ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

バパのリンカネーション論(輪廻転生論)//

2017-09-26 | 日記

バパはどうやら輪廻転生、リンカネーションを認めていた様です。

そうしてそれはある特定の人について、たとえばダライ・ラマのような人についてだけ、というものではなく、すべての人に対してのものでした。

そうであればそれはまるでヒンドゥー教や仏教が認識している「生まれ変わり、死に変わりして生命(ジワJiwa:Jiva)が継続してゆく」という教えそのものであります。

さてバパは多くのトークでリンカネーションについて語っておられました。

そして今まではその事はあまり表には出てきていませんでした。

バパがイスラムであったせいか「これほどヒンドゥー教や仏教に近い認識を持つことはあるまい」という先入観があった為かと思われます。

しかしながら、そのような先入観はどうやら間違っていた様です。

そういう訳で、以下、バパのトークから関連する部分を引用します。

引用したトークのリスト
October 8, 1957 - Bapak
November 11, 1957 - Bapak
November 22, 1958 - Bapak
June 30, 1959 - Bapak
August 7, 1959 - Bapak
March 28, 1960 - Bapak
Q&Aの編集 1971 - Bapak
February 3, 1974 - Bapak
October, 16 1977 - Bapak
October 20, 1977 - Bapak
December 11, 1977 - Bapak
Febuary 3, 1980 - Bapak
April 8, 1984 - Bapak
April 21, 1984 - Bapak
July 8, 1984 - Bapak
June 11, 1985 - Bapak
2月27日 2015-Ibu
2月5日 2016 -Ibu
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October10月8日, 1957 - Bapak
だから、完璧に達した人間は、神の恵み、神の贈り物を受けた人は、死ぬ時に死ぬことはなく、むしろ生きることが始まったと言われています。

あなたが忘れることのない例として、私の子供たちよ、それはキリスト教の中で語られています。
そこではイエス自身が預言者です。
預言者イエスが死ぬことはありませんでしたが、彼は終わりのない生命を生き続けました。
これは単なる例です。
(そしてそれは)バパが言っていることが真実であるかどうかを判断する際に考慮できる点です。

しかし、まだそのレベルに達していない人、またはバパが言っているように、彼らが死んだときに欲望の体(nafsu)を持っている人は、事実を全く理解できません。
その人は死んだことに気付かないでしょう。
これは、そのような人の内部は彼らの起源に戻り、本来の人間のレベル(ロハ二)に戻らないのです。
もともとその人はそのレベル(ロハ二)より下から来たからです。
その結果、彼らの欲望(ナフス)と共に残された人間は、想像していたものの中をさまよい、彼らが地上にいたときに彼らが多く考えた事柄の中でさまよいます。
(注:幽霊といわれる存在になる、とバパは言います。)

それはそうです。
それが、仏教において、生まれ変わり(reincarnation)が事実であると言われている理由です。
確かにそうです。
しかし、それは神への道に迷った人、または完璧への道に迷った人にのみ適用されます。

このため、仏教には以下の教えがあります。
人間はすでに高いレベルに達していれば、その人は輪廻転生から自由になり、この世界から自由になります。
これは、彼ら(仏教徒)が少し前にバパが生命力と呼ぶ精神(ロホ)の本当の性質を理解しようとする理由です。
それは物質的物体、植物、動物、および普通の人間存在に由来するものです。

これらの力についての知識が不足しているため、(真の)人間の魂やそのような高レベルに達していない人の魂は、その魂よりも強い力(注:4つの低次の諸力)が働く場所では簡単に迷うことがあります。
これが生まれ変わりです。
しかし、私たち自身が望むことは、可能な限り、もし神がそれを許せば、 もし神が私たちにこの贈り物をもたらせば - これ(輪廻転生reincarnation)を体験しません。

私たちは真の人間のレベルよりも低い場所に私たちが戻って行かないように神に願います。
言い換えれば、私たちが本当にどこに帰るべきかを知りたいと思っています。
そしてそれは完璧な人間の起源の場所です - 人々が通常それをインカンカミルinsan kamil と呼ぶような、それは完璧な人間、私たちが現在生きているこの世界からは分離している人間を意味します。
私たちは、死後、私たちがこの世に再びではなく、本当のこの世の後の生命を経験することを願っています。
(注:そのような魂のレベルに上昇する為のこの世の生活のやり方、すごし方が重要であるとバパは言います。)

この世界はこの世の後の生命世界ではありません。
このため、人々は通常、天国を語ります。

我々は、人間以下の力(4つの低次の諸力)により圧迫される事なく、そして私たち自身の欲望(ナフス)から自由になった後、これらの天の領域に入ることができます。
そしてこれ(ナフス)は私たちのレベルよりも低いレベルのこれらの力(4つの低次の諸力)との関係を絶えず利用しています。

訓練(ラティハン)では、私たちはどんなものでも、自分たちの欲望や、私たちより下のレベル、そして過去に人間によって創造されたもの、つまり言い換えれば、願望の力によって作られた、「イズム(~主義)」、またはスピリチュアリズム(心霊主義)、またはそのように呼ばれる創作物との関係を持ちません。

これは、これらの欲望が、奇妙な能力を持つ人、他の人の力を上回る力を持つ人と見なされることを可能にすることを除いて、それ以外の目的はなく使い道はないからです。
このようなことの結果として、人は人間以下の力(注:4つの低次の諸力)に強く縛られ、非常に緊密に拘束されるようになります。
最後にそれら(注:4つの低次の諸力)が完全に道を塞ぎ、そうして完全な人間のために準備された天の領域に入ることができなくなります。

そういうものなのです。

November11月11日, 1957 - Bapak
このトレーニング(ラティハンlatihan)はそれとは対照的です。
これは崩壊し、内部から流出するので、あなたは徐々に人間の領域外の状態と接触しそれを知る様になります。
最終的にこの訓練(ラティハン)で、あなたはこの地球の外のものを知ることができます。

もう一方は、バパが言ったように、すべての種類の混乱を内部感覚にもたらします。
バパが似た様な例をあげるとするならば、すべてを自分の中に持っていくことは、あなたの家から物事がどのようになっているのか見る為に(外に)出て行くのではなく、家の中に入って自分を閉じ込めるようなものです。
それで、あなたが知っていることはすべてあなたの家にあります。

それが違いです。
ある日、あなたがそれを受け取ることができれば、あなたは自分自身で知り、この違いに気がつく様になります。
あなたはあなたの家から出て、この地球を包囲する生命の偉大さを知ることができます。
また(その時にはあなたは)この地球を越えるので、あなたは生まれ変わりの対象にはなりません。

私たちは長い間ここにいました。
私たちは疲れています。
それで、もしできるならば、出口を求めています。

もう一つのものは、瞑想の練習(注:バパが体験したもの)、そして自分自身を黙らせることは、本当に外に出る道を探しているのではなく、ホール(穴)への道を探しているのです。
バパが人間の自己(プリバディ)の内部のホールや家を指しているとき、バパは人間の自己(プリバディ)の中にあるものすべてを意味するのです。
人間の下にある諸力は、物質的または悪魔的、野菜または植物の力、動物、そして人間です。
(注:4つの低次の諸力の事)
これらのために、生まれ変わりがあります。

あなたがあなたの家の中だけにいて、後で死ぬと、あなたはここにいるかもしれません。
植物のレベルにいるかもしれませんし、動物レベルにいるかもしれないし、人間のレベルにいるかもしれません。
言い換えれば、ここに戻ってきます。(注:この地球という世界に戻る)
そしてあなたは正しい形ではなく間違った形で戻ってきます。

(しかしながら)あなたが受け取ったものはそうではありません。
それは内部からきれいにしていきます。
もちろん、きれいにする事は家の中に何があるかによって異なります。
すべての種類のものが積み重なっていて、家の中に猫、ねずみ、犬、牛、水牛、花の鉢が並んでいるなら、当然のことながらきれいにするには多大な労力が必要です。

November 22, 1958 - Bapak
人間の内部にある魂の病気をどうやって表現することができますか?
魂は人間の中の内的な内容です。
それは人間が思考し、感じ、行動し、それを行うことを可能にする内容です。
しかし、人間のこの内容が本当に(完成された)人間の魂である、ということは決して確かな事ではありません。

これは、非常に高度なレベルで学んだり、すべての種類の資格や地位を持っているにもかかわらず、少なからずの人たちは、無意識のうちに、人間の行動規範に反して違反する行為を行うのであり、賢明な人ではないという証拠があります。
その理由は、自分たちの存在の内容、すなわち魂は、本当に神への約束を守ることができる(完成された)人間の魂ではないということです。

