ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

インドネシアの宗教教育とラティハンと

2015-08-12 | 日記

という訳で2代目のラティハン観が現れているトークから始めましょう。
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バパはラティハンがバパだけのものではなく、人類のものであると言われました。

もちろん、(この場合)人類とは、ラティハンをすることによって神を礼拝したいと願う人々を意味します。

(12・5・12 BDO)

2代目のこの言い方ですと「ラティハンはラティハンを実習している人達のもの」と言っているのと同じ事になります。

それではまるでトートロジーで、明らかに「人類の定義」が狭すぎます。(トートロジー:同義語反復の意味)

あるいは単なる「現状追認」になってしまいそうです。


他方、バパのいう「人類」とは「地球上で暮らす全ての人々」と理解されます。

そうであればこそ、そこから「全人類の為のラティハン」と言われるものを(表面上は全人類の為というコトバに反して)「独占的に管理、運営している協会の正当性」が出てくるのであります。

どういう事かと言いますとバパはすでに「ラティハンはあなた方すべてのものだ。」と宣言しているのです。

「でもあなた方はラティハンの重要性が理解できていない。」

「しかし納得の上で希望するならばいつでもラティハンをお渡しする。」ということであります。

そして協会は「あなた方が希望するまでの間、バパから受け取ったラティハンを大切に維持管理しておきます。」ということでありますね。

これが「協会の正当性を(ラティハンを独占しているにもかかわらず)担保しているもの」であります。

そして、そうであればこそ、そこから「協会の方向性が必然的に出てくる」ということになるのでありました。


さて話が飛んでしまいましたが、もちろん2代目はいつもこのように狭い意味で「人類」というコトバをつかっている訳ではありません。

たとえば

人種、宗教を問わず、誰もがラティハンを受ける事が出来るという事実がそれを示しています。

(02・3・22 BDO)

あるいは

バパが受けた天啓ゆえに、どんな人間、つまり、この霊的道を受けたいと願う人は誰でもラティハンを受ける事ができます。

(12・2・24 JOG)


そうではありますが、2代目はジャワでは典型的である宗教的な家庭で育ったのでありました。

それゆえにどうしても「自分の宗教的立場から見たラティハンの説明」という感じになります。

そういう訳で2代目はこうも言うのです。
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ですから、我々の協会は宗教を信じる人々から成っているゆえに、私たちは確かに神をしっているのであり、、、、

(12・12・8 TKL)

あるいは

宗教はラティハンに参加したい人達に基本的な理解を与えてくれるのです。

私たちは神を信じなくてはならないからです。

(引用注:ただし、ここで2代目が言っている「宗教」とは「アブラハムの宗教」のことです。)

(12・12・8 TKL)


まあこういう説明はインドネシアでの話としてはほぼ間違いのない言い方になるのでしょうか。

しかしながら、世界に向けてのメッセージとしては少々宗教色が強すぎますね。

「ラティハンは宗教ではない」と宣言しているのであれば、なおさらの事であります。


さてここで感じられる「宗教色が強すぎる」という違和感は我々の常識、あるいは生活習慣とジャワでのそれらが異なっている事に起因していると思われます。

たとえば

(「ラティハンは宗教ではない」と言いながら)なぜバパは頻繁に預言者たちの話をしたのでしょう?という質問に対しての2代目の回答は)

それに対する私の答えは、我々の協会は宗教ではありませんが、私たちが生まれてから、つまり、私たちが子どもの時から、私たちの親が、ある力、すなわち神を信じる様にと(言って)私たちを育てたからです。

このようにして私たちは「神」というコトバを知っています。

他の人々はおそらく「神」というコトバを使わず、別のコトバを用いているでしょうが。

子どもたちは、神の名前を知りながら、預言者たちについて知りながら、そして、宗教について知りながら育てられます。

バパでさえ宗教的でした。

私がここで申し上げているのは、我々の協会は宗教ではないけれども、会員は宗教的な人々であるということです。

(14・7・21 CDK)


このようにして子どもたちを宗教的に育てるのはジャワではきっと一般的だったのでしょう。

なにしろ生まれた赤ちゃんが最初に聞かされるコトバが父親が耳元で話す「信仰告白を含む祈りのコトバ」であるというお国柄でありますから。(注1

そして6歳になると両親は聖クルアーンの短いsurahの詩を暗唱できるように子供たちに教え始めます。

7歳になると子供でもコーランを読めるようにと、アラビア語のアルファベットを教え始めます。

こうして子どもたちは、それはもう徹底的に宗教的に育てられるのでありました。

2代目の上記トークはまさにそのようなインドネシアの状況について語ったものであります。

そういう訳で、それほど宗教的でない、あるいはほとんど宗教を意識していない我々日本人とバパの国の人たちの「神についての認識、あるいは宗教についての認識」を比較するならば、それはもう「非常に大きな違い」になるのは当然のことなのであります。

