ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

ロホ(roh)とナフス(nafsu)の物語(その1、事の始まり)

2014-12-24 | 日記
バパを語るには、そうしてスシラ ブディ ダルマ(Susila Budhi Dharma)を語るにはやっぱり避けては通れませんでした。

ロホ(roh)とナフス(nafsu)の物語であります。

少しばかり入り組んだ、歴史のある話になりますね。

まああせらずゆっくりといきましょう。


さて、両方ともにクルアーン(Qur'an) に出てくるコトバですね。

ロホ(roh)はルーフ(ruh)でナフス(nafsu)はナフス(nafs)が語源でしょうか。

それぞれインドネシア、あるいはマレー語圏に入ってきた時に変化した模様です。

このあたりは ラターイフ(lata’if)」を参考にしてください。<--リンク

またRuhについてはWikiにも記事があります。<--リンク


さて、こんにちのジャワ神秘主義・クバティナン(kebatinan)ではナフスは4種類と一つ増えます。

    クバティナン分類(ジャワ語)      コーランに明示の分類(アラビア語)

第一はソフィア sofia つまり物質欲,

第二はアマラ amarah すなわち自尊心,<--「悪を命令する魂(nafs ammara)」

第三はルアマ luamah すなわち食欲, <--「非難する魂(nafs lawwama)」

第四がムトマイナ mutmainahつまり徳への欲望。
                          <--「安寧の魂(nafs mutmma'inna)」

このように比較するとソフィア sofiaがクバティナンでは追加になっているのがわかります。

以上は「ことばをたずねて・ナフスの章」からの引用です。<--リンク


この追加になったソフィア sofia ですが「もとはNafs al-Safiyah からの借用」と思われます。

Safiyah の詳細な説明はNafsを参照ねがいます。<--リンク

そこでは「第7番目のSafiyaは純粋な魂です。」と言っております。


もうすこし簡単なのは「スーフィズムの意識の階梯」、こちらをどうぞ。<--リンク

「ナフス・サフィーヤ・ワ・カミーラ:純化され完成した魂」とのことです。

いずれにしても「物質欲」とは正反対の「完成された魂」であります。

まあですのでこれは単に「Safiyahというコトバを借りた」とそういう事の様です。


それで問題は「どうしてそこまでしなくてはいけなかったのか」と言う事になります。

答えは「ジャワには古くから4人兄弟(姉妹)の言い伝えがある。」という事であります。

この4人兄弟が人間の持つ4つの欲望を表し、そうしてイスラムの到来とともにナフス(nafsu)何々と言われる様になったのです。

その時に自尊心、食欲、徳への欲望の3つに当たるコトバはコーランに明示されているナフス(nafs)の中にあったのですが、物質欲にあたるコトバがありませんでした。

それで「スーフィー(Sufi)がコーランから導き出したほかの4つのナフス(nafs)の中から Safiyah が選ばれた」と。

まあそういうように見えますね。

(そういう訳で前出の様に、スーフィー(Sufi)達は合わせて7つのナフスを使っていたのでした。)


さて、「クバティナンの人間観によると, 一人一人の人間は四人の霊的な兄弟に前後左右をとり囲まれている。

それは, 兄(姉) たる羊水kakang kawah,弟(妹) たる後産adi ari-ari,

母の思いから出てくる恐れと希望とである。

この四人の兄弟は四つのナプスである。」とのこと。

以上は「ジャワ神秘主義の民族誌」からの引用です。<--リンク


この「4人兄弟の教え」、あるいは「言い伝え」は古くからジャワに伝わるものであります。

より詳細には「人には何人の兄弟がいるか : ジャワ神秘的存在論とその展開」を参照願います。<--リンク

そこには「4人の兄弟、第5は中心」という教えが書かれています。


その中から次に示すのが、ジャワがイスラム化する前の伝統が残っているバリ島の例です。

                   それぞれの神とそれを象徴する色

東に白い飯               イスワラ(白)

南に赤い飯               ブラフマ(赤)

西に黄色い飯              マハデワ(黄)

北に黒い飯               ヴィシュヌ(黒)

中央に全てを混ぜた飯(褐色?)  シヴァ(褐色)


さて次はバパの「59OSL8.7(オスロー)トーク」です。

ここではバパも5人兄弟について語ります。

スクマ(sukma、精妙体)の色      対応するナフス(nafsu,passion)

第一は黒                  aluu'amah 強欲

第二は赤                   amarah 自己中心主義

第三は黄                   supiah 欲望(desire)願望

第四は白                  mutma'inah 気づき、平安

第五は褐色          名前なし、統合された清浄さの状態

そうしてこう言います。

「完成された人間の段階に至るには4つのナフスを結び付けて一つにする、褐色にしなければなりません」とね。


そしてワヤン(Wayang)でもこの色とナフスの対応関係は保たれています。

というよりも歴史的状況としては、ワヤンの記述が基本になってそれ以降のジャワイスラムやクバティナン各派やバパも含めてそれを参照している、、、ということの様です。

以下、ワヤンの例。(デワルチ)<--リンク

KRT ウレクソディニングラト Wreksadiningrat の構成した「スラット・ランパハン・ビモロドロ Serat Lampahan Bima Rodra」が出た。

