ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

バパの結婚と礼拝の論

2017-08-08 | 日記
以下バパの「夫婦の性的合一は礼拝という行為にまで至らなくてはならない」という議論の為に、関係するトーク類を再掲示します。<--リンク

(5月3日1968 バパ)
神がアダムに告げて曰く
「イブとは、あなたが彼女と違っていること、そしてあなたの魂が彼女のものとつながっていることを理解したら、イブとの性交というのはあなたが天国にいたときの状態と似ている事を感じるでしょう。」(注1
・・・・・
彼は感じて、経験した、「ああ、これは神が意味したものです。
これは私が天国にいたときの感じとほとんど同じです。」
そして、妻と性行為をした後、彼らの合一は「人間の本質または種」で満たされました。

それで神はアダムに言った、「アダムよ、私があなたを地球に送った方法をあなたは理解していますか?
そして後で地球をどのように離れるのでしょうか?
あなたはあなたの妻と性行為をするたびにそれを認識しなければなりません。」

アダムは答えました、「神様、それは本当です。
私は、神が私のために妻を持つことを通して道を提供して以来、私は神との親密さが現実のものであることを認識しています。」(注1

だから間違いなく、女性は道です。
あなたの人生や生命の道 - 男性だけでなく、女性にとっても同じです。
それが宗教が女性のことを言う理由です。
天国は女性の中にあります。
そうしてまた、兄弟姉妹の皆さん、地獄は女性の中に見られるのです。
女性のおかげで男は偉大さ、幸福、知恵を達成することができます。
そうしてまた逆に、男の偉大さ、高貴さは女性のために崩れることがあります。

(13章・ダンダングラ 16~17)
(現在では非常にまれな事となっている、二人の人間力に満たされた男女が結婚することが出来た場合についての記述)
16、このような結婚の結果、平和と調和がもたらされるばかりでなく、さらに生活の繁栄への道が開かれる。
もしも彼らがこのような結婚で子供をもうけると、男性の自我を通って訪れる「人間の種子の力」で、彼の身体感覚が呼びさまされよう。

17、そして感覚がこのようにして呼び覚まされると、その欲望がどこから来ているのか彼には直ちに感じられ、さらに彼は合一の間の自分の状態に気が付いていることもできるであろう。
従ってそれは、彼にとって一つの内的な覚醒となるであろう。(注1

(5月1日1965 バパ)
バパはあなたに尋ねる必要はありません。
あなたがすでに結婚した理由は、(成長すれば)あなたのような(人になる)「人間の種」を得るために、そして子供を持つことです。
これは、あなたがこの世の人生を永続させるために神の代理者になることを意味します。(注1

(8月9日2003 イブ)
神は現実には男女を神聖な仕事のために創造したからです。(注1
それはなぜ神聖と考えられるのですか?
人間は完全な人間として生まれる事になる「人間の種」を渡すことが期待されるからです。

(5月20日1958 バパ)
バパはあなた方のせいとは言いませんが、一般的にはあなた方は結婚しており、あなたの欲望を満足させ、満たし、子供を抱えていますが、非常に秘密にされている事柄についてはあまり実行されていません。
あなたはあなたの子供の中に何があるのか​​、あるいは自分が存在するようになる前に自分がどのようになっていたのかを理解していないのです。
このため、イスラム教では人々が結婚することが不可欠であると考えられています。
結婚を通して、人間は人間の創造と存在を継続するための神の代理者であることを認識します。(注1
・・・・・
しかし、彼らは自分の欲望を満たすために、そして心の喜びのために結婚したいだけで、彼らは意図されている真の意味を失います。(注1
結婚の本当の意味は、結婚を通じて人間は自分自身の中で反復のようなものを得ることができるということです。
これがあなたがラティハンを行い、思考の心、意志と欲望の外で働き始めることができるように訓練されており、結局は男とその妻の結婚の秘密を知ることができるようになっている理由です。(注1
また、あなたがどのように食べるのか(注:食べたらいいのか)を知ることができるようにもなっています。

