ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

57HAG9.29(ハーグ)

1957-09-29 | 日記
ナフス
欲望
動機・・・13行・2ページ中段

アルアマ・・・2行・2ページ中段

アマラ・・・3行・2ページ下段

スフィア・・・2行・2ページ下段

ムトマイナ・・・3行・2ページ下段

タワカル・・・2行・3ページ上段
    
イクラス・・・3行・3ページ上段
     ・・・1行・3ページ中段

意志のハート
意思のハート
小さなハート・・・2行・3ページ中段

ハティサヌバリ・・・2行・3ページ中段

人間の努力
求道者・・・20行・5ページ下段

幸運・・・5行・7ページ上段

小さな子供の記憶
小さな子供の頃
赤ちゃんの記憶
魂(ジワ)への気づき
忘れてしまう・・・16行・8ページ中段

禁止・・・5行・9ページ下段

インサンカミル・・・3行・10ページ中段

思い出す・・・11行・11ページ上段

私・・・3行・11ページ中段

洗礼
シャハダート・・・3行・11ページ下段

預言者・・・10行・11ページ下段

人間の努力・・・9行・12ページ上段

教え・・・2行・12ページ中段

自分に対応するもの・・・3行・12ページ中段

真似・・・3行・12ページ下段

先生・・・5行・13ページ中段

洗濯・・・3行・13ページ下段



2012.12.27





ジワ(jiwa),ジーヴァ (jīva)の論

1957-09-25 | 日記
ジワ(jiwa),ジーヴァ(jīva)<--リンク

以下、文頭の部分ですが、追記となります。 

まずはジワ(Jiwa)というコトバから始めましょう。

ジワ(Jiwa)というコトバは、 サンスクリット語の jivás( Sanskrit : जीव , jīva)に由来し、語源は「息を吐く」。 <--リンク

それはラテン語のvivusと同じインドヨーロッパ語のルートを持ち、「生きている」という意味です。

ヒンドゥー教とジャイナ教では、 ジバ ( サンスクリット語 :जीव 、 jīva 、別のスペル Jiwa、 ヒンディー語 : जीव 、 jīv 、別のスペル jeev )は生き物であり、または生命力を吹き込まれたどんな存在でもよい。


ジャイナ教のジバ jivaの概念は、ヒンドゥー教のアートマンatmanと似ています。

しかし、いくつかのヒンドゥー教の伝統は、ジバ jivaを個々の自己と見なし、アートマンatmanはすべての生き物に存在する普遍的な不変の自己であり、そしてアートマンatmanの存在は形而上学的なブラフマンBrahmanの現れであるとして、2つの概念(ジバ jivaとアートマンatman)を区別します。 

ジャイナ教では、 ジバ jivaは物理的な死では死ぬことがない、生物(人間、動物、魚、植物など)の不滅の本質または魂です。

そして、アジバ(Ajiva )の概念は、「魂ではない」ことを意味し、物質(身体を含む)、時間、空間、非運動および動きを表します。

ジャイナ教では、 ジバjivaはサムサリ samsari (世俗的、生まれ変わりのサイクルで捉えられる)か、またはムクタmukta(解放された)のいずれかとなります。


ジャイナ教の宇宙論によれば、 jīvaまたは魂は感覚の原則であり、宇宙の一部を形成する基本物質の一つである。 <--リンク

そしてジャイナ教は、ジバ jīva(魂)とajiva ( 非魂 )と呼ばれる2つの独立した、永続的な、共存する未創造(作られたものではない)というカテゴリーに宇宙を分けます。

従ってジャイナ教のこの基本的前提は、この教えを二元主義の哲学にする。

ジャイナ教によれば、ジバ jīvaは、 カルマkarmaのプロセス、 転生 、および転生からの解放のプロセスがどのように機能するか(を説明するの)に必要不可欠な部分である。 


