ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

バパの魂(jiwa)あるいはロホの概念/・3 植物の魂(植物力)-2

2016-11-17 | 日記
P105
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人間に作用する野菜魂の働きと性質についての一般的な観察を完了した後、バパは野菜や植物の性質とそれらを食べる人が受ける影響について、いくつかの特定のものを取り上げて詳細に説明を始めます。

彼は米、野菜、ココナッツ、果物や竹などのさまざまな種類の植物の影響について語っています。

それらを食べる人に対する影響の程度は主にそれぞれの形状、それらが成長した場所とその成長の速さに依存しています。


「米の魂は、たとえば水田で栽培されて多くの水を必要とします。

そうして、その茎は細いが、かなりの長さがあり、中は空洞になっています。

そうして、短い期間で成長し実をつけます。

それゆえ、それは人々に影響を与えて、苦しみに直面することに対する勇気がほとんどないようにします。

そうして、人々は彼らの必要性のためにちょうど足りるだけの手段さえあれば、それ以上の努力することなしに生きることを望むようになります。

彼らは、自分たちの生活の状況を高め改善しようとする熱意を自ら発揮すると言う事がないでしょう。
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また、稲の寿命が短く、熟成が早いため、それを食べる人は辛抱することができないということを象徴しており、達成しようとしていることがあれば、そのレベルがあまりにも容易なところで「これで十分だ」とする傾向を持ちます。」


しかしながら幸いな事に、とバパはいいます。

「人々は固くて強い性質を持つ筍やココナッツと言うような食品を手に入れる事ができます。

これらは、お米のもつ弱い性質を補うことができます。」

ココナッツ由来の食品の影響に関しては、バパは次のように説明しています。

「ココナッツ椰子の木はたとえ他の植物に囲まれていたとしてもどこでも成長する事ができ、そうして特に手入れをする必要もなく繁殖します。

その幹は高くまっすぐであり枝はありません。

ココナッの実は木のてっぺんに実り、一年を通じてほぼいつでも食べられます。


このような食べ物を食べる人たちは人生の無秩序な状況にあっても、より広い展望と経験と大きな自分自身への信頼を持つでしょう。

彼らはより強固に確立された自分自身の意見を持っている傾向があり、簡単に他の人の影響を受けないし、人生の中で出会ういろいろな誘惑によっても影響されるということはありません。」


我々にとってこれらの2つの例は、多かれ少なかれ、バパがこの問題で展開している典型的な哲学の明確な描写を与えるのに十分であると思われます。

さらにバパは嫉妬、口論好き、絶望などの道徳的欠陥は統御されていない野菜魂の影響である事を詳しく説明します。
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「人間は野菜の魂の強制下で人間としての自分自身の義務をほぼ完全に無視してしまい、その結果は人としてはふさわしくない方法で行動するようになります。

したがって彼の欲望はもはや人間にとって適切なものではなく、それは野菜魂によって活性化されたものとなってしまうでしょう。

そうしてこれらの影響を消し去るための唯一の方法は、latihanです。」

「バパは彼の弟子たちがこれらの魂の影響に長い間さらされていたのではありますが、誠実に自分のlatihanを行うように強調します。

彼らが誠実にlatihanを行う事により、これらの魂の影響はそれ自体で自動的に分離して行くでしょう。」


バパは頻繁に述べています。

「尋ねないでください、それを実践して下さい。

決してあなたの霊的な修練(latihan)を無視してはいけません。

そうすればそれらの手段によって、あなたは間もなくあなた自身の内部にある魂の間の相互関係と差異とをはっきりと経験し理解することができるようになります。

そうやってあなたの人としての魂と人に従属する魂との間の協力関係を作りなさい。」


上記のような説明から、我々は野菜の魂にいついてのバパの理論はスーフィーのそれとは全く異なるという結論に導かれます。

他方でそれはインドネシアの昔からの信念(アニミズム:訳注1)に非常に類似している事がわかります。


植物魂という概念を考えていたスーフィー達は、しかしながらバパの様な理解の仕方を意味しません。

バパの理解のしかたは、「実際の地上の野菜を食べることによる野菜魂の影響がある」、というものです。

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おそらくこの問題に関するイブン・アル・アラビーの解釈はバパの解釈に非常に近いものです。

