ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

トーク聖典化計画デスカ?

2014-09-29 | 日記
2代目は何度でも「バパのトークは大切です。」といいますね。

そうして「バパの記録は保存しなければいけません。」と。

全てのみなもとがそこにあるかのような主張であります。

それはまるで「聖典を作りたがっている」ようにも見えますね。


「聖典作り」はあまたの宗教がやってきたことであります。

教祖が生きた時をピークとしてそれをそのまま保存しようと。

そうやって変わることのない基礎を作りましょうと。

まあそういうことであります。


さて「変わることがないもの」とは「すでに固定している」ということですね。

「過ぎ去った歴史」ということであります。

そこには生命がありませんから何にでもコピーができます。

紙でも、電磁媒体でも、半導体でもガラスにさえ記録保存可能です。

そうして好きな時にiPadで呼び出せます。


でもラティハンはそういう訳にはいきません。

そうしてラティハンとともに生活していく人生もそんな風にはいきません。

好きな時に呼び出して参照できるようなものではありませんね。


時代というものは常に新しくなっていきます。

それに対応できないものは単に人々から忘れ去られるだけであります。

そうして、忘れ去られた記録になど何の意味がありましょうか?

使われなくなった記録、参照されない記録などに意味はありません。


そういう訳でバパのトークが意味をもつとすれば、それはラティハンが前提であります。

ラティハンを受けている、続けている人達の存在がまずは必要なことであります。

トークの保存はいいでしょう。

それでラティハンの保存はどうするおつもりですか?

いったいその事について2代目はどう考えておられるのか、疑問に思うことが多いのであります。


PS

時代というのは常に変化していくものであります。

状況は無限に変化していくのです。

そうしてその変化に対応できるものはまた生命をもつもの、「現実にその時に生きている我々」だけなのであります。

固定化した過去の情報をどれだけ集めてみたところで、それが出来るとはとても思えません。

手紙やらトークやらでバパが回答した全てのものを集めて「デジタル バパ」を作ってみたところで新しい状況には対応できないのですよ。

どれだけ集めてもバパはネットは知りませんし、iPadも知らないのですからね。


さて、バパから手渡された、生きたもの、生命があるものは「ラティハン」であります。

ですので頼るべきは「デジタル バパ」ではなく「ラティハン」であるのは明らかなことなのでありますよね、2代目さん。


PS
バパの新しいトークが出なくなりました。
   ↓
「トークの解釈」あるいは「トークの選択」によって「~ガイドブック」ができました。
   ↓
「~ガイドブック」が「教本化」します。
   ↓
「教本」ができたので「教義」がきまります。
   ↓
「教義」がきまりましたので、これで「宗教化」の完成です。
   ↓
・・・・・・
というような事にしてはいけませんよね。


バパも言っておられます。
・・・・・・・・
あらゆる宗教(に従う人)はラティハンヘ来て、そこで礼拝している。

若し、人が自分の固有のそういう本を受けたならば、その時には彼は最早、他の全ての本を受ける事はなくなるであろう。

何故ならば、そういう本というものはドグマだからである。

そして、一つのドグマは他のドグマと決してピッタリ一致はしない。

しかし、我々の会の中にはドグマはないのだから、そういう本、聖典はないのだから、 あらゆる宗教が我々の協会に入る事ができる。

或る宗教の信者が一度我々の会に入れば、彼に与えられるものは、彼の自我から、そして、彼の自我に合致して訪れて来る。

そこで、そういう人達は知るのだが、 宗教、つまり、真の宗教というのはナショナリスティックなものではない。

そこにはナショナリスティックなものはないのである。

「神は全ての人間にとって同じであり、一つであるから」という事を悟る事が出来るのである。

そして、各人が自分の性質に則って、添って受けるのである。
・・・・・・・・
(84・7・6 CDK)


