ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

バパの世界観とラティハン1/

2017-07-23 | 日記

バパの説明の背景にはバパの世界観、バパ独自の世界のとらえ方、理解の仕方がある。

そうして、その世界観に基づいた説明をされる。

それゆえ、聴衆がその世界観を受け入れることができれば、バパの説明は一貫性のある、理路整然としたものとして聞き手に理解されることになる。


しかしながら、他方で世界にはありとあらゆる世界観が存在している。

そのうちの或るものはバパの世界観に近いであろうし、あるものは遠く離れている。

そうであるのが実情であり、その為にバパの世界観を受け入れられる人たちにしか現状はラティハンが広まっていない。<--リンク

そうして、その人たちは本当に世界のほんの一部分にしかすぎないのである。


しかるにラティハンというものは、その人がどのような思想、信条、宗教をもっていようとも、その人が本当に希望するならば、受ける事を意図するならば、受け取ることが可能なものである。

そうして、このことはすでに何度も何度も確認されている事実でもある。

さてそうすると本質的にラティハンの方がバパの世界観よりも広い、、、ということになりそうである。


バパの世界観は世界のごく一部の人たちにのみ受け入れられている、、、というのが現状であり、世界のすべての人々に受け入れられる、ということは今までも起きていないし、今後も起こりそうもないことである。

まあこれは、ある一つの特定の世界観が人類すべてに受け入れられる、、、などということは今までもなかったことからも想像できることではある。

全ての人類に受け入れられるだだ一つの世界観などというものは、しょせん夢物語、あり得ないものであるからである。


さてそれゆえにバパの世界観を大事にしたいという思いと、しかしながらその事が引き起こす結果というものを我々は理解しておく必要がある。

そうでないとバパの世界観に固執するあまり、ラティハンの持つ包容力を結果的に限定するような事、阻害するような事が起こりうるからである。

そうしてそのような状況は本末転倒であり、バパの意向にかなうものでない事は明らかなことなのであります。


PS
ラティハンの目的はバパの世界観を我々会員が自分のものとして内在化する、、、という事ではありませんね。

世界にはバパは一人だけで十分であります。

そうして、我々もそれぞれが一人だけで十分なのであります。

バパはバパのユニークさがあり、そうして同じように我々も一人一人がユニークでなければなりません。

バパの真似なぞ到底できるものでもありませんが、いずれにせよ「人まね」というのは本質的にラティハンとは相いれないものでありましょう。

ラティハンというものは我々が他人ではなく自分自身に戻る道であるからです。

そうして世界観のことをいうならば、我々は一人一人がラティハンと自分の人生から作り上げる、それぞれに独自な世界観を持てばそれで十分なのであります。


PS
我々ラティハンの道を歩くものは、バパの説明を聞く必要はあります。

但し、聞いたうえで何を信頼して自分の道としてラティハンを実習していくのかは、個々人が決めなくてはいけません。


人から聞かれたときに「私はバパを信頼してラティハンを受けます。」というのは一つの答えではあります。

「バパ」という替わりに「唯一神」と答える方がいるかもしれません。

しかしながら、「だからあなたもそうしなさい。」というのは言い過ぎでありましょう。

あなたはあなたが信頼できるものを信頼すればいいのであります。


人は自分が信頼できるものを選んで、そうしてラティハンの道を歩く事が出来るのです。

そういう意味において、ラティハンの道というのは従来の道と比較するならば、とても自由度が高い道なのであります。


PS
地球上に多くの宗教が存在するようになりました。

そうしてそれらの多様な宗教を信仰している多様な人類が現に存在しています。

従って、ただ一つの概念、世界観、アイデア、超越しているものの設定でそれらすべての人々が同時に満足するという事はもはやありえません。

これが現状であり、言い方を変えるならば、「これがコトバによる説明の限界」になっています。


他方でラティハンを継続していけるならば、それぞれの人がその多様な世界観に合った形での、それぞれの回答を受け取ることができる様です。

それがどのような形でそれぞれの人に与えられるかは、一概にはいえませんが、そのような体験を得ることができます。

つまりは、それぞれの人にマッチした、オーダーメイドの納得が得られるのであります。

このようにしてラティハンは「コトバによる説明の限界」を超えていきます。


ラティハンの性質がそのようでありますので、「ただ一つの世界観で全ての人が納得できるようにラティハンを説明できる」とか、あるいは「このラティハンの説明の仕方のみが唯一正しい」、というような考え方には賛同することはできません。

