バパはトークでよく「イスラムではこう言います」といって説明をしてくれたものでした。
さて、バパが言っている「イスラム」とはいったい「どのイスラムなのか」が問題であります。
バパの母方の祖先はワリ・ソンゴ(Wali songo)と言われるジャワにイスラム教を広めた九聖人の内の一人につながる様です。(81・6・2 ホボケン)<--リンク
(そして母方の祖先は九聖人の内の一人、スナン・カリジョゴ(Sunan Kalijaga)だろうと思われます。(81・7・28 LOS))
ですのでバパのイスラムはジャワイスラムと呼ばれる伝統的イスラムであったことは自然なことであります。
そうして「ジャワのイスラム教徒にこれほどの崇拝を受けるワリ・ソンゴもジャワ人以外は名前さえ知られていない。」と言われるように、ジャワイスラムは非常に地域性の高いイスラムなのでありました。<--リンク
・ワリ ソンゴの聖墓参拝とジャワ世界<--リンク
1、ジャワでの共通の認識基盤としてのシャリアットとタレカットとハケカットとマリファット。
まずはクバティナンでの扱いです。
「ジャワ神秘主義の民族誌」より引用<--リンク
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ムリョノはまた, 神を求める精神的旅の階梯について語る。
第一はサレンガットsarengat, すなわち神への義務をはたす外面の行為である。
第二は神に近づく道程タレカットtarekatである。
第三はタレカットをつうじて生起する現実, 究極的な真理であって, ハケカットhakekatとよばれる。
第四はマリファットmarifat, すなわち神の実在についての確信に真にたどりつくことである。
人はサレンガットから出発するが, 口で語り表面で行為するだけではなく,神の命令に真に心から駆り立てられてタレカットをおこなう。
タレカットはハケカットを求めるためのものであり, ハケカットに達した状態がマリファットである。
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次はワヤン(Wayang)での扱い。<--リンク
1923年にKRT ウレクソディニングラト Wreksadiningrat の構成した「スラット・ランパハン・ビモロドロSerat Lampahan Bima Rodra」が出た。
このキタブではビモはイスラーム教を教えるプンデタ(僧侶)となる。
彼はシャリカット Syarikat、タリカット Tarikat、ハケカット Hakekat、マーリファ Ma'rifat を教える。
このキタブによれば、シャリカットとは『身体の行為』であり、タレカットとは『精神の行為』、ハケカットは『トゥハンの存在』を知ることを意味する。
そしてマーリファとは『ふたつがひとつになること(roroning atungal)』である。
そうしてバパの扱いです。(84・6・28 CDK チランダ)
イスラムには、四層をなした枠組みの段階があります。
シャリアットとタレカットとハケカットと、それからマリファットです。
さて、心の働き方によれば、明らかに、その四つの段階を速やかに上へ上へ、一つから一つへと進歩して行きたいと思うでしょう。
シャリアット、タレカット、ハケカット、マリファッ ト、そして頂上に達します。
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こうしてバパは「これもイスラムのものである」としています。
そうしてバパはこのハケカットを使ってラティハンを説明しています。
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ラティハン・クジワアンは宗教においてハケカット(真実)と言われているもので、それに 対して宗教それ自体はシャリアットとタレカットであると述べられている、とバパが申しますのは、そういう訳だからです。
(82・7・23 CDK)(ハケカットのラティハン 注1)
しかしながらこの概念はもともとはスーフィズムの一つの流れでありました。
タレカット(Tarekat)はブリューネッセン(Bruinessen1994:10-14)によれば「インドネシアへのイスラームの到来は、スーフィズムの発展と同時期でありタレカット tarekat(神秘的道標)と呼ばれるものが現れる。