PS
こんなことを言っている人もおります。

・・・・・
すべての問題について解き方や考え方を理解しろというのも無理な話だ。

問題は解き方や考え方を知らないことではなく、知らないままで満足してしまうことだ。

問題について答えを知っただけでよしとするのがいけないのだ。

宗教にとって教義や経典は答えである。

質問に対して経典のココにこう書かれていると答えるのは質問に対して答えだけを述べていることにあたる。

答えだけを言ってもしょうがない。

その答えに至る考え方も述べないといけない。

考え方というのはどこかに書かれているものではなく、自分の言葉で語るものである。

まとめよう。

カルトでは、質問に対して書物を引用することしかできず、自分の言葉で語ることができない。

それは、その人がその教えを本当にわかってはいないからである。

そして真の問題は、わかっていないのに書物を引用するだけで答えたつもりになってしまうところである。
・・・・・

宗教はカルトのことでも儀式や団体のことでもない。<--リンク

PS
バパのトークが大事な記録である事は、二代目のコトバ、「バパのコトバを変えてはいけません」という意見表明を待つまでもない事であります。

しかしながら、残念な事にバパのトークの編集が行われている様です。

それはつまりあまたのマスコミがやっている様に、「自分たちに都合の悪い所はカットする」という行為です。

そうして、そのようにカットし編集されたトークをあたかも「これがバパが語ったことの全てです」とでも言うかの様にライブラリーに保管します。

さて、そうなってしまうと後日、ライブラリーに保管されたものしか知らない会員は「これが正真のオリジナルだ」と思ってしまうでしょう。

しかしそこにあるのはまぎれもない「にせもの」であります。

1977年9月12日のトークがそのようにして編集され、ライブラリーに保管された様です。

何故そう言えるのでしょうか?

1978年10月に発行された日本語訳のトークを参照してみてください。

あるいは「アダムとその子供たち」のP65~ P74、それは参考文献の159からの引用部分ですが、それでも確認する事ができます。

その訳よりもライブラリーにあるトークは内容の一部が大幅にカットされている事に気がつく事になります。

さて、そのような行為を二代目は承諾したのでしょうか?

あるいは二代目に内緒でそのような行為を行ったのでしょうか?

いずれにせよ、そこにあるのは「真実のもの」ではありません。(2019年2月 記)


PS
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受け入れられない話

2014-09-07 | 日記
1959年8月11日のロンドントークであります。

ユダヤ教からキリスト教そうしてイスラム教までの経緯が書かれています。

そうしてイスラムの次に「ラティハンが来た」とされています。

さて、これらの記述の何が問題なのでしょうか?

なるほど言葉使いは丁寧ではありますが結局のところキリスト教もイスラム教も不十分だったと受け取られても仕方のない記述になっていますね。


イスラムの宗教史観によれば、「イスラムが最後の教え」であります。

そうして「イスラムを超えて新たな必要ごとが現れる事」はけっしてないのですね。

さてバパははたしてこの禁句に触れたのでしょうか?

