台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

「海外神社 第4回公開研究会---旧樺太における神社の創建と跡地の現況」

2014-11-23 09:42:16 | 海外神社研究会

昨日は、当初の参加人数を大幅に超え、会場は満席になりました。

プログラムに沿って、神社新報社取締役でもあり、非文字史料研究センター海外神社研究員の前田孝和さんの「旧樺太時代の神社について」とロシア・サハリン州文化局顧問のサマリン・イーゴリ・アナトーリエビッチさんの「旧ソ連邦時代の神社政策と神社跡地の現況について」の研究報告がありました。

<前田孝和氏の報告より>

樺太は江戸時代から豊富な漁業資源が開発され、多くの漁民が樺太の地に渡った。文化4年(1807)には既に弁財天が造営されていたとのことである。明治8年(1975)、樺太・千島交換条約により日本は樺太の漁業資源を失うが、その後も漁業は続いたという。明治38年(1905)、南樺太が日本領にになり、改めて漁業が自由に行われた。そして、より多くの日本人が樺太に渡った。明治43年(1910)、樺太庁が設立されるに至り、数多くの神社造営も行われるようになった。前田氏の資料によると、官幣大社1、県社7、指定護国神社1、務各社118、未公認152社の合計279社が造営されたという。

昭和21年(1946)8月9日、ソ連軍の侵攻により、混乱とともに根底から覆された庶民の生活においてもでも神社における祭祀は継続されていたとのことである。

江戸時代、同じように北方領土の開発も始まり、文化3年(1806)、津軽藩と南部藩による探索が行われている。文化4年には日光東照宮の祭神が祀られたようで、一般の海外神社の祭神とは異なっている点は非常に面白い。その北方領土では69社の神社が造営されたという。

 <サマリン・イーゴリ・アナトーリエビッチ氏の報告より>

1985年3月に誕生したゴルバチョフ政権によるペレストロイカ(改革)により、日本統治時代の文化遺産もサハリン州の文化遺産であるとし、その後、国の保護下におかれた。更にはサハリン州郷土博物館と北海道開拓記念館との間で結ばれた研究協力協定により、本格的な学問の交流が始まり、樺太時代の文化遺産保護の基盤が出来あったという。1998年11月には「ロシア連邦サハリン州と日本国北海道間の有効および経済協力協定」が結ばれ、翌年には日露共同調査団の調査が行われた。2005年5月に行われたサハリン州文化局での学術報告会では、17の神社を含む樺太庁時代の53件の物件リストが発表された。そして、1994年には日本時代の遺産物件の発見作業としてサハリン州郷土博物歴史部によって始められ、その後数々の神社遺跡が発見されている。今後、サハリン文化局として、遺跡の保存や神社跡地には案内板を立てて文化遺産として紹介をしようとしているとのことであった。

 

ウィキベディアより:「からふと」の名は、一説には、アイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ 」(kamuy kar put ya mosir) と呼んだ事に由来すると言う。これはアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江(アムール川)の河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされる

※次回の公開研究会は北朝鮮をテーマにする予定です。詳細が決まりましたら改めて連絡いたします。

 報告後の質疑応答

報告をするサマリン・イーゴリ・アナトーリエビッチさん

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