この流派は、イスラームの導入を展開させる役割を担い、東部地域から(?アチェからですから実は北部では?)インドネシアに入った。」とのことであります。<--リンク
そしてこの流派はシャリカット Syarikat、タリカット Tarikat、ハケカット Hakekat、マーリファ Ma'rifat の4つの段階を教えるものでありました。<--リンク
さて、日本語によるスーフィズムの説明はこんな例(スーフィズムの修行法と神秘の光への道)があります。<--リンク
第一階梯・懺悔(タウバ)
第二階梯・律法遵守(ワラア)
第三階梯・隠遁(ハルワ)と独居(ウズラ)
第四階梯・清貧(ファクル)と禁欲(ズフド)
第五階梯・心との戦い(ムジャーハダ)
第六階梯・神への絶対的信頼(タワックル)
これらの第1から第6までの階梯をすべて昇り終えると、ようやく神に接近するための準備が整ったと見なされる。
これらすべての神秘階梯を通過したスーフィーは、神によって霊知(マーリファ: Ma'rifa)と真理(ハキーカ:haqiqah)と呼ばれる一段高いレベルの意識に引き上げられるのである。
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こうして「バパのイスラム」はスーフィズムの影響を色濃く受けたジャワイスラムであることがわかるのでありました。
ちなみに「イスラームでは信仰の深まりを「シャリーア→タリーカ→ハキーカ」という図式で示すことがあります。」とは「タリーカを進む旅人」からの引用です。<--リンク
そして「これに対してハキーカは、最内奥の部分。一部のエリートだけがここに到達できる深層。」という記述があります。
この認識はたぶんイスラム教徒の宗派(シーア派、スーフィズム各派)をこえた共通認識かと思われます。
そうして、「それだけ難しいものを簡単に手に入れられるのは信じられない」というのが「ラティハンに対する普通の反応」でありましょうか。
他方スンニー派は「ハキーカそのものを重視」せず「預言者ムハンマドの時代から積み重ねられた『慣行』(al-Sunna スンナ)を重視する宗派」の様であります。
つまりムスリムの大多数を占めるスンニー派は「ハキーカのラティハンそのものに用事がない」と言っている様であります。
2、イロフィを始めとする9つのロホシステムについて
これまで見てきたようにマルタバト・トゥジュ(Martabat Tujuh)に始まりワヤン(Wayang)で発展しやがてバパに引き継がれました。<--リンク
これもバパは「イスラムである」としています。
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イスラムではロホ・スゥチあるいはロホ・イロフィと呼ばれておりまして、その本来の性質は全能の神から人間に遣わされる使徒の本性と同じであります。
(79・9・30 SNG シンガポール)
神は偉大なり、アラーフアクバルと云う言葉は、宇宙に於て最も大きな力と権威を持っている言葉であって、あらゆるものゝ上にあります。
神の力は全てを包んでいるからです。
それは宇宙に存在する最低のものから最高のものまで、つまり最低の物質的な力から、ロハニ、ラフマニ、 そしてラバニに到るまでの全てを包んでいます。
そしてそれぞれの段階、それぞれの状態は、ロホイロフィ、そしてロホクドスによって結びつけられています。
(83・1・9 CDK チランダ)
こうしてワリ・ソンゴに始まったジャワイスラムは9つのロホシステムを吸収してきたのでありました。
そうしてバパは「イスラムのものである」として9つのロホシステムを使いながらラティハンを説明してきました。
しかしながらこの概念はイスラム教徒の大多数を占めるスンニー派の考え方の中にはありませんし、少数派のシーア派にもありません。
そうして現存しているスーフィズム各派(インドネシアのTAREKAT SYATTARIYAHを除く :注2)のなかにも見当たらない様であります。
もともとロホ(Roh)はルーフ(Ruh)が変化したコトバであり、そうしてルーフはクルアーンに何度も出てくるコトバなのでした。
それで先行しているイスラム教徒(スンニー派、シーア派、スーフィズム各派)はそれぞれルーフについての独自の理解をもっています。
