ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

バパのカルマ論/

2017-04-22 | 日記
「最初の人間はアダムである」という、これはアブラハムの宗教の体系の基礎であります。

そしてムスリムであるバパも当然ながらこの立場をとります。

そうしてイスラムは「人の原罪」を認めませんから、バパにとっては「完全な人」の象徴としては「アダム」ということになります。(7,10,1980)

さてそうではありますが、現在の我々の社会、人間のありようをみますればとても「我々は完全な人である」とはいえないありさまです。

そうなりますと、どこかで人は「堕落した」あるいは「劣化した」とするしかありません。

その原因は何か?

「それは人の間違った行動の結果である。」というのがバパの答えです。

そうしてそれをバパは「カルマ( karma)である」と呼ぶ場合もあります。(7,10,1980)


アダムが「完全な人」ならば、その行動も完全であって、カルマを積むことはなく、したがってアダムの子供たちも「完全な人」ではなかったのか?

そのような疑問は当然のことながら問われる事になります。

答えは「完全な人であっても、人間である事の制約はまぬがれない。」というものでありましょう。

つまり「カルマは積まれる。」という事になります。

そういう訳で、子孫が増えるに従って、代を重ねるにしたがって「間違いの総量は多くなり、それが子孫に順次伝えられていく」というのが「バパのカルマ論」となります。

この「間違いの総量」、あるいはカルマがまずはラティハンの浄化対象となります。

そうして、この「代々にわたって伝えられてきたものの大小が、多い少ないがラティハンの進歩の状況をも左右しているのだ」とも言われています。(たとえばスシラ ブディ ダルマ など)

これがきれいにならないと、言葉を変えますれば「アダムの状態」にもどらなといけません。

そのためにこの時代にラティハンが現れたのであります。(3,13,1965)、(6,18,1981)、(7,17,1981)


さて、「人が積むことになる間違い」というのは何であるのか、トークから引用しましょう。

「間違っている」とは、他の人々を傷つけたり、他の人々の自由を奪ったり、心の安らぎを奪ったり、などをすることを意味します。
あるいは、他の人に属するものを(自分のものとして)取りあげることです。(6,18,1981)

そのように行動しないことは、現代社会においては非常に難しいことになっています。

時代が進歩するにつけ、社会が複雑になるに従い、我々が自分の利益を優先する程度につれてこのように行動しないことはより一層難しくなるばかりであります。

さて、そうでありますれば、時代の進歩というのは「良くない事」なのでありましょうか?

時代は進歩せず、アダムが誕生して、そのまま「知恵の実」を食べずに、ただただ「イノセントでいた」方がよかったのでありましょうか?


それでは「今の様に宇宙が進展してきたという事実に意味はない」ということと同じでありましょう。

「ビッグバンは不要であった」と主張するようなものであります。

地球が誕生し、人が生まれ、そうして社会が発展することに、したことに意味がある、、、とするならば、ラティハンはただ単に「アダムの時代に帰れ」というものではありますまい。

そうではなくて、我々の社会がこのように発展した、その中にあってなおかつ「アダムのような内的状態である事」に意味があるのでありましょう。

それが「この時代に現れたラティハンの持つ意味」であると思われます。

PS
バパはイスラムでありながら転生を認めたり、カルマを認めたりしています。<--リンク

そして転生やカルマというのは極めて仏教的、ヒンドゥー教的な世界観であります。

これはやはり仏教やヒンドゥー教がまずはジャワを席巻し、そのあとでイスラムが広まって現在に至っているという歴史的な経緯によるものでありましょう。<--リンク

そうして「バパのイスラム」はそれほどに包容力が大きいという事ができそうです。<--リンク


ところで、バパが主張するような「親から子供に引き継がれるカルマ」という考え方はもともとの仏教やヒンドゥー教にあるカルマの考え方の中には無いようであります。

これは日本では俗説として「親の因果が子に報い」とも言われているものでありますが、それは誤解の様であります。<--リンク

本来のカルマというものは徹底して個人的なものであって、親のカルマと子供のカルマは独立した存在であるというものの様です。<--リンク


しかしながら、このカルマについてのバパの認識というものは一概に「間違っている」とは言えないと思われます。

その状況というのは、いわゆる遺伝学でいわれている「表現型=遺伝因子(DNA)+環境因子」というものと相似的です。

つまり現実に我々が抱え込んでいる「間違いの総量」というものは、カルマと言われるような「個人的な因果律によるもの」と、暮らしている国や社会、そうして両親が作る家庭環境などの「環境要因」の和になっていると思われるのです。

