ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

雑記帳30・ラティハンの目的

1987-08-30 | 日記
バパはイスラムやスーフィーズムのコトバを使ってラティハンの説明をします。
これはバパの生い立ちからすれば自然な事でありましょう。

さて、スーフィーズム。
その目指すところは「神人合一の境地」の様です。
ファナーfana'からバカー baqa'へと進む事が目的です。
そんな境地でアル・八ラージ al-Hallaji は「アナ・アル・ハック] "Ana al-Haq."と言いました。
「我こそは神なり」と。
大胆不敵であります。
そうして、時の王によって処刑されてしまいました。

時に「The Path of Subud」のKafrawiさんによれば、ラティハンの目的もファナーfana'からバカー baqa'へと進む事だそうです。
しかしながら、場所がインドネシアですから、それはインドネシア語でmenunggalkanという言葉で表現されている、と主張されています。
以下、Kafrawiさんの「The Path of Subud」からの引用です。注1
C. The mystical goal of latihan
『バパは、彼のシステムの最終目標としてmenunggalkanという言葉を使用しています。
menunggalkanという言葉は、単数形または単数形を意味する名詞のtunggalから得られる推移的動詞です。

ジャワ語では、「setunggal」という語は1つを意味する。
"Kulo gadah buku setunggal"(私には1冊の本がある)。
一方、ジャワ語で「tunggal」という言葉は、同じ起源から来ることを意味します。
"Rahmat lan Arif tunggal guru"は「RahmatとArifは同じ教師の教育を受けている」という意味です。

しかし、これらの種類の意味は常に同じ意味、すなわち同一性(ワンネス:oneness)の要素を持っています。
それから、文字通りmenunggalkanは、ジャワ人の間では、manunggalとしてより人気があります。

Manunggaling Kawulo Gusti(サーバントとマスターの合一)の言葉。(訳注:神と人との合一を表している。Kawulo:作られたもの;Gusti:主)
Loro Loroning atunggal(2つで1つ)。
Dwi Tunggal(1つのエッセンスを持つ2つ)などは、非常によく知られています。』

しかしながら、そのような主張は誤解でありましょう。
自分という意識がぶっ飛んで、「アナ・アル・ハック」などという事はラティハンの目的ではありません。
自分とその外側にあるものは常に意識しています。
そうして、その間の調和という事は、協会の会員にとっては大事な事でありましょう。
そうであれば、どのような政治体制の下であれ、協会の会員が「反政府主義者だ」といわれて刑罰を受ける、という事はないのであります。


さて、次はイスラムになります。
こちらはまことに厳格に生活の仕方から礼拝の仕方まで決められています。
やってはいけない事、やらなくてはいけない事、どちらでも良い事、そのように分けられて生活しています。
そのようにして現世で正しく生活したものがアッラーによって死後は緑園(イスラムの天国)に迎え入れられる。
それが目的です。

しかしながら、ラティハンをやっていく事で到達する所は、「外側にある基準、戒律ではなく、内側にある基準、戒律」という世界であります。
自分の外側にあるものによって言動を決めてもらう必要はありません。
物事の物差しは自分の中にあるのでありますから。

さて、漱石はこう言いましたか。
「即天去私」と。
孔子はこうですか。
「心の欲する所に従えども矩を踰えず(自分の思うがままに行なっても、正道から外れない。)」と。
まあそういう事になります。
ジワJiwaとナフスNafsuから来る意思や欲望の相違が見分けられる様になれば、そのように出来ます。

しかしながら、初心者はくれぐれもそのような真似はせずに、ご自分の従ってきた基準、戒律、常識的な判断から離れない事が大切です。
そうでなければ単に自分の欲望に振り回されているだけでどこにも到達せず、天国行きどころか地獄行きが確定してしまいますから、注意が必要な所です。

追伸
人が決めた、あるいはそれは神から受けたものかもしれませんが、少なくともそれは自分が受けたものではない、そのような戒律に従う事。
それが今までの宗教と修行方法の在り方でした。
そうして、そういうものと自分自身のありようというものが、どうしても一致しなかった、というのが個人的な経験であります。

その点でラティハンというのはまさにぴったりのものでした。
そこには何の戒律もないのですから。
「自由だ」と思ったものです。

しかしながら、それはラティハンの一面でありました。
もう一つの面、それは「自己責任」であります。
誰も何も言わないから「自由」ではありますが、自分の言動はそれなりのカルマを作り出します。
汚さなくてもいいもの、浄化したものをわざわざ元に戻さなくてもいいのに、そういう事をします。