さて、南インドからの貿易は、約4世紀頃にヒンズー教を(ジャワに)もたらしました。<--リンク

それ以降、イスラムがジャワにもたらされるまでのおよそ1000年に渡ってヒンズー教と仏教がジャワで受け入れられていました。

そうでありますから、ヒンドゥー教の伝来に伴って「ヴェーダーンタ学派の教え」->「個々の魂:自己( Atman / Jivatman )」という概念が伝わったものと思われます。

そうして、このストーリーが一番可能性が高そうなのですが、JivatmanではなくJiva-->Jiwaとしてインドネシア語、ジャワ語に吸収されと思われます。

但しバリ・ヒンドゥー教ではJivatmanーー>Jiwatmanとして現在でも使われている模様です。<--リンク
(追記終了 2017年6月25日)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下、これまで記述した内容です。

バパのトークでの大変なキーワードなのですがいまだに
正確につかめません。

英訳ではたぶんsoulでしょう。

和訳で魂ですか。

日本では魂というと仏教やら風習やらの影響でヒトダマの
ようなものを思い浮かべてしまいます。

でもバパが使ったジワという言葉、かの地の伝統と結びついていて
そう簡単に訳せるものじゃなさそうです。

・・・・

今日のところはこれくらいで、詳細はまた後日にでも。

PS
ジワに近い概念がキリスト教にありました。

以下、紹介です。

キリスト教霊性思想史<--リンク

・・・そのような状況を踏まえて著者は、ヨーロッパのキリスト教思想史において哲学的な心身の二区分とは別に、『霊・魂・身体』の三分法が説かれてきたが、それはパウロの一テサロニケ書五・23の「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けることのないように」という言葉に由来し、オリゲネスを経て西ヨーロッパの伝統的な見解になったと指摘する。

そして、ここでいわれる「霊」は「実体である魂に所与として認められる特別な機能であり、しかも広義の精神に所属する宗教的機能である。・・・
・・・・・・
そして、この「霊性」は「それによって人間が永遠者なる神との関係を生きる機能」、「道徳や倫理を超えた霊的な生命」であり、「神から来る愛を受容して生きる」ものであり、この「受容能力」こそが霊性である。


バパが語っている人間構成論はあまりはっきりととらえられませんが、ジワとナフスとロホはそれらを説明するのに使われている、大切なキーワードです。


以下のブログ(?)も参考になるのであげておきます。

犬にも霊はあるのか?<--リンク

以上のような3つの層を想定して、霊が次の世に継続していく、、、という考え方に対して、日本の感性では「体と精神」の二つにわかれて、そうして「精神=魂」で「精神活動そのものがそのまま次の世に移行する」と素直に、あるいは単純にとらえているように思います。

たぶんこれは「三途の川」とか「お花畑」とかいう通俗のスピリチュアリズムの影響で、それは「往生要集」とそれによって書かれた「地獄絵図」がやっぱり根源にあるように思われます。

PS
他にジワに相似なものとして、たとえばスーフィーズムではラターイフを上げることができそうです。
・・・
ラターイフは、目が視覚を司り耳が聴覚を司るように、それぞれが役割を受けもつ器官である。

そして、ラターイフの器官は、神に向かうための器官であった。

たとえば、クシャイリー(al-Qushayri, d. 1072)は、ルーフは愛(al-mahabba)、カルブは知識(al-maarif )、スィッルは観想(al-mushahada)が宿る器官であると紹介している7)。

詳細はこちらから<--リンク


PS
さて、バパは「この世の生活を次の世に引き継ぐものがジワだ」と言いました。

このジワという概念が何を包含しているのか、いまだ明確にはなっていません。

それは、バパが使うコトバが通常の心理学用語、あるいは スピリチュアリズムの用語とは違っているからであります。

関連した話ですが、「スシラ・ブディ・ダルマ」は難しい本です。

そうして、「内なる我の光」の方がアウトラインをつかむのにはやさしい様に思われます。

そういう訳で、是非とも「内なる我の光」、再出版をお願いしたいと思います。

2016・1・18

PS
以下はインドネシアWikiのRohにある説明です。<--リンク

キリスト教の見方として・・・

Roh atau roh ( Ibrani ??? baca: ru-ach ) adalah unsur ketiga yang membentuk kehidupan manusia.
精神や霊(ヘブル???を読み取る:ruach)は、人間の生活を形成する第3の要素です。