この為ロホに対する後発のジャワイスラムの認識方法は他のイスラム教徒にとっては「後から来たイスラムの独特な解釈」になっています。
結果的に9ロホシステムはただ唯一、ジャワイスラム教徒のみが了解しうるものなのでありました。
追記
その後の追加記事です。ご参考までに。
雑記帳31・「バパのイスラム」とは何か・2<--リンク
3、ナフス システム
バパはラティハンとナフスとの関連を使いながら説明をしました。
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ナフスの支配を受けなくなれば、いついかなる瞬間でもラティハンクジワアンを受けるのです。
ですから、受けようとするならば、ナフスが 静まった瞬間にラティハンクジワアンが現われてくるのです。
(77・7・6 Herk-de-Stad ベルギー)
この4つのナフスはもともとはジャワに古くから伝わる「4人兄弟の教え」から来ています。
そして呼び名こそクルアーンやスーフィズムから借りてきていますが、ジャワでは「常に人間に内在する4種類の欲望、あるいは意思、望み」を示すものであります。<--リンク
さてナフスはクルアーンの中では「魂」として扱われています。<--リンク
ですのでスンニー派もシーア派も「魂」という理解であります。
他方スーフィズムではナフスは「修行に伴って変化する(あるいは深化する)意識の階梯」として扱います。<--リンク
従って複数のナフスが同時に一人の人間のなかに存在することは無いのでありました。
こうして字に書いて発音すれば同じ「4つのナフス」ではありますが、ジャワで使われている、そうしてバパがラティハンの説明で使った「ナフスというコトバで指し示す内容」はジャワイスラム教徒以外のイスラム教徒(スンニー派、シーア派、スーフィズム各派)には理解されないものでありました。
4、まとめ
以上みてきたようにバパのラティハンの説明に用いた以下の3つの概念はジャワイスラム教徒にはなじみの深いものでありました。
1、ジャワでの共通の認識基盤としてのシャリアットとタレカットとハケカットとマリファット。
2、イロフィを始めとする9つのロホシステムについて
3、ナフス システム
しかしながらいずれの場合でもジャワイスラム教徒以外のイスラム教徒(スンニー派、シーア派、スーフィズム各派)には理解されないものでありました。
そうなるとその結果はどうなるのでしょうか?
「インドネシア以外のイスラム教徒にはラティハンは極めて広まりにくい」ということになりそうです。
そうして実際「宗教別ラティハン人口の推定結果」もその見方を支持している様であります。<--リンク
こうして現実は残念ながらバパが掲げた宣言文、「ラティハンは全人類のもの」からはかなり遠いものになっているのでありました。
PS
ご参考までに
「カイロからのニュース」<--リンク
PS
ご参考までに
試訳:イスラムにおける精神生活<--リンク
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このように宗教とは、外面的な部分と同時に、外面的な部分を基礎とする内面的なもうひとつの部分から成っている。
イスラムという啓示宗教は、これらの側面をシャリーア(Shariah:聖なる法)、タリーカ(Tariqah:道)、ハキーカ(Haqiqah:真理)と呼び、また別の視点からはそれぞれをイスラーム(islam:服従)、イーマーン(iman:信仰)、そしてイフサーン(ihsan:美徳)と定義してきた。
(引用注:どうやら用語マーリファ Ma'rifa:霊知 を使うのはスーフィズムのみでイスラム一般ではないと思われます。)
コーランによる啓示は全て「イスラム」と呼ばれる。
だが前述した視点に立てば理解できる通り、伝統的に「イスラム」と呼ばれる段階を踏襲しているとしても、その人物が真の信者たる「ムウミン:mu’min」、すなわち「イーマーン(iman:信仰)」を保持する者であるとは断言できない。
また同様に、全てのムウミンが「イフサーン(ihsan:美徳)」すなわち宗教の持つ内面的な意味に到達し、これを深く理解するのに必要不可欠とされる倫理を保持しているとも断言できないのである。
イスラムという啓示宗教は、内面的な生を生きることを運命づけられた人にとって深い意義を持つ。