イスラム主流派から見れば「状況証拠はクロ」だったのでしょね、きっと。<--リンク

そうして結局はインドネシア以外のイスラム社会にラティハンが受け入れられる事はありませんでした<--リンク

2代目に言わせれば「それが歴史」だそうです。<--リンク

これでは「(イスラム主流派の人はラティハンを受けることを)あきらめなさい」と言っている様なものでありますね。


しかしこれはバパにとっては本当に不本意なことだったと思われます。

本家筋のイスラム社会にラティハンが受け入れられていればどんなにか嬉しかったことでしょうか。

バパが残念に思う気持ちは想像するに余りあるものがありますね。


ちなみにキリスト教徒にとってはイスラム教の出現に続いて今回が2回目ですね。

つまり「自分たちの教えに続くものが新しく出現した」という2回目のメッセージです。

ですからそれなりに「免疫」が出来ていました。

でもイスラム社会はそういう訳にはいきません。

今回が初めての体験であります。

そういう訳で「拒絶反応」も一層大きかったのでしょうか。


さて宗教というのは、どこまでいっても個人的な「お気に入り」であります。

そして「あなたの宗教はすばらしいですね」ということは何の問題もありません。

でも「あなたの宗教はちょっとね」というような言い方はもはやこの世界に居場所はないでしょう。

そうして、その言い方の行きつく先に人々の間の平安はありません。


多様な宗教、宗派が現に地球上に存在しています。

つまりは人々はいろいろな見方で「至高の存在」を認識しているのですね。

そうであれば、お互いにそれを批判し合うことには手を出さない方が世の中平和であります。

それは「我々が正しいのだ」という主張も自ずから「ある限界を持たねばならない」ということであります。


そういう訳でラティハンと特定の宗教を結び付ける、関連付けるような記述は避けた方がいいでしょう。

事実、こちらからラティハンに投影しなければいけないイメージなどはありません。

ラティハンを受けるのに「このように見なければいけない特定の見方」などは無いのであります。


ラティハンを始める前まではそれぞれの人がラティハンについての「好みのイメージや考え」を持つことはしかたありません。

人間の頭と心というのはそういうようにしてしかラティハンをとらえることができませんからね。

でもひとたびラティハンが始まれば「そんなイメージやら考え」などは邪魔になるばかりです。

そこにあるのは「無心になってただ単に受ける」という状態だけですからね。

そしてそれが「ラティハンは宗教ではない」という具体的な意味なのであります。


PS

さて、バパがこのトークをしたのは第一回世界大会でしたか。

「昇る太陽」のごとくにラティハンをする人が増えていった時代でしたね。

まあですからつい「強気の発言」になるのは人情であります。


時はすぎて2013年は8月2日の2代目のトークであります。

もはや「昇る太陽」などというのは過ぎ去った過去の栄光、現実はきびしいのでありました。

にもかかわらず相変わらずの「強気の発言」であります。


いくらその場にジャワイスラム教徒しかいないからといっても後日世界中にメッセージとして流れます。

どういうメッセージでしょうか?

「ムハンマド(という啓示)の後にバパという啓示が現れた」というメッセージであります。

そうやって「主流派のイスラムの人達がラティハンを受けいれる可能性」をつぶして何が面白いのでしょうか?


バパのトークや宗教史観を大事に思う気持ちはよくわかります。

しかし「良い知らせを広く伝えたい」という気持ちがどうにも伝わってきませんね。<--リンク

バパの言ったことであればそれを嫌がる人がいても「これが正しいのだから」と押しとおすのでしょうか?

「聞いている人の気持などはどうでもいい」とそうとられても仕方のないありさまであります。


2代目が「バパを思う純粋な気持ち」はよくわかりました。

でもぶしつけではありますが、「どうかもう少し世間というものを知っていただきたい」と願うばかりであります。


PS

バパの大変なご苦労によりラティハンが地上におろされました。<--リンク

そうして、その時を持って「ラティハンは人類の誰でも希望すれば受けられるものだ」と思っておりました。

言い換えれば「人類にとっての生得権の一つ、基本的人権のようなもの」ですね。


でも2代目は言います。(2013年8月2日のトーク)

「あなたはラティハンをやめた方がいい。」と。

いやいや、恐れ入りました。

まさか「地球上でのラティハンの管理権をお持ち」とは知りませんでした。

そうして、「あなたはラティハンをしなさい。」とか「あなたはやめなさい。」とか言えるのですね。


そうとしか思えないトークであります。

So, if any of you follow some movement or some technique and are comparing that to Subud, it would be better for you to leave Subud ー it is for your own good.

訳)ですから、あなた方のうち、幾人かの人が、ある運動、あるテクニックに従い、それとスブドを比較するならば、あなた方はスブドを離れた方がいいでしょうーあなた方自身のためにも。

さあ、最後の言葉は「その方が身のためだ」と言ってるのでしょうか。

これではなにやらおどし半分にも聞こえてしまいそうです。


人生の主体はその人のものであります。

何を行い、何をしないかは他人が干渉できる筋合いのものではありませんよねえ。

なるほど、ラティハンを受けるときにはその作法に従いましょう。

でもラティハンの外で何をどう行うかはその人の自由と責任であります。


こんな基本的な事が2代目には了解してもらえないのでしょうか?

