ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

「バパのイスラム」とは何か

2015-08-26 | 日記

バパはトークでよく「イスラムではこう言います」といって説明をしてくれたものでした。

さて、バパが言っている「イスラム」とはいったい「どのイスラムなのか」が問題であります。


バパの母方の祖先はワリ・ソンゴ(Wali songo)と言われるジャワにイスラム教を広めた九聖人の内の一人につながる様です。(81・6・2 ホボケン)<--リンク

(そして母方の祖先は九聖人の内の一人、スナン・カリジョゴ(Sunan Kalijaga)だろうと思われます。(81・7・28 LOS))

ですのでバパのイスラムはジャワイスラムと呼ばれる伝統的イスラムであったことは自然なことであります。

そうして「ジャワのイスラム教徒にこれほどの崇拝を受けるワリ・ソンゴもジャワ人以外は名前さえ知られていない。」と言われるように、ジャワイスラムは非常に地域性の高いイスラムなのでありました。<--リンク

・ワリ ソンゴの聖墓参拝とジャワ世界<--リンク


1、ジャワでの共通の認識基盤としてのシャリアットとタレカットとハケカットとマリファット。

まずはクバティナンでの扱いです。

ジャワ神秘主義の民族誌」より引用<--リンク
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ムリョノはまた, 神を求める精神的旅の階梯について語る。

第一はサレンガットsarengat, すなわち神への義務をはたす外面の行為である。
第二は神に近づく道程タレカットtarekatである。
第三はタレカットをつうじて生起する現実, 究極的な真理であって, ハケカットhakekatとよばれる。
第四はマリファットmarifat, すなわち神の実在についての確信に真にたどりつくことである。

人はサレンガットから出発するが, 口で語り表面で行為するだけではなく,神の命令に真に心から駆り立てられてタレカットをおこなう。

タレカットはハケカットを求めるためのものであり, ハケカットに達した状態がマリファットである。
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次はワヤン(Wayang)での扱い。<--リンク

1923年にKRT ウレクソディニングラト Wreksadiningrat の構成した「スラット・ランパハン・ビモロドロSerat Lampahan Bima Rodra」が出た。

このキタブではビモはイスラーム教を教えるプンデタ(僧侶)となる。
彼はシャリカット Syarikat、タリカット Tarikat、ハケカット Hakekat、マーリファ Ma'rifat を教える。

このキタブによれば、シャリカットとは『身体の行為』であり、タレカットとは『精神の行為』、ハケカットは『トゥハンの存在』を知ることを意味する。

そしてマーリファとは『ふたつがひとつになること(roroning atungal)』である。


そうしてバパの扱いです。(84・6・28 CDK チランダ)

イスラムには、四層をなした枠組みの段階があります。
シャリアットとタレカットとハケカットと、それからマリファットです。  

さて、心の働き方によれば、明らかに、その四つの段階を速やかに上へ上へ、一つから一つへと進歩して行きたいと思うでしょう。
シャリアット、タレカット、ハケカット、マリファッ ト、そして頂上に達します。
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こうしてバパは「これもイスラムのものである」としています。

そうしてバパはこのハケカットを使ってラティハンを説明しています。
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ラティハン・クジワアンは宗教においてハケカット(真実)と言われているもので、それに 対して宗教それ自体はシャリアットとタレカットであると述べられている、とバパが申しますのは、そういう訳だからです。
(82・7・23 CDK)(ハケカットのラティハン 注1


しかしながらこの概念はもともとはスーフィズムの一つの流れでありました。

タレカット(Tarekat)はブリューネッセン(Bruinessen1994:10-14)によれば「インドネシアへのイスラームの到来は、スーフィズムの発展と同時期でありタレカット tarekat(神秘的道標)と呼ばれるものが現れる。
この流派は、イスラームの導入を展開させる役割を担い、東部地域から(?アチェからですから実は北部では?)インドネシアに入った。」とのことであります。<--リンク

そしてこの流派はシャリカット Syarikat、タリカット Tarikat、ハケカット Hakekat、マーリファ Ma'rifat の4つの段階を教えるものでありました。<--リンク


