-- The Light Of The Inner Self)」を語る。

・・・・・

1952年  バパ  スシラ ブディ ダルマ(susila budhi dharma)を語る。

・・・・・

1953年 宗教省が新宗教団体として360団体を報告 「ジャワの宗教と社会」 P371

・・・・・

1954年 協会の日本支部誕生

・・・・・

1955年 第一回インドネシア・クバティナン会議委員会招集

      クバティナンに宗教と同等の法的な地位を求める事を目的とする。

      クバティナンの定式化を行う。
      「クバティナンは人生の完成を伴い、高い徳を達成するための唯一なる神への信仰の原理であり徳目である。」「ジャワの宗教と社会」 P372
 
・・・・・

1957年5月19日  バパ インドネシアからイギリスへ向かった。

これがそのまま14カ月に渡る世界旅行になるとは、そうして爆発的な外国会員の増加につながるとは、バパも想像してはいなかったでありましょう。

・・・・・

1960年 PAKEMの所属が宗教省から検察庁に移る。

      PAKEM:社会信仰諸派監視機構の略称 「ジャワの宗教と社会」 P371

      クバティナン諸派が社会的に逸脱した行為を取らないかを監視し、その兆候がある場合は、解散を命じる権限をもつ部局である。(同書 P157)

1960年7月のマラン東ジャワ州のBKKI(クバティナン集団)の第4回議会は、宗教が儀式を強調し、クバティナンが内的経験と人間の完璧さを強調しますが、「宗教」とクバティナンに本質的な違いはないことを見出しました 。

しかしながら、インドネシア政府の用語を使用する場合、スブドは宗教ではない事になります。
なぜなら、1960年に宗教省はクバティナンを宗教として否定する目的で宗教の定義を提案したからです(Patty、1986:4)。(スブドは宗教か?ワティニ 著)

・・・・・

1961年 第5回BKKI(クバティナン集団)会議が開催されました。

彼らは、教育、情報、政治に関わるクバティナン・インドネシア連邦議会連合(Gabungan Musyawarah Kebatinan IndonesiaまたはGMKI)を設立しました。

その時、BKKIは共産主義者によって浸透されました(Patty、1986:71-72)。
(訳注:共産主義者がクバティナン集団に入り込んだ、という意味です。)(スブドは宗教か?ワティニ 著)

・・・・・

1963年6月1日 バウル トークより

『今日、あなた方がどこにいようとも、政府は全ての事をとても注意深く調べます。

政府は全ての組織について知る必要があるのです。

政府はそれが悪い意図をもった政治的なグループであるか、もしくは、国の状態に干渉する意図をもった政治的なグループであるかどうか調査しなくてはなりません。
・・・
このことは、一般的に政治的な性質を持つ組織が多いインドネシアで起こりました。

彼等は会合を持つたびに調査されました。

しかし、私たちは(引用注:外部に対して秘密はなく)透明であり、喜んで政府に真実を述べたので、最後には法的組織(引用注:公認クバティナン)として受け入れられました。

つまり、私たちは政府に許可を求める事なく集まったり会合を持つ事が許されているのです。』

・・・・・

1964年 宗教運動の監督のための事務局(PAKEM)に360団体が登録された。
     (スブドは、1964年10月19日にジャカルタで政府によって認められました。:スブドは宗教か?ワティニ 著)

ーーー この部分は JAVANESE MYSTICAL MOVEMENTS からの引用です。<--リンク

この時に登録されたのは、「新宗教」(あるいはクバティナン)とされる団体です。

・・・・・

1965年  バパの協会を含む多くのいわるゆる「新宗教」は厳格なイスラム教徒とキリスト教団体からの圧力の下での大統領決定により「宗教」とはみとめられなかった。

こうしてパンチャシラ及び憲法のいうところの「宗教」とは「イスラム教、キリスト教(プロテスタント、カトリック)、ヒンドゥー教、仏教、儒教」ということになったのであります。

今までは憲法は「信仰」(Ketuhanan Yang Maha Esa、唯一なる神格)を奨励し、宗教の状態をサポートしていたが、法律がまだ「宗教」を構成するものを明確にしていなかったのでした。