それは間違った低い魂で満たされています。
彼らの過失のために、彼らの強要され、妨害された行動のために、彼らの存在の中には間違った内容や魂、すなわち(完成された)人間(のレベル)に至っていない魂があります。

これは仏教で言及されています。
それは彼らが生まれ変わりと呼ぶものです。
つまり、人間の魂にはレベルがあり、人間の状態がまだ完全ではない場合、彼はおそらく上昇することはできず、また生まれ変わります。

ですから、これは重要なことですが、私たちを再び生まれ変わらせるブロックは取り除かなければなりませんが・・・(聞き取れない)・・・この世のものよりも万能です。

さて、なぜイスラム教とキリスト教には、生まれ変わりのようなものはないのでしょうか?
その理由は、キリスト教とイスラムという名前が「完全な人間の状態」を意味するからです。

しかしながら、これらの宗教に従う人々はまだ(完全な人間ではありません)。
したがって、宗教は本当に生まれ変わりを好みませんが、かといってその信者は自分の宗教が必要とするものを常に完全に行う、と言う事ができている訳ではありません。
(注:つまり死に臨んで輪廻の輪から逃れられるかどうかは定かではない、、、と言う事になります。)

June6月30日, 1959 - Bapak
物質から人間まで - レベル1から4まで - 私たちは、思考の心、私たちの感情心、そして欲望を静めることによって、これらの4つの力を実際に見極めることが可能です。
これらの力は依然として人間の意志と結びついているからです。
だから、人々がまだ感情心と頭脳の力を利用している限り、彼らは元に戻って再び人間になる必要があると言われています。

これについてはあなたが読んでいるかもしれないのですが、生まれ変わりと呼ばれるものです。

しかし、あなたが神によって祝福され、より高いレベル(普通の人間より高貴な第5レベル)に上がることができるなら、あなたはこの世界に戻って再び人間になることを望まないでしょう。

実際には、人間は皆、あなた方もそうですが、満足感を持っていません。
あなた方に触れるすべてのものの影響を受けるからです。
たとえば、あなた方は寒さの影響を受け、冷たいものによって影響を受けます。
熱によって、熱いものによって、あなた方はこれとその影響を受けます。
あなた方はまだこれとそれに苦しんでいます。

August8月7日, 1959 - Bapak
物質力からロハ二まで、それらが働いた時に、それらが影響を内部感覚に与えた時にどのようになるかを感じ取る。
その世界に引き込まれた時にどうなるかを前もって知る事ができる。

このような仕方で私たちは、これらの力のそれぞれの世界に住むこと、その世界に滞在する事は、どの程度に心地よいかという真実を感じ、知る事ができます。
またこのような仕方で、あなた方はそのうちのどれが他のものと比べて、自分にとってより心地よく幸せであるかを間違いなく選ぶ事ができるでしょう。
ですからじぶんでは気がつかない内にある物体に、ある植物に、ある動物に、またはある人間に強制的に生まれ変わらせられるということにはならないでしょう。
その代りにあなた方は人々が完成した人間の世界と呼んでいる、あの祝福された世界(ロハ二)に帰還する事ができるでしょう。
(注:ロハ二の力を感じ取るには、その人がすでにロハ二 レベルに到達している事が前提となります。)

March3月28日, 1960 - Bapak
すべてがきれいで良ければその場合のみ、私たちはロハニ精神(ロハニ スピリット)を見つけることができます。
その場合のみこの精神が私たちの内部感覚に現れ、私たちがまだこの世にいる間に、我々は実際に私たちの人生がどのようであるのか、この世界についてだけでなく、死後に私たちの人生がどのようになるのかを体験することができます。

だから、一般的な人々の場合、あなた方の様に、まだ清潔ではなく、依然として欲望、感情心、思考心によって非常に支配されている場合は、ロハニの力を受け取り、感じることは本当に非常に難しい。

あなたがまだ低次の諸力、すなわち物質的、植物的、動物的、身体的な人間の力の影響を受けている限り、あなたが死ぬときにあなたは上ることができなくなります。
あなたが死ぬと、あなたが上ることは不可能です。
あなたはまだここに戻らなければなりません。

そしてここに戻ってきたら、あなたが人間として戻ってくることは確かではありません。
たとえばあなたは物質的な物体、植物、動物として戻ってくるかもしれません。

だからこそ、ここ(カルカッタ:インド)や他の場所で、動物は特別な扱いを受け、聖なるものとみなされます。
登ることができず、この地球に戻って動物の体に入った人の精神によって動物が占領された可能性があるからです。
これは通常、生まれ変わりと呼ばれるものです。

多くの人がいます 。
バパは彼らを非難しているわけではありませんが、まだ石を崇拝する人がたくさんいます。
彼らは自分の想像力で石を描き、それらのことを考え、自分たちよりも高いと考えます。
それで彼らは石を礼拝する。
それはそれらの(崇拝対象となっている石の)祝福、恵み、恩恵、祈りを求めることを意味します。

これはなぜですか?
登ることができない人が石の中、物質的な物の中に戻ってきたことが本当に起こったからです。
その石にはある種の力があります。
しかし誰が石を強力にするのですか?
かなり単純に(言えば)、人々自身です。
特に偶像(石や金属、木材でできた聖なる者の像)の場合。
毎晩あなたはそれの前に自分自身を伏せ、花と香を置く。
毎晩あなたが眠りにつく前に、あなたはこれらのことを行い、結局それはあなた自身よりも強力になります。
・・・・・
それが、宗教において、神が使徒たちに、人々がそのように行動すべきではないという指示を授けた理由です。
彼らは人間としての自分自身のことにもっと注意を払うべきだということです。
人間の生死は自分の体の中にあります。

だから、あなたの体を外側から内側に、内側から外側に向けて見ないと、あなたの自己(プリバディ)は、人間の目にも、神の力の前にも、何の価値もありません。
だから、私たちの内部感覚の観点からすれば、この人体はまったく役に立たないという事になります。

そして、この世界において、物質的なもの、植物、動物、そして人々自身の身体的な生命力よりも賢明で、より能力があり、より知性的なこのような完璧なからだ持つ神の創造物という人間存在を作り出した意味がなくなります。
これらが、なぜこの世界の一部の人々の生活が暗くなっているのかの理由、そしてなぜ彼らがこの世で生きて幸せになるかについて、彼らが失敗しているのかの理由です。

実際、人間は知性と良心を持つ存在としてこの世界に創造されてきましたが、これは私たちがより多くのことを成し遂げることができ、他の存在よりも崇高な性格を持つことができるということを意味します。
他の存在とは、すなわち、物質的な対象物、植物および動物の事です。


Q&Aの編集 1971 - Bapak
A Compilation
生まれ変わりとラティハン

バパはあなたがラティハンで受け取ったような経験が実際に協会に存在することを確認します。
インドネシアや海外の多くの兄弟も同様の経験をしています。
これは我々のラティハンが非常に幅広く、すべてが自分の本性と合致することで満たすことができるからです。

あなたがすでに知っているように、ラティハンでは我々は、全能の神の力によって動かされます。
そしてラティハンの本質は、粗い部分から細かい部分へ、それからジワまで、全体を生き生きとさせることです。
それは最も低い位置から始めて最も高い位置に達します。
これは、私たちの体、粗い部分と微細な部分の両方が良好になることができるように、また私たちの欠点のために(本来あるべき位置から)陥落したジワdjiwaの為にも必要です。

私たちの生命の発展から、上記のように神から進んで、私たちは自動的に完成に向かって自分自身の変化と改善を体験します。

例えば、私たちがラティハンの中で受けたのは、以前は私たちが王、司祭、非常に豊かな人などとして住んでいたことがあれば、 あるいは以前は象、牛、蛇、虎、猿など動物としても生きていたと言う事です。
これらのすべては、私たちの内面的な性質が完璧な状態に改善できるように、きれいにされ、修理される必要があります。
そして最終的には私たちは過去の様に(昔生きた姿で)再び生きる必要はありません。

生まれ変わりについて教える宗教的な社会がありますが、生まれ変わりは実際には段階に過ぎません。
なぜなら、それは言われているように、もし人が美徳の段階にまで達したなら、彼は全能の神によって必要とされない限り、人として再び生まれ変わらないでしょう。

このすべてから、転生の問題は協会のラティハンに存在するが、以下の違いがあることは明らかです。
協会での生まれ変わりは、人間の生命過程であり、人間の欲望ではなく、神の力の働きで行われます。
それで、私たちは自分自身で簡単に浄化と改善を体験することができます