さて、日本語によるスーフィズムの説明はこんな例(スーフィズムの修行法と神秘の光への道)があります。<--リンク

第一階梯・懺悔(タウバ)
第二階梯・律法遵守(ワラア)
第三階梯・隠遁(ハルワ)と独居(ウズラ)
第四階梯・清貧(ファクル)と禁欲(ズフド)
第五階梯・心との戦い(ムジャーハダ)
第六階梯・神への絶対的信頼(タワックル)

これらの第1から第6までの階梯をすべて昇り終えると、ようやく神に接近するための準備が整ったと見なされる。

これらすべての神秘階梯を通過したスーフィーは、神によって霊知(マーリファ: Ma'rifa)と真理(ハキーカ:haqiqah)と呼ばれる一段高いレベルの意識に引き上げられるのである。
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こうして「バパのイスラム」はスーフィズムの影響を色濃く受けたジャワイスラムであることがわかるのでありました。


ちなみに「イスラームでは信仰の深まりを「シャリーア→タリーカ→ハキーカ」という図式で示すことがあります。」とは「タリーカを進む旅人」からの引用です。<--リンク

そして「これに対してハキーカは、最内奥の部分。一部のエリートだけがここに到達できる深層。」という記述があります。

この認識はたぶんイスラム教徒の宗派(シーア派、スーフィズム各派)をこえた共通認識かと思われます。

そうして、「それだけ難しいものを簡単に手に入れられるのは信じられない」というのが「ラティハンに対する普通の反応」でありましょうか。


他方スンニー派は「ハキーカそのものを重視」せず「預言者ムハンマドの時代から積み重ねられた『慣行』(al-Sunna スンナ)を重視する宗派」の様であります。

つまりムスリムの大多数を占めるスンニー派は「ハキーカのラティハンそのものに用事がない」と言っている様であります。


2、イロフィを始めとする9つのロホシステムについて

これまで見てきたようにマルタバト・トゥジュ(Martabat Tujuh)に始まりワヤン(Wayang)で発展しやがてバパに引き継がれました。<--リンク

これもバパは「イスラムである」としています。
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イスラムではロホ・スゥチあるいはロホ・イロフィと呼ばれておりまして、その本来の性質は全能の神から人間に遣わされる使徒の本性と同じであります。
(79・9・30 SNG シンガポール)

神は偉大なり、アラーフアクバルと云う言葉は、宇宙に於て最も大きな力と権威を持っている言葉であって、あらゆるものゝ上にあります。

神の力は全てを包んでいるからです。

それは宇宙に存在する最低のものから最高のものまで、つまり最低の物質的な力から、ロハニ、ラフマニ、 そしてラバニに到るまでの全てを包んでいます。

そしてそれぞれの段階、それぞれの状態は、ロホイロフィ、そしてロホクドスによって結びつけられています。
(83・1・9 CDK チランダ)


こうしてワリ・ソンゴに始まったジャワイスラムは9つのロホシステムを吸収してきたのでありました。

そうしてバパは「イスラムのものである」として9つのロホシステムを使いながらラティハンを説明してきました。

しかしながらこの概念はイスラム教徒の大多数を占めるスンニー派の考え方の中にはありませんし、少数派のシーア派にもありません。

そうして現存しているスーフィズム各派(インドネシアのTAREKAT SYATTARIYAHを除く :注2)のなかにも見当たらない様であります。


もともとロホ(Roh)はルーフ(Ruh)が変化したコトバであり、そうしてルーフはクルアーンに何度も出てくるコトバなのでした。

それで先行しているイスラム教徒(スンニー派、シーア派、スーフィズム各派)はそれぞれルーフについての独自の理解をもっています。

この為ロホに対する後発のジャワイスラムの認識方法は他のイスラム教徒にとっては「後から来たイスラムの独特な解釈」になっています。

結果的に9ロホシステムはただ唯一、ジャワイスラム教徒のみが了解しうるものなのでありました。

追記
その後の追加記事です。ご参考までに。
雑記帳31・「バパのイスラム」とは何か・2<--リンク


3、ナフス システム

バパはラティハンとナフスとの関連を使いながら説明をしました。
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ナフスの支配を受けなくなれば、いついかなる瞬間でもラティハンクジワアンを受けるのです。
ですから、受けようとするならば、ナフスが 静まった瞬間にラティハンクジワアンが現われてくるのです。
(77・7・6 Herk-de-Stad ベルギー)