ただしそれは以下に述べるただ一つの点に於いてのみです。

イブン・アル・アラビーによれば、野菜魂の主な働きは、食品を求めて、体にそれを吸収する事です。(訳注2

野菜魂は引き寄せ(jadhb)、保持し(mask)、消化して(hadm)排出する(daf ')という4つの力を持ちます。

しかしそれはいままで我々が見てきた様な実際に地上に生育している野菜とは何の関係もない事なのであります。
・・・・・
植物力はここまで、英文はこちらを参照願います。<--リンク

訳注1:インドネシア アニミズムについてはページを改めて記述したいと思います。

訳注2:植物力の働きとして、「植物性食品を吸収することによってこの物理的な人体を作り上げている」、と言うのはバパも同様に主張していることであります。

しかしながら以下に示すようにイブン・アラビーはバパより前の時代の人であり、存在一性論の創始者でもあります。

そうしてそこから尊厳セブンの教えが発展し、インドネシアのワリたちに引き継がれ、バパにつながってゆくのでありました。<--リンク

つまりはイブン・アラビーこそがこの思想、この考え方の源流であり、その川の流れの中にバパもまた位置付ける事が可能なのです。

そうして、そのように後に続くものが「前人の肩の上に乗ること」によって「より遠くまで見通せるようになる事」は、人類の歴史においては普通の事であり、その様な能力こそが人類の発展を推し進めてきた力なのでありました。

イブン・アル・アラビー (Ibn al-'Arabi)(1165年7月25日- 1240年11月8日)<--リンク

原典はこちら、THE PATH OF SUBUD (1969) Author: Drs Kafrawi : Kafrawi McGill University Montreal.<-- Link

PS
個々の植物が人間に与える影響についてのバパの説明の内容はなかなか納得しにくいものがあります。

たとえば、草食性動物と肉食獣との性格や行動の違いというのはそのまま菜食主義の人とそうでない人との違いに当てはめやすいのですが、今の場合はそのようにはいきません。

但し、植物から抽出されるいろいろな成分が人にとって薬になったり毒になったり向精神薬になったりします。

中国ではそれを漢方薬として体系化しインドネシアではジャムウ(jamu)として知られています。<--リンク

そして日本ではそれはいろいろな種類の栄養ドリンクとして売られているのです。

その意味では確かに植物性食品もそのように人の体や心に影響を及ぼすとは思うのですが、、、。

しかしながら上記のような「お米を食べていると努力しなくなる」という説明は我々日本人にとっては、なかなか納得しにくいのであります。

追伸
人間以外の動物も当然ですが稲、米を食べます。

しかしながら「コメの影響を受けてその動物が怠惰になる」という話は聞いた事がありません。

そうしてバパによれば「動物はそれぞれの性質をもち、その肉を食べる事で人はその影響を受ける。」といいます。

しかしながら「食べた植物の影響によってその動物の性質が決まる」とは述べておられません。

このあたり、ある特定の植物が人に与える影響とそれが他の動物に与える影響とは異なっている模様です。

PS
植物性食品の中でも特に「薬味」として我々に知られている物(ネギ、ニンニク、こしょうなど)は確かに人の身体や精神に一定の影響力を持つと思われます。

そうしてそのような影響力は舌で感じる「味」と鼻で感じる「匂い」が主な感覚的刺激の原因になっており、それによって引き起こされている様です。

さて、そういう訳でアロマテラピーは、あるいは香水は一定の効果を発揮しているのでありましょうか。<--リンク

PS
食べ物による影響がいわゆる「道を求める上での邪魔になる」というとらえ方は仏教にもありますし、インドネシアの伝統的な教えの中にもあります。

それゆえに道を求めるものは「小食がよい」とされ、ブッダは「一日二食」を薦めたのでした。

それに加えて、インドネシアではたとえば木曜日には絶食して「自己節制する」というようなプリハティンの習慣もあります。(あるいは「少なく食べて、少なく眠る」というものもあります。)

いずれにせよ、食事が一定の影響を人に与えているという認識は古くから知られているのでありました。

PS
あるトークでバパは「植物力があるので人は植物を食べられるものとして認識でき、実際にそれを食べて消化吸収できるのだ。」と言っています。

さて個人的な経験によりますれば、認知症が進行してしまったある人たちは食卓においた自分の腕時計を「これは食べられるものだ」と勘違いして自分の口の中に入れてしまいます。