・・・・

ビモの腰巻きの色、ポレン・バン・ビントゥルの意味するところは次のようなものである。

黒はアラマ alamah (傲慢)の欲望の象徴であり、赤はアマラ amarah の欲望で怒りにつながる。

黄はスピヤ supiyah の欲望すなわち肉欲を象徴する。

一方、白はムトマイナ mutmainah すなわち、トゥハンから与えられる全てに対する感謝を象徴する。


そういうわけでジャワでナフスに言及している諸派(ジャワイスラム、Kejawen(伝統的ジャワ神秘主義)、クバティナン、そうしてバパも含めて)はすべてこの4つのナフスの名称と色の対応関係を守っているのでありました。

但し各ナフスが表す内容についての表現の仕方には若干の相違が認められます。

それからKejawen(伝統的ジャワ神秘主義)についてはこちらを参照願います。<--リンク


さて、(村長の息子)ムリョノによれば、

「人が寝食を断つ行を実践し思考を集中していくと, 四つのナプスのうち最初の三つの低級なナプスが働かなくなり, もっとも高級なムトマイナーのみが働きつづける。

このムトマイナーが人をその生命の源たる神へ仲介する。」とのこと。(前出 ジャワ神秘主義の民族誌 より引用)


次はワヤンですね。

「彼は赤、黒、黄、そして白の色(の光)を見る。

そして精神の本質(tyas sejati) であると語られる「ポンチョモヨ pancamaya 五つのヴィジョン」を見る。

先の三つの色はヒワン・スクスモと一体になろうとする、良き行いを妨げ、抗うもの(ドゥルガマニン・ティヤスdurgamaning tyas 真の障碍 )である。

三つのものを滅したとき、彼は神と一つになる(白色に象徴される)。

白色だけが「トゥハンと人間の合一」(Pamoring Kawulo Gusti)を指し示すのである。」(前出 デワルチ より引用)


この2つの記述はムトマイナ mutmainah (白)を「最良のもの」としている様であります。

これはもともとのコーランに書かれていた「安寧の魂(nafs mutma'inna)」というものを「かなり尊重している」様にみえますね。

コトバを変えると「よりイスラムの教えに近い」となりましょうか。


他方、「4人の兄弟、第5は中心」というのはジャワの古くからの教えの様であります。(前出 人には何人の兄弟がいるか : ジャワ神秘的存在論とその展開 )

同様の主張はIlmu Kejawen」 というページでも見られます。<--リンク

冒頭に「'Sedulur Papat Limo Pancer '(4兄弟、第五は中心)と呼ばれる古代からJavaの科学の概要です。」と記載されています。


こうしてトークでのバパの主張「完成された人間の段階に至るには4つのナフスを結び付けて一つにする、褐色にしなければなりません」というのは「ジャワの古くからの伝統に従ったものである」という事がわかるのでありました。

追記(2018.2)
Sedulur Papat Limo Pancer の解釈には2通りあり、ムトマイナを最上位とするものと5番目こそが最上位とするものに分かれている様です。
そして、5番目を最上位とする立場ではそれに至る為にはその前にムトマイナを含む4つのナフスをコントロールしバランスさせる事が必要とされます。
そうして、この立場がバパが主張する「4つのナフスを一つにまとめ上げて5番目のもの(ナフスをこえるもの)にしなくてはいけません」という事につながっていく様です。

PS
Dewaruci(デワルチ)について少し修正です。

「Dewaruciは、彼が4色で表現、彼の内側のドライブを受け入れていたではなく、それらを破壊することではなく、それらのバランスを取ることによって、これらの障害を克服していたことビマに説明した。」

このような解釈も成立しそうです。

以上詳細はこちらを。<--リンク

原典にあたりたい方はこちらです。<--リンク


PS
4人兄弟の記述は57CSP8.11(クームスプリング)にもありました。

PS
「4人の兄弟、第5は中心」という教えはスシラ ブディ ダルマ 11章45~49節にも書かれています。

 
PS
世界でみるとスーフィー達は「7つのナフスを使う」と思われますが、インドネシアでは「4つのナフス」を使う人たちもいる様であります。

たとえばこちらのような例があります。<--リンク

このように「4人の兄弟、第5は中心 Sedulur Papat Limo Pancer 」という教えはインドネシアでは「本当に根強いもの」であります。


PS
「4兄弟、第五はpancerです Sedulur Papat Limo Pancer 」のもう少しわかりやすい説明はこちら。<--リンク

PS
Kejawen(伝統的ジャワ神秘主義)の詳細についてのアドレスはグーグルで以下の文字列を検索して下さい。

Guru Loka, the upper level world (jagad duwur). The place of brain, in the wayang is the domain of the supreme God Guru, who control and (at the same time the place) of ... Endroloka, the middle level world (jagad tengah).