ーーー この部分はSUBUD (Susila Budhi Dharma) (Religious Movement)からの引用です。<--リンク

       また大統領令によって「公認宗教を中傷するような団体に対しては、政府はそれを解散させる権限をもつ」とされた。「ジャワの宗教と社会」 P377

       9月30日 クーデター未遂事件勃発  共産党の関与があったとされる

       そうして共産党に殺害された将軍の報復を求め、反共産党デモが荒れ狂った。

       この事件がきっかけで多くの地域で公認宗教への改宗がおきた。ーー>他方、クバティナン諸派は多くが政府による禁止・解散命令により解散の憂き目にあった。(ジャワの宗教と社会 P378より引用) 

       これは、相当数のクバティナン組織が共産主義者の影響をうけていたり、反イスラム的に急進化したというのが政府の主張、治安関係者の認識であった為である。(同書P158)

       スカルノは共産党に対する傾斜を深めていた為、この事件が結局スカルノ体制の終焉に結びつくこととなった。(同書 P11)

・・・・・

1967年  スカルノ大統領 解任 ->スハルト 大統領代行に就任

・・・・・

1968年  バパの予測「今から20年から30年後、神の力を全世界が知り衝撃を受けるだろう」<--リンク

       バパご自分のミラージュ(召命or昇天)体験に言及

       スハルト 第2代大統領に就任
・・・・・

1969年  Drs. Kafrawi氏による先進的な論文の発行 (Institute of Islamic Studies)
       ・THE PATH OF SUBUD

・・・・・

1970年 ジャワ神秘主義連合会Javanese Mystic FederationまたはBKKIを組織したジャワ神秘主義グループ(Kebatinan)のリーダー(達)は、スハルトSuharto時代にGolongan Karya(Golkarゴルカル)のメンバーになるように求められました。(注2)

こうして、Aliranは法的認知に努めているすべてのジャワ神秘主義グループを幅広い単一組織に統一しようとしました。

それは1970年にジョグジャカルタで開催されたクバティナン神秘主義、魂の科学と精神の科学に関するインドネシア国家シンポジウム(シンポジウム・ナショナル・クプルチャヤアン - クバティナンとクロハニアン・インドネシア)に結実しました。

さらに、クバティナンの神秘的なグループは、ゴルカルGolkarの一員として公式に認知された機関とされ、政府は1970年12月にこの政治的な組織を支配しました。(スブドは宗教か?ワティニ 著)

1970~71年  オープンの前の宣誓を義務化する動きが始まる

・・・・・

1971年  インドネシアで第4回世界大会が同国大統領出席の下で行われる。

       同年 バンク設立

       この年までに政府によって禁止されたクバティナンは167団体である。「ジャワの宗教と社会」 P379

・・・・・

1972年頃  イスラムの断食月(ラマダン)を推奨しはじめる。

・・・・・

1973年  国家政策大綱に「宗教」と並んで「唯一なる神への信仰」(Kepercayaan terhadap Tuhan Yang Maha Esa)という言葉が正式に明記され、これによってクバティナンは「信仰」として正式な認可を受けることになった。(ジャワの宗教と社会 P380より引用)

       これによりクバティナン諸派は法的には「唯一なる神への信仰の徒」(Penghayat Kepercayaan terhadap Tuhan Yang Maha Esa)ということになった。

       つまり、クバティナンとは「信仰の徒」(Penghayat Kepercayaan)ということになる。(同書 P106)

・・・・・

1975年  ビル建設開始

・・・・・

1978年  Subudを含むアリラン・クプルチャヤアンAliran Kepercayaanは正式な機関として民族の代表会議(Majelis Permusyawaratan rakyatまたはMPR)を通じ政府から正式に受け入れられましたが、宗教としては認められませんでした。(スブドは宗教か?ワティニ 著)

・・・・・

1979年  クバティナン諸派(引用注:含むバパの協会)の管轄が宗教省から教育文化省に変更された。

       同時に「唯一なる神への信徒協会」(HPK:注4)がクバティナンの唯一の公認組織体となる。(ジャワの宗教と社会 P380より引用)
 
