ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

雑記帳14・宗教的寛容性/

2019-01-22 | 日記
世界は宗教的寛容性の欠如の為に苦しんでいる様にみえる。

彼らは我々とは違う、というものだ。

双方がお互いの相違点を上げて差別し、非難しあう。

そこからは何も生まれないし、その先にあるのは暴力沙汰だけである。


さて、他方でラティハンはそのような差別やら非難やら相違点やらという世界とは別物である。

そこにあるのはただ我々は同じものである、という感覚である。

そうしてそこに、ラティハンが人類の中に広まる事による、人類の平和共存の可能性が見えているのであります。


ところで、ラティハンがそうであるのに、何故にラティハンの入り口で、ある特定の人たちにとって困難になるような状況を設定するのか?

宗教的にはとても「寛容である」といえる状況ではない様にするのか?

それはさかのぼってみれば、本来は無色透明なラティハンというものにイスラムの、あるいはアブラハムの宗教の匂いや影をつけてしまったバパのトークゆえの様にみえる。

バパは熱心なイスラムであったがゆえにそのことをあまり責めるつもりはない。

しかしながら、素直にいわせていただくならば、「バパの事実上、宗教的には不寛容に見える態度がそのまま現在の協会に引き継がれている」様にみえる。

そうしてこの事は、「ラティハンが目指すものは、ラティハンが表現しているものは、宗教的な寛容性である」という事実とは明らかに矛盾しているのであります。

PS
オープンの前にイスラム流のあからさまな信仰告白をしなくてはならない、というのはこれはバパが導入したバパ流の「けじめのつけ方」でありましょう。

「今からは誠実にラティハンを実習していきます。」という一つの態度表明かと思われます。

しかしながらいかんせん、インドネシアでは誰にとっても、何の抵抗もなく出来る事が、この日本では人口の1%以下の人にしかそうはなりません。

そのような信仰告白は我々日本人にとっては本当になじみがない作法なのであります。


そうして、その信仰告白のコトバに特別な力があって、それが魔法の呪文のように作用してラティハンが始まる訳ではないのです。

もしそうならば、そのコトバはオープンの必要条件になりますが、そうではない事例がたしかに見られています。

そうであれば、そのコトバをいう事は必要条件ではなく、せいぜいがバパ流の「望ましい条件」という所が相当であると思われます。

PS
さてそれで、宗教的な寛容ということは、日本人にとっては朝飯前、大得意とする所であるはずなのですがねえ。

何故かみなさん、ガッチガチであります。

PS
↓関連記事です。
雑記帳19・人と人とを結びつけるもの<--リンク

PS
バパが生まれたインドネシアという国、そしてその当時の政治的な、宗教的な状況ゆえにバパがあまり宗教的には寛容でないようにふるまわざるを得なかった、そのような外的な状況は確かにあったかと思われます。

それゆえに、バパがあまり寛容でなかったという事に対してはそれを責める、というものではありません。

しかしながら、我々が体験してきているラティハンの広さ、その一体感にてらしてみれば、何も我々が単に「バパがそうであったから」という理由で不寛容な態度を持ち続ける必要性はどこにもないように思われます。

そうしてラティハンも「宗教的には寛容である」という態度を支持している様に見えるのでありました。

PS
・エジプト300人超死亡テロ事件 礼拝中のイスラム教徒標的に衝撃<--リンク

これはもうほとんど「唯一自分たちの理解のみが正しいと考えている教条主義者たち」の末期的症状であります。

PS
・イスラム教徒墓難民 九州土葬用施設なく 偏見や抵抗感…新設に壁<--リンク

この記事からわかる様に、我々日本人のもっている「宗教的寛容性」というのは「あまり宗教の事を意識しない、という寛容性」の様です。

つまり「あなたが何を信仰されていようがそれはあなたの自由だ。しかし、ニッポンの常識やら生活習慣には従ってもらう。」という程度のものです。

従って我々にはもうなじみが無くなってしまった「土葬」という風習には、そのような行為には抵抗感を持つのです。

それでも「宗教が違う」といって暴力沙汰になるよりは随分と「マシ」とは思われます。

まあしかしそれでもかつては我らが国も「土葬の国」でありました。

それからすればこれは「慣れの問題」とも言えそうであります。

PS
・強硬派仏教徒集団の台頭、覆される「平和的哲学」のイメージ<--リンク

時代は動き、ブッダが想定しないような仏教集団が現われてきています。
そうして、これは本当に残念な事であります。(2018.3)

