実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

加賀の一向一揆・長い冬が百姓を自立させた!

2012年11月30日 | 日記

隊員NO.3せりかで~す(^_^)v

課題研究の時間に家山勉先生から「加賀の一向一揆と蓮如」について教えていただくために、

福井県あわら市の吉崎御坊へ行きました。

白山市にある白山比(はくさんひめ)神社に『白山宮荘厳講中(しょうごんこうちゅう)記録』と

いう文書が残されています。

この史料の1474(文明6)年7月26日の記述には次のようなことが書かれています。

「本願寺威勢ニホコ(誇)リ、寺社ノ領知諸所免田年貢無沙汰」

この記録は、蓮如の信者たちが力を持って、全然年貢を納めなくなってしまったと、嘆いているものです。

また、当時の日本のトップ・室町幕府と関係が深かった京都の相国寺にある

『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』という記録には、

いまの加賀市横北町あたりの有力農民たちが6年間の年貢滞納を領主と話し合って、無しにしたうえで、

年貢の額を4分の1値切ったという記事が残されています。

これらの記録を見ると、政治的、経済的に自立をしてきた百姓たちが、加賀の地で蓮如の教えによって

精神的にも自立を果たして、自信を持って、自らを守るために行動を起こし始めたことがわかります。

「農民はただただ黙って、年貢を納めるだけの存在だ」なんてタカをくくっていた領主たちは、

この革命的な変化に驚くだけだったようです。

蓮如は「」を大変重視しました。「寄り合いを重ねよ」「とにかく、みんなで話をしなさい」と、言い続けました。

北陸には、雪に閉ざされる長い冬があります。それぞれの村の人たちは、冬のあいだ暇を見つけては

村の有力者の家に集まり、蓮如のありがたい御文をもとに、仏の教えを一生懸命学び合ったのだと思います。

そして、お勤めの後には、いろんな情報交換もしたことでしょう。

「あっらの村で年貢まけさしたんやといや!」「うららんとこの領主だちゃかんさけ、なんかせないかん!」

なんていう話し合いもあったかもしれません。

そのような話し合いの様子は、塩や鍬を売り歩いた商人たちによって他の村々へ伝えられていきました。

これらの情報をもとに、それまでバラバラだった惣村同士が横のつながりを強め、行動をともにするようになります。

蓮如加賀の人たちにもたらした思想は、蓮如の意図とは違ったベクトルで爆発していくことになります。

加賀の百姓は、冬の間にじっくりとため込んだ自信をもとに、支配者を驚愕させ、時代を揺り動かす行動を

起こしはじめます

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吉崎御坊・蓮如はなぜ北陸を布教の地として選んだのか?