これの証拠はすでにラティハンで与えられている。
(ラティハンの中で)多くの兄弟たちが司祭、富豪、有名な男、貧しい男性、愚かな男性などとして自分自身を表している。
そして野生動物であったり、飼い慣らされている動物として(自分自身を)表している人たちもごく少数ではありません。

これらはすべて霊的な経験であり、本当に浄化される必要があります。
そして最終的には完璧な状態に達することができます。
それはすべて私達が今受け取ったラティハンに関連して目撃するかもしれない生まれ変わりの主題に関するものです。

したがって、あなたがこの問題のあなたの経験を(他の人に)説明したいのであれば、そうして下さい。
但し、それらが経験のみで構成されていることが明らかにされている場合に限ります。


February2月3日, 1974 - Bapak
古代史では、化身(incarnated)と呼ばれるものがこれに似ています。
しかし協会では、化身は固定的な確実性ではありません。
いいえ。この化身は現実に存在する必要がある種類のものではありません。
したがって、化身の性質は落ちる可能性があり、上昇する可能性もあります。
何故ですか?
この種の化身は自分のカルマによって引き起こされるからです。

(他方で)ラティハンでは、それはカルマのためではなく、自分の欠点のためだと(主張します)。
(通常の状態では人は)人を覆っているもの(ナフスnafsu)から分離して受け取り、感じることは決してできません。

October,10月16日 1977 - Bapak
たとえば、ブッダ。
仏教では天国に行く人の事は誰も聞いていません。
あなたはブッダが天国に行くという事は聞きません。
仏教で経験していることは、あなたがこの世界に再び帰ってくることです。(注1)
これはまた、生まれ変わりとも呼ばれるものです。

したがって、アンワスと感情心と思考心と自分自身の力を使いたい人が達成したことは、常にこの世界に限られていることは明らかです。(注2)

しかし、アンワルの子孫はまったく異なっています。(注2)
なぜなら、彼らは全能の神の意志によって本当に天国に行くことができたからです。
そして天は想像上のものではなく、彼らが体験できる本当の天国でした。

例えば、イエス・キリストです。
3日後に十字架につけられた時、彼は大きな輝きと大きな光を経験しました。
これには誰もが見ることができる出来事が伴いました。
地球が揺れ、激しい嵐が起きたのです。

October 20, 1977 - Bapak
神を礼拝する際に彼らの感情心と思考心を使って得たものは本物ではなく真実ではありませんが、逆にそれは人間の内部自我に損害を与え、人間は悪魔の世界に失われます。
そしてそれは物質的な生命力の世界です。

これはそういうことなので、兄弟姉妹の皆さん、バパはあなた方にそのような影響が及ばないようにあなた方に思い出させるだけです。
これらは物質的な影響、物質的な力の影響です。

それが仏教徒が生まれ変わることを望む理由です。
彼らはまだこの世界に戻ることを望み、そうして彼らは、彼らが望むすべてを持っている人のような、豊かな人のような、権力を持つ優れた人々として戻ってくることができます。(注3)

December12月11日, 1977 - Bapak
私たちのラティハンは、この世に存在するものを超えて、この世界を超えてあるものを目指しているものです。

ラティハンでは、感情心と思考心がこの世界に限られており、それを超えて行くことができないため、私たちは感情心と思考心の不活性化を経験します。

バパがあなたに説明したサン ヒヤン シスSang Hyang Sisと同じように - 彼は自分が望むものを得たにもかかわらず、そして非常にすばらしい、非常に強力で非常に輝かしいものになったが、それはすべてこの物質世界の中のものでした。(注2)

これが彼の足跡と彼の方法に従う人、サン ヒャン シスに従う人が常に生まれ変わりを必要とする理由です。(注5)
彼らはいつもこの世に戻ってくる必要があります。

これは、例えばチベットで新しいリーダー、新しい王または新大祭司、あるいはダライラマと呼ばれる方を探しているとき、彼らはいつも最後のダライ・ラマが亡くなったその時刻に正確に生まれた赤ちゃんを見つけようとするのです。
そうやって、ダライラマの精神や魂の生まれ変わりの果実を得ることができるのです。(注6)

これが私たちが受け取ったものとの違いです。

それはもちろん、インドでも同じです。
彼らは、人々は常に良い人生を送るべきだと常にアドバイスしています。
彼らはこの世で禁欲主義と自己否定を練習し、夜には断食と祈りと覚醒を続け、本当に「ミカMika」である人になるかもしれません。 (注4)
ミカになった人は死んだ時に、この世界を離れることができます。

しかしそれらが意味することは、彼らがこの世界に戻ったときに彼らが行く場所を選ぶことができるという立場にあるということです。
彼らは自由に選ぶことができます。
だから次回は、この世では非常に裕福になるか、非常に成功する、あるいは非常に高い地位になる、あるいは多分王になることが運命づけられているような、赤ちゃんや胚、あるいは彼らが見ることができるものならなんでも、そういうものを選びます。(注4)

しかし、当然のことながら、今日は多くの王がいないので、大統領になるか、そういうような人になるだろう。
だから、いつも生まれ変わりに頼ってこの世に戻ってきます。

例えばイスラム教やキリスト教、あるいは他の宗教では、それはまったく異なっています。
生まれ変わりはありません。
イスラムは生命を意味します。
私たちが知っている宗教は、イスラム教やキリスト教のように、生命を意味します。
(注:ここでバパが言っている宗教とは、アブラハムの宗教と言われている系列のものの様です。)

つまり、理論的には(そういう事になっています)。
宗教は永遠の命ですが、そしてそれはまだ実践されていますが、多くの人々はそれを実践する方法を知らないのです。
彼らは理論にとどまるだけで、バパが今説明したように、彼らはまだ普通のやり方で物事を実践しています。
(注:ここは「それぞれの宗教に従う多くの人たちには、しかしながら現実が伴っていない」という主張になっています。)
・・・・・
それは、神の力が実際には「感覚ラサRasa」であることを思い起こさせることです。
「感覚感覚ラサRasa」の中に、あるいは「感覚感覚ラサRasa」を通じての感覚フィーリングです。
そして、これは今私たちが全能の神の恵みによって受けたものです。
つまり、このラティハン・クジワワンで神の意志によって神の力との接触を受けました。

そして、この目的は、神の力との接触を感じることができること、私たちがジワjiwaの生命を感じること、つまりこの世界でまだ生きている内に感情心と思考心の影響から解放された生命の振動を感じることです。
なぜでしょうか?
その目的は、この世界での私たちの人生に対するこのような理解をジワに移すことができるということです。
その結果、私たちが死ぬ時、感情心と思考心がもはやそこになくなる時に、ジワが奇妙に感じることはありません。

(注:人が生きてきた記憶をジワに転写し保持できる、つまり死後も個性が保存される、という主張です。)

それは(ジワが)この世界での経験やその人生の現実を得ているので、(死に臨んでも)私たちは依然として意識を持ち、気が付いている事ができます。
(注:通常の場合は人は死に臨んだ時に、無意識に落ち込むか、あるいは意識がなくなります。)

Febuary2月3日, 1980 - Bapak
しかし、人々が夢を見て努力して達成することは、これらはイスティジラットistijratです。
したがって、人々が超自然的な力を身につけ、不死身になることそれはイスティジラットistijratです。

彼らが死ぬと、これらの人々は次の世に行くことができません。
彼らはそれをすることはできません。
そのような人々はこの世界に属します。
彼らが生まれ変わったのはそのためです。

したがって、バパの場合、バパの受けた事によると、バパは死んだときに生まれ変わることはありませんが、(生命は)継続します。
・・・・・
神の意志であり、神があなたを導いているなら、起きているか眠っているかを問わず、あなたがしているすべてのことにおいて、すべてのあなたの活動、すべての行動において、あなたは全能の神の導きと指導を感じるでしょう。
あなたは、神の力が本当にあなたを内側と外側の両方で囲んでいるという証拠を得るでしょう。

人々が通常は「人生の危機」とみなす死は、そのような人々にとってはそう感じることはありません。
そのような人々とは唯一全能の神からワヒュー(wahyu:恩沢)を受け取った人々です。
死後の世界は、すでにこの世界と一つになっているので、それらの間には何も立っていないでしょう。
(注:死後の世界とこの世はひとつづきである、障害物はない、という主張です。)

April4月8日, 1984 - Bapak
宗教では、絶望する人は醜い、罪深い、神を信じない人とされるために、人間は絶望することが許されていないとすでに説明されています。

例えば、彼はこれを探してそれを見つけることができない、彼はそれを探してそれを得ることができない、彼はこれで働きたい、そして彼はできない、彼はそれで働きたい、そして彼はできない。

だから彼は言う。
「私はもう死ぬかもしれません。なぜなら人が言うように、あなたが死ぬとそれが終わり、私たちの人生の話の終わりだからです。」

全く違います!
イエスは自分自身でこう言いました。
「死は生命の継続です。」
だから、死は終わりではなく、生命は続くということは明らかです。

問題は、どの道にそれが行くのか?です。
それは後ろ向きに行くのか、それとも先へ進むのでしょうか?
それは上向きになっていますか、それとも下向きになっていますか?