この4つのナフスはもともとはジャワに古くから伝わる「4人兄弟の教え」から来ています。

そして呼び名こそクルアーンやスーフィズムから借りてきていますが、ジャワでは「常に人間に内在する4種類の欲望、あるいは意思、望み」を示すものであります。<--リンク


さてナフスはクルアーンの中では「魂」として扱われています。<--リンク

ですのでスンニー派もシーア派も「魂」という理解であります。

他方スーフィズムではナフスは「修行に伴って変化する(あるいは深化する)意識の階梯」として扱います。<--リンク

従って複数のナフスが同時に一人の人間のなかに存在することは無いのでありました。

こうして字に書いて発音すれば同じ「4つのナフス」ではありますが、ジャワで使われている、そうしてバパがラティハンの説明で使った「ナフスというコトバで指し示す内容」はジャワイスラム教徒以外のイスラム教徒(スンニー派、シーア派、スーフィズム各派)には理解されないものでありました。


4、まとめ
以上みてきたようにバパのラティハンの説明に用いた以下の3つの概念はジャワイスラム教徒にはなじみの深いものでありました。

1、ジャワでの共通の認識基盤としてのシャリアットとタレカットとハケカットとマリファット。

2、イロフィを始めとする9つのロホシステムについて

3、ナフス システム

しかしながらいずれの場合でもジャワイスラム教徒以外のイスラム教徒(スンニー派、シーア派、スーフィズム各派)には理解されないものでありました。

そうなるとその結果はどうなるのでしょうか?

「インドネシア以外のイスラム教徒にはラティハンは極めて広まりにくい」ということになりそうです。

そうして実際「宗教別ラティハン人口の推定結果」もその見方を支持している様であります。<--リンク

こうして現実は残念ながらバパが掲げた宣言文、「ラティハンは全人類のもの」からはかなり遠いものになっているのでありました。


PS
ご参考までに

カイロからのニュース」<--リンク


PS
ご参考までに

試訳:イスラムにおける精神生活<--リンク
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このように宗教とは、外面的な部分と同時に、外面的な部分を基礎とする内面的なもうひとつの部分から成っている。

イスラムという啓示宗教は、これらの側面をシャリーア(Shariah:聖なる法)、タリーカ(Tariqah:道)、ハキーカ(Haqiqah:真理)と呼び、また別の視点からはそれぞれをイスラーム(islam:服従)、イーマーン(iman:信仰)、そしてイフサーン(ihsan:美徳)と定義してきた。

(引用注:どうやら用語マーリファ Ma'rifa:霊知 を使うのはスーフィズムのみでイスラム一般ではないと思われます。)

コーランによる啓示は全て「イスラム」と呼ばれる。

だが前述した視点に立てば理解できる通り、伝統的に「イスラム」と呼ばれる段階を踏襲しているとしても、その人物が真の信者たる「ムウミン:mu’min」、すなわち「イーマーン(iman:信仰)」を保持する者であるとは断言できない。

また同様に、全てのムウミンが「イフサーン(ihsan:美徳)」すなわち宗教の持つ内面的な意味に到達し、これを深く理解するのに必要不可欠とされる倫理を保持しているとも断言できないのである。


イスラムという啓示宗教は、内面的な生を生きることを運命づけられた人にとって深い意義を持つ。

だが全ての人が、内面的な生を生きる道をたどるとも限らない。

至福と共に楽園に迎え入れられるためには、イスラムの実践、すなわちシャリーアに従い神の命ずるところに服従しつつ生きればそれで十分なのだ。


だが、そうではない者たちもいる。

彼らは神に憧れ、神を愛し、神の真理(al-Haqaiq)が、「今」、「ここ」で彼らに対して明かされることを切望する。

イスラムの啓示は、こうした人々にも歩むべき道を指し示している。

神への熱烈な思慕が、イスラムの実践のみならず、イーマーン、イフサーンを通して神の美を感得する道、地上にいながらにして神へと至る喜びの道を切り開くのである。
・・・・・・・・