Paulus menyebutkan bahwa manusia terdiri dari tiga unsur: roh, jiwa dan tubuh ( 1 Tes 5:23 ).
精神、魂と体(1テサロニケ5:23):パウロは、男は3つの要素から構成されていることを言及しています。

Unsur tubuh jasmani adalah wadag yang dapat kita raba,
Wadag要素は、私たちが触れることができる物理的な体であり、

jiwa disebut juga nyawa ada di dalam darah,
また、魂の生命は血にあると呼ばれます、

sedangkan unsur ketiga yaitu roh adalah yang memberi manusia kesadaran.
精神の3番目の要素は、人間の意識を与えるものであるが。

Tubuh jasmani dapat binasa, tetapi roh manusia bersifat kekal.
肉体が滅びるかもしれないが、人間の精神は永遠です。


注目すべきは、

roh, jiwa dan tubuh ( 1 Tes 5:23 ).
精神、魂と体(1テサロニケ5:23)

であり、これは上記の

・・・そのような状況を踏まえて著者は、ヨーロッパのキリスト教思想史において哲学的な心身の二区分とは別に、『霊・魂・身体』の三分法が説かれてきたが、それはパウロの一テサロニケ書五・23の「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けることのないように」という言葉に由来し、オリゲネスを経て西ヨーロッパの伝統的な見解になったと指摘する。

に対応した部分のインドネシア・キリスト教での表現になっています。

そうしますと、永遠に生きるのはRohでありJiwaではない、、、とキリスト教徒は言っているのですね。

こうして、「Jiwa が永遠に生きる」というバパの表現(Jiwaという言葉の使い方)はキリスト教徒とは違っている、、、ということが分かるのでありました。

PS
以下、インドネシアWikiのJiwaのページから引用<--リンク

Jiwa atau Jiva berasal dari bahasa Sanskerta yang artinya "benih kehidupan".
魂(Jiwa)や魂(ジヴァ Jiva:Jiwaの別スペル)は「生命の種」を意味するサンスクリット語から来ています。

Dalam berbagai agama dan filsafat , jiwa adalah bagian yang bukan jasmaniah (immaterial) dari seseorang.
様々な宗教や哲学では、魂は人の物理的ではない(物質的ではない)部分です。

Biasanya jiwa dipercaya mencakup pikiran dan kepribadian dan sinonim dengan roh, akal, atau awak diri. [1]
通常、魂( jiwa)が心(pikiran)と人格( kepribadian)を包含することを信じ、精神( roh)、心(akal)、または自分自身(awak diri)と同義です。 [1]

Di dalam teologi , jiwa dipercaya hidup terus setelah seseorang meninggal, dan sebagian agama mengajarkan bahwa Tuhan adalah pencipta jiwa.
神学では、魂は、誰かが死んだ後に生きることを信じて、ほとんどの宗教は、神が魂の作成者であることを教示しています。

Di beberapa budaya, benda-benda mati dikatakan memiliki jiwa, kepercayaan ini disebut animisme . [2]
いくつかの文化では、無生物は、この信念はアニミズムと呼ばれますが、魂を持っていると言われています。 [2]

Penggunaan istilah jiwa dan roh seringkali sama, meskipun kata yang pertama lebih sering berhubungan dengan keduniaan dibandingkan kata yang kedua. [3]
魂(Jiwa)と精神(Roh)という言葉の使用は、しばしば同じですが、最初の言葉は2番目の言葉に比べて日常と関連することが多いです。 [3]

(jiwaとrohはあまり厳密に区別されずに使われている、、、ような。:訳注)