これも仏教において説明されており、それは「生まれ変わり」と呼ばれています。
(他方で)イスラム教にはそのようなものはありません。
イスラムは生まれ変わりを望んでいない、彼らはもし可能ならばそれを避けたがっています。

しかし、イスラム教徒がバパがちょうど述べたように、彼らは同じ宗教で同じ人種であるにもかかわらず、お互いを殺し合っているのであれば、誰が最後に彼らを上げることができるでしょうか?
そこには、そのような人々のための余地はありません。
地獄は天と呼ばれるものに比べて小さいが、それでも多くのものを含むことができるほどの大きさはあります。

だから悪い人、醜い人、貧しい人は金持ち、知的な人、学部長である人よりもずっと多いということは大事です。
それが神の定めです。
それにもかかわらず、兄弟姉妹の皆さん、神は人にそのような運命を離れさせることを可能にします。
あなたが神の助けを受けるならば、その場合のみあなたがそうすることができるということを忘れないでください。

April4月21日, 1984 - Bapak
私たちは裸で生まれました。
後で私たちが死ぬ時、私たちが帰る時、再び裸になるでしょう。
そして、私たちがこの世界を離れるとき、私たちは何も持っていけません。
それでも、オランダの諺にあるように、死はまさに人生の継続です。

それは私たちが間違いを見て死ぬ時にそうなります。
私たちは物質にこだわって、野菜にこだわって、動物、人間につかまった。
なぜ私たちは物事に取りつかれ、食事をしたり、他の人との関係につまずきましたか?
人生に付随すると思われるまさにその力(4つの低次の諸力)を避けることによって得る結果は強みではなく弱みです。
意図した通りこれらの力(4つの低次の諸力)よりも上に上がるのではなく、(死後に)それらの下に落ちます。
(注:この部分はバパの禁欲主義的な修行方法への批判になっています。)

そしてそれは、兄弟姉妹の皆さん、私たちの間違いの結果として、生まれ変わりと呼ばれるものが起こるのです。
(注:これがバパの生まれ変わりに対する結論の様に見えます。)

化身(incarnated:肉体化)とは、インドで起こると言われているものを意味しています。(注9
インドでは、人間の魂を持つ牛がいると言います。
彼らはそこに「その牛は人間の魂を持っている」と言っています。
しかし、人間の魂が牛だけに生息するだけではありません。
木はまたその中にそのような魂を持つことができます。
物質的な物も(魂を持ちうる)。
これはインドに関連するものです。

それはアラジンAladdinの(魔法の)ランプの物語のようなものです - ランプをこする人は悪魔の住居に吸い込まれます。
なぜ?
人間自身の間違いのために。

なぜこれはすべて起こるのですか?
思考、感情心、思考心を間違った方法で使っているからです。
これが、バパがあなたにある事を伝えたい理由です。
バパが最近ジャカルタ外のメンバーに言ったことですが、ここ(チランダ)でも繰り返す価値があります。
少なくとも、他の人を傷つけたり傷つける心や意欲を持たないでください。
復讐感や憎しみをはるかに少ないように。
これは絶対に許可されていません。

神聖なコーランの詩では、それは言われています。
イスラムの人は、別のイスラム教徒に対して嫌悪感や復讐感を感じてはいけません。
恨みの気持ち、恨みの抱きしめ、復讐の意志は、その気持ちを持っている人が、復讐する人、場所、物に、つまり、彼が憤慨しているまさにそのような人へと肉体化(incarnated)されることを意味します。
これが現実です。

あなたが男であり、あなたが結婚していて、あなたの妻が妊娠して子供を運んでいる場合、あなたが誰かを憎むようになったら、あなたに生まれる子供は、あなたが嫌う人のようになります。
はい。あなたが軽蔑する人が知的で親切で美しいものであっても、(あなたが持つ子供は)知的ではなく、親切ではなく、善良でもありません。

そのように登録されます。
そしてこれ(間違い)はすべて人間自身が作り上げたものです。

July7月8日, 1984 - Bapak
この世においては、我々は尚、食物を必要とし、人々が私たちを好まない場合にはそれが気にさわります。
私たちは尚、自分たちが何かを作り、人々がそれをけなしたならば腹が立ちます。
何故ならば、私たちは尚、この世にあるものと結び付けられているからです。
そして若しも、私たちがずっとそういう風に結び付けられたままでいれば、最後には古代のジャワ人のようにバパが前にも話したような存在となってしまうでしょう。
つまり、彼等は尚もこの世に住んでいます。
彼等は尚ここに居てそして働いています。
(注:通常、我々が幽霊と呼ぶ存在の事)
何故なら、この世に存在するものとの結び付きの故であります。
これが生まれ変わり、或は、転生と言われているものです。
これが輪廻転生へと人々を導くものです。  

イスラムにおいては人々は輪廻を好みません。
彼等はそれを好まないのです。
けれどもしかし、 どうしたらそれを脱することができるかを理解していません。
問題なのは、殆どの宗教が尚、フアンタジーであるということです。
というよりは人々の宗教に対する信仰が尚、フアンタジーの領域にあるということです。  

丁度、それは回教徒がこう言っている場合のようなものです。
あなた方は一日の断食が明ける時にナツメヤシを食べますが、その度ごとに、つまり、あなた方がより沢山、そうやってナツメヤシを食べる度に、そのナツメヤシは来世に植えられて、そしてあなたは天国に行けるのですよと。
そして、あなたは自分が断食をして、その断食明けに食べたナツメヤシの数だけ、天国でナツメヤシの木を持つことになるでしょう。
ですから、できるだけ多くのナツメヤシを食べなさいと、こういう風に言います。

人々は勿論、この話は単にアラビヤの輸出を推進するためのものであることを知らないのです。
そしてこれは、単にイスラムを広めた人々の関心事であって、宗教とは何の関係もないことを知りません。

June6月11日, 1985 - Bapak
ラティハンの性質は、私たちの起源を示すことです。
私たちがどこから来たのか、私たちの祖先はどこか、私たちの内的な内容はどこにあるのかを示すことです。
象や牛、ヤギなどが何であれ、そういうものが私たちの中にいるかどうかがわかります。
これらはすべて本当のものです。
そして象やヤギのようなものなら、少なくともあなたはそれを見ることができるので、それはそれでいいのですが。
しかし仮に、あなた方が 一匹の蚊であるとしたら、あなたの経験の中には実体らしいものが何もないということになります。
ですから皆さん、あなた方が一つの階段から次の階段へ、物質から植物へ、そして動物へ、そして人間へと行くということ、つまり、生まれ変わりがあるというのは本当に真実のことなのです。

そこで、次のようなことが重要だということになります。  
さて、あなたは今人間のレベルにいる。
少なくとも後戻りして、牛やら山羊やらにならないようにしなさい。
仮に前に進むことができないにしても、少なくとも今あるままに留まるように努めなさい、ということです。(注7)

2月27日 2015-Ibu
まあ、それは起こる。
彼は影響を受ける傾向があります。
彼の祖先は彼に影響を与えます。

実際、協会では、生まれ変わりは適用されません。
しかし、まだ(神によって)受け入れられていない霊があります。
ほとんどの場合、誰かが協会にいる場合、浄化は十分です。
彼らは再び生きる必要はなく、また戻ってくることもありません。(注8)

2月5日 2016 -Ibu
「協会にはいっていれば、私たちはみな天国へ行くだろう」などと言わないで下さい。
なぜあなた方はそのように考えるのですか?