(6月13日1963 バパ)
宗教では、イスラム教とキリスト教の両方で、そしておそらく他の宗教においても、タリーカ tariqah[アラブ、道、方法]と呼ばれる教えがあります。
タリーカTariqah - インドネシアでは、それをタリカットtarikatと呼んでいますが - それは教えを意味します。
それはあなたが勉強するものです。
タリーカTariqahは、これがどこで、どこにあるのかを記述しています。
それは神がどこにあるのか、そして神の仕事が何であるかを記述しています。
イスラム教とキリスト教にはタリーカTariqahがあります。
しかし、それはすべて研究という形であり、心と思考から来る教えです。
・・・・・
真実は、タリーカTariqahすなわち「神の領域と魂の領域の研究」には大きな誤りがある、というのも、二つの異なるものを同じものとして扱うからです。
タリーカTariqahは神の恵みを受けた人とそれをまだ受けていない人とを同じように扱います。
・・・・・
性交の器官は、バイタル ムカダスbait al-muqaddas [アラブ:浄化された家]と彼らは言いいます。
バイタル ムカダスbait al-muqaddasは性器であり、最も小さい家です。
・・・・・
[小さな家]では、人は「人間の種子」を受け取ることができます - あなたは確かにこれに精通しています - 「完璧な人間の種」、それは聖霊を運ぶ人間です。(注4
それが彼らの教えです。
だから、この教えに従うのは誰でも、バイタル マームル bait al-ma‘mur、バイタル ムハラム bait al-muharramそうしてバイタル ムカダスbait al-muqaddasを持っていると信じています。
誰もがそれらを持っている、、、と。
しかしそれは彼らの間違いです。
・・・・・
そしてタリーカTariqahに従ってそれを研究する人は、「男と女の合一は神の礼拝である」と言っています。注2
実際、男女の合一は、兄弟姉妹の皆さん、本当に人間と神の間の礼拝の行為です。注1
しかしそれは、誰でもそうであるのではなく、神の恵みを受けた人間にのみ適用されます。(注3
それ以外の人では礼拝にはならず、喜びの行為になるだけです。
それは彼らの動物力の欲望、彼らの植物力の欲求、そして彼らの物質力の欲求を満足させる方法です。
それは一般的に、つまりは男と女の合一は礼拝の行為ではないということです。
・・・・・
それでバパが言ったように、人体の性器に存在するものはまだ神の恵みではありません。
一般的にはまだヤギ、イヌ、ニワトリ、アヒルまたはウシです。
そしてそれは良い方です!
(動物力なら良い方だと。)
幾人かの人々のそれは物質力です。

(8月23日1971 バパ)
・・・・・
前にBapakが言ったように、夫と妻の性的合一は、受けること、あるいはある種のラティハンです。
だから既に結婚している男性は、自分の妻と性的合一にあるときに、生命のラティハンllife latihanを行います。

夫と妻の性的合一の特徴が喜びであると感じたり、受け入れたりしないでください。
それでは正しい方法を見つけることを妨げるでしょう。

夫と妻の組合は、本当にあなたがムトマイナmutmainahと呼ばれるナフスnafsuを持つことを可能にする生命のラティハンllife latihanです。
そしてそのような性的な合一はあなたが行う神の礼拝をたやすくします。

あなたの気持ちは純粋になり、あなたは仲間の人に思いやりと同情を持ちます。
あなたがそのようになることができれば、他の人たちはあなたのために思いやりを持ち、あなたが会うすべての人に愛されるでしょう。

その様な人は世間では非常に尊敬されています。
・・・・・
その理由から、夫と妻の性的合一が満足感の手段であるとは信じてはいけません。
生命を知る方法、それであなたがナフス ムトマインナnafsu mutmainahを持つ事を可能にする方法であると感じてください。

(London 1959/8/11)バパ
そして、ムハンマドと彼の妻との性的合一が真実になって神に向かって礼拝する行為になったので、ムハンマドが神を礼拝することがより容易になりました。

男性と女性の性的合一は、真の礼拝行為であると神によって定められました。

これは、イスラムの宗教に従って、モスクで行われた結婚式で示されています。
ここで、男女は真の夫と妻になることを宣言して確認するために、「アッラーフ(神)の他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である。」という信仰告白を唱和する必要があります。
この行為によって、夫婦は彼らの存在を神に誓うこと、そして彼らは神の目撃者であることを認めています。