2012年11月29日 | 日記

隊員NO.3せりかで~す(^_^)v

課題研究の時間に家山勉先生から「加賀の一向一揆と蓮如」について教えていただいたことを

レポートさせていただきます

わたしたちは、蓮如について知るために、吉崎御坊(御山)を見学することになりました。

講師の家山先生は、吉崎御坊(御山)へ行く前に、わたしたちを吉崎東別院会館に

案内してくださいました。そして吉崎東別院会館では、僧侶の道場さんからパンフレットをもとに

蓮如がなぜ吉崎に来たのか」ということについてご説明いただきました。

←1747年に建てられた本堂

蓮如は1457(長禄元)年、父存如が亡くなったのを受けて、京都にあった本願寺の第8世住持職に

なりました。蓮如43歳の時です。浄土真宗の開祖は親鸞ですが、親鸞が寺を持たず、弟子も持たずの精神を

もった人だったために、信者の獲得という点では、とてもさみしい状態でした。そのため本願寺は

とってもまずしく、延暦寺の末寺として、ほそぼそと活動していました。

1461(寛正2)年、「寛正の大飢饉」が起こり、京都には飢餓による死者があふれかえりました。

蓮如はこの事態に直面し、「なんとか貧しい民を救わねば」と、必死にボランティア活動をしたといいます。

また、「この誰も訪れなくなっていた本願寺を何とか立て直したい」と、自らに大きな課題を課しました。

蓮如は、親鸞の直系として、善人なをもて往生をとぐ。いわんや悪人をや 」という開祖・親鸞の正しい

教えを広め、一部の貴い身分の人、知識や学問のある人、寺や塔などを寄進できる金持ちや領主だけを

相手にする旧来の仏教を改革するのだという決意を固めたのでした。

しかし、蓮如の前には大きな障害が立ちふさがりました。蓮如の必死の活動は、「専修念仏のみを重視し、

念仏以外の三宝である仏、法、僧をあなどる誤った考え」であるとして、延暦寺西塔院から敵対視されます。

本願寺は徹底的に破壊され、蓮如は滋賀県の金森道場や堅田道場に移って活動することになります。

しかしここでも本願寺の信者が拡大することに警戒する延暦寺によって攻撃を受け、蓮如は近畿地方で活動を

続けることが困難になったのでした。

このような状況の下、1471(文明3)年の夏、蓮如は越前吉崎にやってきたのです。

蓮如が新たなる根拠地として吉崎を選んだ理由としては、この吉崎蓮如長年にわたって懇意だった

興福寺大乗院の経覚大僧正の土地であったこと、またこの吉崎が新たに発展した北陸における交通の

要所だったこと、そして北陸にはもともと阿弥陀信仰を持つ、白山天台の信者や時宗・真宗他派の人たちが

多くいたことなどが考えられています。

蓮如はひょっとして、この新興の地・北陸で大いなる実験を行おうと考えていたのかもしれません。

「この時代、仏教を広めて行くには、生きることに不安を抱えている民衆の心をいかにつかんでいくかに

かかっている。」「従来の仏教では、民衆の心をとらえることはできない!」

蓮如は北陸の民衆の前で、みずからの罪多き姿をさらけ出しながら、「阿弥陀如来の救い」について説いた

のです。

蓮如の直感、洞察力はある意味あたっていました。この加賀を中心とする北陸は、その後、「南無阿弥陀仏」を

となえる人びとによって、大きな変革が行われていくのです。

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吉崎御坊・生きる喜びと勇気を感じとった人びと

2012年11月28日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す(^_^)v

課題研究の時間に勉強した「加賀の一向一揆と蓮如」について、ご報告しています。

私たちの講師は家山勉先生でした。

1471(文明3)年4月上旬に、蓮如吉崎にやってきました。そして7月27日に、吉崎御坊

建立されました。すると、それまで荒地だった吉崎はまたたく間に発展します。

吉崎御坊には加賀・能登・越中から、さまざまな人びとが、男だけでなく女までも、一目蓮如さまに

会いたいと、やってきます。史料によれば、1、2年も経つとその数は、数千・数万だったといいます。

遠くは東北地方から訪れた人もいました。加賀の人びとは船に乗って、大聖寺川を下って吉崎

集まりました。一帯には50の坊舎や信者が参詣するための宿泊所(多屋)が200軒以上も立ち並び、

寺内町とよばれる町が出来上がりました。

吉崎の町には、多くの店も立ったことでしょうし、品物を運ぶ運送業、海運業の人びともやってきたでしょう。