Jiwa dan psyche bisa juga digunakan secara sinonimous, meskipun psyche lebih berkonotasi fisik, sedangkan jiwa berhubungan dekat dengan metafisik dan agama . [4]
魂(Jiwa)と精神(psyche)はまた同じ様に使用することができますが、精神はより物理的な意味合いですが、魂は形而上学と宗教に密接に関連しています。 [4]

Sedangkan menurut Kamus Besar Bahasa Indonesia , kata jiwa memiliki arti roh manusia (yang ada di di tubuh dan menyebabkan seseorang hidup atau nyawa.
一方、インドネシアの辞書によると、「魂」(Jiwa)という言葉は、人間(manusia)の精神(roh)(身体にあり、人の人生(nyawa)や生命(hidup)を引き起こす)を意味します。

Jiwa juga diartikan sebagai seluruh kehidupan batin manusia (yang terjadi dari perasaan, pikiran, angan-angan, dan sebagainya). [5]
魂(Jiwa)はまた、人間の内面の生活(感情、思考、想像などで起こる)全体として解釈されます。 [5]

Jiwa manusia, sebenarnya berbeda dengan jiwa makhluk yang lain seperti binatang, pohon, dan sebagainya.
人間の魂は、このようなように、動物、植物(木)などの他の生き物の魂とは、実際に異なっています。

(Jiwaは「生命の種」ですから、動物、植物を問わず生命のあるものはこれを持つ、、、というのが大前提の話ですね。:訳注)

Jiwa manusia bagaikan alam semesta, atau alam semesta itu sendiri, yang tersembunyi di dalam tubuh manusia dan terus bergerak dan berotasi.
人間の魂(Jiwa)は、宇宙のようなものであり、宇宙そのものであり、人体に隠されて動いて回転し続けます。


PS
ご参考までに・・・

生まれ変わり<--リンク

・精神の2つの面 エゴ、ジーヴァ、アートマン、ブラフマンの関係<--リンク

PS
バパの言われるジワとは「成長して展開していかなくてはならないもの」の様です。

そしてそれは我々には完成した形では与えられません。

ある意味この世の経験を通じて成長していくものの様です。

しかしながら、まずは眠っているジワをオープンで起こさなくてはなりません。

そうして、その後も継続的にラティハンを実習することでジワの覚醒状態を保っていなくてはならない様です。

そうしないとこの世の経験はジワには伝わりません。

そうしてジワの成長も起こらないようです。

さてそういうわけで、ある意味ジワにとっては「この世は夢のようなもの」なのかもしれませんね。

PS
以下、ジワについてのバパのトークです。<--リンク

(2月25日1963 バパ)
あなたが生まれる前に、あなたの体が人間として形成される前に、あなたの存在が何らかの内容を持つ前に、あなたの魂(ジワ)がそこにありました。
それが中に存在した最初のものです。
あなたの魂(ジワ)があなたの外形より前に来ていたことは明らかです。
あなたの人間としての性質やあなたの「人間の種子」はまだ水に似ていますが、魂はすでにそこにありました。
・・・・・
だから、魂は人間の生活に必要なすべてを持っています。
例えば、それはこの地球上の人間の外的な生活の中で起こっているすべてを聞くこと、見ること、嗅ぐこと、感じること、理解することができます。
さらに、いったん魂が体の形 - 外形 - によって覆われると、これらの機能の力と範囲は限られたものになります。(注6)

いったん魂がそこにあり、「人間の種」となるものに付随するようになると、魂の覆いまたは容器となったこの実体が徐々に発達する。
その発展は生まれてくる時まで続く。
つまり、9ヶ月間です。
そして、それが生まれたとき、人間 - あなた方ひとり一人 - は(注:外観上は)完全な人間(の姿)です。


PS
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トークと宗教

1957-09-23 | 日記
宗教とはなんでしょうか?