それは明らかにラティハンの邪魔をしている事になるのですが、その事になかなか気がつきません。
そうして、そういう事が分かってようやく「自己規律が大事」という事になり、その上での「個人の自由だ」という事になるのであります。
そういう事になっておりますので、「自由だから何をしてもラティハンをやっているから大丈夫」などという幻想をいだかないように、特にお願いしておきます。

PS
ジャワ神秘主義の民族誌」によれば、『クバティナンの目的は, 感覚的欲望ナプスnapsuを統御して生命の源, すなわち神Tuhan と合一することにあり, このナプスという概念こそがクバティナンの人間観の核をなしている。』という事になっています。<--リンク

人によりいろいろな言い方はあるものの、このテーマはクバティナンの大きな一つの目標である事は明らかな事として良いでしょう。

そうしてこれをジャワ語では「Manunggaling Kawulo Gusti(ロードとサーバントの合一:Lord Servant model)」というのであります。

注1
原典はこちら、THE PATH OF SUBUD (1969) Author: Drs Kafrawi : Kafrawi McGill University Montreal.<-- Link

PS
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。

さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。

それではラティハンではどうでしょうか?

ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。

そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。

さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。

追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。

バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。

そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。

そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。

したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。

しかし、本質はごまかす事はできません。

そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。

追伸2
さてそういう訳で「信ずる者は救われる(天国に行く)」と判断した方々は、それぞれの宗教に従っていく事になります。

かたや「いや、死後の生命については、死ぬ前に確認しておきたい」と考える者はラティハンに従ってそのような境地を目指します。

それはまた「ラティハンに従う事が天国に向かう事である」と判断した、という事でもあります。

そうであればバパがラティハンを広め始めた以降、この世界には天国に向かう2つの道が存在する事になりました。

一つは従来からある「宗教」という道であり、もうひとつは新たに登場した「ラティハン」という道であります。


PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク

雑記帳29・三毒「貪・瞋・癡(とん・しん・ち)」と3つのナフスNafsu

1987-08-28 | 日記
仏教では三毒「貪・瞋・癡(とん・しん・ち)」を減らせ、と言います。<--リンク

『三毒(三不善根)は悪の根源であり、それが展開されて十悪となる。
・・・・・

貪(とん):rāga
貪欲(とんよく)ともいう。
むさぼり(必要以上に)求める心。
一般的な用語では「欲」・「ものおしみ」・「むさぼり」と表現する。

瞋(しん):dveṣa
瞋恚(しんに)ともいう。
怒りの心。
「いかり」・「にくい」と表現する。

癡(ち):moha
愚癡(ぐち)ともいう。
真理に対する無知の心。
「おろか」と表現する。』


さて、バパが展開するナフス論では、3つのあまり上等でないナフスが登場します。

そうして、それが何故かこの三毒に対応している様なのです。(注1)


貪(とん):rāga<--植物力によって生じるナフス アルアマAluamah<--リンク


瞋(しん):dveṣa<--物質力によって生じるナフス アマラAmarah<--リンク


癡(ち):moha<--動物力によって生じるナフス スピアSupiah<--リンク


いずれにしましても、仏教では「煩悩の元凶」とされるこれらの三毒がラティハンで正常化される、としたならば仏教徒の皆さんにとっては大変な朗報ではないかと思うのであります。

注1
「人がどのような欲望を持っているか」という事を問いただしていった時に、どのような宗教であれ、あるいはどのような方であれ、現実に存在している人間のありようを無視する事はできません。

そうであれば、その欲望をどのように整理・分類し、どのような名前をつけるのか、ということは時代と場所によって異なってくるものではありましょうが、その本質はほとんど変わりはしない、と見るのは当然の帰結となります。

但し、ジャワに生まれたバパでありますれば、その場所にかつて栄えた仏教・ヒンドゥー教の影響の名残りがあるジャワの文化の影響を受けていると見る事は可能であろうとは思います。