式で表せば「間違いの総量≒個人的な因果律によるもの+暮らしている環境要因」とまあ、こんな感じでしょうか。

そういう訳で、両親の影響というものは無視できるようなものでは無いことは明らかなのであります。


さてそうではありますがバパが主張している様な「生まれてくる子供は両親からの過ち(カルマ)を引き継いでいる」という考え方は一般的なイスラムの中にもない、という事には注意しておく必要があります。

イスラムでは「生まれてくる子供には何の罪、汚れもない」としているのであります。<--リンク

PS
通常は輪廻転生と対になって使われるカルマというコトバですが、バパがつかう「カルマ」ということばの中にはカルマによって必然的に引き起こされるような仏教、あるいはヒンドゥー教が想定しているような輪廻(サンサーラ)というものは含まれていない様です。(2,3,1974)<--リンク

しかしながらそのことばには「因果応報」という意味合いは含まれているのです。(3,17,1983)、(7,25,1977)

PS
ジャイナ教でのカルマの扱いは「非常に微細な物質であって霊魂に浸透して霊魂の本来の透明で純粋な性質を曇らせるとも考えられている。
カルマは一種の汚染であって、霊魂を様々な色(レーシュヤー leśyā)で汚染するとされる。」<--リンク

つまりはカルマとは「汚染」あるいは「汚れ」であるとしています。

他方でバパがいう所の「内部感覚(inner feeling)に積もり積もった間違いの総量」というのはそのような物質的なイメージではありません。<--リンク

それは当初はちゃんと整理整頓されていた広い場所が乱雑にものがちらかった状態になった、というイメージであります。

すこし固く言うと「エントロピーが増えた状態」ともいえます。

それは何か「汚れ」というものが外から持ち込まれた、、、というのではなく、前はきれいなパターンをしていたものが、ぐちゃぐちゃのパターンに変化してしまった、というようなものであります。


さて、この状態から元の「きれいに整頓された」、あるいは「きれいなパターン」に戻さないといけないのですが、これを人がやるのは無理であろう、、、とバパは言います。

なにせどこからどう手を入れて直していけばいいのか、目の前のものをどこに戻せばいいのか、皆目見当がつかない状態でありますれば。

とうてい人の手におえる代物ではありません。

いや、たとえば「これをこう直すのがよかろう」と人が直したつもりになっても、それは「修正」にはなっておらずかえって「改悪した」という結果になる事が予想できます。

まあそういうわけで、ここはラティハンにまかせるより他に手はないのであります。


そうしてラティハンの出番になるのですが、「ここをこう直しましたよ」と逐次の報告が上がってきます。

そのとき我々は「おおそうか、それでOKだ。」というのであれば、物事は速やかに進行していきます。

しかしながら「いいや、それではだめだ。気に入らない。」とナフス君がでしゃばるとそこでストップがかかりますね。

「これまでやってきたように行動するのが私のポリシーだ」という訳であります。

そして通常の日常行動は基本的に「ナフス君の管理下にある」のでありますから、ラティハンはそこまではでしゃばりません。

こうやってラティハンがせっかく修正したものを我々はまた元に戻すのでありました。

そうしてこの事を我々は「人間には自由意思がある」と表現するのであります。

その結果と言いますれば、結局のところラティハンを受けていようがいまいが、人は自分の認めたところ、意図したところまでにしか到達しない、到達できない、ということになるのであります。<--リンク


そしてカルマですか。

当然ながらそうして残念ながらそのような状況の下では、なかなか減少する、解消するという訳にはいかない様であります。

追伸
多くの人と人が「袖をすり合わせる」様にして暮らしているのが現代社会です。

そうして、そのような状況下では単なる思い違いによってでさえ簡単に社会全体がかかえる悪意、カルマの総量は増えてしまいます。

たとえばそのような例で、かつ身近に起こっているものを一つ紹介します。<--リンク

PS
以下(3,13,1965)トークから、カルマとその解消についての引用になります。
・・・・・
この先祖から別の者に、また別の者に、そして最終的にあなたに届いた間違い。
だからあなたの現在の状態はそういうもののすべての継続です。
そのように作られた間違いは繰り返し起こり、まだ限界に達していません。