だが全ての人が、内面的な生を生きる道をたどるとも限らない。
至福と共に楽園に迎え入れられるためには、イスラムの実践、すなわちシャリーアに従い神の命ずるところに服従しつつ生きればそれで十分なのだ。
だが、そうではない者たちもいる。
彼らは神に憧れ、神を愛し、神の真理(al-Haqaiq)が、「今」、「ここ」で彼らに対して明かされることを切望する。
イスラムの啓示は、こうした人々にも歩むべき道を指し示している。
神への熱烈な思慕が、イスラムの実践のみならず、イーマーン、イフサーンを通して神の美を感得する道、地上にいながらにして神へと至る喜びの道を切り開くのである。
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PS
ご参考までに
「イスラーム文化」(井筒俊彦/岩波文庫)書評より<--リンク
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キリスト教との教義の相違はどこにあるのか。
イスラームはキリスト教の三位一体説を否定する。
・・・・・・
キリスト教の三位一体説とは、父なる唯一神、子たるイエス・キリスト、聖霊、この三者で表わされる信仰形態。
キリストを神の子とみなす、この神と人間との親愛的関係こそ、イスラームの認めなかったものである。
神と人間は、親と子のような関係ではないというのがイスラームの主張である。
では、イスラームは神と人間の関係をどのように見るか。
主人と奴隷である。
人間は神の奴隷である。
ここで本文から引用する。
イスラームの信仰とはどのようなものか。
「それ(イスラーム)が人間の神に対する無条件的自己委託、自分をすっかり相手に任せきること、
奴隷のように、奴隷が主人に対するように、何をどうされても、ただひたすら向うの思いのままという絶対他力信仰的な態度を意味するということ、
そしてそれがイスラームという宗教の実存体験的中核をなすということであります。
人間が自分で主体的に努力して己れの救済に至ろうとする、いわゆる自力的態度は、ここではまったく成立する余地がありません」(P62)
そのためイスラームの信者、ムスリムは、絶対帰依者を意味する。ムスリムとは――。
「自分自身の意思や意欲をあますところなく放棄して、すべてを神の心に任せきり、神にどう扱われようとも、敢て己れの好悪は問わぬ,
絶対無条件的な神への依属、依存の態度をいつでもどこでも堅持して放さない人のことです」(P65)
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PS
ジャワイスラムは従来のイスラム(スンニー派、シーア派、スーフィズム各派)からすれば後発の分家筋。
インドネシアで独自の発展をしてきましたが、使っているコトバはもともと本家筋のイスラムで使われていたものです。
でもコトバの指し示す意味が違っていました。(ナフス、ルーフーー>ロホ、共に)
その為バパの説明のやり方ではイスラム本家筋の人たちには抵抗感が生じてしまいます。
でも上記の3つの概念(タレカット、ロホ、ナフス)は同じ一神教ではありますが、キリスト教やユダヤ教にはありません。
つまりその方々はバパの説明を聞いた時に、そこには自分たちにとって「新しいコトバ(タレカット、ロホ、ナフスetc)」は登場しますが、「同じコトバだが違う解釈だ」という思いによる抵抗感は発生しません。
その為「イスラム本家筋の人たちよりキリスト教徒やユダヤ教徒の人たちの方がバパの説明を受け入れやすかった」と言えそうであります。
そうして実際に数字の上でもそのことは現れています。<--リンク
こうしてラティハンは結果的にジャワイスラム教徒とキリスト教徒、ユダヤ教徒には比較的によく広まる事になるのでありました。
さて、ラティハンにコトバは必要ではありませんが、ラティハンの説明にはコトバが必要なのです。
そうしてそのコトバによって説得される必要があるのは、あるいは納得する必要があるのはハート、マインドなのでした。
あるいは、ラティハンはハート、マインドより根源的な所に起源を持っているのですが、「ラティハンへの参加を決定するのはハート、マインドの仕事」なのであります。
つまり人はそのハート、マインドが納得して初めてラティハンに参加できるのでありました。