そうですね、私の理解では「他人の受けたことを信じてその後を
ついていくこと」でしょうかねえ。


「ラティハンを受けること」は宗教にはなりえません。

それは「各自が自分で直接受ける」という体験ですから。

そこには「他人の受けたこと」が介在する余地はありません。


でもバパのトークを「教えだよ」と言われて読めば簡単に「教え」になります。

ですからバパのトークからはたやすく宗教が生まれそうです。

そう、本当に「トークから宗教までは紙一重」しかありませんね。


さて、宗教を作るのはラティハンでもなくバパでもありません。

あるとすれば後に続く我々がトークから作り上げてしまうもの
なのでしょうね、きっと。

それもバパを尊敬してまじめで熱心な人ほどね。


バパはバパの受けたことに従って行かれました。

さてそれでは「バパの足跡を習う」とはどういうことでしょうか?

何が「バパを見習う」ということなのでしょう?

「バパの受けたトーク」に忠実に従って行くことでしょうか?

それともバパが「自分の受けたことに従っていかれた」ように
各自が「自分の受けたことに従っていく」ことでしょうか?


まあいろいろ考え方はあるでしょうし、好みの問題のようにも
思えます。

それこそ「個人の自由」なのでしょうかねえ。

でもまあ「宗教ではない」と言いながらやってることがほとんど「宗教と同じ」というのもなんだか訳の分からない話ではありますがね。
2013.1.16

PS
たとえば「宗教と同じ」<--リンク

PS
バパは別に新しい宗教を始めるつもりはなかったと思います。

しかしながら、人々の要求に、「これは何ですか?あれはどうなっているのですか?」と会員が聞くもので、ついいろいろとご自分の体験やら世界観やらを話して聞かせます。

そうやってバパの口から出たコトバというものはその瞬間にバパの想いを超えて独り歩きを始めます。

レコーダーに記録され、紙に印刷され人々に読まれます。

そうして近頃はネット上でも閲覧が可能であります。


そうやってバパの多くのトークを読んでいくと、そこにはどうしたって語り手の世界観が現われてきます。

語り手の思想、信条が見えてくるのであります。

そうしていくらそれをバパが「これはバパのものであって、あなた方のものではない。」と言ってみたとこで、我々はそれを「真実だ」と思いこみ始めるのでした。

そうなってしまえばあとは一直線で宗教化します。

教義(バパのトーク)があって修行方法(ラティハン)がある、、、と。

そうなってしまいますね。

しかしそれはバパが希望した姿とは異なるものの様に思えるのでありました。

PS
バパは「ラティハンは礼拝である」と言われます。

しかしここで言われている「礼拝」というものは、通常の形式が決められたものとは違います。

自分の外側にある、何か目に見える対象物に向かって礼拝するのではありません。

そうしてまた、「心の中にイメージがあって、それに向かって礼拝する」のでもありません。

そのようなイメージやら想像物やらはいっさい関係がありませんね。


ラティハンはもともと「あちらからのうながし」で始まるものです。

そうして、我々はただそれについていくだけであります。

そうしてラティハン中は基本的にはそこに「心」は「思考」は「イメージ」はありません。

なにかテクニックを使って「無心になる」のでもありません。

「あちらがそうさせてくれる」から無心になるようであります。


そういう訳でふつう我々がやっているような「礼拝」とはまるで違うものがそこにあります。

基本的にラティハンは我々が「やれる」ようなものではないのです。

それはただ「受け取るだけのもの」であります。

そうしてそれをバパは「それがあなた方の礼拝である」というのでありました。

追記
通常の礼拝には我々の希望やら願望やらが入り込みます。

「~のようになりますように。」というのがそれであります。

それがたとえ「世界が平和でありますように。」というような、特に悪い所のない、個人的なものでもない、むしろ人類にとっては望ましい願いであるように見えるものであってさえ、それはやはりハートの願いなのであります。

それに対してラティハンはそのような、こちらから持ちだす願いは一切ありません。

むしろあちらからの希望、願い、要請というようにいってもいいようなものによって、こちらが動いて行くだけであります。

そうでありますから、これは従来の礼拝とは方向が逆であり、全くの別物なのであります。

PS
宗教の基本的なメッセージは何でしょう?