       但し、インドネシア全国レベルで信者を有するのは以下の4つのもの。
       スブド (Subud)・・・徳、善行・・・イスラムと共存する派
       パンゲストゥー (Pangestu)・・・祝福・・・5万人
       サプト・ダルモ (Sapta Darma)・・・七つの義務・・・1万人
       スマラー (Sumarah)・・・服従

       そうしてスマラーのみが「唯一なる神への信徒協会」に参加し、この組織のトップを歴任している。「ジャワの宗教と社会」 P111、P175、P385、JAVANESE MYSTICAL MOVEMENTS 

       さらに教育省に設置された「唯一なる神への信仰」育成局の局長にも就任する。同書 P387

・・・・・

1980年  関本のジャワ調査 結果ーー>ジャワ神秘主義の民族誌「ジャワ神秘主義の民族誌」

・・・・・

1982年  教育文化省に登録されている「信仰」団体数は93で、中部ジャワ合計でトータル123570名の会員数でした。(同上 JAVANESE MYSTICAL MOVEMENTS 参照)

・・・・・

1983年~85年  福島のジャワ調査 結果ーー>「ジャワの宗教と社会」「ジャワの宗教と社会」
1988年 

・・・・・

1990年代

      イスラーム到来後の状況を概説したウォロ・アルタンディニ氏(FSUI)の論説
      ・スラット・デウォ・ルチにおけるイスラム神秘主義の影響
      ・デワルチ(上記論文の要約)

      ・PurwadiさんのTHE ISLAMIC MORALITY IN SERAT DEWARUCI 
       ・THE ISLAMIC MORALITY IN SERAT DEWARUCI

      ・Batubaraさんの
       Islam and Mystical Movements in Post-Independence Indonesia:
      ・SUSILA BUDHI DHARMA (SUBUD)AND ITS DOCTRINES

・・・・・

2015年  インドネシア国内大会に教育文化省の文化総局 (Direktorat Jenderal Kebudayaan)の「唯一の神に対する信仰と伝統局」(Direktorat Kepercayaan Terhadap Tuhan Yang Maha Esa dan Tradisi)の局長が出席、祝辞をのべる。

       この部署(局)がインドネシア国内の信仰団体の登録と管理を行っている模様。
                                     (15・2・15 アニエール)

・・・・・

2017年

・スブドは宗教か?  ワティニ 著
ガジャマダ大学宗教異文化研究センター
・Is Susila Budhi Dharma (Subud) a Religion?
|Author: Watini | Al-Albab
Center for Religious and Cross-cultural Studies, Gadjah Mada University
https://jurnaliainpontianak.or.id/index.php/alalbab/article/download/728/466


PS
(注1)マシュミ(Masyumi )はインドネシア・イスラム協議会(Majelis Syuro Musulimin Indonesia)の略である。

(注2)Nahdatul Ulama ウラマー(宗教教師)の覚醒の意味である。
支持基盤は東部ジャワ、中部ジャワの農村であり、プサントレインに陣取るキヤイを中心とした共同社会を営んでいる。
ジャワへのイスラム教布教のワリソンゴへの崇拝が強い。

(注3)
クバティナンはスハルト大統領になってから宗教ではなく信仰、即ちジャワ固有の文化として認められた。
管轄も宗教省でなく、教育文化省である。

詳細は707.クバティナンを参照ねがいます。 <--リンク

以上、インドネシア専科よりの引用でした。

(引用注:もちろんバパが作った協会もクバティナン登録でありますね。<-リンク)

(注4)
Himpunan Penghayat Kepercayaan terhadap Tuhan YangMaha Esa :HPK 信徒協会


PS
こちらでは付論にて「(インドネシアでの)信仰の誕生」が語られています。<--リンク
(うまくリンクできない時はhttp://d-arch.ide.go.jp/idedp/ZAJ/ZAJ200306_021.pdfにて。)

PS
1997年に出版されたAntoonさんの本でも83ページで「信仰の誕生」が語られていました。

Santri Roh Antoon でググってみて下さい。

Antoonさんの本にGoogleぶっく検索結果としてヒットしますので、ご確認をお願います。


PS
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