そうして食べられないものを口に入れるという行動は赤ちゃんにもよく見られるものです。

そうしてみますと植物力というものは、あるいは「これは食べられるものだ」という判断力が正常に働く為にはそれなりの学習過程と記憶力が必要である事が分かるのであります。

追伸
前述したように「植物力を卒業した人は食いはぐれることはない。」とバパは言ったかと思います。

しかしながら現代日本の様な社会においては「飢えて死ぬ」と言うような事はめったに起こらない事であります。

それよりも多分「食べすぎて死ぬ」事の方が、「肥満で寿命を縮めている」事の方が多いと思われます。

さてそうなりますとはたして「食べ物に追いかけられること」は運が良いのか悪いのか、良く分からない事になりそうです。


PS
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バパの魂(jiwa)あるいはロホの概念・3 植物の魂(植物力)-1

2016-11-10 | 日記
・・・・・
P102
さて今度は野菜の魂についての彼の概念に進みましょう。

バパによれば、材料・物体の魂の上に植物あるいは野菜の魂が存在します。

これに関連して、彼は以下の様に言います。

「以上が物質の魂の意義の説明である。

そうして別のカテゴリーは、これから議論されることになるが、野菜の魂と呼ばれるもの。

その魂も(物質の魂と同様に)地球上の人間の生活の中で人に従属する力である。」


「人間は食べ物を必要とするため、植物に起因するこれらの魂は、物質の魂よりも人間の生活に大きな影響を及ぼし、それらなしでは人間はどのような強さも持つ事ができず、また人間は人間の体(物理的な人体)を持つ事はないでしょう。」

「植物の魂は人間の始まりの時から、生命のために不可欠である。

まだ自分の母親の子宮の中にいる時に、すでに彼女の仲介を通じて野菜の要素を受けとり、誕生の瞬間までそれらから分離される事はありません。」

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「野菜の魂の要素は、実際には人間自身の一部です。

彼らは、目の感覚では検出できない状態になっています。

そして徹底的に浄化された内部感覚によってのみ知ることができます。

そのような(浄化された)内部感覚は、思考の心によって汚染されていません。

人間がこの状態にあるとき、植物由来の食べ物の本質が人間に入ります。

そして、栄養を与え、人間の身体の状態を強化するのに役立ちます。

このようにして、食べ物は、外側と内側にある植物の魂の接触点となるのです。」


「このような外側と内側との接触は、水がその源に戻っていくありさまに対応させることができます。

この両者の間に違いはありません。

そして外側と内側との接触に生じるどのような不調和であれ、それはひどい結果をもたらす可能性があります。」


「接触は食べる瞬間に起こります。

リアリティーの観点から見た場合に、人間は既に内部にある野菜の魂と外側にある野菜の魂とを接触するようにさせる単なる仲介者にすぎません。」


「食べ物が人間に食べられるたびに、そこには二つの重要な利点があります。

食べ物はその原点に戻り、そして人間は神の賢明で高貴な創造物としての人間の義務を果たしています。」

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「そのような人は当然のことながら人の中にある、あるいは人の外にある野菜の魂にとっては崇拝の対象となります。

それらは長い間、「食べる」という行為で楽園への道を開くことができるような、そのような人の助けを待っていました。」


「外側と内側の野菜の魂の間の接触は、長い間(離ればなれになっていた)夫と妻の間での待ち焦がれていた再会に似ています。

その経験される歓喜の気持ちはたやすく想像できるので、説明する必要はないでしょう。」


「これらの願望は、ある期待をもって死を待つ人のものと決して異なるものではありません。

その期待とは、「自分達は人生の中で正しい道をたどったがゆえに、永遠の栄光の世界に戻ることができる」というものです。」


「植物は人間の仲介によって接触ができ、そして高貴で高尚な世界に戻るという運命にあこがれる。」

「植物の本質にとってはそれゆえに、地面に投げ出され腐ってしまう、あるいは単に動物のえさとなるよりは人間によって食べられる方がはるかに良いのです。」

「確かに植物は大いに喜び賞賛し、そしてそのような高貴な死を与える人間に感謝します。」

「それゆえに子供たちよ、植物の本質的な状態は、すでに述べた物質・物体の本質と同様です。

二つのエッセンス(本質)の違いは、物質の魂はただ人間の心に影響を与えますが、野菜の魂は人間の存在のすべてに渡って影響を与えるということです。」
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ここまで、英文はこちらを参照願います。<--リンク