「バパが私たちをそこへ連れて行ってくれるでしょう」
そんなことはありえません。
バパはあなた方を天国へ連れて行くことはできません。
あなた方各人がその努力をしなくてはならないのです。
バパは単に方法を提供しました。
バパはあなた方をおんぶして天国に連れて行くつもりはありません。
あなた方は自分で努力する必要があるのです。
(注:これがラティハンと宗教でいう所の「神との契約」との違いになります。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上記バパのトークの部分についての英文トークからの引用は以下を参照願います。
・Bapak's Theory of Reincarnation Part 1<--Link
・Bapak's Theory of Reincarnation Part 2<--Link
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注1
仏陀は天国にはいかなかったかもしれませんが、転生はしませんでした。
輪廻からの解脱者としてmokṣa(モークシャ)あるいはニルヴァーナ(梵: nirvāṇa, 涅槃)に上ったと言われています。<--リンク

そうしてこれが良く知られているように、仏教の目指す所であります。
仏教ではバパが言うように「良い暮らしをするために現世に戻るのが目的」とは言っていない様です。

注2
アンワス、アンワル、サン ヒャン シスSang Hyang Sisについてはこちらの記事を参照ねがいます。<--リンク

注3
仏教ではこの世を「苦」とみます。
そうして、この世からの離脱、輪廻転生からの離脱を希望するのです。<--リンク

そうであればどのような理由をもってバパは「仏教徒は現世に戻りたがる」と言うのでありましょう?
そのような主張をするバパについては理解に苦しむものであります。

注4
ミカ(Mika)については探しましたが、分かりませんでした。
現時点では詳細が不明なコトバです。

加えて「インドでも、アンワスの道は行きわたっています。」というのがヒンドゥー教の事をさすのであれば、「良い暮らしをする為に現世に戻りたがる」という指摘は誤解でありましょう。
ヒンドゥー教の生まれ変わりについてのスタンスはこちらの記事を参照願います。<--リンク

その記事にあるように『輪廻転生からの解放を達成し、ブラフマンの不滅の世界に入り、彼らが最高自己Supreme Selfとの統一の状態で永遠に解放される』のが目的である事が分かります。

注5
ここでバパは仏教やヒンドゥー教がサン ヒャン シスと呼ばれる事になったアダムの孫にあたるアンワスが起源である、というジャワの伝説、あるいは神話をもとにした話をされています。
しかしながらそれはジャワにイスラムを広めるために作られた話の様であります。

この件、内容詳細につきましては注2のリンク先の記事を参照願います。
(但し、バパはアンワスといいますが、多くの記録ではアンワルがサン ヒャン シスになったとしています。)

注6
ここの文脈ではダライ・ラマが「サン ヒャン シスの道に従う人」で「権力を持つ優れた人々として戻ってきている人」の例の様に扱われています。
さて、この指摘は本当でありましょうか?

ダライ・ラマの「輪廻転生制度」については以下の様にHPで説明されています。

・14世ダライ・ラマ法王発見の経緯と輪廻転生制度<--リンク

あるいは、次の様な記事もあります。
ダライ・ラマ14世「私でダライ・ラマ制度は終わりにしたい」<--リンク

転生を繰り返すダライ・ラマをHPが主張するような「菩薩行」とみるか「今の地位を求めて常に現世に戻りたがる人,良い暮らしを求めて転生する人」と見るかは、読者の判断にお任せしたいと思います。


他方で、チベット仏教では仏教徒は現世に戻りたがっているのでしょうか?
チベット仏教で特徴的な「死者の書」からその様子が伺われます。<--リンク

そこから分かるのは、やはり「輪廻からの解脱をめざしている」という事でありましょう。
そうしてこれは個人的な認識ではありますが「解脱ができないならば、せめてまた人に生まれ変わること。」がチベット仏教では次に希望されている事であると理解しています。

注7
ここでのバパの立場は「輪廻転生から離脱出来ないのであれば、せめて人として転生するようにしなさい」というものであります。
これはリンカネーションを認めるバパでありますれば、当然そのようなアドバイスになるかと思われます
そうしてまた、このスタンスはまったくチベット仏教徒のスタンスと同じであるようにも見えます。

注8
『ほとんどの場合、誰かが協会にいる場合、浄化は十分です。
彼らは再び生きる必要はなく、また戻ってくることもありません。』

ここでは2代目は「8割~9割がたの会員は輪廻を離れる」と主張されているように見えます。
そうして、「輪廻を離れるのはロハ二に到達した会員だけ」とするバパの説明からすれば、我々の協会の8割の人はロハ二レベルだと言う事になります。
しかしながら、そのような事はどうやら現実ではない様です。
とするとこれは会員へのリップサービスかな、とも思ってしまうのでありました。

注9
ネパールでの化身(incarnated:肉体化)の例です。
ご参考までに。
・生き神「クマリ」に選ばれた3歳児、儀式経て任命 ネパール<--リンク

まとめ

バパがトークで「Tuhan Yang Maha Esa」(唯一の神)と言います。<--リンク
それを英訳者が「God Almighty」と英訳します。
そうして和訳が「唯一全能の神」となります。

バパは「イスラムだ」といます。
我々はそれを「バパは(オーソドックスな)イスラムだ」と理解します。
しかし実態はバパのイスラムはジャワ・イスラム(ジャワ伝統的イスラム)です。<--リンク

バパがアダムの話をします。
我々は「バパは旧約のアダムの話をしている」と理解します。
しかし実態はバパはイスラムでのアダム、そうしてジャワにある伝説・神話としてのアダムの話をしているのでした。<--リンク

さて、そういう訳で我々は「イスラムであるバパが仏教やヒンドゥー教が言っているような輪廻転生を認めるはずがない。」と自分たちで勝手に判断します。
しかしながら実はバパは輪廻転生を認めており、多くのトークでその事を語っていました。

論点整理(バパが言った事)

・輪廻転生は存在する。
・全ての人は輪廻の輪の中にいる。
・カルマによる転生(化身?)もある。
・バパは「人は自分の間違いによって転生する。」と主張している。
(注:間違いとは・・・地球上で使う力のみしか知らず、その結果、自分を地球と強く結びつけてしまう事)
・いままで積み重ねてきた間違い(カルマ)はラティハンによってきれいにできる。
(注:但し我々がラティハンによる浄化の邪魔をしない、という条件がつく。<--リンク)
・ラティハンによってロハ二 レベルまで到達すれば輪廻から離れる。

・四つの低次の諸力は地球上のみに限定されている。
・したがってそれらを主に使った修行方法では地球を離れる事は(輪廻を離れる事は)できない。
・サン ヒャン シスというのはそのような道の象徴である。

・仏教徒、ヒンドゥー教徒は輪廻からの解脱を目的とせず、常に良い暮らしのできる人間に転生する事が目的である。
(注:これはバパの誤解であると思われる。)

・四つの低次の諸力しか知らず、それだけを使い、人生を過ごした人が輪廻から離れる事はない。

・イスラム、あるいはキリスト教、あるいはそれ以外のアブラハムの宗教は輪廻転生を好まない。
・しかしながら、それらの宗教に従う人たちはどのようにしたら輪廻から離れられるのかをしらない。
(注:したがってそれらの宗教に所属している人たちが輪廻を脱するかどうかは確実ではない。)

PS
こうしてバパの中では「唯一の神」という存在と「輪廻転生」という事柄が何の矛盾もなく共存しているのであります。

そうして実際にそれは、我々の常識的な考え方、あるいは広くよく知られている考え方とは違いますが、それにも関わらず、この二つのものが同時に存在する事はできない、とするような合理的な、あるいは妥当な理由はどこにも見当たらない様に思われます。


さて、ラティハンは性別、人種、思想、宗教を差別しません。
そうであればその先にある「天の領域」もまたそうでありましょう。

バパはそこをロハ二 レベル以上のジワ(魂)の行く先としました。
そうして人々はいろいろな名前でそこを呼びます。

いわく、天国、ロハ二のジワの天の住み家、輪廻から離れた魂(ジワ)の行く先、mokṣa(モークシャ)、ニルヴァーナ(梵: nirvāṇa, 涅槃)等々。

バパが言うように、ジワが永遠のものであり、なおかつジワが輪廻転生をするのであれば、その輪廻を離れたジワが行く先も一つでありましょう。

そうして、その行く先の名前について言いあらそってみた所で、得るものはないもない様に思われます。


そうしてラティハンというものは人間のカルマを浄化し消滅させることにより、輪廻から離れる事を可能にするような、具体的で自然な、そうして強力な手段、方法であると見なす事ができそうです。

少々補足すれば「具体的である」というのは人間の想像力や集中力を使って人が何かを作り出す、何かを達成する、という必要はなく、ラティハンそのものが実体的であり人に求められる事は「それを受け取る」と言う事だけである、という意味になります。

「自然である」と言う意味は、ラティハンが本来の自分を目指すものであって、自分と違うものになる事を目指していない、という意味になります。

そうして「自然でありながら強力である」と言う事は、ラティハンが目指している方向、ラティハンがもたらしてくれる浄化の方向を自分が進むべき方向である、として認め「その方向でよし」とするならば、ラティハンは最終的にはその人を解放にまで導くほどに強いものである、という意味になります。

