* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第九句 「北の政所誓願」きたのまんどころせいがん

2006-03-29 12:29:00 | Weblog
             山王の神官らに射かける美濃守・源頼治勢     
<本文の一部>
 去んぬる嘉保二年(1095)三月二日、美濃守源の義綱の朝臣、当国新立の荘を賜ふあひだ、山の久住者圓応を殺害す。これによて日吉の社司、延暦寺の寺官、都合三十余人、申文をささげて陣頭へ参じける。関白殿(藤原師通)、大和源氏中務丞頼治に仰せて、これをふせがせらる。
 
 頼治が郎等のはなつ矢に、矢庭に射殺さるる者11人、傷をこうぶる者十余人なり・・・・・

 山門には大衆、七社の神輿を根本中堂に振りあげたてまつりて、その御前にして真読の大般若を七日読うで、関白殿を呪詛したてまつる・・・・

 その朝関白殿の御所の御格子をあげらるるに、ただいま山より取ってきたるやうに、露にぬれたる樒一枝御簾にたちけるこそ不思議なれ。 その夜よりやがて関白殿、山王の御とがめとて重きやまひをうけさせ給ひたりしかば、母上、大殿(父・師実)の北の政所大きに御なげきあって、いやしき下臈のまねをして、日吉の社に七日七夜が間、御参籠あって、祈り申させおはします・・・・

               (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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 美濃守・源義綱が新設の荘園を賜った折に、比叡山との間に事を起こし、永らく山に住んでいた修験者・圓応を殺してしまったため、山王七社の神官や延暦寺の僧兵と争いとなり、時の関白・師通は大和源氏・頼治に命じて、これら強訴を防がせた。 このとき神官・僧兵たち二十人ほどが殺傷されたことにより、比叡山延暦寺では根本中堂で”関白・師通の呪詛”の読経を続ける。

 関白・師通は重い病いにかゝり、父・師実(藤原道長の孫)の妻(つまり、師通の母)北の政所は大そう心配し、まずしい姿をよそおって日吉の社に参籠し、田楽のほか流鏑馬(やぶさめ、騎射)、相撲などの奉納、さらには薬師、釈迦、阿弥陀の仏を造り奉納供養を行い、そして関白領の一部を日吉山王の八王子の御社に永代寄進するなど、必死の願いをかけるのであった。

 やがて関白・師通の病いも快方に向かい、喜び合ったという。
(しかし、三年の後、山王の神のお告げ通り師通は急逝してしまい、
 子息・忠実は若く関白職を嗣ぎ得ず、摂関家の弱体化が始まる。)

              
 

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