そうして結局のところ我々はインドネシア人にはなれないし、そうして又なる必要もないのでありました。


PS 注1
ほとんどの場合、ジャワの間で信仰の告白は、生まれた子供にすぐに伝えられます。

これはチレボンだけの習慣ではなく、Javaの他の場所でも同様に、母親が出産したとき、父は部屋の前のドアの所で待機します。

新しい赤ちゃんが生まれた後すぐに、それを洗浄する前であっても、助産師(dukunのbayi ) は 、家族の中で、その存在のようにditampa(暖かさと歓迎して受け入れられている意味)であることを象徴する、タンパと呼ばれる丸い竹のトレイに赤ちゃんを置きます。

そして新しい赤ちゃんの存在は本当に潜在的な信者の数を追加することを意味します。

すぐに助産師は、それぞれ、赤ちゃんの左右の耳元でadzanとiqamat(信仰の告白を含む祈り)を発声し聞かせる為に父親を部屋にを呼び入れます。

父親が何らかの理由でできないときは、そう他の誰か、たとえば助産師がそれを代行し、父親と母親の両方が立会人となります。

こうして、子供がこの世界で聞いた最初の声は信仰の告白ということになるのでした。
・・・・・・・

子供が約6歳のとき、家庭ではクルアーン学習過程が始まり、これはngajiと呼ばれます。

この歳で両親が聖クルアーンの短いsurahの詩を少しずつ子供たちに教え始めます。

短いsurahの詩は、毎日の祈りで発声します。

これは通常日没の祈りの後、夕方に行われます。
・・・・・・・

だいたい7歳で子供もコーランを読むために、ステップバイステップで、アラビア語のアルファベットを教えられます。

読書のレッスンは通常、最初のjuz(部門)の聖クルアーンの最初のSurah(アルFatihah)から始まり、最後(30日)juzにジャンプします。
・・・・・・・

などなどインドネシアではこの後も多くの公式な、あるいは非公式な宗教教育が続くのでありました。

以上詳細はこちらを参照願います。<--リンク

PS
宗教別人口比率の比較

インドネシア            日本

イスラム教・・・87%         -%

キリスト教・・・10%       2.3%

ヒンドゥー教・・・2%         -%

仏教・・・1%           34.9%

無宗教・・・0%          51.8%

その他・・・0%           3.9%

無回答・・・0%           7.0%

合計で100%           100%

詳細はこちらこちらを参照願います。<--リンク

ちなみに日本では伝統的に一つの家の中に神棚と仏壇が共存しています。

ですので、日本の上記回答中の仏教は実は仏教+神道という解釈が妥当かと思われます。

それからインドネシアでは人口の97%に対応し通用していたラティハンの説明方法が日本では人口の2.3%にしか通用していなかった、、、という可能性があることが分かります。

PS
蛇足ながら、バパの子ども時代もまた十分な宗教教育の場であったことは想像に難くない事であります。

そして「星々の彼方の旅」の記述もそれを裏付けるものであります。

さてそのように宗教的なバパや2代目がつくりだすインドネシアスタイルのやり方を続けて60年程にもなりますが、どうやら日本にはなじまなかったように思われます。

気候、風土、文化、宗教、伝統、歴史がインドネシアと日本ではやっぱり違いますから。

そうして、ラティハンを説明する唯一の方法がインドネシアスタイルという訳でもなさそうです。

ラティハンはひとつの民族や国家、一つの宗教や一つの宗教グループに収まるものではありませんね。

というのもラティハンというものはバパが言う様に「地球規模の事象」でありますから。

それ故に当然の事ながら「ラティハンのもつ広さは全ての文化に対応できる」のであります。

まあそういう訳で、このあたりで日本スタイルのやり方を試してみるのもいいのではないかと思っている今日この頃でありました。

PS
・・・その助言は、私たち全てが経験しているように、人間生活の一部になっています。

私たちは、生まれる時、結婚する時、死ぬ時に(さまざまな宗教的慣習に従う)ように、赤ん坊の時から宗教によって影響を受けているのです。

明らかに、宗教は私たちの生活に深く浸透しています。
それは何世代にもわたって受け継がれ、私たちの生活に深くしみ込んでいます。

ですから、今まで宗教を実践していたのに、それを止めることは間違っているのです。
(12・5・12 BOD)

さて、この二代目のトークも明らかにインドネシア国内の状況についての言及であります。

特に、「赤ん坊の時から宗教によって影響を受けているのです。」というくだりは上記に示した参考文献での記述のことを言っているのでありましょう。
少なくとも「日本の状況でないこと」は明らかであります。


PS
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