これはそれがどのように実践されたかです。
ムハンマドの追随者や他の多くの人間が、夫と妻の性的合一を純粋にし、礼拝の行為をしました。
それで彼らは真実、神を礼拝することができました。

しかし、バパは再び、人間は人間のままであると言います。
とても素晴らしく幸福な崇拝行為にもかかわらず、彼らは再び、彼らの楽しみと喜びの中で、彼らがこの世界の環境の影響力と圧力にさらされていること、そして低次の諸力の侵入、それは人間が純粋な目標を達成するのを妨げる傾向があると言う事を忘れてしまいました。
だから、ほとんどの人にとって、男女の合一は、礼拝の行為ではなく、再び彼らの情熱の喜びに過ぎなくなりました。

現実には、性的合一の真の性質は要約(繰り返し)というものであり、それを通して人間は「存在する前と後の両方で自分の状態を認識して知ることができなければならない」というものです。
あなた方は本当にそのように認識しなければなりません。
そうでなければあなたは単に車が通り過ぎた道のようで、その車がどこから来たのか、どこに行ったのか知ることがありません。
それは本当に失望する事であり、本当に全能の神を悲しませています。
なぜ人間はこれを理解できないのですか?

それで兄弟姉妹の皆さん、あなたの子供がどこから来たのか、あなたの子供があなたを通過しても何が起きるのか、皆さんは知らないのです。
子供はどこから来たのですか、そしてどこに行くのですか?

しかしあなたがこれを意識すると、「私が存在する前に私はどのようになったのか?」を意識していることになるでしょう。
そして、「後で(地上を、現世を)離れる時にはどうなるのか?」がわかります。
(注:死後の自分の状況を前もって知る事ができるという主張です。)

以上のように、これらはアブラハムからムハンマドまでの預言者たちが受けた戒めがどれほど優れているかという事です。
しかし、人間は人間のままであり、世界の雰囲気にとても容易に左右されます。
何が起こっているのかを意識することなく、時間が経つにつれて、彼らは自分たちの欲望、意志、思考心、そして心の力に従うことをますます重要にしていきます。

(8月18日1959 バパ)
それはバパが個人的な場所、人間のセックスの場所として言及する第3の家と同じです。
これは人間が「本当の人間の魂(ロハニrohani)」、あるいはそれを超えるもの(ラフマニ)を持っている子供たちを創造する(宿す)ために神の命令を受けることができる臓器です。
そして彼らは人類の助言者になることができる子供たちです。

  「実際の所、私は誰ですか?」
それは、人の魂の個人的な意識と理解が開かれ、経験できることです。
彼らは、彼らが「高い人間の種」を世界に送り届ける神の願いのための通路になったことを認識しているからです。(注4

まだ神から正しい方法を受けていないので、そのような事をまだ認識していない人にも子供がいる。
しかし、彼らはまだ外界からや彼らには起源が分からない生命力からの影響を受けている。
これらの人間力未満の生命力は、人間の思考、心、欲望を介して働くため、必然的に人間の性的臓器に入り、その結果生まれた子供には人間の魂は含まれず、そうしてその魂の起源は不明である。
そうしてそれは主に物質的な魂、または動物の魂になります。
・・・・・
男性がバパが話したレベルに到達した場合、つまり、バイタル マームル bait al-ma'mur、バイタル ムハラム  bait al-muharram、バイタル ムカダスbait al-muqaddas(というレベルに到達した)- その後、彼の妻との合一の前に、神は彼に「人間の種」を世界に持ち込む目的と働きを考えさせることになるでしょう。(注1
・・・・・
人間の場合、それが作られる場所はバイタル ムカダスbait al-muqaddasであり、創造は男女の合一によって行われる。
・・・・・
本当に、男が現実化された思考、愛、性的合一を流すチャンネルであり、女性は受容者を表すというのは、人間の本性である。