PS
ご参考までに

「イスラーム文化」(井筒俊彦/岩波文庫)書評より<--リンク
・・・・・・・・
キリスト教との教義の相違はどこにあるのか。

イスラームはキリスト教の三位一体説を否定する。
・・・・・・
キリスト教の三位一体説とは、父なる唯一神、子たるイエス・キリスト、聖霊、この三者で表わされる信仰形態。

キリストを神の子とみなす、この神と人間との親愛的関係こそ、イスラームの認めなかったものである。

神と人間は、親と子のような関係ではないというのがイスラームの主張である。

では、イスラームは神と人間の関係をどのように見るか。

主人と奴隷である。

人間は神の奴隷である。

ここで本文から引用する。

イスラームの信仰とはどのようなものか。

「それ(イスラーム)が人間の神に対する無条件的自己委託、自分をすっかり相手に任せきること、

奴隷のように、奴隷が主人に対するように、何をどうされても、ただひたすら向うの思いのままという絶対他力信仰的な態度を意味するということ、

そしてそれがイスラームという宗教の実存体験的中核をなすということであります。

人間が自分で主体的に努力して己れの救済に至ろうとする、いわゆる自力的態度は、ここではまったく成立する余地がありません」(P62)


そのためイスラームの信者、ムスリムは、絶対帰依者を意味する。ムスリムとは――。

「自分自身の意思や意欲をあますところなく放棄して、すべてを神の心に任せきり、神にどう扱われようとも、敢て己れの好悪は問わぬ,

絶対無条件的な神への依属、依存の態度をいつでもどこでも堅持して放さない人のことです」(P65)
・・・・・・・・

PS
ジャワイスラムは従来のイスラム(スンニー派、シーア派、スーフィズム各派)からすれば後発の分家筋。

インドネシアで独自の発展をしてきましたが、使っているコトバはもともと本家筋のイスラムで使われていたものです。

でもコトバの指し示す意味が違っていました。(ナフス、ルーフーー>ロホ、共に)

その為バパの説明のやり方ではイスラム本家筋の人たちには抵抗感が生じてしまいます。

でも上記の3つの概念(タレカット、ロホ、ナフス)は同じ一神教ではありますが、キリスト教やユダヤ教にはありません。

つまりその方々はバパの説明を聞いた時に、そこには自分たちにとって「新しいコトバ(タレカット、ロホ、ナフスetc)」は登場しますが、「同じコトバだが違う解釈だ」という思いによる抵抗感は発生しません。

その為「イスラム本家筋の人たちよりキリスト教徒やユダヤ教徒の人たちの方がバパの説明を受け入れやすかった」と言えそうであります。

そうして実際に数字の上でもそのことは現れています。<--リンク

こうしてラティハンは結果的にジャワイスラム教徒とキリスト教徒、ユダヤ教徒には比較的によく広まる事になるのでありました。


さて、ラティハンにコトバは必要ではありませんが、ラティハンの説明にはコトバが必要なのです。

そうしてそのコトバによって説得される必要があるのは、あるいは納得する必要があるのはハート、マインドなのでした。

あるいは、ラティハンはハート、マインドより根源的な所に起源を持っているのですが、「ラティハンへの参加を決定するのはハート、マインドの仕事」なのであります。

つまり人はそのハート、マインドが納得して初めてラティハンに参加できるのでありました。

でもひとたびラティハンが始まればハート、マインドは静かに横でラティハンを見守っているだけの存在になるのでした。(ラティハン中にハート、マインドがするべき仕事は何もありません。そうして、これがラティハンの秘密であります。)