PS
ご参考までに。
・煩悩(ぼんのう)とは?<--リンク


PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク


雑記帳28・バパの「私」の構成論と欲望(ナフス)統御論

1987-08-26 | 日記
バパのトークを読んでいく上で特に難しいのは「私」という概念である。

これはバパが使っているモデルが通常の我々が使っている心理学的なモデルと異なっている、というのがその理由になる。

もう一つの理由は、「人間についての説明モデル」がバパの中には何種類もあって、それが十分に説明されることなくトークの中で使われる、という状況に由来している。

そうして、それらの事は結局のところ、そのような多様なモデルを説明してみた所で、それらは思考の対象になるだけで、ラティハンの進歩には結びつかない、というバパの思いがある様に見受けられます。

したがって、「説明は必要最小限で、、、。」というのがバパの方針の様で、そうであれば後日バパの考えていたことを再構成するのはとても大変な作業になってしまうのでした。

その事は「バパの説明のまとめ、あるいはラティハンの説明というのはとても難しい」ということと相似的な状況であります。


さて、人体講成論としての「三体論」は二代目によって割と多く語られたので、それをまとめる事が可能でした。
「三体論」1<--リンク
「三体論」2<--リンク

この三体論はJiwa-Sukma-肉体という3層構造を人の体の構造と見るものです。

しかしながらこれはもっぱらのところ、JiwaがSukmaを満たし、Sukmaが肉体にエネルギーを与えてその結果肉体が動く、というようなモデルであります。


そではなくて、もう少し心理学的な、心の構成についての話はないのか、ということで完結した話にはなりませんが、以下1963年7月25日 ブライアクリフ トークから、関係のありそうな所を引用しておきます。

『・・・あなた方の内部には3つのものが存在します。
一番目のものは神の力であり、それはあなた方がオープンを受ける時に現れます。
(注:これはロホ イロフィのことと思われる。)
二番目のものは、あなた方の内部に植えられた完成した人間の魂です。
(注:これはロホ ロハ二のことと思われる。)
そして三番目はあなた方の既存の中身、あなた方の魂(Jiwa)ですが、それは各人異なっているので、バパはそれを表現することができません。
さて、ラティハンを通して、この三番目のものは今いる場所から動かされ、もともといるべき場所、あなた方の人間的な魂(Jiwa)が占めるべき場所へと戻るでしょう。』

「この三番目のものは今いる場所から動かされ、もともといるべき場所」に戻るでしょう。

この一文がラティハンの説明になっています。

さて「今いる場所」というのはどこでしょうか?

それは物質力レベルであったり植物力レベル、あるいは動物力レベルであったりします。

そうして幸運であれば人間力レベルでありましょう。

しかしながらそこが最終目的地ではなく、最後にたどり着くべき所はロハ二 レベルなのであります。

その場所が我々のJiwaが「もともといるべき場所」と言う事になります。

さて上記の様な説明方法ですと、あたかも場所の移動のように表現されていますが、状況はそうではなくて、各人のJiwaがそのように成長する、小さなJiwaから大きなJiwaになっていく、低いレベルから高いレベルになっていく、そういう事であります。


『・・・それゆえ低次の諸力に支配されることについて心配しないで下さい。
それらは確かに障害物ではありますが、それらの力は実はあなた方自身なのです。
従って、あなた方の邪魔をするこれらのものをあなた方が取り除きたいと願うのであれば、それは、あなた方自身を取り去る事を意味します。
それは困難な事です、皆さん。
自分に準備が出来ていないのに自分自身を取り去ろうと努めれば、あなた方は死を体験するでしょう。
本当の死です。
しかし、あなた方がそのような事をしなければ、あなた方は死にはせず、魂(Jiwa)の変化、自分の内部の中身の変化という形の死を経験するでしょう。
それゆえ、低次の諸力を取り除こうという努力をする必要はないのです。
ラティハンをするだけで十分です。
そうすれば、すべては自然に生じるでしょう。』

自分に準備が出来ていないのに自分自身を取り去ろうと努めれば、あなた方は死を体験するでしょう。

飲まず食わず、眠らず、そうやって自分自身の身体的な欲望、欲求を殺していった人たちが実際に存在します。

しかしながらそのような形の「即身仏」をバパは認めないのであります。

そうではなくて、それらの諸力はバランスをとって統合してゆくものである、というものがバパの主張であり、そのための手段がラティハンなのであります。

その結果が「Jiwa(魂)が本来のレベルに戻る、本来の場所に帰る。」とバパは言うのであります。

そうして、その場所はリンカネーション(輪廻転生)からは自由になった場所であります。

(続く)