そしてそれらがあなたに届く時には、それらの間違いあなたの個性に浸透し、それはしばしばカルマと呼ばれますが、それらはあなたの元々の自己の一部であるかのように感じられます。

それは砂糖とその甘さのようなものです。
あなたが甘さを砂糖から取り除くなら、それはもはや砂糖ではありません。
この場合、あなたの外観は砂糖ということですが、あなたの存在に浸透した間違いはその甘さになります。

それで、あなた自身の力であなたの存在における過ちを取り除きたいなら、それはあなた自身の自己を取り除くことを意味します。
そうして、それは死ぬことを意味します。
・・・・・
 私たちがしなければならないことは、私たちの個性の中に入ったそのような間違いを取り除くことです。
そうすれば 私たちの個性は、最初にあったように元に戻ります。
つまり、それは再び完全な人間の個性になります。
しかし、もしそれを強制するなら、私たちは死ぬでしょう。
・・・・・

さてそういうわけで、「そのような間違いを安全に、かつ速やかに解消するにはラティハンによるしかない。」というのがバパの主張になります。

PS
ベネット(John G. Bennett)さんはグルジェフの高弟としてグルジェフの体系での修練にいそしんでおられました。<--リンク

そうしてそこにラティハンがもたらされました。<--リンク

当初はベネットさん、ラティハンに満足されていた様子でしたが、次第に飽き足らなくなり、グルジェフの体系とラティハンとを共用する事を始めます。

要するに「グルジェフの体系を能動的に用いることによりラティハンの進歩を加速することができる」と考えた訳であります。

しかしながら結果はベネットさんの予想に反して「グルジェフの体系はラティハンの進歩に寄与しなかった」模様であります。

そうして、バパによれば「ラティハンの進歩を早めることができるような、いかなる訓練体系も存在しない」のであります。

そのような状況下で我々にできる当面の事は「ラティハンが浄化したものを極力元に戻さない」という「受動的な立場の協力」しかありえません。<--リンク

そうしてプアサ(断食)であれプリハティンであれ、「ラティハンが許容する限度までしか」行えないのであります。

その限度を超えた場合は「ミックスmix」といわれている「ラティハンと他の修練体系を一緒に用いる事の間違い」として指摘される事になります。

ちなみにベネットさんの立場は「アダムが人間の完成形である」というものではなく、「宇宙を作り出した意思の下で霊的にも人間は順次進化していく存在である」というものの様でした。

それゆえにベネットさんの立場というのは上記のようなバパのスタンスとは方向が反対のものであったことになります。(そうしてそれは多分グルジェフからの影響もあったと思われます。)

PS
以下ご参考までに。
・獲得形質は遺伝する?<--リンク
・ミーム(人類の文化を進化させる遺伝子以外の遺伝情報)<--リンク

PS
文明が発生し、社会が発展するのに従って我々の性格、個性、気質もまた変化してきたものと思われる。

たとえば農耕が主な社会では農耕にあった性格、気質を持つものが「すぐれたもの」として認められたでしょう。

そうなるとそのような気質、性格がその社会の中では選択圧となり、最終的にはDNAレベルまでの変化として固定されます。

同様に遊牧を生業とする社会ではその社会に適応した性格、個性が生き残ります。

こうして社会の在り方が人の性格や気質に影響をあたえ、そのなかのある部分はDNAによって固定されます。

そうやって社会が進んでいき、工業化、商業化、情報化、そうしてマネー化した現代社会では、人の持つ性格や気質が前の時代とは異なったものにになっているのは、ある意味「歴史の必然」でありましょう。

人類全体がそのようにして受けてきた影響、変化と言うものは明らかに我々が持っている「内部感覚」にもそれなりの影響を与えてきた事は明らかであります。

そういう部分まで含めての「内部感覚にたまった間違いのすべて」がラティハンでの浄化対象になっているものと思われます。

しかしながらそのような負債、「社会の変化に従って必然的に生じてくるような誤り」というものの責任を単に「両親の行動の誤りの結果である」としてしまう見方というのは、少々人間にとっては厳しすぎる判断基準の様に思われるのであります。

追伸
社会の進展に伴って生じる内部感覚の変化については6月6日1963年のリオデジャネイロ トークにも記述があります。

PS
さて仏教、あるいはヒンドゥー教、そうしてジャイナ教でもカルマによる輪廻(サンサーラ)、それも終わる事のない輪廻を説きます。

そうして、カルマによる輪廻という考え方の本質はなんでありましょうか?