そういう訳でこれが「コトバを超えたものを、あるいはハート、マインドを超えたものを、コトバで説明する以外に方法がない事の難しさ」であります。


さて、「ラティハンを続けていけば後日あなたの日が来る」とはバパの説明です。

「そうなれば誰に教わらなくてもあなたのラティハンの意味が分かる」と。

「それまでが忍耐だよ」と言われてそれで到達出来る人は、まあ天才の部類に入ります。

普通はとてもそこまでの忍耐心は持てません。

それでバパのトークで説明されているもろもろの内容に頼る事になるのですね。

でも、バパのトークはどこまで行っても借り物の理解しか生みません。

そうして、「自分の本当の理解」というのは「自分のラティハンが運んできてくれるもの」なのであります。

つまりは「どこかで一人立ちしなくてはいけない」、、、と。

まあ、それを承知でバパのトークに頼るならいいのでありますが、ついつい、いつまでも頼ってしまうというのでは、、、。

それではきっとバパも苦笑いでありましょうか。


PS
注1:ハケカットのラティハン

文字通り「ハケカットとして知られているレベルにまで到達できるラティハン(訓練)」の意味でありましょう。

そうでなければ「看板に偽りあり」であります。

しかしながら「ハキーカは、最内奥の部分。一部のエリートだけがここに到達できる深層。」と言われるものであります。

そういう訳で「ラティハンがいかに優れもの」であったとしても、やっぱりそうは簡単にはいかないのが実情でありました。<--リンク


PS
注2:TAREKAT SYATTARIYAH<--リンク
ご参考までに
・・・・・・
一方、Syattariyahを通じて7の尊厳の教え(マルタバト・トゥジュ:Martabat Tujuh )に基づいてスーフィズムと様々な象徴的な分類の形而上学的アイデアは欧米で人気の信念の一部となったです。<--リンク
・・・・・・
スーフィーの教えとDhikr Syattariyah

スーフィー神秘的な開発は必ずしも必要ではないが、過渡期を経て、私たちの心の中で神の意識を高めるのビューを開発することを目的としています。

スーフィーTarekat Syattariyahは信じている動きの神の生き物の息への道。

しかし、順序に従って主要道路のほとんどはAkhyar、Abrar、およびSyattarで撮影された道路でした。

程度Syattarへ前salikは、最初Akhyar(当選者)とAbrar(最高)で完成度のレベルに到達し、秘密は追憶マスターする必要があります。

そのため、この順序、すなわち

1、悔い改め、( taubat)
2、禁欲主義、( zuhud)
3、辞任の、(tawakkal,)
4、qana'ah、
5、孤独、( uzlah,)
6、muraqabah、
7、患者、(sabar,)
8、ridla、
9、回想、( dzikir,)
10、musyahadah

以上、目標を達成するために従わなければならない10の階梯(マカームMaqaam:ステーション)があります。<--リンク


他の集会(Tarekat)と同じように、Tarekat Syattariyahはその教えにdhikrの側面を強調しています。

3つのグループがそれぞれのdhikrの方法を持って、上に言及し、神に神の直感、感謝と近さを達成するために瞑想します。

Akhyar人々が巡礼し、ジハードを実行し、コーランを読み、祈りと断食を導くことによってそれを行います。

Abrarの人々は悪を避ける、持久力トレーニングを受けている、練習や禁欲生活厳しい禁欲主義と自分自身をビジーし、常に心を浄化するように努めています。

Syattarは聖人の精神を直接指導することにより取得されます。

その数字によると、Syattarのdhikrは神に到達する最速の方法です。
・・・・・・・・

ちなみに上記の記述例にならえば「ラティハンは3Maqaam」ということになりそうです。

1、Sabar(サバール)  感情から自由になること。あるいは忍耐。

2、Tawakkal(トワカール)  どんな出来事や状態に直面しても、又それがどんなに驚くべきことであっても、とりあわないこと。あるいは信頼。あるいは受容。

3、Ikhlas(イクラス)  私達から離れ去るものについて未練をもったり、残念に思わないこと。あるいは誠実。あるいは服従。あるいは全托。
(78・11・4CDK)

そういう意味ではラティハンは「スーフィーウエイよりは比較的に簡単である」とは言えそうなのでありました。

ちなみにバパは確かにジャワイスラム教徒ではありましたが、そうしてジャワイスラムの用語も使いながらラティハンを説明してくれましたが、「ラティハンは宗教ではない」ので「全ての人類」・・・(どのような宗教をお持ちであろうが、あるいは宗教を持たない人であろうがそのような事には関係なく)、「ラティハンは全ての人類のものなのである」という宣言が可能となるのでありました。


バパが今まで受けたものは、最早や人類の1グループや一部分に限定されないものです。

それは人類全体のためのものです。

即ち全人類のため、つまりあらゆる国民、あらゆる宗教、あらゆる人種のためのものです。

その証拠は、皆さんが皆さん自身の宗教、つまりキリスト教、イスラム、仏教あるいは何であれその宗教を持ったまゝで、すっかり我々の会の中に入っているという事の中にあります。


