頼子百万里走単騎 "Riding Alone for Millions of Miles"

環境学者・地理学者 Jimmy Laai Jeun Ming(本名:一ノ瀬俊明)のエッセイ

半生の反省

2024-01-28 03:07:21 | 日記
うまくいったことはすぐ忘れてしまう(成功が当たり前)が、やらかしてしまった後悔を忘れることはない。半生における後悔をあげるならば。
1978年(中3)秋の上伊那郡陸上競技会。100mハードルの第一ハードルまでの歩幅調整に苦労し、踏切足を変えないよう、半月前にブロックの配置を正反対にした。しかしなぜか本番でひっかけてしまい予選落ち。5年後に同じ大会の同じ種目(80m)に陸上部以外から選ばれ出場したうちの妹は決勝で3位入賞。なんのための変更だったのか。
1980年(高2)夏の諏訪大社陸上競技会。800mリレーBチームで、前走者のO君を集団の中で一瞬見失い、スタートが完全に遅れて加速も不十分。予選落ち。数か月後、O君は発病して入院するも急逝。
同じく秋の某大会(諏訪地区)で下車する鉄道駅を一駅間違え、朝数キロ無駄に歩く。途中で大会関係者に拾われるも、走高跳は160cmに終わる。
1990年秋~1993年春の2年半。林野庁技官から東大教員に転任した直後。この期間、結婚準備→新婚とあわただしく、かつ博士論文の方向性もしっかり定まっておらず、研究生活も浮足立っていた。先生方は大いに失望されたのではないか。先端研(駒場第二キャンパス)に異動してからはテーマもほぼ固まり、研究費も取れて、学会発表を積み重ねていった。本格的なインターネット時代は未到来であったが、電子メールやUNIXワークステーションでのモデル計算をいち早く使いまくり、若手研究者のネットワークを育てたり。
これ以降の人生が2年半早く動いていたならば、今どんな地位で何をしていたのだろうか。しかしその世界線では、その後取り組むことにはならなかった業績も少なくないだろう。
それ以外では、
1982年(高3)冬の共通一次現代国語。失敗しなかったら理一受験突撃し、合格後は工学部とかを狙ったとしたら、やはり土木系になって、大学院までのルートが若干短縮されていたかも。院試や公務員試験も楽になってたか。
1986年秋~冬。院試等合格後の油断から、日常の交際において失恋の原因がちょっとづつ蓄積していったか。
1993年春。長男誕生直後の岳父母訪問に大遅刻(ヨーロッパ出張→スキー合宿と連続して疲労の極み)、かみさん本人を含め姻族に顰蹙買った。
もうこのあたりはもうどうでもいいとしたい。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 故郷の地域振興(年末年始以... | トップ | 宇宙飛行士ではなくて宇宙冒... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事