華西街夜市への入口
遊廓跡
豊川稲荷が建立された場所
当時の萬華花街の地図
阿猜嬤 懐舊生活館
台湾において繁栄していた代表的な場所について、「一府、二鹿、三艋」という言い方をする。これは清代に栄えていた3つの都市を表し、「府」とは台南府のこと、「鹿」とは鹿港のこと、「艋」は艋舺のことを指す。艋舺は後には萬華とも書かれる。日本による統治政策が開始されると官公庁舎・道路・鉄道・港湾などが次々と建設された。これらの基盤産業の開発にいち早く商機を見出し、日本からの投資が増え、これに伴い日本からの労働者が大量に流入した。これらの労働者目当ての料亭や遊廓が内地人によって続々と建てられ、また芸妓や娼婦も日本から送り込まれた。そして、艋舺は一大花街の様相を呈するようになった。ちょうど下記写真(阿猜嬤 懐舊生活館による)に掲載されている場所が花街一帯が艋舺遊廓であった。
正確には不明であるが領台直後の明治33年頃、萬華にある龍山寺内に豊川稲荷が祀られた。言うまでもなく、豊川稲荷は愛知県豊川市豊川町1番地にある曹洞宗の寺院を指し、「稲荷」と称するが神社ではない。本尊は千手観音。「稲荷」は鎮守として祀られる荼枳尼天(だきにてん)のことである。
記録によると艋舺龍山寺に安置してあった豊川稲荷の分霊は明治35年4月17日に粟倉口街(現在の桂林路、華西街、環河南街一帯)に遷座した。場所的には現在の環河南路2段35巷前の道路辺りの真ん中であった。旧地図で言うと有明町四丁目(現在の華西街)から萬華検蕃事務所横の小道入って護岸堤防にに向かって行ってぶつかった所である。
なお、艋舺の簡単な歴史を知ろうと思う方々は甘いデザートで有名な台北市萬華區華西街5号の阿猜嬤 懐舊生活館を尋ねるとよい。店内には萬華の古い写真が展示されている。
台北市にはもう一箇所豊川稲荷が祀られた場所がある。この紹介は別途ブログでおこなうことにした。
台湾日本時代「遊郭」之研究:以台南為例
で国立台北芸術大学の研究生で、名前は曾偉彰さんです。
台湾の国立図書館で見ることもできますし、コピーも可能です。
手元に複本がありますのでご入用であればお貸しします。
私のメールアドレスに送付先をご連絡ください。
台北の円環の近くにあった台湾人遊郭は恐らく迪化街と中山MRT駅の中間辺りの場所を言っておられるのだと思います。ここは何度も素通りしたことがあり、台湾の友達にも聞かされております。
ところで、台南の遊郭について書かれた論文がまだ見つかっておりません。見つかり次第、ご連絡いたします。
嘉義、台中、基隆、計7箇所と新北投温泉、
東プー温泉、礁渓温泉の温泉3箇所、桃園の
公娼館をまわってきました。東プー温泉は遠い
疲れきって帰ってきたので報告が遅れました。
すいません。
台南の遊郭は時間をかけてあるきましたが、
日本時代のものはなにも残っていないようで
した、台湾人遊郭の真花園の建物が1年半まで
ありましたが、取り壊され駐車場になっている
だけでした。
嘉義はかつて遊郭のあった場所に日本時代
の建物が1軒残っていましたが、遊郭だったか
確認できるものはありませんでした。可能性
はあります。
台中は遊郭地区に日本時代のものはなにも
ありませんでした。
台北の万華遊郭はこのHPの写真の建物が
残っていました。三鷹楼という名前だった
のでしょうか。あとは見つけられませんで
した。
台北駅に近い円環の近くにあった台湾人
遊郭は、通りの半分側に建物が4-5軒残っ
ていて見ごたえがあります。ここは2001年まで
営業していた場所でそのなかの 文萌楼は
セックスワーカーの支援団体に管理されていて
少し中を見せてもらえました。
基隆の遊郭跡は愛九路の西側ではなく、
橋1本上流の仁一路37巷にあったそうです。
地図をもってうろうろしていたら、現地の方が
わざわざ日本語が出来る人を呼んでくれ、場所
を教えてくれました。遊郭の建物という特徴は
まったくなくなっていましたが、日本家屋が
1軒残っており、それが多分遊郭の建物だった
と思われました。もう1軒、それらしき建物も
ありました。
私のメールアドレスはfnhcx958@yahoo.co.jpです。コピーがご入用であれば送り先をご連絡ください。
なお、基隆はまだ昔の遊郭の建物が残っています。
高雄
嘉義
したもので、実際はそうではないもしれません
が、それを承知で参考にしてください。
1、中国商工地図集成(都図書館 蔵)
2、台湾鳥瞰図(東京の台湾観光局の蔵書)
基隆 田寮河沿いの仁一路を北限で愛九路
から西側、祥龍橋のたもとにあった
みたいです。100Mx100Mぐらい
の大きさ。
台南 北限 中正路、南限 大勇街
西限 海安路、東限 金華路
中間に緑地があり、それから北を
日本人遊郭、南を台湾人遊郭とした。 台中 北限 興民街、南限 大誠街
西限 中正路、東限 大誠街39巷
華蓮 わかりません
お問い合わせの件ですが、これは戦前のもので、公娼館ではないと思います。
この辺の情報について書かれた本がありますので、至急ご紹介します。また、台湾の学士論文で遊郭をテーマにしたものもあります。
(現在、引越しでバタバタしていますのでタイトルが見つかりませんので時間を下さい)
もし出来れば、基隆、台南、台中および花蓮(稲住)辺りの遊郭の情報を提供頂ければありがたいのですが。これらの場所には「稲荷神社」が建立されました。
もっている者です。今週末にかつて台湾に
あった遊郭を訪ねる予定があり、その情報を
集める過程でこのサイトを知りました。
この万華の豊川稲荷の回で万華にあった遊郭
のこと述べられていますが、そのなかの遊郭跡
の写真。このことで質問させていただきたく、
書き込みさせていただきました。
質問は、遊郭跡の写真ですが、これは戦前の
遊郭があったときの遊郭(貸座席)の建物なのか、それとも日本人が引き上げた後に台湾人が
使用した公娼館の建物なのか教えていただける
とありがたいです。
聞くところによると万華の公娼館はバラック
のような貧弱な建物だったということなので、
ひょっとしたら戦前の遊郭の建物ではないかと
思い書き込みさせていただきました。
よろしくお願いします。