それで皆さん、一般に人類は国家や宗教によって分類されますが、我々の会ではそういうことがないのは明らかです。

そして皆がラティハンを受けることができる、経歴や出身が何であれ、という事です。

同じくラティハンにおいても、私たちは私たちの宗教的な経歴、所属にかゝわる何ものによっても制限されません。

ラティハンの中で私たちは「アッラー」とか「ゴッド」とか「マハ(大)ヨーガ」とか 「マハ・デワ(神)」とか、ほかの何であれ、そういう風に言うこともあり得ます。
・・・・・・・・
ですからその名前のいずれも等しく有効、等しく効果的なのです。

人々はその様々な宗教を持ってラティハンに参加することができるのです。
(83・8・11LON)


このような訳で、我々の会には強制力のようなものも、厳格なルールもありません ─ すべては各個人の意志に任されています。

他の宗教で、例えばイスラムで、過去において常に起ったことは 人々にイスラム教徒になるよう強制すること、イスラム教徒になるのを望まない人々を殺しさえすることです。

そしてキリスト教徒も同じことをし、仏教徒も同様です。

しかし、我々の会においてはそのようなことは何もありません ─ それは個人の意志に任されているのです。
(77・11・6 エクアドル)

(上記記述において一部分、歴史家の認識とは相いれないものがあるやもしれませんが、「バパの認識はこうであった」ということでありまして、「必ずしも歴史的な事実を表現するものではない」点、お許しを願う所であります。)

追記
・強硬派仏教徒集団の台頭、覆される「平和的哲学」のイメージ<--リンク

時代は動き、ブッダが想定しないような仏教集団が現われてきています。
そうして、これは本当に残念な事であります。(2018.3)

PS
以上のようにバパのイスラムは「ジャワイスラム」、「ワリ達が伝えたイスラム」なのでありました。

そうしてとりわけバパにとってはそれはバパの祖先にあたる「スナン・カリジョゴ(Sunan Kalijaga)のイスラム」なのでした。

そういう訳でバパが「イスラムではこう言います」と言った時の「イスラム」とは「ジャワイスラム」であって、世界に広く知られている「イスラム」とは違いがあります。

さて、このことはバパのトークを読むときに注意しなくてはいけない事でもあります。

バパが「イスラムでは、、、」と言った時にはとりあえずは「ジャワイスラムでは、、、」と理解しておくのが妥当であります。

そうしてスンニー派、シーア派、スーフィズムの言っている事を確認しなくてはいけません。

そうやってようやく「ジャワイスラム」から「ジャワという接頭語」を取る事が出来るのでありました。

PS
以下、ご参考までに。
・雑記帳31・「バパのイスラム」とは何か・2<--リンク
・雑記帳41・「バパのイスラム」とは何か・3<--リンク
・雑記帳44・「バパのイスラム」とは何か・4<--リンク

PS
文字サイズはページ右上で変更できます。

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク




インドネシアの宗教教育とラティハンと

2015-08-12 | 日記

という訳で2代目のラティハン観が現れているトークから始めましょう。
ーーーーーーーー

バパはラティハンがバパだけのものではなく、人類のものであると言われました。

もちろん、(この場合)人類とは、ラティハンをすることによって神を礼拝したいと願う人々を意味します。

(12・5・12 BDO)

2代目のこの言い方ですと「ラティハンはラティハンを実習している人達のもの」と言っているのと同じ事になります。

それではまるでトートロジーで、明らかに「人類の定義」が狭すぎます。(トートロジー:同義語反復の意味)

あるいは単なる「現状追認」になってしまいそうです。


他方、バパのいう「人類」とは「地球上で暮らす全ての人々」と理解されます。

そうであればこそ、そこから「全人類の為のラティハン」と言われるものを(表面上は全人類の為というコトバに反して)「独占的に管理、運営している協会の正当性」が出てくるのであります。

