台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

海軍水上特攻隊 震洋隊 震洋八幡神社

2017-11-23 17:00:14 | 高雄州

今回は神奈川大学非文字資料研究センター News Letter No.38に掲載された「台湾本島及び澎湖諸島の神社跡地等の調査」は I 調査概要、II 海軍水上特攻隊 震洋隊 震洋八幡神社、 III 澎湖西嶼の震洋格納庫跡と西嶼弾薬本庫跡で構成されています。この中で「海軍水上特攻隊 震洋隊 震洋八幡神社」に付いて寄稿しました。

 

鄭時代~清朝時代の台湾

鄭成功がオランダ人を台湾から追放し、1661年、首都を承天府(現在の台南市内に残る赤崁楼)とし、し、北に天興県、南に萬年県(現在の高雄市左営地区)を置く。同時に、前、後、左、右、中の5つの「衝鎮」を置いて衛兵を駐屯させる。「左」の衝鎮は左営と呼ばれた。その鄭成功は台湾を「反清復明(はんしんふくみん)(清に抵抗し明の復興を企てる)」の拠点とするが、間もなく病没する。その後、反清勢力の撲滅を目指す清朝の攻撃を受けて、1683年、清朝の攻撃により鄭氏政権は崩壊する。翌年、清朝は台湾府を福建省に設置、その下部に諸羅県、台湾県、鳳山県を設置する。台湾県、鳳山県が鄭時代の旧萬年県の管轄地区に相当した。

現在、左営に残る旧城の基礎は、1722年に土の城を築いたもので、1825年に再建されたものである。

1787年、旧城が林爽文事件によって破壊されたため、埤頭街(現在の高雄県鳳山市)に鳳山県新城が新たに建築され、同時に県都が移転する。そして、この新しい県都を「新城」、それまでの左営旧県都を「旧城」と呼ぶようになった。

震洋特攻隊とは

太平洋戦争末期、沖縄失陥後、米軍の日本本土上陸は時間の問題と言われた。米軍の上陸に備え、九州南海岸と四国南海岸には大量の軍隊を投入して陣地を構築した。しかしながら、米軍に対抗するうえで戦力となる航空機や戦艦はもはや十分なく、日本帝国海軍は限られた物資の中、起死回生の特攻兵器の開発に着手する。その中の1つが「金物(かなもの)」という秘匿名称を持つ新兵器であった。   

この「金物」とは、船外機付衝撃艇として研究されたが、結局、自動車エンジンを使用した木合板(ベニア板)製の滑走艇とし、ガソリンまたはエタノール・アルコールとガソリンとの混合を燃料とし、艇首部に爆薬を装設、敵艦艇に衝突するようにしたもの。後に「震洋」と呼称される。「震洋」とは、太平「洋」を「震」撼させる、という意味が有った。

台湾の震洋部隊

 台湾には、淡水(第102震洋隊、第105震洋隊)、基隆(第25震洋隊)、高雄(20震洋隊、第21震洋隊、第29震洋隊、第31震洋隊)、海口(第28震洋隊、第30震洋隊)、そして、馬公(第24震洋隊)の10震洋隊が存在した。

 高雄左営には4部隊あり、その内、3部隊は左営埤子頭(清朝鳳山県旧城内)にあった。第20、21及び29震洋隊は、昭和19年(1944)11月~12月、佐世保を出港し、11月末~翌年1月初めにかけて左営港に到着する。それぞれの隊は183から191人で構成され、53~55艇の震洋艇(緑色のペンキで塗られていたため、通称「青蛙」と呼ばれていた)を保有していた。

左営港に到着した震洋隊は、清朝時代に築かれた左営旧城の城壁に沿って舎営所を築く。震洋艇が配置された格納壕のある海岸までは約2.5kmの地点であった。舎営所は現在の「左営区西自助新村」であり、西自助新村とは、1949年、国共内戦で敗れた国民党軍人やその家族(外省人と呼ばれ、共産党との内戦に敗れた国民党と共に大陸各地から台湾に移り、定住している人々)が移り住んだ居住地の1つで、一般に眷村(けんそん)と呼ばれる。2013年3月までは、この地が震洋隊の舎営所であったことが一般には知りえなかった。仮に、想定はされていても、その閉鎖的な地域性もあり、歴史調査は行われなかったのであろう。