でもひとたびラティハンが始まればハート、マインドは静かに横でラティハンを見守っているだけの存在になるのでした。(ラティハン中にハート、マインドがするべき仕事は何もありません。そうして、これがラティハンの秘密であります。)
そういう訳でこれが「コトバを超えたものを、あるいはハート、マインドを超えたものを、コトバで説明する以外に方法がない事の難しさ」であります。
さて、「ラティハンを続けていけば後日あなたの日が来る」とはバパの説明です。
「そうなれば誰に教わらなくてもあなたのラティハンの意味が分かる」と。
「それまでが忍耐だよ」と言われてそれで到達出来る人は、まあ天才の部類に入ります。
普通はとてもそこまでの忍耐心は持てません。
それでバパのトークで説明されているもろもろの内容に頼る事になるのですね。
でも、バパのトークはどこまで行っても借り物の理解しか生みません。
そうして、「自分の本当の理解」というのは「自分のラティハンが運んできてくれるもの」なのであります。
つまりは「どこかで一人立ちしなくてはいけない」、、、と。
まあ、それを承知でバパのトークに頼るならいいのでありますが、ついつい、いつまでも頼ってしまうというのでは、、、。
それではきっとバパも苦笑いでありましょうか。
PS
注1:ハケカットのラティハン
文字通り「ハケカットとして知られているレベルにまで到達できるラティハン(訓練)」の意味でありましょう。
そうでなければ「看板に偽りあり」であります。
しかしながら「ハキーカは、最内奥の部分。一部のエリートだけがここに到達できる深層。」と言われるものであります。
そういう訳で「ラティハンがいかに優れもの」であったとしても、やっぱりそうは簡単にはいかないのが実情でありました。<--リンク
PS
注2:TAREKAT SYATTARIYAH<--リンク
ご参考までに
・・・・・・
一方、Syattariyahを通じて7の尊厳の教え(マルタバト・トゥジュ:Martabat Tujuh )に基づいてスーフィズムと様々な象徴的な分類の形而上学的アイデアは欧米で人気の信念の一部となったです。<--リンク
・・・・・・
スーフィーの教えとDhikr Syattariyah
スーフィー神秘的な開発は必ずしも必要ではないが、過渡期を経て、私たちの心の中で神の意識を高めるのビューを開発することを目的としています。
スーフィーTarekat Syattariyahは信じている動きの神の生き物の息への道。
しかし、順序に従って主要道路のほとんどはAkhyar、Abrar、およびSyattarで撮影された道路でした。
程度Syattarへ前salikは、最初Akhyar(当選者)とAbrar(最高)で完成度のレベルに到達し、秘密は追憶マスターする必要があります。
そのため、この順序、すなわち
1、悔い改め、( taubat)
2、禁欲主義、( zuhud)
3、辞任の、(tawakkal,)
4、qana'ah、
5、孤独、( uzlah,)
6、muraqabah、
7、患者、(sabar,)
8、ridla、
9、回想、( dzikir,)
10、musyahadah
以上、目標を達成するために従わなければならない10の階梯(マカームMaqaam:ステーション)があります。<--リンク
他の集会(Tarekat)と同じように、Tarekat Syattariyahはその教えにdhikrの側面を強調しています。
3つのグループがそれぞれのdhikrの方法を持って、上に言及し、神に神の直感、感謝と近さを達成するために瞑想します。
Akhyar人々が巡礼し、ジハードを実行し、コーランを読み、祈りと断食を導くことによってそれを行います。
Abrarの人々は悪を避ける、持久力トレーニングを受けている、練習や禁欲生活厳しい禁欲主義と自分自身をビジーし、常に心を浄化するように努めています。
Syattarは聖人の精神を直接指導することにより取得されます。
その数字によると、Syattarのdhikrは神に到達する最速の方法です。
・・・・・・・・
ちなみに上記の記述例にならえば「ラティハンは3Maqaam」ということになりそうです。
1、Sabar(サバール) 感情から自由になること。あるいは忍耐。
2、Tawakkal(トワカール) どんな出来事や状態に直面しても、又それがどんなに驚くべきことであっても、とりあわないこと。あるいは信頼。あるいは受容。