PS
『ラティハンをするだけで十分です。
そうすれば、すべては自然に生じるでしょう。』

このメッセージは難しいものです。

単に「ラティハンをやっていれば全てうまくいく」というような誤解、それは今となれば「明らかな誤解」であることは明白なのですが、そのように受け取ってしまう状況がありました。


自分の体を「即身仏」にしてしまうのは間違いでしょう。(たぶん)

しかしながら「ラティハンをやっていればそれでOK」というのも間違いです。

そのあたり、こちらの記事を参照願います。<--リンク

PS
心の働きについて知、情、意という心理学上の分類方法があります。

これは英語ではマインド、ハート、そしてモチベーション、あるいは欲望(desire)でしょうか。

それをバパが使うコトバでいえばマインドは思考力、ハートは感情でしょうか。

そうして欲望、あるいはモチベーションはナフスと言う事になりそうです。

バパによればナフス(Nafsu)は思考力やハートを駆動させるもの、エネルギーを与えるものという位置づけです。


他方でジワ(Jiwa)あるいはロホ(Roh)はそのナフスにエネルギーを与えるもの、ナフスを駆動するものという位置づけです。

このような構造の中で、ラティハンはジワあるいはロホを訓練することにより、4つの低次のロホの間には調和をもたらし、他方でジワには成長をもたらすものになります。

こうして調和に到達した4つの低次のロホによって4つのナフスの間にも調和がうまれ、それと同時にジワが成長してロハ二レベルに至る、というのがその道筋になります。

これが従来の欲望の制御、あるいは欲望の消滅をめざして行われるさまざまな修行方法との著しい相違になります。


バパのモデルによれば意思による欲望の制御というのは、ある一つの欲望(意思)でほかの欲望を押さえつけるようなものであります。

他方でラティハンによる欲望の制御は、欲望を支えている、それにエネルギーを与えている4つのロホ、4つの生命力を整える事によりますので、より基本的な、根本的なところからの改善によるものになります。

したがってそれは一つの願い、意思によってそれ以外の意思、衝動、欲望を押さえつける、という方法ではなく、願いや欲望を支えている、それにエネルギーを与えているものを改善する事により欲望を統御するものなのであります。

それゆえにそれは「ラティハンを継続してゆくことにより、加えてラティハンの指し示す方向に自分を添わせることにより、欲望が自然に統御される状態になる」と表現されるのであります。


注1:自我(Pribadi)というコトバについて
インドネシア語でPribadi、ネットで調べると「個人の,プラベートな」と形容詞的な訳がのっています。
それを名詞的に使うとすると「個人」あるいは「一人の人格」程度の意味かと思われます。

それで協会の英訳では「Self」、和訳で「自我」となってます。
Diri(内部)をつけてDiri Pribadiで内部自我、英語でinner self となります。

さて、バパが使うコトバ、そして当然スシラ ブディ ダルマの中にも登場してくるキーワードで日本人と西洋人になじみがないのが以下のインドネシア語になります。
ジワJiwa(Soul,魂)、
プリバディPribadi(Self,自我)、
ラサディリRasa diri(inner feeling,内部感覚)。
ここでは当面この三つに注目します。

最初はジワJiwa(Soul,魂)についてです。
旧版のスシラ ブディ ダルマの冒頭では「人間の内部自我の霊的な中身である力」とあります。
ロホRohもそうですが、ジワJiwaも「力」という側面と存在としてのかたまり、しいていえば「霊」というような側面と二重の意味を持たせている様です。
「力」という意味は「これによって人は動く」という事です。
あるいは「これが意思し希望し要求し欲望する」という事です。
ですから単に(Soul,魂)というのとは違っていますが、ほかに妥当なコトバがないのでその言葉をあてている、と言った所でしょうか。

そうして、この存在、ジワJiwaが転生の主体であって、永遠の存在である、とバパは言います。
あるいは、人に関連した中では一番神の力に近い存在であるような記述もあります。
しかし、この存在にはいわゆる「人格」というものは無いかの様です。
その人格という側面を表すのがプリバディPribadiというコトバになる、つまりJiwaとPribadiは一つレベルが違う様です。
そして、ジワJiwaについてはこちらの記事も参考願います。<--リンク

さてそれでプリバディPribadiですが、この中にラサディリRasa diri(内部感覚)とハートと頭脳(思考)が含まれる、というのがどうやらバパの想定している人間の心理学的な構造の様です。
そうでありますから「私」というのがまさに「プリバディPribadi」という事になるかと思われます。