しかしながら、「いいやその方向は違う」といって自分の現状の姿を「是」とするならば、ラティハンが浄化したものを、また自分で元に戻すならば、そこで浄化は足踏み状態となり、ラティハンがそれ以上の浄化を強制的に行う、ということはないという事になります。(注10

つまりラティハンの道行きの中では「人の自由意思は尊重される」ということであり、一切の強制力は働きません。


余談になりますが、この事はこの世の成り立ちに深く関係している様にみえます。

つまり、輪廻転生というものはつまるところ自己責任での転生を認める、という世界構造であり、その大前提は「人の自由意思は尊重される」という事であると思われます。

注10
もちろん我々が感情心や思考心、あるいは通常ペルソナと呼ばれているような自我によって欲望される、あるいは希望されるような方向にラティハンの浄化の方向を導くという様な事は基本的に不可能です。
それゆえにラティハンの浄化、あるいは進歩を早めようとして、「よかれ」と思って我々が能動的に行う「すべての修行行為」は無駄であり、それどころかラティハンの邪魔をする、という結果に終わってしまうであろうとバパは言うのであります。
(但しこの内容は、ラティハンと切り離して行う、ラティハンの浄化や進歩とは関係を持たずそのような意図を持たない、精神的なあるいは身体的な練習、訓練、エクササイズの実習を妨げるものではないと思われます。)

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ラティハンのもう一つの説明・2/

2017-09-16 | 日記
さて、まずはバパのトークの引用から見ていきましょう。

「神の力」というのは「ロホ イロフィ」であるということ・・・の記述

77・9・17 モントリオール

しかし、常に私たちの誰にも宿っているこれらの物質力の影響を受けずに、神を礼拝するために、神はアダムにロホイロフィ、つまり神の力 をお与えになりました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
神が人間の内部に置いたのはロホ イロフィであること。

ラティハンはロホ イロフィの働きによる、と言うこと。

77・7・20 オスロー

皆さん、要するに、皆さん自身すでに経験されたスブドの霊的ラティハンについて、バパが今まで話してきたことは、決して新しいことではありません。

これは人類の誕生以来、宗教が始まって以来ずっとあることなのです。

と申しますのは、皆さん、これはまことに神の御意志であり神がお創りになった被造物のすべてに対する神の御命令によるものなのです。

特に人間には、同じく神の御命令によって、思考や知性を所有するほかに、生きている間、与えられ、伴わせられているものがあります。

それは人間生活に対して指導指針を与える生命力であります。

そしてこの人間生活にとって指導・指針を与える生命力は、キリスト教では聖霊と呼ばれるものであり、イスラムではロホ・イロフィ、即ち導きの生命力と呼ばれるものです。


皆さんが本当にハートを静めることができ、忍耐と信仰と誠実な服従を以て神に服従することができる時、この生命力は起り、現われ、皆さん自身でも感じとることになるのです。

これは亦宗教で教えられることでもあります。

皆さん、そこで明らかなように、皆さんが受けて行う運動や行動は、神の創造物全体を導き指揮する生命力によって起されているのです。

そうして神の創造物全体がそれに従うことができ、その生活に伴う低次の諸力の影響からの分離を受けることができるのです。
・・・・・・
それは皆さんが、私達みんなが受けてきた霊的ラティハンの本性に基づいています。

これらのことが、人類の存在の始めよりこの方、ずっと人類に伴ってきたのは全く真実です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
69・9・12 東京

つまりその時期には、赤ちゃんはまだ神の力に極めて近いところにいるからなのです。

赤ちゃんのジワはまだとても活き活きとしていますから、赤ちゃんが泣いたり、悲しい顔をする時は、そのジワ、その内部の霊性が何か悲しみを味わっていることを示しているのです。

しかし、この赤ちゃんが成長し年令を加えてきますと、だんだん現世とそのあらゆる影響を受けて、ついにはジワが 神の力との接触を完全に失ってしまうようになるのです。

ですから、年をとると、思考は物質力によって完全に支配され、世的影響が充満してしまうのであります。
・・・・・・・
今、あなた方が感じているラティハン・クジワアンは何か新しいものではないのです。

人類が生存しているのと同じ長さで存在しているものなのです。

あなた方は、これを何か奇妙で新しいことなどと感じることはないのです。

あなた方が生まれた時から既に、あなた方には贈られているものなのです。  

長い間、あなた方の中にあった大切なものを放っていたので、遂にそれが恰も、何か新しいものであるかのように感じるに到ったのです。

あなた方は、過去に於て、確かにそれに気付いていたのです。

あなた自身がそれを経験していたのです。

しかし、そのことは、この世に生まれ出てからは忘れ易く、記憶が薄れ易いようです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これらのトークは何をいっているのでしょうか?

「あなた方はだれでも生まれた時はラティハンを知っていたのですよ。」といってます。

当然そうなりますね。

「初めの人間」にイロフィが贈られたのですから、そのあとは順繰りに続いていきます。

さあそれゆえに、「ラティハンは人種、思想、信条、宗教をこえている」のです。

「思想、信条、宗教」は生まれた後で、自主的か環境的かは別にしても、「ラティハンより後で獲得したもの」だからですね。

ですので皆さん「オープンされればラティハンが始まる」とこういう仕組みであります。


以上が「ラティハンのもう一つの説明」の具体的な内容でありました。<--リンク

要約いたしますれば、バパ曰く

「神の力」というのは「ロホ イロフィ」であるということ。

ラティハンはロホ イロフィの働きによる、と言うこと。

神はアダムにロホ・イロフィを与えた。

したがってそれ以降、人類にはロホ・イロフィが常に伴っている。

赤ん坊の時にはまだこのつながりを認識しているが(ラティハンを体験しているが)、外界の認識がはっきりするのと引き換えに内部のこのつながりはぼんやりとしてくる。

子供が言葉を習得し、「私」なるものが登場するに及んではこのつながりは完全に忘れ去られる。

しかしながら、バパの登場により「私」が存在するようになった後でも、我々は希望すればこのつながりを再接続しラティハンを体験できるようになった。(そして、これは歴史上の事実であります。)

以上のようにして「7つと2つのロホが織りなす生命世界」という記述と、「赤ん坊はラティハンを知っている」という記述は結局一つのものに統合されるのでありました。


ちなみにキリスト教には「赤子のようにならなければ天国には入れない。」というコトバがあったかと思います。

そういう訳で、ここにもまた思いもかけず、奇妙な一致が見られるのでありました。

PS
ロホ・イロフィについては、「ロホとナフスの物語(その4、バパ独自の7+2 ロホシステム)」にも説明があります。<--リンク

PS
当然のことながら、ラティハンを初めて受けようと思う人は「ラティハンのソース(source:起源、みなもと)は何ですか?」という疑問をもち、質問します。

それに答えてバパは「この人間生活にとって指導・指針を与える生命力は、キリスト教では聖霊と呼ばれるものであり、イスラムではロホ・イロフィ、即ち導きの生命力と呼ばれるものです。 」と答えます。

インドネシアのイスラム教徒の約半数程度の方と(世界中の)キリスト教徒の方にはこの説明は一応は理解されます。

それらの方々が使うボキャブラリーの中にあるコトバで説明がなされているからであります。

しかしながら、世界中のイスラム教徒の多くの方とそれ以外の宗教の方、そうして宗教をお持ちでない方にはこの説明では到底理解されません。

自分たちが知らないコトバで説明されているからであります。


あるいは次のように誤解します。

「ラティハンというものはキリスト教関係の、そういう種類の一神教と関係したものなんだ。」

「だから、ラティハンというものはキリスト教徒ではない自分とは関係がないものなんだ。」とね。

そうして、このような誤解は致命的であります。

ラティハンというものは今ある自分から出発して、本当の自分にたどり着く道でありますから。

そして、本当の自分というものが自分とは関係がない、、、などという事は、誰にとってもありえないことなのでありますから。


さてそれに先立って実は「ラティハンのソースをコトバで説明できるのか?」という問いがあります。

バパが主張していることを注意深く読んでみますと「そんなことは不可能である。」ということがわかります。

でも「あなた方がそうやって質問するので、一応の、当面の、あなた方の心が落ち着くように、安心してラティハンが受けられるように、これらの説明を与えます。」と言っておられます。

そうして、それらのコトバで与えられた説明に固執するならば我々は我々の心のなかに「イメージで作りあげたアイドル(idol:偶像)」を持つ事になるでしょう。

ちなみにネットによれば、「idolの意味や和訳。 【名詞】【可算名詞】1a偶像; 聖像.b偶像神,邪神.2偶像視[崇拝]される人[もの], 崇拝物,アイドル.」とあります。


それでは本当の意味で我々がラティハンのソース(source:起源)を知るのはいつでしょうか?