そうして「 kejeewan - Scribd 」をクリックすれば、運が良ければたどり着けるハズです。

PS
バパのトークで「自我(複数)」という表現がでてきます。(たとえば57CSP7.20など)

初めてこの表現を見たときからずうっと「理解できないなあ」、「それではまるで分裂症か多重人格ではないか」と思っていました。

でもバパは「4人兄弟」の事を言われていたのですね。

そういう訳で「異なる文化、伝統の流れの中にある文章を理解する」というのはやはりとても大変な事なのであります。


PS
そうして以上がChuzaimah Batubaraさんが「Islam and Mystical Movements in Post-Independence Indonesia : Susila Budhi Dharma (subud) and Its Doctorines:スブドとその教義 」の85P~86Pで疑問に思われた「不思議なこと」の解明でありました。<--リンク

「 In Javanese as well as in Subud theory, on the other hand, nafsu (passion) is divided into four categories, each of which is associated with one of the physical elements and all of which are present simultaneously in the physical body of every human.

Curiously, the theory of nafsu is one of the few aspects of Javanese mysticism concerning which there is nearly universal agreement.

ジャワならびにスブド理論で、一方、nafsu(情熱)は、物理的要素の1つに関連付けられているそれぞれが4つのカテゴリに分割され、これらのすべては、すべての人間の身体中に同時に存在する。

不思議なことに、nafsuの理論はほぼ普遍的合意があるに関するジャワの神秘主義の少数の側面の1つです。」


Batubaraさんは短い時間に熱心によく調べられたと思いますよ、修士課程の学生さんの論文としては。

でも本当の事に至るには少々無理があったようです。

ほかにもnafsuの順序の取り違えなどもあり(64P~65P)どうしても「無理をしてまとめを急いだ」感じが残ります。


PS
「4つのナフス(Nafsu)」の生い立ちを年表にしました。

インド文明渡来以前
   神霊化した死者への崇拝
   特定の際だった人物, その死後の霊への崇拝
   特別の物や場所が有する並はずれた力についてのマナ的観念

   これらの インドネシア的, マラヨ・ポリネシァ的観念の成立 が
   ジャワ神秘主義の土着的基盤となる

600年頃  インド文明渡来
   ジャワではインド文明の影響下に王朝文化が始まる
   ジャワ神秘主義はまずヒンドゥー的・仏教的枠組みのもとに発展した
   (600年~1600年にかけて)

   神秘主義の目的は, 感覚的欲望を統御して生命の源,
   すなわち神Tuhan と合一すること
   この感覚的欲望が四人の霊的な兄弟である

   一人一人の人間は四人の霊的な兄弟を持つ
   あるテキストによれば
   兄(姉) たる羊水kakang kawah(白?)
   弟(妹) たる後産adi ari-ari,(黄?)
   母の思いから出てくる恐れ(赤?)
   そして希望である(黒?)

650年頃   Qur'an(クルアーン)成立
   RuhとNafsの言葉が記述される。
   のちにインドネシアでRohとNafsuに変化する。

   クルアーンに明示されている3つのナフス
   nafs ammara    悪を命令する魂
   nafs lawwama    非難する魂
   nafs mutmma'inna 安寧の魂

15世紀始め  イスラムのジャワへの渡来

1500年~1620年 ムプ・シワムルティ Ciwamurti (又はムプ・ドゥスンDusun )
   ジャワ神秘主義に基づく「キタブ・ナワルチ」を書く

15世紀末~16世紀初頭 ワリ・ソンゴ(Wali songo)の活躍

16世紀~17世紀
   スーフィーにより3つのナフスが7つのナフスに拡張される

   ナフス・アンマーラ      ammarah    扇動の魂
   ナフス・ラウワーマ       luwwamah   自己非難の魂
   ナフス・ムルハーマ      mulhamah   触発の魂
   ナフス・ムトマインナ     mutma'innah  平和の魂
   ナフス・ラディーヤ       radiyyah    喜びの魂
   ナフス・マルディーヤ     mardiyyah   楽しいの魂
   ナフス・サフィーヤ       safiyyah    純粋の魂

1662年ごろ  Abdul Rauf Singkel
   Tarekat Syattariyah(タレカット シャタリーヤ)の伝道

1803年  キヤイ・ヨソディプロ1世
   「スラット・デウォルチ」完成
   これは「キタブ・ナワルチ」の内部にイスラームの諸要素を挿入
   そうして「キタブ・ナワルチ」は「スラット・デウォルチ」となった。