(6月30日1957 バパ)
これは、あなた方のすべてが、あなたが訓練(latihan)をしたときに受け取るものです。
あなたが受け取っているプロセスが完了すると、あなたは「本来のあるべき人間の種子」から子孫を持つことができるようになり、往々にして高等教育を受けるためのチャネルを提供することができるようになり、子どもたちは最終的に人間社会の中で神の有益かつ価値ある生き物である人間になり、その結果、平和と繁栄はこの世界の人類の家族に来るかもしれません…(注4)

(17章・パンクール 43~44)
(ラティハンが進歩するにつれて、、、)
43、この段階を通って、彼はその後ますますそれをより明瞭に、また確実迅速に行う事ができるようになる。
その結果、妻との性的合一において、彼は「完全な人間の種子」という中身を注ぎこまれるうつわとなることができる。(注4

44、「完全な人間の種子である中身」とは、やがて時が満ちれば高貴な性質をそなえた人間となり、また人生および人間と社会の在り方にとって、真に価値ある人格を生み出すような中身という意味である。(注4

(5月21日1977 バパ)
それで、「人間の種」を抱くのは男です。
しかし、人間の種は、それが女性に与えられなければ、人間になることはできません。
・・・・・
 したがって、ロハニア rohaniahの生命力、イスラムの人々はそれらをムーミン mu’min (本当の信者)であるワリ達walis (聖人)の生命力と呼びます。
ワリwaliとムーミン mu’min と呼ばれるものは男の、男性の力です。

それ以外にも、ロハニア rohaniah(ロハニrohaniの生命力)以上の生命力があります。
しかしそれをあなたが受け取ったり感じたりすることはできませんが、それは物事の定められた順序です。

彼がジャスマニアjasmaniah(人間力)、へワニアkhewanaiah(動物力)、ナバディアnabadiah(植物力)、ラエワニアraewaniah(物質力)の生命力によって重圧を受けたり影響を受けたりしていない時に「人間の種」を受けた場合はロハ二アの生命力を受け取ることができます。(注4
上記条件のもとでロハニの生命力は、「人間の種」を受けた人が受け入れることができます。

(8月18日1959 バパ)
なぜなら、あなたの情熱、思考心と感情心の意志に従えば、それは最高の生命力をあなたに近づけることはできませんし、それがあなたの進歩を妨げる低い力です。
情熱、感情の心と思考の心は、低次の力が私たちに入る道です。
しかし、私たちが自分の能力と理解力を上回る生命力(ロホ イロフィ roh ilofi)に降伏すれば、私たちは低次の力が私たちに入る道を閉めます。(注5
これは、神の意志によって、私たちが訓練している霊的な方法(ラティハン)であり、私たちが完璧な人間の魂を取り戻し、私たちの原始的な起源、それは「人間の種子」からの最も初期の始まりであり、またそれは高貴な生き物の種でもありますが、そこに戻ることができるようにする方法です。

注1:バパの「夫婦の性的な合一は礼拝である」という主張のいろいろな表現。

注2:タリーカTariqahーー>PS参照のこと。

注3:ムハンマドによって伝えられたもの

注4:夫婦の性的合一が礼拝にまで高められた時に起きる結果、あるいはロハニレベルへの到達の仕方。

注5:これは「ラティハンで本当に起こる事は、夫婦の性的合一が礼拝にまで高められた時に起きる事と同じである」という主張の様に見えます。

PS
関連して、以下の様なトークもあります。

April4月21日, 1984 - Bapak
私たちは裸で生まれました。
後で私たちが死ぬ時、私たちが帰る時、再び裸になるでしょう。
そして、私たちがこの世界を離れるとき、私たちは何も持っていけません。
それでも、オランダの諺にあるように、死はまさに人生の継続です。

それは私たちが間違いを見て死ぬ時にそうなります。
私たちは物質にこだわって、野菜にこだわって、動物、人間につかまった。
なぜ私たちは物事に取りつかれ、食事をしたり、他の人との関係につまずきましたか?
人生に付随すると思われるまさにその力(4つの低次の諸力)を避けることによって得る結果は強みではなく弱みです。
意図した通りこれらの力(4つの低次の諸力)よりも上に上がるのではなく、(死後に)それらの下に落ちます。
(注:この部分はバパの禁欲主義的な修行方法への批判になっています。)