え、「そうではない」って。

「単なる善意の第三者としてのアドバイス」ですって。

いやいやそれならそれでもいいのですがねえ。

でもそういうの、世間では「小さな親切、大きなお世話」と言うのを知ってましたか、2代目さん。

追記
85CND6.11(チランダ) バパトークより引用

『さて、これはスブドのラティハン・クジワアンの過程についての話であります。
しかし実際には、私たちはただラティハン・クジワアンと言ったほうがいいのです。
スブドと言うべきではないのです。
なぜならば、そういう言い方をすれば、まるで神の恩寵を受けることができるのは、神の導きを受けることができるのは、あるいは、神からの啓示を受けることができるのは、ただスブドの中においてだけであるという風に聞こえるからです。
それは正しくありません。  
事実は誰であれ、忍耐と受容とそして誠実さをもって本当に神に全託すれば、その人はラティハン・クジワアンを受けるのです。
これはスブドの専売特許ではありません。

そして私たちがこのことに気付くこと、つまり神には限界がなく、誰でも神に対して苦情を申したてることはできないのだということを知ることは非常に重要であります。
若しもそれを理解すれば、それは私たちを心の広い寛大な人間にしてくれるでありましょう。
他の人々を受け入れることができるようにしてくれるでありましょう。
私たちは自分を特別の者だとか何かそういう風には思わないでありましょう。

そしてこれが実際のところラティハン・クジワアンの目標であります。
ラティハン・クジワアンの目標は私たちをノーマルに、当たり前にすることであります。
そして私たちの存在の内部での神の力の働きに慣れ親しんだ人間にすることであります。  
ノーマルでない人間、何か特別のようにみなされ得る人たちはラティハン・クジワアンをしている人たちではありません。』

PS
そういう訳で、ラティハンはキリスト教徒(33.4%)とバパの国のイスラム教徒(2.8%)には「ウエルカム」なのです。<--リンク

そうしてそれ以外の方には「なかなか超えられない人為的な壁」を作っていますね。

その結果は「世界人口の36.2%にしか入口が開かれていない」という状況であります。

なんとまあ世界人口の3分の2を締め出しているのですね

いやはや、これは驚きの結果でありました。


宗教別人口

・キリスト教 22億5400万人 33.4%
(イタリア・フランス・ベルギー・スペイン・ポルトガル・中南米・アメリカ・カナダ・イギリス・ドイツ・オランダ・北欧オーストラリア)

・イスラム教 15億0000万人 22.2%
(インドネシア・マレーシア・トルコ・エジプト・サウジアラビア・イラン・イラク・中東)

・ヒンズー教 9億1360万人 13.5% (インド・ネパール・バリ島)

・仏 教 3億8400万人 5.7%
(日本・中国・韓国・ベトナム・タイ・カンボジア・ラオス・スリランカ・ミャンマー・チベット)

・無宗教:7億6900万人(11.4%)

・無神論:1億4830万人(2.2%)

・心霊主義:1366万人(0.2%)

・バハーイ教:786万人(0.1%)

・中国伝統的宗教:3億8720万人(5.7)

・儒 教:641万人(0.1%)

・道 教:337万人(0.1%)

・神 道:278万人(0.0%)

・その他:134万人(0.0%)

合計:67億4960万人 (百科事典「ブリタニカ」年鑑2009年版)<--リンク

バパの国のイスラム人口2億人<--リンク

PS
バパはラティハンとそれ以外の多くの修行方法を比較されました。

そうして、「それらのものとラティハンは違うものだ」と主張されました。

さて、そこまではいいのですが「だからラティハンの方が優れている。」と主張したとしたら、それは少々「語りすぎ」でありますね。


比較が第三者によって行われるのでしたら、まあそれは一応「公平性」が担保されています。

でも当事者が自分のものと他の物を比較してしまっては、どうしたって「自分のものがいい」という価値判断に引きずられます。


さて情報の世界ではかつてないほどに地球は狭くなりました。

誤解を与えるような比較対照はやめておいた方がいい。

それがたとえ「バパのトークの内容」であったとしても。

もはやそういう時代になったように思われます。