たとえそれがバパのトークから導き出されたように見える説明であっても、その説明は尊重され傾聴に値するものではありましょうが、それがラティハンを説明できる唯一のものではないのであります。

PS
「バパのコトバを変えるな」と言う人は結局のところ「バパの世界観を守れ」と言っているのであります。

しかしながらバパは一言も「私の世界観を守れ」とはおっしゃいませんでした。

それどころか「まだ本当には信じないでください。自分で体験するのが先です。」と言われていました。


さて、「バパの世界観を守れ」と言っている方は、その事によって何かの利益を得ているのでしょうか。

たとえば人にバパの世界観を説明する事が上手であり、それによって人々から尊敬を集めることができている、、、とか。

そんな風にも感じてしまいます。


バパは「リアリティーを話しているのだ」といっておられました。

さて、リアリティーというのは我々がそれを信じないと、我々がそれを守り保護しないと消えてなくなる様なものでしょうか?

そうでありますから、我々がバパの話を信じるとか信じないとか言う事はバパにとっては何の意味もなさないものであります。

バパにとって意味があるのは、バパの話を聞く事で多くの人がラティハンを始めて、それを継続してゆくことであります。

そのためにあれほどの努力をされたものと了解しております。

PS
ラティハンというのはインドネシアが発祥の地であります。

そうであれば、彼の地では常識とされる考え方が協会の中に入り込むのは、まあ致し方ない事でありましょう。

しかしながら、我々インドネシア以外の国の住民は「それはインドネシアでしか通用しない、ローカルな考え方である」という事をしっかりと認識しておく必要があります。

さて、通常我々は「神を信仰している」という人については「その人は宗教を持っている」と見なします。

そうしてそのような判断はたいていの国では妥当なものでありましょう。

しかしながらインドネシアでは状況が異なっています。

なにせ全ての国民は「唯一の神を信仰する事」が憲法の序文で求められているのですから。<--リンク

そうして「宗教」の定義も国によって定められています。

スラム、プロテスタント、カトリック、仏教、ヒンドゥー教、儒教に属する宗派のみが「宗教」とされます。<--リンク

それ以外の「唯一の神を信仰する者達、グループ」はクバティナン(信仰団体)と呼ばれて別の扱いをされています。

ちなみにインドネシア以外の国々では、これらのクバティナン(信仰団体)に相当するグループは「宗教」あるいは「新宗教」として認識されています。


さて、以上の様に宗教と信仰をとらえるのがインドネシアの常識であります。

そうでありますので、インドネシアにおいては「唯一の神を信仰します。」という宣誓は「私はインドネシアの国民です」と言っているのと同じで、誰にとっても何の抵抗もないものなのであります。

さて、所変われば、常識も変わります。

インドネシア以外の国では「唯一の神を信仰します」というのは「信仰告白」とみなされ、その方は「アブラハムの宗教」を自分の宗教として信仰している事を示すものになるのであります。

さてこれほどの認識のギャップが発生しているにも関わらず、世界中のどこの国でも「唯一の神を信仰します」と言わせようとする協会のスタンスは本当におかしな、グローバルでない、ローカルスタンスそのものなのであります。

(注:インドネシアにおいては「唯一の神」は「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれ、それはアブラハムの宗教の神を含みますがそれに限定されません。
それゆえにインドネシアではパンチャシラ Pancasilaの下、「全ての宗教は唯一神への信仰をしている」とすることが出来るのです。<--リンク
ちなみにバパのトーク(インドネシア語)では「唯一の神」は「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれております。)