どういう事かと言いますとバパはすでに「ラティハンはあなた方すべてのものだ。」と宣言しているのです。

「でもあなた方はラティハンの重要性が理解できていない。」

「しかし納得の上で希望するならばいつでもラティハンをお渡しする。」ということであります。

そして協会は「あなた方が希望するまでの間、バパから受け取ったラティハンを大切に維持管理しておきます。」ということでありますね。

これが「協会の正当性を(ラティハンを独占しているにもかかわらず)担保しているもの」であります。

そして、そうであればこそ、そこから「協会の方向性が必然的に出てくる」ということになるのでありました。


さて話が飛んでしまいましたが、もちろん2代目はいつもこのように狭い意味で「人類」というコトバをつかっている訳ではありません。

たとえば

人種、宗教を問わず、誰もがラティハンを受ける事が出来るという事実がそれを示しています。

(02・3・22 BDO)

あるいは

バパが受けた天啓ゆえに、どんな人間、つまり、この霊的道を受けたいと願う人は誰でもラティハンを受ける事ができます。

(12・2・24 JOG)


そうではありますが、2代目はジャワでは典型的である宗教的な家庭で育ったのでありました。

それゆえにどうしても「自分の宗教的立場から見たラティハンの説明」という感じになります。

そういう訳で2代目はこうも言うのです。
ーーーーーーーー
ですから、我々の協会は宗教を信じる人々から成っているゆえに、私たちは確かに神をしっているのであり、、、、

(12・12・8 TKL)

あるいは

宗教はラティハンに参加したい人達に基本的な理解を与えてくれるのです。

私たちは神を信じなくてはならないからです。

(引用注:ただし、ここで2代目が言っている「宗教」とは「アブラハムの宗教」のことです。)

(12・12・8 TKL)


まあこういう説明はインドネシアでの話としてはほぼ間違いのない言い方になるのでしょうか。

しかしながら、世界に向けてのメッセージとしては少々宗教色が強すぎますね。

「ラティハンは宗教ではない」と宣言しているのであれば、なおさらの事であります。


さてここで感じられる「宗教色が強すぎる」という違和感は我々の常識、あるいは生活習慣とジャワでのそれらが異なっている事に起因していると思われます。

たとえば

(「ラティハンは宗教ではない」と言いながら)なぜバパは頻繁に預言者たちの話をしたのでしょう?という質問に対しての2代目の回答は)

それに対する私の答えは、我々の協会は宗教ではありませんが、私たちが生まれてから、つまり、私たちが子どもの時から、私たちの親が、ある力、すなわち神を信じる様にと(言って)私たちを育てたからです。

このようにして私たちは「神」というコトバを知っています。

他の人々はおそらく「神」というコトバを使わず、別のコトバを用いているでしょうが。

子どもたちは、神の名前を知りながら、預言者たちについて知りながら、そして、宗教について知りながら育てられます。

バパでさえ宗教的でした。

私がここで申し上げているのは、我々の協会は宗教ではないけれども、会員は宗教的な人々であるということです。

(14・7・21 CDK)


このようにして子どもたちを宗教的に育てるのはジャワではきっと一般的だったのでしょう。

なにしろ生まれた赤ちゃんが最初に聞かされるコトバが父親が耳元で話す「信仰告白を含む祈りのコトバ」であるというお国柄でありますから。(注1

そして6歳になると両親は聖クルアーンの短いsurahの詩を暗唱できるように子供たちに教え始めます。

7歳になると子供でもコーランを読めるようにと、アラビア語のアルファベットを教え始めます。

こうして子どもたちは、それはもう徹底的に宗教的に育てられるのでありました。

2代目の上記トークはまさにそのようなインドネシアの状況について語ったものであります。

そういう訳で、それほど宗教的でない、あるいはほとんど宗教を意識していない我々日本人とバパの国の人たちの「神についての認識、あるいは宗教についての認識」を比較するならば、それはもう「非常に大きな違い」になるのは当然のことなのであります。

そうして結局のところ我々はインドネシア人にはなれないし、そうして又なる必要もないのでありました。


PS 注1
ほとんどの場合、ジャワの間で信仰の告白は、生まれた子供にすぐに伝えられます。

これはチレボンだけの習慣ではなく、Javaの他の場所でも同様に、母親が出産したとき、父は部屋の前のドアの所で待機します。

新しい赤ちゃんが生まれた後すぐに、それを洗浄する前であっても、助産師(dukunのbayi ) は 、家族の中で、その存在のようにditampa(暖かさと歓迎して受け入れられている意味)であることを象徴する、タンパと呼ばれる丸い竹のトレイに赤ちゃんを置きます。

