琉球人の住んだ島
現在の和平島は日本統治時代には社寮島と呼ばれた。台湾の日本への割譲とともに明治38年(1905)頃から琉球人が基隆に移住し始めた。その数は560人にも達しという。当時、台湾人(ケタガラン族と呼ばれ、この時代には平地に住む原住民が多くいた)にとって琉球人は新移住者であったため、彼らを侵略者とみなし常に悪感情を持っていた。そして基隆に住む台湾人はこれらの琉球人に対して、この社寮島(現在の和平島)に居住するよう促した。琉球人は漁業を得意とし、特に一本槍でカジキを刺す「突きん棒漁」で生計を立てた。彼らはこの漁法や造船、漁具修理など漁業全般の技術を台湾人にも教えることで、次第に共存して暮らすようになったという。また、社寮島は寒天の原料となるテングサの産地でもあり、島の主要な収入源になった。しかしながら、日本統治時代の台湾人および琉球人の身分は低く、まともな仕事に就くことは難しかったようである。
戦後、台湾にいた琉球人の中には台湾人と結婚し、戦後も台湾に留まったものもおり、彼らの末裔が今も台湾に住み続け琉球文化を伝え続けている。和平島には2011年に作られた琉球漁民の慰霊碑があり、基壇の上には一本槍でカジキを刺す勇ましい琉球漁民の像が載っている。基壇の裏側には「琉球ウミンチュの像建立の由来」が刻まれている。
琉球ウミンチュの像
蕃字洞の保存
フィリピンのルソン島を拠点としていたスペ イン人が台湾南部に拠点を得たオランダに対抗し、現在の基隆を占領した。そして1626年に現在の和平島にサンサルバトル城を、淡水にセント・ドミンゴ城を築城した。一方、オランダの東インド会社は1624年に台湾南部を制圧し、台南にプロヴィンシア城を築城した。更に1642年にはスペイン人が支配する基隆をも占領した。しかし、1661年には鄭成功率いる鄭集団により台湾南部から北部へ追い遣られ、1662年には完全に討伐されるが、一部のオランダ人は社寮島の僅か2坪程度の小さな海蝕洞窟に逃げ込み、1668年までの7年間抵抗したといわれている。このことは洞窟内に刻まれた文字やオランダ人の名前から判明したようである。
日本統治時代、この海蝕洞窟は蕃字洞または蘭字洞ともいわれた。台湾原住民の研究で多大な成果を残した伊能嘉矩(1867~1925)もこの蕃字洞に大変興味を持っていたようで、明治35(1902)年に写された写真には洞窟前の本人の写真と洞窟内の文字が残っている。残念ながら、すでに数百年の間、文字が潮に浸食されてきたため、僅かな痕跡が残るのみであるという。
摂政宮として大正12(1923)年4月16日から12日間におよんだ皇太子殿下(のちの昭和天皇)の行啓の際、石坂荘作は、特に社会事業功労者として名誉ある表彰を受け、金300円を賜った。石坂は基隆社寮島に現存する史跡蕃字洞の自然破壊をひどく憂い、総督府の許可を得て下賜された300円を使って蕃字洞を保存するための鉄筋コンクリート製の門扉を造った。大正13年のことである。
中央に蕃字洞が見える
蕃字洞
蕃字洞内の文字と伊能嘉矩
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