ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

不可思議を思議すること

2015-09-16 | 日記
「思考力には限界がある。」

どういったか忘れたが、これはバパの主張である。

生物学的には人の臨終で思考力は停止する。

これも一つの限界です。

それならば、生きている内は何を考えてもいいのか?

「いいやそれは違う」というのがバパの主張である。(注1


考えられないもの、考える事ができないもの、思考力が及ばないものを古来、不可思議と呼んだ。

それでも人は思考力の限りをつくしてそれをつかもうとする。

数学者しかり、物理学者しかり、そうして神秘を探求する者達。


物理学者はまだいい。

観測という検証手段がある。

おのずからそれが限界を教えてくれる。


だが数学者はそれがないので、時として限界を超えてしまう。

そうなると「思考という行為」によって自分の心を破壊してしまう。

思考が頭脳という生物学的システムを壊してしまうのです。<--リンク


だから神秘を探求する者達も思考力の限度を知らなくてはいけない。

思議できないものを不可思議という。

おろそかにしてはいけないコトバである。


ーーーある夏の夜、送り火のような花火を見ながらつらつらと想いし事。

注1)susila budhi dharma
第1章 シノム 16節 参照

PS
人は一体何を求めてラティハンの道に足を踏み入れるのか?

この道は公式には「宗教ではない」と言いながら、現状では公然と「神の力」を前提としている、いわば「アブラハムの宗教」に非常に似た形を取っている。

そうであれば、一神教徒の諸氏方はあまり抵抗なくラティハンを受け入れる事が出来るものと推定されるし、事実もそれを裏づけている。

しかしながら実はラティハンというのは「顕教」というよりは「密教」に近いもの。

バパが使うコトバでいうならば「顕教」はシャリアットで「密教」はタリカットということになる。

教義を信じて心で神を礼拝するのが「顕教」であるとすれば、「密教」はそれでは満足せずにもっと神に近付こうとする行為ととらえる事ができる。

その行為を「礼拝」と呼んでもいいのではあるが、いずれにせよ通常の表層意識で認識している「心」のレベルを超えて、それより深く下りた所にある意識状態を体験するものになる。

そうしてそのような行為は通常は「修行」というコトバで呼ばれるものである。

それではラティハンは修行なのか、と問われれば「ラティハンはハキカットのラティハンである」というのがバパの答えになる。

つまりはシャリアット、タリカット、を超えた所にあるハキカットのレベルだと言われる。

これを元の言葉にもどすならば、『「顕教」をこえ、そうして「密教」を超えた所にあるのがラティハンである』ということになる。(注2

それゆえにバパは「ラティハンは宗教ではない」と言われるのであろうと推察する次第です。


さて、そう言われるのと同時に又バパは「ラティハンは(宗教の)テクニック(技術)である」とも言われています。(注3

そういう訳で我々はこの二つの宣言を同時に飲み込む必要がありそうです。

注2
このような説明ではあたかも「ラティハンが宗教より優れたものである」という様に主張している様であります。

それではまずいので、現在の協会の公式な見解は「宗教とラティハンは相補的な関係にある」となっています。

つまりは「競争するようなもの」ではなく、「優劣をつけるようなもの」ではなく、「お互いがお互いを支え合う関係」とでもなりましょうか。

このような言い方の基本には「ラティハンは宗教に対して挑戦するようなものではなく、共存するものである」というバパの態度があります。


しかしながら、宗教の側からすれば「我々は自分の宗教で十分であり、それで完ぺきである。」という声が聞こえてきます。

そのように主張される方はもちろんラティハンの道には入りません。

現状に対して何らかの不足感があって、そうしてラティハンがその不足感を満たしてくれる可能性を感じる方のみがオープンを受けるのでありましょう。

これが先に冒頭にあげた質問への答えになるかと思います。


さて、ラティハンを実習されている方々にもいろいろな立場があります。

ラティハンとご自分の宗教を共存させておられる方。

そうして、特定の宗教を持たない方であります。

そうでありますから「宗教をもつ、持たない」はあくまで個人の選択の問題であって、「ラティハンがそれについて特にコメントする」と言う事はないのであります。

注3:ラティハンは(宗教の)技術である。

さて、一般的に技術というものは教えと違って紙に書いただけでは人に伝える事ができません。

それは先達に学んでその下で練習するという、ある程度の習熟期間を要するものであります。

そうしてそのような意味あいでやはりラティハンも「オープンすればそれでOK」というものではありません。

独り立ちするにはやはりある程度の習熟期間を要するものなのであります。

PS
ラティハンというのはインドネシアが発祥の地であります。

そうであれば、彼の地では常識とされる考え方が協会の中に入り込むのは、まあ致し方ない事でありましょう。

しかしながら、我々インドネシア以外の国の住民は「それはインドネシアでしか通用しない、ローカルな考え方である」という事をしっかりと認識しておく必要があります。

さて、通常我々は「神を信仰している」という人については「その人は宗教を持っている」と見なします。

そうしてそのような判断はたいていの国では妥当なものでありましょう。

しかしながらインドネシアでは状況が異なっています。

なにせ全ての国民は「唯一の神を信仰する事」が憲法の序文で求められているのですから。<--リンク

そうして「宗教」の定義も国によって定められています。

イスラム、プロテスタント、カトリック、仏教、ヒンドゥー教、儒教に属する宗派のみが「宗教」とされます。<--リンク

それ以外の「唯一の神を信仰する者達、グループ」はクバティナン(信仰団体)と呼ばれて別の扱いをされています。

ちなみにインドネシア以外の国々では、これらのクバティナン(信仰団体)に相当するグループは「宗教」あるいは「新宗教」として認識されています。


さて、以上の様に宗教と信仰をとらえるのがインドネシアの常識であります。

そうでありますので、インドネシアにおいては「唯一の神を信仰します。」という宣誓は「私はインドネシアの国民です」と言っているのと同じで、誰にとっても何の抵抗もないものなのであります。

さて、所変われば、常識も変わります。

インドネシア以外の国では「唯一の神を信仰します」というのは「信仰告白」とみなされ、その方は「アブラハムの宗教」を自分の宗教として信仰している事を示すものになるのであります。

さてこれほどの認識のギャップが発生しているにも関わらず、世界中のどこの国でも「唯一の神を信仰します」と言わせようとする協会のスタンスは本当におかしな、グローバルでない、ローカルスタンスそのものなのであります。

(注:インドネシアにおいては「唯一の神」は「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれ、それはアブラハムの宗教の神を含みますがそれに限定されません。
それゆえにインドネシアではパンチャシラ Pancasilaの下、「全ての宗教は唯一神への信仰をしている」とすることが出来るのです。<--リンク)


PS
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