3、Ikhlas(イクラス) 私達から離れ去るものについて未練をもったり、残念に思わないこと。あるいは誠実。あるいは服従。あるいは全托。
(78・11・4CDK)
そういう意味ではラティハンは「スーフィーウエイよりは比較的に簡単である」とは言えそうなのでありました。
ちなみにバパは確かにジャワイスラム教徒ではありましたが、そうしてジャワイスラムの用語も使いながらラティハンを説明してくれましたが、「ラティハンは宗教ではない」ので「全ての人類」・・・(どのような宗教をお持ちであろうが、あるいは宗教を持たない人であろうがそのような事には関係なく)、「ラティハンは全ての人類のものなのである」という宣言が可能となるのでありました。
バパが今まで受けたものは、最早や人類の1グループや一部分に限定されないものです。
それは人類全体のためのものです。
即ち全人類のため、つまりあらゆる国民、あらゆる宗教、あらゆる人種のためのものです。
その証拠は、皆さんが皆さん自身の宗教、つまりキリスト教、イスラム、仏教あるいは何であれその宗教を持ったまゝで、すっかり我々の会の中に入っているという事の中にあります。
それで皆さん、一般に人類は国家や宗教によって分類されますが、我々の会ではそういうことがないのは明らかです。
そして皆がラティハンを受けることができる、経歴や出身が何であれ、という事です。
同じくラティハンにおいても、私たちは私たちの宗教的な経歴、所属にかゝわる何ものによっても制限されません。
ラティハンの中で私たちは「アッラー」とか「ゴッド」とか「マハ(大)ヨーガ」とか 「マハ・デワ(神)」とか、ほかの何であれ、そういう風に言うこともあり得ます。
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ですからその名前のいずれも等しく有効、等しく効果的なのです。
人々はその様々な宗教を持ってラティハンに参加することができるのです。
(83・8・11LON)
このような訳で、我々の会には強制力のようなものも、厳格なルールもありません ─ すべては各個人の意志に任されています。
他の宗教で、例えばイスラムで、過去において常に起ったことは 人々にイスラム教徒になるよう強制すること、イスラム教徒になるのを望まない人々を殺しさえすることです。
そしてキリスト教徒も同じことをし、仏教徒も同様です。
しかし、我々の会においてはそのようなことは何もありません ─ それは個人の意志に任されているのです。
(77・11・6 エクアドル)
(上記記述において一部分、歴史家の認識とは相いれないものがあるやもしれませんが、「バパの認識はこうであった」ということでありまして、「必ずしも歴史的な事実を表現するものではない」点、お許しを願う所であります。)
追記
・強硬派仏教徒集団の台頭、覆される「平和的哲学」のイメージ<--リンク
時代は動き、ブッダが想定しないような仏教集団が現われてきています。
そうして、これは本当に残念な事であります。(2018.3)
PS
以上のようにバパのイスラムは「ジャワイスラム」、「ワリ達が伝えたイスラム」なのでありました。
そうしてとりわけバパにとってはそれはバパの祖先にあたる「スナン・カリジョゴ(Sunan Kalijaga)のイスラム」なのでした。
そういう訳でバパが「イスラムではこう言います」と言った時の「イスラム」とは「ジャワイスラム」であって、世界に広く知られている「イスラム」とは違いがあります。
さて、このことはバパのトークを読むときに注意しなくてはいけない事でもあります。
バパが「イスラムでは、、、」と言った時にはとりあえずは「ジャワイスラムでは、、、」と理解しておくのが妥当であります。
そうしてスンニー派、シーア派、スーフィズムの言っている事を確認しなくてはいけません。
そうやってようやく「ジャワイスラム」から「ジャワという接頭語」を取る事が出来るのでありました。
PS
以下、ご参考までに。
・雑記帳31・「バパのイスラム」とは何か・2<--リンク
・雑記帳41・「バパのイスラム」とは何か・3<--リンク
・雑記帳44・「バパのイスラム」とは何か・4<--リンク
PS
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