   彼は赤、黒、黄、そして白の色(の光)を見る。
   (この4つの色がジャワ神秘主義「4人兄弟の教え」のイスラムバージョンで 
   後日ナフス(nafsu)の4つの個別名称を獲得することになる。)

   先の三つの色はヒワン・スクスモと一体になろうとする、良き行いを妨げ、
   抗うもの(ドゥルガマニン・ティヤスdurgamaning tyas 真の障碍 )である。

   三つのものを滅したとき、彼は神と一つになる(白色に象徴される)。
    白色だけが「トゥハンと人間の合一」(Pamoring Kawulo Gusti)を
   指し示すのである。

1802~1873年   R.Ng.ロンゴワルシト(Ranggawarsita)
   「Bima Suci Wirid」で「インサン・カミル」の誕生を語った。
   「Wirid Hidayat JatiDari 」でナプスとロホ(napsu,roh) を語った。

1923年  KRT ウレクソディニングラト Wreksadiningrat
   「スラット・ランパハン・ビモロドロ Serat Lampahan Bima Rodra」を書く

   4つのナフスの名称の明示
   黒はアラマ alamah (傲慢)の欲望の象徴
   赤はアマラ amarah の欲望で怒りの象徴
   黄はスピヤ supiyah の欲望すなわち肉欲を象徴
   白はムトマイナ mutmainah 、トゥハンから与えられる全てに対する
   感謝を象徴する。

1936年  Tjan Tju An
   スラット・ビモ・ブンクスで9つのロホと4つのナフスを語る。

1952年  バパ(Bapak)
   スシラ ブディ ダルマ(susila budhi dharma)を語る。


注)ワリ・ソンゴ(Wali songo)の活躍 <--リンク

PS
スーフィーにとって7つのナフス(Nafs)とは通過しなくてはいけない意識レベルあるいは魂のレベルのことです。

ですので、「4つのナフスが同じ人の中に同時に存在する」ようなことはありません。

かたやバパも含めてジャワの人にとっては4つのナフス(Nafsu)とは「人の中に常に存在する4つの欲望」、あるいは「願い」のことであります。

そうしてその源泉は「4人兄弟の教え」なのでありますね。

この二つはどちらもナフスと発音すれば同じに聞こえますが、実はほとんど別物なのでありました。

従って「4つのナフスとスーフィーズムとの関係」に言及する場合は特段の注意が必要であります。

そうして以上の事を了解した上で、「ジャワの4つのナフス(Nafsu)についてのいろいろな議論」は行われる必要がありそうです。

(注:以上は「ジャワでの4つのナフス」に限った話であります。3つのナフスあるいは7つのナフスを扱う場合はこの限りではありません。)

PS
「アダムとその子供たち」の中でルックマンは「ナフスと低次の諸力を同じもの」として扱っています。(同書10P~11P)

しかしこれは明らかな間違いでありましょう。

実際バパはロホとナフスを混同するような事はしませんでした。

詳細は59OSL8・7(オスロウ)トークにてご確認ねがいます。

ルックマン程の人でもナフスとロホの関係を理解するのは難しかった、、、とそういう事でありました。


さらにこのオスロウ トークでさえ?な訳があります。

「同じ子宮から生まれた兄弟ではありませんが、、、、」ですが英文では
「because they are your own brothers, and not only brothers from the same womb, but brothers that were born together and will enter the grave together.」と「同じ子宮からうまれて同じお墓にはいる」と書かれています。

これなども「今の自分たちの常識ではどう考えても分からない」から「きっと何かの間違いだろう」で「(良かれと思って)訂正した」と。(<-これは単なる推測です)

いやいやこれはジャワでは常識(?)の「4人の兄弟、第5は中心」そのものです。

「文化が違う」ということはこの様に「やっかいなこと」なのでありました。


そうしてまたオンザスブドウエイの中でも4つのナフスは単に「欲望」というように訳されてしまっています。

その表現ではナフスはインドネシアの文化、伝統とは切り離されたタダの心理学用語の様であります。

そうして決してトークでのバパの主張「完成された人間の段階に至るには4つのナフスを結び付けて一つにする、褐色にしなければなりません」にたどり着くということはないでしょう。


こうしてダイジェスト版というのは分かりやすいものではありますが、そこから本来の主張にたどり着くのは至難のわざなのであります。

さあそうすると、「ダイジェスト版を理解した」というのはいったいどういう意味をもつものなのでしょうか?

いったい我々は何を理解したことになるのでしょうか?

それは正確には「ダイジェスト版を編集した人たちの主張を理解した」ということなのでありました。


PS
ロホ(roh)とナフス(nafsu)の物語・・・一覧」にはこちらから入れます。<--リンク