そしてそれは、兄弟姉妹の皆さん、私たちの間違いの結果として、生まれ変わりと呼ばれるものが起こるのです。
(注:これがバパの生まれ変わりに対する結論の様に見えます。)

化身(incarnated:肉体化)とは、インドで起こると言われているものを意味しています。
インドでは、人間の魂を持つ牛がいると言います。
彼らはそこに「その牛は人間の魂を持っている」と言っています。
しかし、人間の魂が牛だけに生息するだけではありません。
木はまたその中にそのような魂を持つことができます。
物質的な物も(魂を持ちうる)。
これはインドに関連するものです。

それはアラジンAladdinの(魔法の)ランプの物語のようなものです - ランプをこする人は悪魔の住居に吸い込まれます。
なぜ?
人間自身の間違いのために。

なぜこれはすべて起こるのですか?
思考、感情心、思考心を間違った方法で使っているからです。
これが、バパがあなたにある事を伝えたい理由です。
バパが最近ジャカルタ外のメンバーに言ったことですが、ここ(チランダ)でも繰り返す価値があります。
少なくとも、他の人を傷つけたり傷つける心や意欲を持たないでください。
復讐感や憎しみをはるかに少ないように。
これは絶対に許可されていません。

神聖なコーランの詩では、それは言われています。
イスラムの人は、別のイスラム教徒に対して嫌悪感や復讐感を感じてはいけません。
恨みの気持ち、恨みの抱きしめ、復讐の意志は、その気持ちを持っている人が、復讐する人、場所、物に、つまり、彼が憤慨しているまさにそのような人へと肉体化(incarnated)されることを意味します。
これが現実です。

あなたが男であり、あなたが結婚していて、あなたの妻が妊娠して子供を運んでいる場合、あなたが誰かを憎むようになったら、あなたに生まれる子供は、あなたが嫌う人のようになります。
はい。あなたが軽蔑する人が知的で親切で美しいものであっても、(あなたが持つ子供は)知的ではなく、親切ではなく、善良でもありません。

そのように登録されます。
そしてこれ(間違い)はすべて人間自身が作り上げたものです。

PS
以下、上記本文でバパが言う所の「タリカットtarikatの例」を見てゆく事にします。
『そしてタリーカTariqahに従ってそれを研究する人は、「男と女の合一は神の礼拝である」と言っています。(注2)(6月13日1963 バパ)』

まずはガザーリーAbu Hamidal-Ghazali(~d.1111)の婚姻論から始めましょう。
ガザーリーの婚姻論 青柳かおる<--リンク
『・・・・・
以上の前提のもとで,婚姻生活において合法的性交が行われる。
性交の際もドゥァーによって神への依存性を表し,神について思念することが求められる。
ガザーリーによれば,神の名前によって始めるのが望ましく,「言え,これぞ神にして唯一者」(クルアーン112章1節)と言い,「神は偉大なり」,「アッラー以外に神なし」,そして「いと高き偉大な神の名において,神よ,彼女によい子孫を与えたまえ,… … 」と言う。
ガザーリーによれば,性交は現世において子孫を残すという意味で重要であるが,それだけではなく来世においても重要である。

(以下、婚姻論からの引用)
欲望の中には,子供を作ることへの要因以外に,他の叡智hikmahがある。
それは,もしその(現世的)喜びladhdhahが続いたとしても,それ(欲望)の満足において,対比され得ないほどの喜びである。
それは天国に約束された喜びを示している。
実際に体験できない喜びに(向けて人を)促すことは無益である。
… …
現世的喜びの一つの利益は,それが天国でも続くように欲することであり,神への崇拝への原動力ba'ithとなることである。
(引用終わり)