原典はこちら、THE PATH OF SUBUD (1969) Author: Drs Kafrawi : Kafrawi McGill University Montreal.<-- Link

PS
上で述べられている様な、植物性食品のエッセンスをその希望する場所に送り届けるような事が出来る人というのが「植物力を制御・統御出来ている人」になる訳であります。

そしてそれが「適切なチャンネルにそれぞれの諸力を流す」という行為であると解釈できます。

しかしながら、単に人間であればどのような人でもそれが出来ている、、、という訳にはいきません。

上記より「・・・そのような(浄化された)内部感覚は、思考の心によって汚染されていません。

人間がこの状態にあるとき、植物由来の食べ物の本質が人間に入ります。・・・」

まずは内部感覚がラティハンによって十分に浄化されている事が前提になります。

そうでない場合は、単に動物が食事をしているのと大差ない状況、物理的な自分の体の為に栄養を取りこむ為の食事になっています。

そうして、「そのような状況ではだめですよ」とバパは言っているのであります。


さてこれは余談になりますが、そのように植物力を扱える人は一生の間、食べ物に困るということはないでしょう、、、とバパは言います。

食べ物のほうからその人を求めて訪ねてくるからであります。

同様に物質力を上手に扱える人はお金に困ると言う事はないとバパは言います。

お金がその人を追いかけてくる、、、と。

我々のようにお金を追いかけるのではなく、お金がその人を追いかけてくると、話がまるで逆になる訳であります。

追伸
バパはトークの中で「植物を食べ物として認識でき、そうして体の中に取り入れて身体を作り上げる事が植物力の助けで出来ている。」と述べています。

さて植物力のこの働きは人間のみならず動物一般に対して当てはまることでありますれば、「動物には基本的に植物力がそなわっている」、ということになりそうです。

しかしながら「内にある植物力に外から入ってくる植物のエッセンスを引き合わせる」と言う事が出来るのはどうやら人間のみ、しかも「それなりのレベルに到達した人のみが可能である」という事になります。

PS
さて、これは少々先取りの話なのですが、「内にあるものと外から来るものとの調和」、あるいは「外からの諸力をその希望する場所に届ける」ということについて少々。

これは宮沢賢治の「よだかの星」で扱われているテーマでもあります。<--リンク

以下、ページから引用です。

「・・・自分が生きるためにたくさんの虫の命を食べるために奪っていることを嫌悪して、彼はついに生きることに絶望し、太陽へ向かって飛びながら、焼け死んでもいいからあなたの所へ行かせて下さいと願う。・・・」

そのように考えてある人々は肉食を避けて菜食主義者になります。

しかしながら、本来は「命あるものを食べて、それを天国、あるいは極楽へ届けるのが人の役目である。」というのがバパの主張になります。

つまり「食事をするならば、ちゃんと引導を渡せ」ということになるのであります。<--リンク

PS
上記の様に「食事というのは、精神的、霊的、身体的におろそかにできないもの」であります。

そうでありますれば、古今東西においていろいろな食前の祈りが行われてきました。

以下、ご参考までに。

・五観の偈(ごかんのげ)<--リンク

・高野山真言宗教学部発行の『仏前勤行次第』<--リンク

PS
野菜の、あるいは植物の魂、、、といわれてもあまり我々にはピンときません。

これがご神木などの巨木ですと「うーむ、さもありなん」という感じになるのですが、、、。

「魂」というコトバに対する我々の常識(?)的な感覚の為でしょうか。

という訳で、「魂」というよりは「ある意図をもった力の流れ、あるいはある種の生命力」というような表現の仕方の方がまだ我々にとっては理解しやすいように思われます。

そうして多分Jiwaというコトバは「魂」という意味合いと「生命力」と言う意味合いの両方にまたがっているコトバであると思われます。

PS
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