ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

トークと「教え」

1958-04-05 | 日記

記録されたバパのトークを編集していろいろな本が作られてきました。

そうやって作られた本は「○○○サバイバルガイド」とか「生命の中の
生命」とかいろいろな名前をつけられて売られています。

残念ですが日本語に訳されたものはあまり多くはありませんがね。

そしてそれらの内容はほとんど「教え」と区別がつきません。

読者の態度一つでどちらにでもなりますね。


さて、我々人類の進歩のやり方は「偉いやつが言ったことはそのまま
信じる」という方法です。

ニュートンやアインシュタインが「こうだ」と言ったことはたいていの人は
そのまま信じてそれを習得していきます。

そうやって前の人の肩に乗っかってそこからスタートすることでさらに
その先に効率的に進めるのですね。

そう、思考は「効率化」が、あるいは「手抜き」ができるのです。

積み重ねができる科学はそうやって進歩してきました。

そうして今ではすっかり人の思考形態もそういうやり方になれています。


ところがこの世をこえた世界ではその手法が通じません。

偉い人が言ったことを読んで憶えてみたところでそれは「この偉い人は
こういうことを受け、こういう体験をした。」という記憶になるだけです。

そのことに色をつけて「これが真実なのだ。」というのはその読者の「好み」
あるいは単なる「思い込み」ということになります。


この3次元の物質世界では対立した二つの説はどちらが正しいか、現物
による検証が可能です。

実験とか観測とかいうやつです。

一方この世界をこえた世界ではその手法が使えません。

全ては個人的な体験にとどまります。

Aという人の体験はAという人にとっては真実であり、同じようにBという
人の体験はBという人にとっての真実であります。

この2人の体験したことが異なっていても、どちらが正しいのか検証する
方法はありません。


というか、実は2人の体験が異なっていた場合に「どちらか一方のみが
正しいはずだ。」というのは我々の単なる「思い込み」でしょうか。

この3次元の物質世界では「どちらか一方が正しい」は通用します。

世界の構造がそのようにできているからですね。

パウリの排他律に始まっていろいろな性質の保存則がそれを保証しています。

でもこれはこの世界限りのものです。

この世をこえた世界については何も規定していません。


「どちらか一方が正しいはずだ。」

この思い込みの下で人類はいろいろなことをやらかしてきました。

宗教戦争はその典型的な例ですね。

あるいは「○○○○原理主義」というのも本質はここにあります。

「我々のみが正しいのだ。」とね。

この世を超えた世界の構造を知らずによくもまあそんな主張が
できるものです。


さてそんなわけでバパのトークを読んでも「尊敬するバパはこんな事を
受け、こんな体験をしなさったのだ。」ぐらいにとどめておきましょう。

自分で実際にラティハンの中で受け、あるいはラティハンの外で体験したら
その時初めて「なるほどバパの言っていることは当たっているなあ。」と納得しましょう。

それ以前に単にバパのトークにあるからといって他の人の言っている
ことを排除するようなことはやめましょう。

実はこのことは「トークを読むときには注意しなさい。」というバパの
アドバイスでもあります。

そうなのです、バパはトークの危険性をちゃんとわかっていたのであります。


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57EIN10.4

PS
バパのトークは多くの事柄が述べられていてその全体像をつかむのは容易なことではありません。

それで皆さんそれぞれの興味に従って取捨選択して本を作ります。

「アダムとその子供たち」とか「オンザスブドウエイ」とかね。

確かにそういう本は便利ではありますし、分かりやすいものではあります。

しかしながらそれらの本はすでに「編集者たちのカラーがつけられている」ということも知らなくてはいけません。

そうでなければ結局は「バパの意図を誤解する」ということになってしまうからであります。

以下はその例証です。
ーーーーーーーーーー

「アダムとその子供たち」の中でルックマンは「ナフスと低次の諸力を同じもの」として扱っています。(同書10P~11P)

しかしこれは明らかな間違いでありましょう。

実際バパはロホとナフスを混同するような事はしませんでした。

詳細は59OSL8・7(オスロウ)トークにてご確認ねがいます。

ルックマン程の人でもナフスとロホの関係を理解するのは難しかった、、、とそういう事でありました。


そうしてまたオンザスブドウエイの中でも4つのナフスは単に「欲望」というように訳されてしまっています。

その表現ではナフスはインドネシアの文化、伝統とは切り離されたタダの心理学用語の様であります。

そうして決してトークでのバパの主張「完成された人間の段階に至るには4つのナフスを結び付けて一つにする、褐色にしなければなりません」にたどり着くということはないでしょう。

こうしてダイジェスト版というのは分かりやすいものではありますが、そこから本来の主張にたどり着くのは至難のわざなのでありました。

追記
前回書き込んだ時にはなぜそのようにナフスというコトバを避けるのか、良く分かりませんでした。

実際バパは生命力とナフスの1対1対応についてよく話されたものです。<--リンク

しかし二代目は決して具体的な名称を上げながらの1対1対応の話をされません。

そうしてオンザスブドウエイでも生命力とナフスの関係の話は出てきません。

それどころか4つのナフスについてはその固有名称は出て来ず、すべてまとめて単に「欲望」とだけ表現されています。

どうしてでありましょう?

くわえて新しく改定されたスシラ ブディ ダルマでもナフスと言うコトバは「欲望:パッション」と変更されています。

英訳者によれば「それはナフスと言うコトバが我々になじみがなく、理解しにくいから」だそうです。

さて、本当に理由はそれだけでありましょうか?