現世での性的快楽は,来世での快楽を類推するためにあるというのである。
婚姻生活における合法的性交によって,姦通を防ぐ,子孫を残す,性的快楽を得るという三つの利点が生じるが,この中で性的快楽は,心を安らかにするのと同様,神への崇拝への原動力となるのである。
・・・・・
但し同論文の「Ⅴ.マッキーの婚姻論」の部分ではマッキーAbu Talib al-Makki (d.998)による、上記とはまた違う意見が述べられています。
・・・・・
最後に結婚すべきか,独身でいるべきかという議論がまとめられている。
マッキーは婚姻を勧める根拠として,クルアーン24章32節や「気に入った女を二人なり,三人なり,あるいは四人なり娶れ」(クルアーン4章3節)などを引用し,婚姻によって,男性の女性に対する視線を避け,陰部を守ることになるとしている。
しかしマッキーによると,神は結婚も,独身も人間に課してはいないma iftaradaのである。
神が課しているのは,心の平安salah al-qalb,信仰の健全さsalamah al-din,魂の静けさsukun al-nafsである。
したがって,結婚して心が安らかになるなら結婚したほうがよいし,女性を遠ざけ,来世について心を空しくするために一人でいるほうがよければ,独身のほうがよい。
このように,結婚するか否かは個人の状況によるのだが,マッキー自身は,このわれわれの時代には独身によって得られる心の平安のほうがよいと言う。
そして,もし姦通の恐れがあるなら結婚したほうがよいとしてから,サウリーSufyan al-Thawri(716-778)の独身を称える詩でマッキーの婚姻論は終わっている。』

次は「ガザーリーにおける二つの欲望 青柳かおる」からの引用です。<--リンク
「・・・・・
ガザーリーは以下のように言う。
『第一に、その快楽(ladhdhah)を知覚することによって、来世での快楽を類推することができる。
というのは、火で焼かれる苦痛(a - la-m)が、身体的に最も強い苦痛であるのと同様に、性的快楽は、もしそれが続くならば、身体的に最も強い快楽だからである。
促進力と抑止力(targh b waal-tarh b)は、人間を幸福へと導くが、それらは感覚的な知覚できる苦痛と快楽によってしかもたらされないのである。
というのは、経験によって知覚できないものは、決して欲求されることはないからである。
第二の利点は、子孫を残し、存在を存続させていくことである。
これらが性欲の利点である(Ih. ya- ’, Vol. 3, 159)。』

このように性欲には、
1性的快楽によって来世での快楽を類推することにより、来世での快楽のために努力する、
2現世に子孫を残す、
という利点がある。
しかし、性欲には害もあり、性欲を制御できない場合、宗教においても現世においても破滅をもたらす(Ih. ya- ’, Vol. 3, 159)。
性欲には、大きな利点があるが、それを制御できなければ姦通などの罪を犯し、地獄に落ちることになる。
よって性欲は、多すぎても少なすぎても非難され、中庸が称賛される。
性的快楽を原動力として、神への崇拝に励むことができるからである。
・・・・・」

次に「イスラームの婚姻論比較研究 青柳かおる」はガザーリーとイブン・アラビーの婚姻論の比較になります。<--リンク

ガザーリーの婚姻論は上記で見てきましたので、ここではイブン・アラビー(Ibn al-‘Arabī 1240年没)の婚姻論を引用します。
「・・・・・
しかし、イブン・アラビーにおいて、スーフィーにとって性行為の目的は、女性の中に神の聖霊を認め、神との一体性を悟ることである(Hoffman 1995, 235–238)。
『叡智の台座(Fuṣūṣ al-Ḥikam)』の第二七章にはイブン・アラビーの女性観が述べられている。
それによれば男性は、最も完全な神の顕現である女性の中に、神 ─ つまり自分自身、自分の本質 ─ を見ることによって、神を二つの側面から見ることができる。

『男性が、女性の中に神(真実在)を見る(shāhada)とき、(影響を受ける)受動者(munfa‘il)の中に神を見ているのである。
男性が、女性が彼自身から顕現したものとして、彼自身の中に神を見るとき、彼は、能動者(fā‘il)の中に神を見ているのである.
男性が、彼自身から生まれたものに関心を持たずに、彼自身の中に神を見るとき、仲介なしに(影響を受ける)受動者の中に神を見ているのである.
しかしながら、女性の中に神を見ることは、最も完全で完璧である.
というのは、彼は、神は能動者であり、受動者でもあるとして、神を見るからである(Fuṣūṣ,Vol. 1, 217; Austin 1980, 275)。』