ラサディリRasa diri(内部感覚)についての詳細はこちらの記事を参照願います。<--リンク
通常の我々が目にする心理学の用語の中にはもちろんラサディリRasa diri(内部感覚)に相当するものはありません。
したがって我々がこの言葉を理解するのはなかなか難しい事になります。

さて、以下はスシラ ブディ ダルマのなかに出てくるプリバディPribadi関連の部分です。

第5章 メガトルフ 47節~49節
『47、もしハートや頭脳に従えば、あなたにとって必要な神への礼拝に割く時間を見出す事は生涯ないであろう。(注:ここで言っている「神への礼拝」とはラティハンのことです。)
なぜなら、ハートや頭脳は、常に実体のない事柄に関心を抱くからである。

48、これこそ、まさにあなたが克服しなくてはならない状態である。
そうすればあなたの思考はもはや自我Pribadiを妨害しなくなるであろう。

49、さらに思考が障害とはならなくなった時、すなわちハートや頭脳がもはやあなたのラティハンを妨害しないようになれば、あなたの行動はより確固とした成熟したものになる。
そして、ハートと頭脳は、真に自我Pribadiの召使い、あるいは従僕となるであろう。』

第7章 ダンダングラ 16節
『16、これらはすべて、人間の内部感覚Rasa diriや頭脳が、さまざまな力(物質力やら植物力やら)によって満たされてしまい、人間の自我Pribadiの内部で猛威を振るうこれらの力の意思だけに奉仕する道具になってしまった為である。』

以上をまとめますと、人の霊的な部分を示すのがジワJiwaというコトバであり(この部分は通常は我々は認識できません)、それと関連を持ちながら通常我々が認識できる心理学的な部分、それがプリバディPribadiですが、この中にラサディリRasa diri(内部感覚)とハートと頭脳(思考)が含まれる、そういう事になります。

そうしてそれが肉体の中におさまっている、という3層構造をバパは、そうしてスシラ ブディ ダルマは前提としている様です。

ちなみに、この3層構造の別の観点からの説明はこちらの記事を参照願います。<--リンク

PS
とはいえプリバディPribadiの定義はなかなかに難しいのです。
それはまさにインドネシア人の、インドネシア語の、我々の目には「あいまいさ」とみえる性格によるものの様に思われます。

第3章 キナンティ 38節
『38、自己Pribadiの真の存在にすでに気が付いている人にとって、正しい道というのはこのようなものである。
その為、外側では(注:世の中の生活では)自分の頭脳を精一杯使って、あらゆる種類の仕事をしていても、彼は頭脳と内部自我Diri Pribadiとの境界線を意識している。
物質的な物事にだけ関心を持っている人々の場合は、そうはいかない。
(注訳:人間の中にはジワJiwaと呼ばれるレベルの存在がある、ということを体験し認識していない人々の場合はそうはいかない。)』

この章句では内部自我と頭脳とを並列の存在として記述している様です。
まあそのぐらい「自由に」コトバを使って行くのが詩編:スシラ ブディ ダルマなのであります。


PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク


雑記帳27・バパの銀行とグラミン銀行

1987-08-24 | 日記
かつて協会はバパの受けたことによる指示で銀行を作りました。

そうして、その銀行に対するバパのトークの中にグラミン銀行が業務としている様な内容と同じ趣旨の事が語られています。

バパの銀行は働こうとする人たちを教育し資金を提供するものである、と。

そうしてグラミン銀行は見事に成功し、ノーベル平和賞を受賞しました。

そうして今回、日本に上陸の予定です。<--リンク

かたや、バパの銀行は跡形もなく消え去っています。

さて、この2者の間にある相違はなんでありましょうか?