それは「(心において)信じる者は救われる」あるいは「(言動において)従うものは救われる」でありましょう。

ラティハンの基本的なメッセージは何でしょう?

上記の例にならうならば「(ジワにおいて)ラティハンに従うものは救われる」とでもなりましょうか。

そうであれば宗教とラティハンは上下の関係ではなく、並行して存在する関係となります。

その意味でバパによってもたらされたラティハンというものは、今までには存在していなかった、革新的な道なのであります。

PS
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矛盾していますよ

1957-09-21 | 日記
地球上には「唯一全能の神」に信仰をもつグループがたくさんありますね。

アブラハムの宗教といわれるユダヤ教、キリスト教、イスラム教はその
代表例でしょうか。


ここにあるグループの人達がいたとします。

その人たちは「唯一全能の神」に信仰を持っていますが、「自分たちの
グループは宗教ではない。」と言ったとします。

でもそこに入る新しい仲間はみんなの前で信仰を宣誓しなくてはいけません。


さて、普通世間ではそのような人達のグループは「宗教団体」と呼びますね。

それで少しも困りません。

自分たちの宗教に誇りを持っていますからね。

むしろ「人として当然でしょう。」というところでしょうか。


でもその人たちは「自分たちは宗教ではない。」といいます。

どうしてでしょうね?

何か下心でもあるのでしょうか?

