ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

雑記帳20・何歳からラティハンに参加できるのか?//

2019-05-31 | 日記
さて、キリスト教徒には何歳からなれるのでしょうか?

それはキリスト教でも教派によっていろいろな立場がある様です。

幼児洗礼を認めるものから、成人といわれる年齢に達して自覚的な信仰をもてるまで洗礼を認めないものまで多様です。

キリスト教徒<--リンク


他方でイスラムではどうでしょうか?

ムスリムになるには信仰告白を2人以上のムスリムの前で行う必要があります。

つまり、コトバをしゃべれないとムスリムにはなれません。

そういう訳で「生れながらのムスリム」はいない模様です。

シャハーダ<--リンク


さて、ラティハンを実習する両親のもとで生まれた子供はどうでしょうか?

バパによれば「そのような子供はオープンする必要もなくラティハンを始められる」のが実情のようです。

しかしながらそれではいろいろと支障がありますので「ラティハンは17歳から」と決められています。

これは「霊性」と言う面と「社会性」と言う面とを勘案して、すり合わせた結果とみる事ができます。

バパに言わせると「あまりに早い年齢でラティハンを始めるとこの地球上の生活になじめなくなる。」となります。

つまり「地球でくらす我々にとっては、何事もバランスが大事である」と言う事になります。

(1963,7,15 ブライアクリフ)

PS
オープンすることなくラティハンを始められますが、そのようにするとその人は「ラティハンというものは大したものではない」という勘違いをして「ラティハンを軽くあつかってしまう」傾向が見られた模様です。

そうでありますので、本来はオープンは必要ないのですが、「本人の自覚を確かめる」という意味で3か月の待機期間とオープンという「イベント」を執り行う様にしている国もある模様です。

PS
結局ラティハンというものは人の霊性の訓練であって、社会性やら経済性やらの訓練ではない、と言う事になります。

それゆえに社会性や経済性を身につけるのは普通の人と同じように学校に行き、社会に出て訓練を受ける必要があるのです。

そうして、残念な事にその過程において人として間違いを犯す事は避けられない事であります。

そして本来はラティハンに参加できる年齢まではそのような間違いを犯さないように指導するのが両親の役目である、というのがバパのスタンスでありましょう。

加えてそのような事もありますので「あなたが従ってきた宗教に従っていきなさい。」とバパはいいます。

この場合、ラティハンを受ける年齢まではその宗教の教えが一種のシェルターのような役目、防護壁、あるいはガイドラインを与えてくれるからであります。

いずれにしましても、現状の地球上の生活は相当に複雑でありますからラティハンを受ける年齢まで子供を育て上げる、自立した精神を持つようにすると言う事は大変な仕事であります。

PS
霊性の発達、という事のみを想定した場合は、ラティハンを実習する両親から生まれた子供は17歳を待たずにラティハンの実習を始めるのがベストであります。

しかしながらそれでは人として、市民として、国民として、経済人として、地球に生きる人としては不完全であります。

そうして世間から隔離し、衣食住の面倒を見てくれる人と共に生きるのであればそれも可能でありましょうが、その場合、その人が生きている事の社会的な意味はどこにも見当たらない様に思われます。

そのような生き方をバパは推奨しません。

それはラティハンの道とはいえないものであります。

PS
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雑記帳19・人と人とを結びつけるもの/

2019-05-14 | 日記
・人を結びつけるもの

通常の我々の社会では考え方、価値観、信ずるもの、信仰する対象が同じ者どうしが仲間として認め合い、和気あいあいとして時間を過ごすのが普通であります。

・中古住宅、プレハブ――日本の「モスク」とイスラム社会<--リンク

それでは、我々の協会はどうなのでしょうか?

一つの価値観、一つの信仰対象を共有するがゆえに、仲間として認め合うもでしょうか?

それでは普通に世間一般にあるグループと大差はありません。


我々が属する協会は、それぞれが自分の宗教をもちながら、あるいはそのような特定の宗教を持つことはなくても、ただ一つの事、同じラティハンを受けている、という事実によって仲間として認め合うのであります。

そうでありますれば、そこには多様な価値観、考え方があるのは当然のことになります。


さて集団ラティハンはそのような人たちが何人集まっていても可能なものであります。

しかしながらラティハンをはなれて、一つの組織として協会を運営するとなると、この多様な価値観、考え方は一見障害になる様に見えます。

しかしながらそのようである協会の在りようが困る、ということで一つの価値観、一つの信仰対象に会員を縛ろうとするならば、それはラティハンに従う者達が作り上げる社会のひな形としての協会の可能性、到達すべき姿からはそれたものになってしまうのであります。

求められているのは、思想、信条、宗教が異なっていても、その状態でどのようにしたら調和を作り出せるのか、と言う事なのであります。


PS:ラティハンの包容力

ラティハンがこの世界に暮らす人間に対応したものであれば、その包容力は全ての人を含む事が出来て当然でありましょう。

それゆえにラティハンはその人が望めばスタートが可能な実習方法として存在しています。

そうであれば当然ながら協会の中には多様な考え方が、価値観が、宗教が存在する事になります。

協会のスタートラインはそこにあるのであって、それで何も問題はありません。

ただしそれはスタートの地点であって、そこから出発してゴールにたどり着く、そこでは多様な思想、信仰があってなおかつ調和が保たれている世界でなければなりません。

そうであるならば、ラティハンが作り出す調和の感覚が協会を一つのものとしてまとめあげるのであって、協会が何らかの思想なりスタンスなり信仰対象なりを提示することで、それを会員が認めることで協会の調和が達成される訳ではないのであります。

PS
そのようなラティハンの包容力、そうしてまた人々を結びつける力が存在し、これがラティハンの一つの長所になっています。

しかしながら、長所というのは見方を変えるとすぐに短所となります。

ラティハンによってもたらされる「お互いが仲間である」という感覚に頼りすぎますと、思考や感情のレベル、コトバのレベルでお互いの信条や考え方を理解し合う、了解し合うという事がおろそかになっている傾向があります。

世間一般では、そのような「信条や考え方がおなじ」という事で了解し合い、たとえば一緒に事業を始めたりと、そう言う具合であります。

これに対して、ラティハンによって生じる「仲間である」という感覚に頼りすぎて一緒に事業を始めるとすると、途中で考え方の相違が明確になってきてうまくいかなくなる、という事がありそうです。

こうして、ラティハンによる長所は時と場合によっては短所になる、という事を理解しておくことは必要な事であると思われます。(2018年9月)


PS
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