PS
ご参考までに。
ラティハンの普及についてのまとめです。<--リンク

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バパの魂(jiwa)あるいはロホの概念・/5 人間の魂(人間力)-3・・

2017-07-01 | 日記
P117
・・・・・
男と女の性的関係は人生の必要不可欠なものだというコンセプトに基づき、
バパは独身主義の考えに反対します。

「それゆえ、人生の改善や幸せになるために、社会から遠く離れた孤独な場所で故意に自分自身を隔離する人には、ほとんど利点がありません。」(注1

「同様に、意図的に女性を避けている男性や男性を避けている女性にはほとんど利益を得ることはありません。

実際には、両者は同じ位置にありますが、男が結婚を拒否するという事を決定するのは、彼が自分自身との接触を断念することを決めた事に相当します。(注1

そしてこれは女性の場合でも同じ事です。」


バパにすれば、ラティハンは結婚している、していないにかかわらず、男性の(あるいは人間の)性生活を制御し、適切な経路に導くための唯一の手段になります。
P118

「したがって結論は、 これらの事項を知ったり理解したりできるようにするため、思考や想像力を呼び起こさずに自分自身を訓練させる方法(ラティハン)ほど単純なものは他にはありません。」

「その後、彼はすべての従属する下位の魂の統御者と調整者として再確立されます。」

「特に彼とその妻の性的結合において、彼はもはや下位の魂の影響を受けません。

そのために、彼は自分の内部自我を妻の内部自我と融合させ、彼女をより高いレベル、つまり完成した人間のレベルにまで引き上げることができるでしょう。」(注2

「それゆえ、それは人間の内部自我から分離されなければならないのは身体ではなく、身体の内容であることは明らかである。

同じように、人間をより高いレベルに導くことができるのは、特定の場所で見つかるものではなく、実際には彼がどこにいても常に彼を包み込んでいる力です。」

上記の私達の引用の一連のものから、バパはカルマkarmaを信じることは明らかであり、そうして人間の本性に反するものとしてcelebacy(独身主義)の考え方に反対します。

一方で性生活については、バパのやり方、扱い方は正統だが、彼の推論は非伝統的な概念に基づいているようだ。(注3
P119
性的放縦さに関する(伝統的な)正統派(主流派:ieスンニー派etc)の議論は、それを罪とみなしています。

バパはその点について言及していないが、他方で彼は霊的、遺伝的、社会的枠組みの中に基礎を広げている。(注4


バパが使うロホ ジャスマニroh djasmaniという用語に関しては、シャムスディン パサイSjamsuddin Pasaiを除いて、他のスーフィーSufiでこの用語を使っている人は知られていません。

それどころか、スーフィー達Sufisにとっては、ジャスマニJasmaniという言葉は、ルーフ ruhとは正反対の意味を持っています。(注5


これに関連して、シャムスディン パサイSjamsuddin Pasaiのロホ ジャスマニroh djasmaniに対する理解はバパの理解と一致するのですが、 しかしながら彼にとっては「人体の本質」というのは、セックスとは何の関係もない事なのであります。
・・・・・
ここまで、英文はこちらを参照願います。<--リンク


注1:基本的に「人間は結婚することが良いことである」というバパの主張、そうしてこれは多くの宗教が述べていることでもありますが、そのような主張に基づいています。
そうしてまた、「結婚、そうして子作りの行為によって人生の秘密を知ることが出来る可能性」についてのバパの認識にも基づくものでもあります。<--リンク

注2:完成した人間のレベル
ここで言われている「完成した人間のレベル」とはジャスマニJasmaniと呼ばれるレベルの事であり、ロハニrohaniと呼ばれる「通常の人間のレベルを超えた」レベルではないと思われます。

注3:人体の特性としての人間力、それは「夫婦のお互いの内部感覚の中身を混合し、あるいは融合させるような力」でありますが、そのような存在を前提として、「人間未満の生命力が子作りの行為に入り込み、その結果希望するような子供を持つことが難しくなってきている」という、人類の危機的な状況に対するバパの認識があります。<--リンク
しかしながら、そのような認識はバパ独自のものであって、伝統的なものではありません。