政府の土地区割整理に伴い、西自助新村に居住する外省人の立退きが終わり、この左營旧城に於ける清朝時代の歴史遺蹟の調査が行われ、遺蹟の掘り起こしが始まる。その過程で防空壕跡が至る所に発見され、調査が進むにつれて、この地域一帯が旧日本海軍震洋隊の舎営基地であることが判明する。防空壕跡の場所には一定の法則があった。「必ずマンゴ(芒果)またはロンガン(龍眼)樹の下」である。従って、これらの樹木の下には防空壕があった。米軍の偵察機に発見されないためである。このお陰か、この地域は米軍の爆撃を受けていない。

 他に例のない瓢箪に似たドーム型の防空壕が17ケ所見つかっている。壕内の高さは約2.1㍍あり、壁の厚さは65cm、両側に入口がある。25名程度が入れる。  

 旧城城壁に沿って、士官舎、兵舎、炊事所、倉庫、便所、車庫、燃料庫や充電所が並んでいた。また、城壁の一カ所は通路となって城壁を通して、左右の往来ができた。

高雄からの問い合わせ

 2014年2月に入り、高雄でIT関係の会社を経営する傍ら左営旧城の歴史研究を行っている廖德宗さん及び一緒に調査研究を行っている郭吉清さん(高雄市旧城文化協会顧問)から連絡が入る。「左営旧城内に日本海軍第20震洋隊(薄(すすき)部隊)の基地に神社遺跡(基壇)があり、震洋隊が左営に建立したものではないか。また、その神社遺跡傍に手水鉢が土の中に埋まっている」との内容であった。その報告と一緒に、神社参道(15段の石段)が清朝時代の城壁と共に写されていた。早速、海外神社研究会のメンバーである坂井久能特任教授に連絡を取る。坂井さんは営内神社(軍隊の施設内に建立された神社)を一貫して研究しており、その道の専門家である。

 台湾と日本からの情報交換により、次々と台湾から質問が寄せられた。

①   旧城から発見された基壇、手水鉢および参道の石段は神社のものか?

②   海外に海軍が造営した神社があるか。写真はあるか?

③   仮に、震洋隊が造営した神社であるなら、その祭神は?

④   『回想 薄 部隊:海軍第二十震洋特攻撃隊』が奈良県立図書館にあり、この中に神社の記述があるか?

震洋神社の確証

 思いがけなく、この回想録の口絵に、「震洋神社とその製作者」とのタイトルが付いた小さな祠の前で写された隊員があった。この写真は、震洋神社の存在を証明する手掛かりとなる。また。回想録には、戦後の部隊処理の記述で、「先ず震洋神社を焼く(兵舎後の城壁の上に安置してあった)」とあった。この記述より、間違いなく口絵の写真は「震洋神社」であり、現存する基壇、手水鉢や石段は「震洋神社」のものであることが証明された。

 更に、薄部隊長のご子息との連絡も取れ、平成5年(1993)発行の『薄会(第20震洋特別攻撃隊)戦友だより』に、この神社の正式名は震洋八幡神社であり、ご祭神は佐世保市の亀山八幡宮の分霊であることが判明する。また、この小冊子に神社奉焼時の写真と本殿前の鳥居も掲載されていた。

震洋神社調査

2017年2月、改めて震洋部隊舎営基地及び神社跡地の調査を行う。神社位置は写真に示す通り、城壁の上にあり、写真の通り、石段を昇ったすぐにあった。実測から基壇底辺が120x130cm、基壇上部80x94㎝、高さ68㎝と判明する。石段を昇ってすぐに鳥居があり、左側に手水鉢が配置されていたと考えられる。第20震洋隊がこの地に入ったのが昭和20年1月であるため、神社造営は同年前半頃と想定される。

 終戦と共に神社本殿は奉焼される。奉焼にあたり、本殿は基壇から分離され、近くの山すそに運ばれて奉焼されたのではないか、坂井特任教授は分析している。確かに、写真から奉焼は城壁の上ではないことが分かる。城壁の上では火の粉が飛び散り、危険であるためである。更に社殿の周りに注連縄が張り繞らされ、紙垂(しで)が付けられているので、焼く前に神道儀式として「奉焼式」が行われたことが判明する。

震洋八幡神社(『回想薄部隊)』

城壁上の基壇

城壁の一部。写真左側に石段がある

第20震洋隊舎配置図(「薄部隊 戦友だより」)

※城壁に「震洋八幡神社」と鳥居の印がある

 



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