 男性(アダム)は、自分(神の顕現)の能動性(イブを生み出した創造者)と受動性(神の被造物)を自分の中に同時に見られない。
よって女性(神の顕現=男性=創造者、男性から派生した=被造物)の中に自分自身を見る。
女性を見ることは、神の能動的側面と受動的側面両方を見ることである。
神と世界は一体であり、性の神秘的意味は、神(女性)と世界(男性)の結合の一体感を感じることである。
性的結合により、神と世界との一体感を会得することが、イブン・アラビーにおける性の大きな意義なのである。
・・・・・」

次は、『イブン= アラビーにおける「自然本性(ṭabīʿah)」について』 小野純一<--リンク
「・・・・・
能動と受動の関係を実在の顕現に関連させるときに男性原理と女性原理に不可避的に言及せざるを得ない興味深い箇所を『叡智の台座』は提供する。

(注:以下『叡智の台座(Fuṣūṣ al-Ḥikam)』からの引用)
『男が女(marʾah)のうちに実在者を目撃するとき,目撃(šuhūd)は受動(munfaʿil)のうちにある。
男が実在者を実在者自身のうちに目撃するとき,実在者からの女の顕現(ẓuhūr)という観点からすると,男は能動(fāʿil)のうちに実在者を目撃している。

もし実在者から存在化するところの形相の現在化(istiḥḍār)なしに,男が実在者を実在者自身のうちに目撃するなら,男が行う目撃は媒介(wāsiṭah)なしに実在者からすれば受動(munfaʿil)のうちにある。
ゆえに,女のうちに実在者を男が目撃することはより完璧にしてより完全である。
なぜなら,実在者が能動かつ受動であるという観点でもって,男は実在者を目撃するからである。
それゆえ預言者(神が彼を嘉みし安らかならしめんことを)は,男が実在者を両側面において目撃することが完全であるので,女性(nisāʾ)を愛したのである。
というのも,相互的愛情(muwādd)から離脱(muǧarrad)しては実在者は決して目撃されないからである。
なぜなら,神はその本体(ḏāt)において諸世界を必要とはしない。
それゆえ,この観点[神の本体において神を直観すること]で事は不可能で,また,目睹(šahādah)は質料(māddah)においてしかありえないゆえに,女性(nisāʾ)のうちに実在者を目撃すること(šuhūd)が最も偉大であり,その目撃は最も完璧なのである17。』

目撃や目睹は特殊な表現に思われるが,これは神を垣間見るという観照体験といえるだろう。
目撃そのものは受動性のうちで生起するが,実在者に比定される目撃の主体は能動性として特徴付けられているものの,これは存在顕現という段階的流出の成立後からの観点だと理解すべきだろう。
神の本体において神を見る事は不可能だが,質料においてのみ人[=男]には可能であるため,神を見る事を可能にさせるのが女性,自然本性,質料である。
・・・・・」

そして次は『ガザーリーの「婚姻作法の書」にみられる妻と子供 青柳かおる』<--リンク
『・・・・・
ガザーリーは、「婚姻作法の書」の第一章「結婚の利点と欠点について」のなかで、子供について述べている。
ガザーリーは、結婚には五つのメリットがあると言う。
第一の利点は「子供」、
第二の利点は「性的欲望(shahwah)の消滅」、
第三の利点は「妻との親しさの増加」、
第四の利点は「家事の管理」、
第五の利点は「妻子を養うことによる魂の努力」
である。
これらのうち、第二の利点は夫の姦通(婚姻外の性交)を防ぐために重視されており、妻には結婚生活における合法的性交によって、夫の性欲を静め、性的快楽を与えるという役割がある。
この側面については、筆者はすでに研究したので、本稿では日常生活の側面に焦点を当てる。
普段の生活には、第三~第五の利点が関係してくるが、第三、第四の利点は妻に関するもので、子供については触れられていない。
この章では第一の利点である子供の役割について述べ、第二章で、第五の利点における妻子の役割を明らかにしたい。

ガザーリーによれば、婚姻の第一の利点は子供を持つことである。
より詳細に分類すると
第一に子孫を残すこと、
第二に神の使徒(預言者ムハンマド)を称える者を増やすこと、
第三に死後、自分のために祈願してくれる正しい子供を残すこと、
第四に自分より先に子供が死んだとき、とりなしてくれる者を持つこと
の四つの利点があるとする。
(引用注:第三と第四番目については表現方法は異なりますが、バパも似たような内容の事をトークで言っておられます。)