バパが受けた事であるから、これは必ず成功する、と。

そうして、バパが受けた通りにやっていればよい、と。

そのように協会の人は考え、実行していきました。

そうしてその結果といえば、世の中に受け入れられることも無く消えていった模様です。

 
かたや、グラミン銀行を作った人たちは、「いったいどうすればいいのか」一生懸命に考え、試行錯誤をしていったのでありましょう。

そうして地に足をつけて、貸し付けをする人々と同じ視線を保ち、一歩一歩進んでいったに違いありません。

それは、困難な状況にいる人々の役に立つ銀行をつくろう、という意志。

そうして、それは今までの銀行の在り方とは違う新しい概念であるので、手探りで失敗を重ねながらすすんでいくしかない。

その道が必ず成功する、という保証などはどこにもないが、それでもやり遂げようとする心。

そういう挑戦者としての心意気。

そう言うものによって動かされていったに違いありません。


そうであれば、この2者の間には、なるほどスタートラインでのアイデアは同じであったでありましょうが、その後の在り方がまるで異なっていたものと思われます。

それが消え去ってしまった銀行といまだ発展し続けている銀行の相違を作り出しているものと思われます。


バパが受けたものは必ず成功する。

これは単なる思い込みでありました。

そうではなくて、それは可能性としてそこに存在していたのです。

それを現実世界にこの3次元世界に表現するには、実現するにはとても多くの思考が必要でありました。

世の中とのかかわりが必要でありました。

多くの知識が必要でありました。

そう言うものを全部どけておいて、「バパが言ったのだから成功する」というのは、これは残念ながらファンタジーでありました。

「バパが受けた事だから大丈夫」という理由で「考える事を手抜きする事は出来ない」。

そういう事を我々は自分たちの経験から学ぶ事が必要なのであります。

PS
我々のやり方がうまくいっていないのなら、やり方を変えるべきでありましょう。

大いに思考をつかって、どうしたらいいのか考えるべきであります。

調和していなさい、静かにしていなさい。

これは眠っていなさい、という事ではありません。

大いに議論していながら、なおかつ調和して、静まっている。

そうでなければ、調和にも静まっている事にも意味はありません。

「宣伝をしてはいけません」。

バパはそう言いました。

屋根の上に登って、大きな声で宣伝するのはいけないでしょう。

それではどうやって人々にラティハンを伝えるのですか?

「我々の行動によって自然に広まるでしょう」。

バパはそう言いました。

しかしながら、事実は「広まってはいない」のであります。

そうであれば「我々はどのように行動したら良いのか?」と問わねばなりません。

調和して、静まって、従来と同じことをやっていても、従来と同じ結果が出てくるだけであります。

何をどう変えるのですか?

その結果はどうだったのですか?

そのように問いながらグラミン銀行の様に一歩一歩進んでいくしかないのであります。

PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク


雑記帳26・ラティハンの表現

1987-08-22 | 日記
ラティハン中に我々はさまざまな動きを経験します。

あるいはいろいろな声を出したりします。

それは確かにラティハンの表現ではありますが、その人に特有の「受け方」ではありますが、それのみが「ラティハンの表現」ではありません。

より大切なのは、「修練としてのラティハン」が終わった後の「ラティハンの表現」でありましょう。

ラティハン中は我々の意思とは関係なくさまざまな動き、「ラティハンの表現」を行いますが、それが終わった後で、それではどのように動くのか、感じるのか、考えるのかが重要であります。

つまりそれは「日常生活そのもの」であります。

その中で我々がいわゆる自由意思、通常の表層意識、思考力、さまざまな欲望と関連しながら、なおかつラティハンとどのように関連を取っていくのか、関係を作っていくのかが重要です。

そうでなければ、日常生活や仕事の中にラティハンが現われてくる事は、「ラティハンが表現される事」はありません。

ラティハンがこうして日々の生活の中で表現できてようやく「ラティハンが地上に降りた」と言えるのであります。

PS
エンタプライズについて一言。

我々がそのようにラティハンの成果を表現できる分野であれば、エンタプライズを始めても成功できるでありましょう。

これがエンタプライズを始める事が出来る前提条件であります。

そのようであれば、我々は常に同業他社に負ける事はなく同等に、あるいはそれ以上に業績を伸ばす事が可能となります。

そうして、そうなっていない分野でエンタプライズを始める事はほとんど自殺行為と同じでありましょう。

まあそういう事でありました。

PS
バパが晩年になって世界各地を回りながら見たがったものは、確認したかったものはラティハンの中の動きの表現ではありませんでした。

明らかにそれは我々が日常生活の中で、あるいは仕事の中でどのようにラティハンを表現しているのか、できているのかを知りたがったのであります。

なるほど人はジャスマニレベルだとかロハ二レベルだとか主張するのは簡単ですが、それを日々の生活の中で表現していく事はたやすい事ではありません。

しかしながらそれが出来ないのであれば、ジャスマニとかロハ二とか言うのは時期尚早というものであります。

PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク