ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

バリンドラの認識、あるいは心配

2015-11-17 | 日記
バパが始められた事の本質は「教える事」ではなく「大いなる学び取り」と言う事である。
(あるいは、ラティハンに従うことは教えに従うことではなく、それは大いなる学習過程です。)

先に行くにしたがって、世界に対する責任が見えてきますが、まず最初に自分自身が何を行う事ができるのかあなたの内部で感じ取ることです。

もっと笑いを、そしてそれはあなたの脳に多くの酸素をもたらし、そこの重荷は軽減されます。

誰にでも礼儀正しくなるように、そのことは本当に内面に存在する人間の文化の兆候であるので、私たちラティハンに従うものは、そうできるようにいつも試みてください。


仕事を実行するために割り当てられている人たちのすべては、責任を持っていますが、私たちの誰も権限を有しません。

我々の組織は権力構造体ではなく、サービス機関です。

「どうやったら権力を持つことなしで、私たちの責任を果たすことができるのか」という課題。

それはバパが私たちの前に置かれた、我々が挑戦すべき大きな課題であります。
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原文はバリンドラPDF<--リンク参照願います。
249ページからの訳出です。
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残念なことに状況はバリンドラが心配した方向に進んでいる様に見えます。

人々はますます自分自身の内的な知恵に頼る事をしなくなって来ています。

そうしてますます自分の外側に存在する文字に頼る様になってきました。


組織構造体はその権力を使って自分自身の保身にますます磨きをかけている様です。

これもまさにバリンドラが心配した通りであります。

そうして、当然のことながら、バリンドラが見通せていたことはバパにとっては言うまでもないことでした。


振り返りますれば、これはもう「人間が持つ習性のようなもの」であり、このような現象はいままでの宗教でも見られたものでありました。

人々はそのようにして経典を作りあげ、礼拝の形式をととのえ、組織構造体を強固なものにしてきたのであります。

そうやって、最初にそこに存在したであろう「神秘的で、神聖で、生きたもの」を保持しようとしてきました。

しかしながら、歴史が教えるように、実際はそのような努力で保持できるようなものではありませんでした。


さて、ラティハンは「生命」であります。

ありがたいことに、今現在までは以前と変わらず、生命を持ってそこに存在するものでありますね。

そうしてその存在はラティハンを実習するものが地上に存在する限りは継続してゆけるものであります。<--リンク

そうでありますれば、我々のするべきことは「経典を作りあげ、礼拝の形式をととのえ、組織構造体を強固なものにすること」ではありませんね。

そうではなくて、一人でも多くのラティハンの実習者を誕生させることであります。

それのみがラティハンの継続性を保証できるのであり、またバパの意向に合致するものであります。

PS
米国:同性婚拒否の職員釈放 カップルらに証明書交付され<--リンク

時代の流れであります。
こうして協会発行のHガイドブックも修正を余儀なくされたのでありました。

さてこれはバパのコトバを変更した事にはあたらないのでしょうか?


PS
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