1)「子孫を残すこと」は、神が人間に与えた生殖に関わるもの、つまり、精子、子宮、欲望などを無駄にしないことにつながると考えられている。
ガザーリーは、結婚せずに神に与えられた生殖器官を使わない者は、神が創造して用意した道具を使っていないことになり、神の嫌悪と非難に値すると言う(Ih. ya- ’,Vol. 2, 40-41)。
そして、生殖器官が与えられたのは、子孫を残すことができるようにという神の愛なのだと主張する(Ih. ya- ’, Vol. 2, 41)。

2)「神の使徒を称える者を増やすこと」は、預言者ムハンマドの愛と満足のために努力することである。
ウマル‘Umar ibn Khat.t.a -b (d. 644 )は何度も結婚し、「私は子供のために結婚する」と言ったし、また不妊の女性への非難を表明したいくつかのハディース(預言者ムハンマドの言行録)がある。

3)「死後、自分のために祈願してくれる正しい子供を残すこと」により、親は子供の祈願と善行のために来世で褒美を与えられる。

4)「自分より先に子供が死んだとき、(神に)とりなしてくれる者を持つこと」については、預言者ムハンマドのハディースがあり、以下のように言われている。
「子供は両親を天国に連れて行く。」
「子供は親の服をひっぱる。今、私があなたの服をひっぱっているように。」
「子供は最後の審判のときに「天国に入りなさい」と天使に言われるが、天国の門の前で「両親がいない」と言って騒ぎ立てる。
すると騒ぎに気づいた神が「両親も彼と一緒に天国に入れてあげなさい」と仰せになるのである(Ih. ya- ’, Vol. 2, 43)。」
そしてガザーリーは、「欲するままにおまえたちの田畑に行け。ただし、自分自身のためにあらかじめ配慮しておけ(クルアーン2章223節)」という神の言葉の解釈の一つは、子供は来世のための配慮だという意味であると言う(Ih. ya- ’, Vol. 2, 44)。

以上のように、子供を残すことが神の意志であり、生きている子供の善行が来世で親によい影響を与え、子供のとりなしによって、親は死後、天国に行かれると信じられていることが、子供を持つ大きなメリットだと言えよう。
・・・・・』

結論
以上引用した5つの文献から、スーフィーたちの結婚、性的合一に対するある程度の考え方を知る事ができます。
そうして、その中では明らかに「夫婦の性的合一は礼拝という行為である」と主張していると理解できるものもあります。
そうであれば確かにバパが言うような「夫婦の性的合一は礼拝である」という主張は、現在の我々が感じるほどには唐突なものではない事が分かります。

しかしながら、その結果誕生する事になる子供についてバパが期待している事、「完全な人間としての存在(ロハニ レベル)」を誕生させることについての記述はどの文献にも見当たらない様であります。
そうなりますと、この「ロハニレベルの人間存在を誕生させることが結婚の重要な目的である」という主張はバパ独自のものである、ということになるのであります。

ちなみにバパは「Concerning Subud」のベンネットBennettさんとの会話の中で以下のように述べておられます。
第8章 完全な人間(P107)<--リンク
『バパは「次のエポック(新時代)には7万人のロハ二レベルの人類が地上に誕生する可能性がある」と言いました。
「この可能性が満たされれば、地球上の人間の存在は、人間が引き起こす愚かな災害から守られますが、そうでなければその災害は人類を打ちのめすかもしれません。」と。』
Pak Subuh has said that during the coming Epoch there is the possibility that seventy thousand men of the fifth degree will appear on earth.
If this possibility is fulfilled, human existence on earth will be protected from all disasters that human folly might otherwise bring down upon the race.
グーグルによる全文訳にはこちらから入れます。<--リンク)

PS
以下、青柳かおる まとめによる、スーフィーズムの説明資料となります。
イスラーム神秘主義(スーフィズム)の思想と実践 青柳かおる<--リンク
ご参考までに。

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