それは我々が「私というものの始まりを知ったときである。」というのがバパの答えであります。

そうしてそれは、「父母によって生み出される前の、私の状態がどのようであったかを知ったとき」でもあります。


さて、そのような状態を知るために我々はラティハンを修するのです。

逆にいえば、そのような状態を知っているならば、ラティハンをする必要はないでありましょう。

ですから、ラティハンを始めるにあたって「ラティハンのソースはなにか?」という問いはそもそもがその時点では「回答不可能な問い」なのです。

なんとなれば、その問いは「事の最初に出されるもの」ではなく、「ラティハンが一応の目的を達成したあかつきに我々に示されるもの」であるからです。

PS
以上のような個人的な説明に対して、一応公式な説明では、例えば以下のページなどが参考になります。

THE SPIRITUAL PRACTICE OF SUBUD<--リンク

以下は上記ページからの訳になります。
ーーーーーーーーーーーーーーー
スブドの霊的修練(ラティハン)

ラティハン クジワンとして知らスブドの霊的修練は、生命の神聖な力との新たな接触の結果です。

それはそれを求めるすべての人の中に発生する自然なプロセスで、彼または彼女自身の性質に応じて、彼または彼女自身のペースで行われます。

時々、我々はひっそりと静かな時、または意識の異常な高まり状態にある時に、私達はこの深い生命が継続していることに突然気付くことができます。

ラティハンのプロセス(過程、経過)は、自分自身よりも大きな何かを私たちに再接続し、そしてこの特別な意識を生命を持った活動的な状態で保持します。

ラティハンは、プロセス(過程)であり、受けることであり、教えではありません。

誰も何かを信じることは期待されていません、ただ彼または彼女が経験するものを認識し信頼するだけです。

異なる宗教の人々はそれぞれ自分たちの信仰が深まることを見出し、そして特定の宗教的な相性というものなしでお互いに調和したままラティハンを練習することができます。

ラティハンの本質は、内からの自発的な内部の動きを許し認め、従うことです。

それは取扱い説明書(ノウハウ集)や儀式とは関係ありません。
それは各人各様に異なっています。

多くの人々は穏やかな感覚を感じ、その人が好む用語に応じて、たとえば知恵、より高い自己、聖なるもの、あるいは神との自然なつながりが深まるのを感じます。

ラティハンは、自分の個性(あるいは性格)の発達を導き、それがその人の日常生活を導くことができる、そうなる為の触媒です。

それは、直感や内部にある人を導くもの(内部の先生)につながる感覚を強化することができます。

通常、変化のこのプロセス(進行)は漸進的で自分の人生の実用的な要件に統合されています。
(訳注:要するに自分の人生で次第に役に立つようになる、、、と言いたいらしい)

スブドという名前は三つのサンスクリット語:スシラ ブディ そしてダルマ:を短くしたものです。

スシラ ブディ ダルマ(スブド)というコトバは、内部の聖なる力が真の人間の資質につながるような内部の変化をもたらすできるように、内部の聖なる力に譲り任せる(全托する)という人間の可能性を表しています。

協会が寄付に依存しているもののラティハンは、無料でご利用いただけます。
一般的に、入会前までの3ヶ月の待機期間があります。

この期間はラティハンで人々が経験することになること、そして手順についての情報を
得るための機会になります。

スブドはインドネシアのムハンマドスブーSumohadiwidjojoによって設立されました。
彼は通常、尊敬する年上の男性のためのインドネシア語の「Bapak」としてスブド会員によって呼ばれています。

ラティハンは突然予期せず、啓示として彼に来ました。
彼は他の人にそれを渡すことができた、それは今83カ国で何千人もの人々によって実践されています。

スブド組織は世界的です。
国内および国際役員や委員会があり、人々が一緒にラティハンの練習を満たす地元のグループがあります。

協会は1947年に東洋で設立され、1957年に西洋でも設立、そうしてポジティブな利益のために世界の中で働いています。
究極のビジョンは、世界に広がった文化を思いながら、人々の心を開くことに貢献することであります。
ーーーーーーーーーーーーーーー
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スシラ ブディ ダルマ・2章 ナフスamarah(怒り)とナフスaluamah(貪り)/

2017-09-02 | 日記

バパは基本的に物質力にはナフスamarah(アマラ)を植物力にはナフスaluamah(アルアマ)を対応させて話をされます。

しかしながらこの対応が逆転した時期が二回ほどありました。

というわけで、この対応関係の歴史的な経緯をまずはレビューします。


1950年6月 バパ Sinar Pribadi ( The Light Of The Inner Self ) 和名「内なる我の光」 脱稿
但しこの書物の中にはナフスそのものが登場しません。

1952年 スシラ ブディ ダルマ  脱稿
ナフスは登場するものの、「怒りと貪りと忍耐と受容」の四つのナフスであり、この時点ではそれぞれのナフスには名前は与えられていない。
(第十一章 アスマランダーナ 48節)
今もし名前を与えるとするならば「怒りー>ナフスamarah」、「貪りー>ナフスaluamah」、「忍耐と受容ー>ナフスmut-mainah」となりましょう。

次は関連する一連のトークです。<--リンク

4月4日 1968- Bapak
その光または色は赤です。
その情熱はammaraです。
これは野菜の生命力です。

12月5日 1970 - Bapak
野菜の生命力から生まれるナフスnafsuはアルアマaluamahである。

11月26日 1972 - Bapak
次にあなたはまたナフス・アルアマnafsu aluamahによって満たされるか、または力が供給されています。
これはナバティアnabatiah又は植物の生命力から生じます。

4月24日 1984 - Bapak
それ(ナバティ:植物力)は怒りの情熱ナフス・アマラnafsu amarahを生じさせます。

1月19日 1985 - Bapak
ロホ ナバティ(植物力)、
それは、ナフス・アマラnafsu amarahを体現します。

5月9日 1985 - Bapak
そして植物の生命力からナフス・アルアマnafsu aluamahは人間の存在内に具現化され、あなたがまだ生きている間にあなたはそれを取り除くことはできません。

6月24日 1985 - Bapak
さてこんどはナフス・アルアマnafsu aluamahについてです。
これは、野菜や植物の生命力に由来します。

6月25日 1985 - Bapak
これらはナフス・アルアマnafsu aluamahと呼ばれるものであり、それは植物の世界から来ています。
ーーーーーーーーーーーーーーー
上記バパのトークの部分についての英文からの引用は以下を参照願います。
Chapter 2 nafsu Amarah (anger) and nafsu Aluamah (greed)<--リンク
ーーーーーーーーーーーーーーー

以上をまとめます。

1952年 スシラ ブディ ダルマ  ナフスには言及あり、しかしそれぞれの名前は表現されず。

1968年4月4日 時点では 
バパの認識は「植物力ー>ナフスamarah」

1970年12月5日 ~ 1972年11月26日 アマラからアルアマに変化
バパの認識は「植物力ー>ナフスaluamah」

1984年4月24日 ~ 1985年1月19日 アルアマからアマラに戻る
バパの認識は「植物力ー>ナフスamarah」

1985年5月9日 ~6月24日~6月25日では再度アマラからアルアマに変化
バパの認識は「植物力ー>ナフスaluamah」


こうしてみますと植物力に対応させるナフスがamarahとaluamahの間で行ったりきたりしている事がわかります。
(当然ですがバパが植物力にナフスamarahを対応させている時は、物質力にはナフスaluamahを対応させている事になります。)

そうして、このような状況は単に「バパの言い間違い、思い間違いである」とはとても考えられない、それぞれの文脈で起きています。
(但し言い間違い、思い違いである、としてもそれはそれで結構重要な問題にはなりますが、、、。<--リンク)


それでは上記のような状況を「言い間違い、思い違いではない」としたら、それをどのように解釈したらよいのでしょうか?