「何故」って、これは本当に混乱した理解に苦しむ状況をつくる事になりますからね。

・・・・

2012.12.30

PS
59LON8.1(ロンドン)
アブラハムの宗教がお気に入りの模様です。

PS
宗教団体とほとんど同じことを言ったりやったりしていれば
世間では「それは宗教だ」といいますね。

当事者が「いや、宗教ではない」と一言コトバで言えば
宗教でなくなる、、、と言うような訳にはいきません。


我々もコトバよりも行動をみてその人がどういう人か
判断します。

同じように人々は我々のコトバよりも行動をみて判断する。

これはバパに言われるまでもなく、当然のことでありますね。


PS
協会のルールでは上記の「信仰の踏み絵」が入会の条件になっています。

でも「信仰の自由」は保障されなければいけません。

「我々は宗教ではない」と主張しているのですから当然の事でありますね。

でもなぜかこの事にはルールを作る皆さんには思いが至らない様であります。

本当に不思議な事でありますね。


PS
日本で「唯一神への信仰」という教義を広めたいのなら宗教団体を名乗るのがまっとうなあり方でありましょう。

「一般社団法人を名乗りながら教義を広める」、、、というのでは「団体の誠実さ」が疑われても言い訳ができませんね。

ちなみに「唯一神への信仰」で「魂がサルベーション(救済)される」とするのはアブラハムの宗教では「基本中の基本」となる話であります。

PS
協会が「我々は宗教ではない。」というならば「しかしながら、神への信仰が必要だ」などという事は言うべきことではないでしょう。

それは結局のところ、「我々は宗教ではないが、宗教だ」と言っていることと同じことになるからです。

そうして「神を信じているが、これは宗教ではない。なぜならば、教義がないからである。」などという理屈は到底世間で通用するものとは思えませんね。

少なくともこの日本という国では、そんな説明をされても誰にも理解されないことでしょう。

しかしながらラティハンを受けて見れば「ああなるほど」となるものであります。

それゆえにバパは「体験が先、説明は後」と言われたのでありました。

PS
ラティハンというのはインドネシアが発祥の地であります。

そうであれば、彼の地では常識とされる考え方が協会の中に入り込むのは、まあ致し方ない事でありましょう。

しかしながら、我々インドネシア以外の国の住民は「それはインドネシアでしか通用しない、ローカルな考え方である」という事をしっかりと認識しておく必要があります。

さて、通常我々は「神を信仰している」という人については「その人は宗教を持っている」と見なします。

そうしてそのような判断はたいていの国では妥当なものでありましょう。

しかしながらインドネシアでは状況が異なっています。

なにせ全ての国民は「唯一の神を信仰する事」が憲法の序文で求められているのですから。<--リンク

そうして「宗教」の定義も国によって定められています。

スラム、プロテスタント、カトリック、仏教、ヒンドゥー教、儒教に属する宗派のみが「宗教」とされます。<--リンク

それ以外の「唯一の神を信仰する者達、グループ」はクバティナン(信仰団体)と呼ばれて別の扱いをされています。

ちなみにインドネシア以外の国々では、これらのクバティナン(信仰団体)に相当するグループは「宗教」あるいは「新宗教」として認識されています。


さて、以上の様に宗教と信仰をとらえるのがインドネシアの常識であります。

そうでありますので、インドネシアにおいては「唯一の神を信仰します。」という宣誓は「私はインドネシアの国民です」と言っているのと同じで、誰にとっても何の抵抗もないものなのであります。

さて、所変われば、常識も変わります。

インドネシア以外の国では「唯一の神を信仰します」というのは「信仰告白」とみなされ、その方は「アブラハムの宗教」を自分の宗教として信仰している事を示すものになるのであります。

さてこれほどの認識のギャップが発生しているにも関わらず、世界中のどこの国でも「唯一の神を信仰します」と言わせようとする協会のスタンスは本当におかしな、グローバルでない、ローカルスタンスそのものなのであります。

(注:インドネシアにおいては「唯一の神」は「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれ、それはアブラハムの宗教の神を含みますがそれに限定されません。
それゆえにインドネシアではパンチャシラ Pancasilaの下、「全ての宗教は唯一神への信仰をしている」とすることが出来るのです。<--リンク)

PS
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57HAG9.18(ハーグ)

1957-09-18 | 日記
預言者・・・15行・2ページ上段

証拠・・・5行・3ページ上段

欲望

想像
しゃしゃり出る・・・2行・3ページ中段

知りたがる・・・1行・3ページ下段

障害・・・5行・3ページ下段~4ページ

内部感覚・・・2行・4ページ上段

覚醒・・・4行・4ページ上段

4つの障壁・・・3行・4ページ下段

バダンラサ・・・4行・4ページ下段
(badan rasa)

ラーサ・・・5行・4ページ下段~5ページ
(rasa)

ハティサヌバリ・・・2行・5ページ上段
       ・・・2行・5ページ中段
(hati sanubari)

セックス・・・2行・5ページ中段
    ・・・4行・5ページ下段

イスラムの教え・・・1行・5ページ下段

バイツールムカダス・・・4行・5ページ下段
(Baitulmukadas)

バイツールムハラム・・・4行・6ページ上段
(Baitulmuharamu)

バイツールマクムール・・・2行・6ページ上段
(Baitulmakmur)

真の生命・・・3行・6ページ中段

タワカル
(tawakal)
イクラス・・・3行・7ページ中段
(iklas)

強さ・・・4行・8ページ中段

ロホレワニ
(roh rewani)
ロホナバティ
(roh nabati)
ロホへワニ
(roh hewani)
ジャスマニ・・・9行・9ページ上段
(jasmaniah)
罪・・・4行・9ページ下段

4つの障壁・・・2行・10ページ中段

霊的感覚の体
セックス
理解の体
意識の体・・・3行・10ページ下段

完全な人間的魂
インサニ・・・3行・10ページ下段
(roh insani)

教育・・・5行・11ページ中段

器官・・・16行・11ページ下段~12ページ

永遠の命・・・5行・12ページ中段

天国・・・3行・12ページ下段

地獄・・・2行・12ページ下段

先生・・・10行・13ページ中段

偽善・・・4行・13ページ下段

シャリアット・・・3行・13ページ下段

ハケカット・・・4行・13ページ下段~14ページ

シャリアット・・・3行・14ページ下段

障害・・・6行・15ページ中段

ムシリク・・・3行・15ページ下段

オルガン
ピアノ
ジャンディン・・・11行・16ページ上段
(gending)

道を示す
ぶつかり合う・・・4行・16ページ中段

目的・・・4行・17ページ中段




2012・12・25