それは「行動の選択ができる主体がいる。」ということであります。

そうでなければ、すべては事前に決定された、単なるお話の再現にしかなりません。

そうではなくて、「舞台の上の主人公の主体的な選択が可能である」、という世界構造でなければ「カルマによる輪廻」という構造は意味を持たないものになります。

さて、人はとりあえず主体的な選択はできそうです。

ところで動物は主体的な選択が可能なのでありましょうか?

動物に輪廻転生することもある、というカルマ論であるならば「YES」と答えるほかに選択はありません。

さて、本当に人間以外の動物に主体的な選択ができるのでしょうか?

このことは動物界を含んだ輪廻を想定している、カルマー輪廻論がもつ、大きな疑問点の一つであります。


ところでバパによりますれば「我々には自分自身の間違いによって動物力の世界に落ち込む可能性もある」とされています。

しかしながら、「動物力の世界に落ち込んだ我々の意識はその世界に適応したものになり、人間であった時の様な認識力や判断力を持たないであろう」とされています。

つまり「自主的に判断を行えるような自由意思は持たなくなる」というように理解されます。

このことをカルマー輪廻論に当てはめると、「動物はカルマを積まない、積めない」ということになります。

つまりそこで固定されていることになり、何らかの外部からの働きかけがない限りその状況はいつまでも継続されていくもの思われます。

さて、その外部からの働きかけというのはなんでありましょうか?

それが実のところ、このラティハンになるのでありました。

PS
バパによる「人の誕生の説明から見たカルマ論」

夫婦が子作りの行為によって子供をさずかる場合にいわゆる受精卵に魂(Jiwa)がやどると説明されています。

さてその場合に、その魂(Jiwa )はどこから来るのでしょうか?

一つの可能性は「転生すべき魂である」というものです。

バパは特定の条件下での魂(Jiwa)の転生を認めておられます。

もう一つの可能性は、「いまだ人と言う存在になったことがない魂(Jiwa)が供給される」というものです。

バパによれば、いずれにせよ「魂(Jiwa)というものは神の手作りのものであって、それは永遠のものである。」ということになります。


さて、人の形になる為には肉体とその人の魂(Jiwa)だけでは不足であります。

そこに追加される必要のあるものは、内部感覚と物質力から人間力に至る4つの諸力のパッケージです。

そうしてこの2種類のパッケージはどうやら両親から伝えられるものの様です。

両親から贈られる内部感覚がなければ人間としての存在になりえませんから、それは必要なのでありますが、その時に両親が犯したであろう間違い、さらにはその先の先祖が犯したであろう間違いの痕跡も引き継ぐ事になります。

こうしてバパがカルマと呼ぶものが親から子供に代々引き継がれてゆくことになる、そのように説明するのが「バパのカルマ論」となります。

ちなみに両親に供給される子供の魂(Jiwa)のレベルは通常は子供が持つ事になる内部感覚のレベルに適合したものになっている模様です。

それから両親から伝えられた4つの諸力のパッケージが内部感覚の中を還流することで、その子供の人生に必要となる4つのナフスが生まれる事になります。<--リンク

PS
個人が背負っているカルマ(間違い)の総量について

バパは7代までの先祖とはリンクがある、という主張をされます。
(何故に7世代なのか、バパは根拠を提示されませんが、俗に日本仏教では「7代たたる」とかいいますね)

両親からはじまってその先祖7世代、7世代目には128人(64夫婦)になります。

それを全て合計しますと両親までで254名となります。

さてそうしますと我々は254名が犯した間違いをすべて背負わないといけないのでしょうか?
(間違いの相続率が100%ですとそうなります。)


いやいや、そいつは少しむごすぎますね。

両親が犯した間違いの総量を2として、そのうちの半分の1が子供に引き継がれるとします。
(間違いの相続率を50%と仮定していることになります。)

そうしますと7世代合計でその間違いの総量は254、、、ではなく7になると思われます。

つまり各世代ごとの間違いの総量は2でそのうちの半分の1が子供に引き継がれるという事になります。

この考え方での計算結果詳細はまた後日にでも追記しておきます。

間違いの相続率を50%にしてもラティハンを始めるまでに我々が犯したであろう間違いの総量1に対して、身に覚えのない間違いが7はある、、、ということになりますので、さて恐るべきはカルマの蓄積であります。


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