PS
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雑記帳13・クバティナン事情(2011年)//

2019-01-07 | 日記
2011年10月現在のインドネシアのクバティナン事情

・ジャワの宗教、信仰、呪術<--リンク

いろいろと変化があるようです。

『・・・インドネシアでは宗教と信仰は別とされていて、前者は宗教省の、後者は観光文化省(認定された時点では教育文化省)の管轄下にある。
普段は略して「信仰」と言っているけれど、正式には「唯一神への信仰」と言う
・・・・・
信仰は各地に土着的なものがたくさんある。
以前は、信仰を表す語はクバティナン(内面的なるものの意)だったけれど、前・信仰局長の話によれば、信仰を表す語はクプルチャヤアンに統一されたので、クバティナンは今は使われていないとのこと。
・・・・・
そういう信仰を実践している人たちは、自分たちのことをプングハヤット・クプルチャヤアン(信仰実践者)と称する。
インドネシアには、似たようなカテゴリの人を指す言葉として、パラノルマル、ドゥクンという語があるが、信仰実践者を自称する人達は、彼らと一緒にされることを喜ばないので、注意が必要だ。

パラノルマル(英語のparanormal)とドゥクンはどちらも超常能力を見につけた人のことを指し、特に、失せ物・失せ人探し、事業の予言、病気治療などを得意とする。
ただし、インドネシアでは、どちらもネガティブな響きを持つ単語だ。
特に、少なくともジャワでは、ドゥクンという語を耳にすることはない。
そこには、呪術師のようないかがわしい感じの響きがある。・・・』

さて、バパの協会も今や観光文化省に登録されている模様です。
そうして他の団体と同様に「唯一神への信仰」を実践する団体と見なされている様です。

注:「唯一神への信仰」(Kepercayaan terhadap Tuhan Yang Maha Esa)
クプルチャヤアン(Kepercayaan)信仰
トウハン ヤン マハ エサ(Tuhan Yang Maha Esa)唯一神<--リンク
関連記事「唯一神への信仰」へはこちらから入れます。<--リンク

PS
つまり「インドネシアの仏教徒は「唯一神を信仰」している事になっている」のです。

さてこう書きましたが、これは「日本人から見た感想」です。

インドネシアの仏教徒は「Tuhan Yang Maha Esa」を本気で信仰している可能性があります。
(「唯一神」はインドネシア語では「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれます。)

その「唯一神への信仰」と言うのは、とても古くからあるものでその上にまずは仏教とヒンドゥー教が伝来し、そしてのちにイスラム教とキリスト教が入ってきた、というのが歴史です。
(仏教とヒンドゥー教は端の方に押しやられました。)

そして、インドネシアの人たちは「それらの外来の神はすべてTuhan Yang Maha Esaが形を変えたものであり、本質は同じだ」ととらえている所があります。

そうでありますから、我々の目には一見無謀な、無理筋に見えるパンチャシラ Pancasilaが成立するのでありましょう。<--リンク
その一番目に
1、唯一神への信仰 (Ketuhanan Yang Maha Esa)
と言う事が決められています。

インドネシアの人はこれを認めそうして『インドネシアではイスラム教、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー教、仏教、儒教の6つの宗教が公認されているが・・・』
これらの宗教は全て「唯一神を信仰するもの」と認めているのであります。

そして当然、オープンの時の宣誓も「Tuhan Yang Maha Esa」を信仰しますね、と聞かれるのですから「NO」と言う人はいないのです。

「唯一全能の神」などとは聞かれないのですよ。
これがインドネシアでの状況です。


さて日本ではどうなったか?
まずは「Tuhan Yang Maha Esa」が英訳されます。
クリスチャン文化圏の英訳者はそれを God Almighty とかThe only almighty godと英訳し、日本人はそうやって英訳された文章から「唯一全能の神」と訳します。

そうしてこう聞かれるのです。
「唯一全能の神」を信じますね?と。
おまけに伝わってくるバパのトークは全て「スブドの神はアブラハムの宗教の神」のように書かれています。
それじゃ「唯一全能の神」とはあれの事か、となりますよね、普通は。

さてそれで困ってしまうのは仏教徒でした。
・・・・・
世界中の翻訳者はこうしてインドネシア語から英語に翻訳されたものを第二原典として、そこから自国語に翻訳していきました。
従って、世界中でオープンの時の宣誓は「唯一全能の神」を信仰します、と言わねばならなくなったと、そういう事の次第であります。

全ての呼び名を超える存在としての「Tuhan Yang Maha Esa」と言う概念はインドネシアにしか存在しない様です。
そのためにこうした誤解、あるいは混乱が発生し、世界中に広まっていったのであります。
2019/1/19

PS
・クバティナン関連の目次です。<--リンク

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