注4:霊的、遺伝的、社会的枠組み
霊的・・・夫婦の内部感覚がお互いに影響しあうということ。それゆえに一人の過ちは結局のところ夫婦で分け合うことになる。
遺伝的・・・そうして、そのような過ちの結果は子孫に引き継がれることになる。バパはそれをカルマ Karmaと呼びます。<--リンク
社会的・・・その結果は人類社会が望ましい方向に発展していくことができなくなる、というのがバパの認識であります。

注5:他のスーフィーにとってはジャスマニJasmaniとは「人間の体を示す、物理的なもの」であり、ルーフRuhとは「肉体とは別の霊的なものを表す言葉」として知られている。

PS
注2にも関連しますが「自分の内部にある4つの諸力を認識し、支配できるようになった男性は彼の妻の内部感覚のレベルを彼と同等の所にまで引き上げる事ができる」とバパは言います。
しかしながら、彼の妻が彼に先んじてそのようなレベルに到達しても、彼女はその夫のレベルを彼女と同じレベルまで引き上げる事ができる、という事にはバパは同意していません。
彼女が出来る事は「自分の夫が浄化するのを手助けする、という事にとどまる」というのがバパの主張であります。
これは「基本的に生命力は男性から女性に流れるもの」というバパの基本認識に基づくものであります。
そうしてこれはバパが持っている「一種の男性優位論」の様に見えるものであります。
(補足すれば、この種の男性優位論はインドに起源をもつ宗教の中に認められるものと同じ様に見えます。)

ご参考までに。
性差とは何か?<--リンク

・性分化疾患 手術せず性別変更 「心の性」重視し家裁許可<--リンク

・ドイツ、来年までに「第3の性」認める法改正へ 欧州初<--リンク

『インターセックスの人々は、染色体や性器など性的形質が典型的な男女の区別に完全には適合しないといった特徴がある。

インターセックスの原告は、出生届の性別の選択肢に男女のほかに「インター」か「複数」を加えるよう求めて訴訟を起こしていた。』


バパのトークのまとめ集から関連している部分の引用
Bapak's answers to members' questions
Complete text
First Edition compiled 1971
LOVE, MARRIAGEから
『「 結婚を通して、人間はこの世界を満たすために子孫を持つことができなければならない」というのは全能の神の意志です。
そして、クジワンの分野(霊的な分野)では、協会のメンバーは(夫婦間の)性的合一を通して内部感覚の動きと目覚めが起こることを本当に経験しています。
これは生命力がそこにあるというしるしです。

(引用注:これはバパによれば「ムハンマドによってもたらされたもの」であるのと同時に又、スシラ・ブディ・ダルマの中でも言及されているものです。)

しかし実際、これは男性にのみ適用されます。
このことは女性には適用されません。

男性がチャンネル(通路)なので(このことは適用されますが)、他方で女性は人間の種が成長する舟になります。
このため、現実には受動性、あるいは(子供を宿す)舟になるという性質を持つ女性は、この問題では夫になる男に依存します。

そういうわけで、通常、妻はちょうど次のように言われています。
彼女の夫が良いジワjiwaを持っているなら、彼女も良いジワjiwaを持っているだろうが、夫が低いレベルのジワjiwaを持っていれば、彼女にもちょうどそれに従わなければならない。
これが女性が夫になるであろう男性を選ぶことに注意しなければならない理由です。
あるいはもし彼女が結婚して長い間たつのなら、彼女は夫の興味を目覚めさせて、彼が全能の神の力から連絡を受ける方法を見つけようにさせるべきです。
これは、彼女がジワjiwaの改善のために全能の神の力から指導と指示をいつも受けることができるようにするためには必要なことです。』 (第VII / A-101巻)

PS
「バパの魂(jiwa)あるいはロホ(Roh)の概念」一覧にはこちらから入れます。<--リンク

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