そして新しい赤ちゃんの存在は本当に潜在的な信者の数を追加することを意味します。

すぐに助産師は、それぞれ、赤ちゃんの左右の耳元でadzanとiqamat(信仰の告白を含む祈り)を発声し聞かせる為に父親を部屋にを呼び入れます。

父親が何らかの理由でできないときは、そう他の誰か、たとえば助産師がそれを代行し、父親と母親の両方が立会人となります。

こうして、子供がこの世界で聞いた最初の声は信仰の告白ということになるのでした。
・・・・・・・

子供が約6歳のとき、家庭ではクルアーン学習過程が始まり、これはngajiと呼ばれます。

この歳で両親が聖クルアーンの短いsurahの詩を少しずつ子供たちに教え始めます。

短いsurahの詩は、毎日の祈りで発声します。

これは通常日没の祈りの後、夕方に行われます。
・・・・・・・

だいたい7歳で子供もコーランを読むために、ステップバイステップで、アラビア語のアルファベットを教えられます。

読書のレッスンは通常、最初のjuz(部門)の聖クルアーンの最初のSurah(アルFatihah)から始まり、最後(30日)juzにジャンプします。
・・・・・・・

などなどインドネシアではこの後も多くの公式な、あるいは非公式な宗教教育が続くのでありました。

以上詳細はこちらを参照願います。<--リンク

PS
宗教別人口比率の比較

インドネシア            日本

イスラム教・・・87%         -%

キリスト教・・・10%       2.3%

ヒンドゥー教・・・2%         -%

仏教・・・1%           34.9%

無宗教・・・0%          51.8%

その他・・・0%           3.9%

無回答・・・0%           7.0%

合計で100%           100%

詳細はこちらこちらを参照願います。<--リンク

ちなみに日本では伝統的に一つの家の中に神棚と仏壇が共存しています。

ですので、日本の上記回答中の仏教は実は仏教+神道という解釈が妥当かと思われます。

それからインドネシアでは人口の97%に対応し通用していたラティハンの説明方法が日本では人口の2.3%にしか通用していなかった、、、という可能性があることが分かります。

PS
蛇足ながら、バパの子ども時代もまた十分な宗教教育の場であったことは想像に難くない事であります。

そして「星々の彼方の旅」の記述もそれを裏付けるものであります。

さてそのように宗教的なバパや2代目がつくりだすインドネシアスタイルのやり方を続けて60年程にもなりますが、どうやら日本にはなじまなかったように思われます。

気候、風土、文化、宗教、伝統、歴史がインドネシアと日本ではやっぱり違いますから。

そうして、ラティハンを説明する唯一の方法がインドネシアスタイルという訳でもなさそうです。

ラティハンはひとつの民族や国家、一つの宗教や一つの宗教グループに収まるものではありませんね。

というのもラティハンというものはバパが言う様に「地球規模の事象」でありますから。

それ故に当然の事ながら「ラティハンのもつ広さは全ての文化に対応できる」のであります。

まあそういう訳で、このあたりで日本スタイルのやり方を試してみるのもいいのではないかと思っている今日この頃でありました。

PS
・・・その助言は、私たち全てが経験しているように、人間生活の一部になっています。

私たちは、生まれる時、結婚する時、死ぬ時に(さまざまな宗教的慣習に従う)ように、赤ん坊の時から宗教によって影響を受けているのです。

明らかに、宗教は私たちの生活に深く浸透しています。
それは何世代にもわたって受け継がれ、私たちの生活に深くしみ込んでいます。

ですから、今まで宗教を実践していたのに、それを止めることは間違っているのです。
(12・5・12 BOD)

さて、この二代目のトークも明らかにインドネシア国内の状況についての言及であります。

特に、「赤ん坊の時から宗教によって影響を受けているのです。」というくだりは上記に示した参考文献での記述のことを言っているのでありましょう。
少なくとも「日本の状況でないこと」は明らかであります。


PS
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