最終回です。台湾協会の会報には掲載されていない写真も追加しますのでご覧ください。
台湾海峡にむけた格納壕
高雄市南西の海岸線に位置する寿山がある。この寿山の南側から海岸線を走る柴山大路を北上する。途中、若者の集まる「海角珈琲」から台湾海峡の波打ち際を1㎞、約40分かけて進むと寿山の岸壁に掘られた第29部隊(永井部隊)の格納壕が2ヶ所ある。左営から直線距離で約3㎞であろう。これらの格納壕内部のトンネルは寿山に向かって250㍍ほど深く伸びていたようある。回想録によると、「震洋艇が泛水する際には、寿山の洞窟からも震洋艇をトロッコに載せ、海岸まで運んだ」や「標高80メートルくらいの山麓には、八方に隧道が掘りめぐらされており、震洋艇では四ケ部隊200隻が出陣待機していたのである」と言う。現在は、土石で埋まっており、壕内の35~50㍍の所で行き止まりである。壕入口には、艇を出し入れする古ぼけたレールが無造作に放り出されている。
この先は、柴山軍治管理区となっており、一般人は立ち入り禁止である。第20、21、そして31隊の格納壕の場所がこの管理区にあり、未だに残って
いるのであろう。
忠軍士碑
調査が進むにつれて、この地で亡くなった隊員を慰霊したと思われる場所があったことも判明してきた。これは、「西自助新村」の一角に以前「忠軍士碑」があり、そこに住む住人が深夜不思議な足音や揺れを感じ、悩まされていた。そこで、お寺の住職に供養をしてもらった。住職によると、9名の日本軍人および3名の台湾兵の遺骨が埋葬されているとのことで、供養後、ピタリと不思議な現象は消えたようである。その後、その住人は「忠軍士碑」を建て、弔ったとのことである。現在、この一角までも更地になっている。
回想録では、「台湾海峡での訓練は川棚訓練所で座学と実体体験とは異なり、要港から大海に出た瞬間の浪は荒く、鏡のような大村湾とはその比どころではなかった。時に波浪を浴びながら、うねりの高い時には、先方の艇を見失うくらいのことは廔々であった」とある。昭和20(1945)年6月10日、夜間訓練の際、震洋艇のエンジン故障で転覆撃沈事故が発生したとある。この時の戦死者は第二艇隊長含む7名であった。起きるべくして起きた悲劇かもしれない。
「忠軍士碑」の存在は、この事故と符合するのかもしれない。
戦後
最後まで、「出撃命令」が下らなかった震洋部隊。終戦と共に、震洋艇は解体焼却され、一部は海中に沈められた。そして、震洋部隊は高雄海兵団に集結され、中華民国の捕虜となる。昭和30(1955)年頃までは、日本に帰る船がないため、帰ることもできないと言われ、自活のため台湾中部の竹山や新港で竹材・木材の搬出業務や野菜の作り従事する隊員もいた。
「マンゴの林の中で日本の再建と自分自身の再建を誓って、それぞれの故郷に別れ別れに散って行って以来、20数年の歳月が過ぎた」昭和42(1967)年5月27日、旧川棚訓練所跡に特攻殉国の碑が建立され、薄部隊からも7柱の英霊が合祠されたとのこと。
平成9(1997)年10月、半世紀ぶりに元薄部隊の隊員が高雄を訪問している。亡くなった戦友の供養と旧薄部隊の宿営地を訪問した写真が、回想録に掲載されている。
現在、旧城文化協会と高雄市と協議の結果、旧左営城の遺構取り壊しの一時中止が決まった。今後、廖徳宗さんおよび郭吉清さんは高雄市政府文化局に対して史跡保存の申請を行うとのことである。
格納庫が作られた海岸
第1格納庫
第2格納庫
コメント有難うございました。第30部隊となりますと「海口」の場所になると思います。
海口にありました格納庫に関する情報もありますので、お知らせしたく思います。
下記にメールを頂けませんでしょうか。
fnhcx958@yahoo.co.jp
父がタイトルの部隊の生き残りで、89歳で健在です。三島敏夫さんとは同部隊でした。
父の話が昔から好きでよく聞いたものです。最近は物忘れが激しい父ですが昔の話は喜々としてはなします。このブログも見せました。
終戦時父は部隊の帰還の手続きをしていて、部隊よりは1年以上遅れたようです。ただ、捕虜とかではなくて、普通にしたてらしいですよ。部隊の皆さんも順調に帰国されたそうです。なかには、野菜を作るといって残った人もいたようです。
戦後も本田班のかたは集まりも良く、戦友会やら
台湾にも出かけていました。最近はもう高齢で集まりにもいかなくなりましたが。
父の資料を二人で整理していたら、当時の採用通知やら心得、また祖父にあてた丁寧な隊長からの
手紙が見つかりました。URLにあげてあります。
私が高校時代には、生き残り部隊としてアサヒグラフの隊員の皆さんが掲載されました。
ブログの写真を見て3枚目の写真で「俺のところはこんな立派でなかった」といっていました。
色々苦労された取材等を見させていただいて
感謝しております。