そのありさまはまるでバパが良く使われたナフスというコトバを協会の文書から消し去りたいがごとくであります。

何故でしょう?

残念ながら「真実はこの辺りにある」ような気がしてならないのであります。<--リンク

PS
トークの読み方はこちらから入れます。 <--リンク


「翻訳する」ということ

1958-04-04 | 日記
日本にラティハンが紹介されてから多くの諸先輩方の努力によって
バパのトークが翻訳されてきました。

そして今もこの仕事は継続して行われています。

これについては、まずは多くの感謝を言わなくてはいけませんね。


さてそうではありますが、バパがジャワ語あるいはインドネシア語で
話した内容は西洋の知性によってまずは英語に翻訳されました。

バパが同じ一つの言葉を使って説明した内容でも、英語では相当する言葉がない為にケースバイケースで違う英語の表現になりました。

これはしかたがない事ではありますが、英語からトークを理解しようと
するときには混乱の元になる一つの要因ですね。


もっと本質的な問題もあります。

バパが受けて話したのがトークではありますが、少なくともバパが
理解しているボキャブラリーを使ってしか表現されません。

まあ当たり前の話ではあります。

人は誰でも自分が知っている言葉を使います。

そして良いコミュニケーションになる為にはその言葉の意味を
同じように聴衆が知っている必要がありますね。

ですからバパの話はバパの国の人たちが一番良く分かったはずです。

何といっても言葉の背景にある文化的、宗教的素養が同じですからねえ。


さてそうするとバパと同じ内容を受けても英語圏の人はまた違う表現を
するでしょうね、きっと。

アラビア語圏の人はどんな表現をしますかね。

そうして日本人が受けるとどんな日本語で表現するでしょうか。

きっと我々日本人にはとてもわかりやすい表現になるでしょうね。


時に今まで日本では英語に翻訳されたものをもとに日本語に翻訳しています。

翻訳に翻訳を重ねている訳ですのでよほどの注意が必要になります。

場合によっては原語の表現を確認する必要もありそうです。


それでもバパのトークには我々日本人にはなじみのない言葉がいっぱい
出てきます。

それで原語を確認しても事態はいっそうこんがらがるということにも
なりかねません。

そうではありますが、いつの日にか原語から直接日本語に翻訳されると
すばらしいですね。

かの国の文化と言葉、おまけにラティハンに精通した翻訳者が必要です。

なかなか難しそうですが、早く実現できることを期待しております。
2013/2/5

PS
・ナフスnafsuについての注釈@トーク翻訳チームを参照願います。<--リンク
加えてこちらも参照願います。<--リンク

PS
あるバパのトークの翻訳者(インドネシアの方)によれば、「バパが使ったnafsuという言葉、当初はpassionと訳していましたが今はdriveと訳している」とのこと。

こうやってバパが同じ意味で使った言葉が翻訳により違うニュアンスや意味に意訳されていきます。

まあこれは仕方がないことではありますが、「原典にあたる事の重要性を示すもの」でもありますね。
2014/11/15

PS
つまり「インドネシアの仏教徒は「唯一神を信仰」している事になっている」のです。

さてこう書きましたが、これは「日本人から見た感想」です。

インドネシアの仏教徒は「Tuhan Yang Maha Esa」を本気で信仰している可能性があります。
(「唯一神」はインドネシア語では「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれます。)<--リンク

その「唯一神への信仰」と言うのは、とても古くからあるものでその上にまずは仏教とヒンドゥー教が伝来し、そしてのちにイスラム教とキリスト教が入ってきた、というのが歴史です。
(仏教とヒンドゥー教は端の方に押しやられました。)

そして、インドネシアの人たちは「それらの外来の神はすべてTuhan Yang Maha Esaが形を変えたものであり、本質は同じだ」ととらえている所があります。

そうでありますから、我々の目には一見無謀な、無理筋に見えるパンチャシラ Pancasilaが成立するのでありましょう。
その一番目に
1、唯一神への信仰 (Ketuhanan Yang Maha Esa)
と言う事が決められています。

インドネシアの人はこれを認めそうして『インドネシアではイスラム教、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー教、仏教、儒教の6つの宗教が公認されているが・・・』
これらの宗教は全て「唯一神を信仰するもの」と認めているのであります。

そして当然、オープンの時の宣誓も「Tuhan Yang Maha Esa」を信仰しますね、と聞かれるのですから「NO」と言う人はいないのです。

「唯一全能の神」などとは聞かれないのですよ。
これがインドネシアでの状況です。


さて日本ではどうなったか?
まずは「Tuhan Yang Maha Esa」が英訳されます。
クリスチャン文化圏の英訳者はそれを God Almighty とかThe only almighty godと英訳し、日本人はそうやって英訳された文章から「唯一全能の神」と訳します。

そうしてこう聞かれるのです。
「唯一全能の神」を信じますね?と。
おまけに伝わってくるバパのトークは全て「スブドの神はアブラハムの宗教の神」のように書かれています。
それじゃ「唯一全能の神」とはあれの事か、となりますよね、普通は。

さてそれで困ってしまうのは仏教徒でした。
・・・・・
世界中の翻訳者はこうしてインドネシア語から英語に翻訳されたものを第二原典として、そこから自国語に翻訳していきました。
従って、世界中でオープンの時の宣誓は「唯一全能の神」を信仰します、と言わねばならなくなったと、そういう事の次第であります。

全ての呼び名を超える存在としての「Tuhan Yang Maha Esa」と言う概念はインドネシアにしか存在しない様です。
そのためにこうした誤解、あるいは混乱が発生し、世界中に広まっていったのであります。
2019/1/19