例えばこのようなトークが手掛かりになるものと思われます。

6月26日 1984 - Bapak
ハートとマインドのnafsuの性質は、アルアマaluamahとアマラamarahで、貪欲のnafsuと怒りのnafsuです。


この主張がバパの基本的なスタンスを表している様にみえます。

そうしてそれは「この2つのナフスは必要なものではあるが、その位置は低い」という認識です。

そうであれば「この2つのナフスを生命力のステージと結びつけるならばそれは物質力と植物力が相当である」ということになります。

さてそうなるとどちらをどちらに結びつけるのか、という問題が残ります。

インドネシアの伝統(ワヤンなど)に従うのであれば、アルアマaluamahが最初でアマラamarahが二番目となります。

しかしながらアルアマaluamahは食欲(食べること)に関係つけられた内容も持っていますので、その意味では植物力に結びつけた方が妥当である、、、とも考えられます。<--リンク

、、、などなど「バパもそのあたりでいろいろと考えて迷われたのではなかったのか」と推定する事も可能な状況ではあります。


さて、ナフスとロホの一対一対応の件、この辺りの事はバパも少々無理をされた様にみえます。

もともと「ナフスとロホはその出自が違っている」ということは以前の記事で指摘した通りです。<--リンク

したがって、「生まれが違っているものを一対一対応させる」と「やはりどこかに無理が生じることになる」というのがここでの結論の様に思えます。

しかしながら他方でロホもナフスも人の内部の生命構造の話であり、そうして人体はこの世界に一種類しか存在しませんから、インドネシアにおいてはどこかの時点でこの2つの概念が出会う、ということはある意味、必然の事なのでありました。


ちなみに二代目がバパが何度も説明してきたこの「ロホとナフスの1対1対応を語らない」のは何故でありましょう?

そうしてほぼ同様の内容を伝える為にバパがあまり使われなかった「ジワ(Jiwa)とスクマ(Sukma)の関係」(59,8,7:注1)を用いて説明をされるのは何故でありましょう?

そのような二代目の説明の仕方では4つの諸力の各々の力には言及する事なしに、それらをひとまとめにしてジワ(Jiwa)と呼びますから上記のようなアマラとアルアマの混乱した対応関係の説明を回避できるのであります。(注2)

そうしてその状況がさらに進みますれば「4つのナフスを低次の諸力」(2,14,2003)と表現するところまでに至り、ロホとナフスの1対1対応関係は完全に見えなくなる、隠されてしまうのでありました。<--リンク

もしこのような二代目の説明の仕方が、上記本文にあるようなバパの「ロホとナフスの1対1対応のさせ方が時期によって変化している」という事実から我々の目をそらす為のものであるとするならば、それはあまり愉快なもの、誠実な行為であるとはいえないでありましょう。

そして、そのような意向があったとするならばそれは「バパは間違う事がない」という主張が否定されるのは困る、と考えたからであると思われます。

但し困るのは「バパは常に正しい」「トークには間違いがない」と主張したい人たちであって、当のバパは「バパの話を単純に信じないでください。あなた方が体験した事を信じてください。」といわれていますので、仮にトークに間違いがあっても「あっ、そう。」で済んでしまう話なのでありました。

注1:(59,8,7)バパ トークより
「ですから、魂(ジワ)はこれ(精妙体:fine body)を満たし、目覚めさせ、命を与える生命力です。
それによってそれ(精妙体)はほんとうに動くのです。
そしてスクマ(Sukma)は、この粗い肉体の精妙体です。
実際には、精妙体は一つだけでなく五つあります。
ですから(ジャワでは)5人の兄弟について話すのです。
第一は黒、第二は赤、第三は黄、第四は白、第五は褐色です。
・・・・・
これら五人の兄弟は、人間のハート(心:感情)を占拠、あるいは住み家としていると言われ、パッション(ナフス)を代表しています。
それらは、aluwamah、第二はamarah、第三はsupiah、第四はmutma'inah、そして第五はナフスではなく清浄さの状態です。
(そして)第五は(前の四つの)集合体、結合体でもあります。
それはユニティ(Unity:一体性)を形つくります。」

注2たとえば二代目トーク(12,20,1999),(1,20,2001),(4,22,2001)などのJiwaとSukmaの一連のシリーズがあります。<--リンク

PS
以下、(4,22,2001)から引用しておきます。
4月22日2001 Ibu
人間存在には2つのものがあります…2つの内容物があると言うことができます。
私はそれらを記述するためのよりよい方法を知りません。
インドネシア語ではジワJiwa [魂soul]とスクマsukma [微細体fine bodies]と呼んでいます。
スクマsukmaは微細で形がはっきりしない体を持ちます。
(他方で)肉体は私たちのコォース・ボディーcoarse body(粗体)です。

人間の魂human soul は、それが私たちの生命力であるため、私たち自身に入る最初のものです。
ファイン・ボディー(微細体)は私たちの魂soulの後に入ります。
というのも、ファイン・ボディー(微細体)は私たちの生活の道具なのですから。

それらのファイン・ボディー(微細体)はそれぞれが異なる5人兄弟です。
1つは黒、1つは赤、もう1つは黄色、1つは白、もう1つはこれら4つの色の混合物で褐色です。
そして、それぞれの色はそれぞれの性質を持っています。

最初のもの、黒いものはエネルギーを放出し、あるいはその本質は私たちにエネルギーを与えます。
赤いものは私たちが働きたく、動きたくさせます。
黄色いものは人生について知りたくさせます。
4番目のものは人の人生の中で判断することをしたいので、心の中のすべての考慮事項のために、人生において注意深く行動することを主張します。
そして5番目のものはそれらの色の組み合わせです。
誰かが経験したことの中で意味を見つけることができた後で、彼らは彼らの人生の中で平和を見つけます。

この5人の兄弟姉妹は、それぞれ独自の性質を持ち、人間の心に基づいています。
だから私たちがスクマsukmaと呼んでいる、それぞれが自分の性質を持つものは、全能の神が私たちの中に入れてくれた助力者になります。
そしてそれらは私たちがこの世界で私たちの生活のために必要なものを得るために必要な助力者です。
これらの助力者は人生の助手ですが、それらは私たちの低次の諸力とも呼ぶことができます。

私が低次の諸力という言葉で意味するのは、私たちの人間の魂human soulよりも低いものでありながら、もし私たちが自分たちの(人間としての)存在の地位を管理したり維持したりすることができなければ、私たちの存在を(私たちに代わって)引き受ける事が出来るというものです。
(注:人間の魂に代わって低次の諸力が人間を支配することができるということです。)

だから、これら2つの内部にあるものについて、1つは神の意志によって生きるもです。
それは自分の中にある神の本質(エッセンス)によって支配されています。
もう一方の内部にあるものは、私たちがスクマsukmaと呼ぶもの、ファイン・ボディー(微細体)は、人間の心によってかじ取りされ、制御され、操作されます。

この事は、魂soulが神につながる生命力であることを意味しますが、他方で私たちはファイン・ボディー(微細体)を使ってこの世界で物事を達成します。
ファイン・ボディー(微細体)を使うことで、スクマsukmaの力から引き出された力を得ることによって、人は何かを達成することができます。
しかし、神への道を見つけることになると、人間の魂human soulのみが私たちを神に近づけることができます。
それで明らかに、ファイン・ボディー(微細体)自体がこの世界を超えて行くことはできないので、あなた方はスクマsukmaを使う事で、ファイン・ボディー(微細体)の力で、この世界を越えることはできません。

しかしこれらのファイン・ボディー(微細体)は、この世界であるいは仕事や信仰において必要なものを得る時には、人々を助けることができます。
たとえば、催眠術、スピリチュアリズム、およびその他の訓練などによって。
彼らは、私たちが私たちの中にあるものから得た助けに似ているようです。

しかし、2つの異なるソース(源)があります。
異なるソース(源)によって、私は一つの源が神の本質(エッセンス)であることを意味します。
他の源は人間の心(ハート)です。
彼らは似ているようです。
時にはその違いを見つけることができません。

もちろん、これらの力(ファイン・ボディー(微細体)の力)を使う事は間違いではありませんが、これらの力を使う人が自分が何をしているのかを知っている必要があります。

PS
最終的に二代目が黙認する事になったロホとナフスの対応関係については、以下の記事を参照ねがいます。
・雑記帳39・ナフスnafsuについての注釈@トーク翻訳チーム<--リンク

PS
以下ジャワの伝統的な教えの中のナフスについての説明です。ご参考までに。
Gumelaring Jagad 第41節に4つのナフスについての記述があります。<--リンク
(上記リンクが不調の場合はこちらからどうぞ。<--リンク)

同様に「ジャワの4人兄弟の教え」についてです。
Cipta Tunggal 第16節を参照ねがいます。<--リンク
ちなみに4人兄弟に本人を加えた5人で、一卵性の5人兄弟となります。
(上記リンクが不調の場合はこちらからどうぞ。<--リンク)

PS
以下ご参考までに。
・ケジャウエン、ジャワの伝統的な精神的な教え<-ーリンク


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