これまでまるで虫けらのように扱われ、「罪深い人間」として、従来の仏教から見放されてきた人びとが、

仏教は人々を差別しない。阿弥陀如来を信ずる人は、みな平等に救われる。」という蓮如の言葉に励まされ、

いきいきとした顔で吉崎の町を歩いた姿が想像できます。海や山で、そして水田で、毎日の苦しい生活を

通じて鍛えられてきた人びとが一つの信念に結ばれ、声を掛け合いながら、吉崎御坊(御山)への

急な坂道を登っていったに違いありません。

蓮如は、近くの村々へ積極的に出向き、「講(こう)」とよばれる寄り合いを作りました。そして「」は、

生まれにこだわらず、同じ信念で結ばれた者同士が、蓮如から仏の教えを学ぶ場になりました。

蓮如のもとには、「蓮如さん、わたしたちの村(講)にも来てください」「わたしたちにもお話下さい」

といった手紙が届きます。講師の家山先生は、これをスターへのファンレターに例えられました。

蓮如はこれらのファンレターに対し、仏の教えをわかりやすく、短いながらも、とてもやさしい言葉で

書き綴った返事をたくさん書きました。これを「御文(おふみ)」(御文章)といいます。

この御文を受け取った人びとは、これを宝物のように書き写し、次から次へと周りの村()に伝えたと

言います。

蓮如によって始められた「 」という寄り合いは、楽しく明るいもので、一体感に満ちあふれていました。

村人みんなで声を合わせてお勤めをします。お勤めの後には、みんなで食事や酒をとりながら、情報交換を

します。時には、その年の米のとれ具合や年貢の多い少ない、領主の良し悪しなども話し合われたはずです。

」がさらに大きくなり集会場として設けられた特別の場を「道場」といいます。また道場がさらに大きくなった

ものが、のちに「寺」となっていきました。

←冬への準備が整った願成寺(大聖寺鍛冶町)

このようにして加賀の地は、あっという間に「真宗王国」になり、「わたしたちのご主人様は阿弥陀様だけだ!」

と考えた人びとは、支配者に対して公然と反旗をひるがえすようになっていきます。

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加賀の一向一揆・加賀の人びとと蓮如の出会い

2012年11月27日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す(^_-)/

11月20日(火)の課題研究の時間に学習した「加賀の一向一揆と蓮如」についてご報告を続けます。

いよいよ蓮如が越前吉にやってきました。1471(文明3)年6月のことです。

この年は、応仁の乱が始まって4年たった年です。北陸には天然痘が流行し、きびしい年貢の取り立てと、

下克上のたたかいがここ加賀の地にもおよんでいました。

このとき、蓮如は57歳。ききん、疫病、災害で多くの人が若くして亡くなり、平均寿命24、5歳といわれた時代に、

老いのかげりも見せず、ふくよかなその姿を見るだけでも、人びとは「ありがたい」と感激したに違いありません。

お~い!われわれ百姓を救うために、えらい京都のお坊さんがわざわざ吉にやってきてくださったぞ~!

蓮如、吉崎に来る!」というニュースは、人づてに、噂となって、またたく間に加賀地方に広がりました。

人びとは、苦しい生活の中、一目蓮如を見て、ありがたいお話を聞いてみたいと、吉崎に殺到したそうです。

吉崎にやってきた人びとに対し、蓮如はえらぶった様子もなく、寒いときには熱燗(あつかん)を出し、

暑熱のときにはよく冷酒を用意させました。そして蓮如自らが囲炉裏(いろり)を囲んで身分の上下なく、

率直に信じる心(阿弥陀様が罪多きわたしたちを救ってくださる)について語ったのでした。

また時には蓮如自身も人びとといっしょに歌ったり踊ったりと、自分たちと同じところまで降りてきて、

仏の深い教えを胸にしみいるようにわかりやすく語りました。

人びとは蓮如を敬愛していきました。

家山先生は、おもしろい例えを話してくださいました。

「みんな、東京から人気グループ”嵐”がやってきて、わざわざ自分の家の近くで、何度もコンサートを開いたら

どうなるかな?」わたしたちは、「加賀の人だけでなく、北陸各地から多くの人びとがワクワクした気持ちで集まって、

大騒ぎになる」と思いました。

蓮如の吉崎下向は、加賀の人たちにとって、一大センセーショナルな出来事であり、

人びとに都の文化の香りとともに、人生の喜びと生きる勇気を運ぶことになったのです。

蓮如に出会うまで、加賀の農民や漁師、職人、商人たちは「お寺に寄進したり、お寺で

修業する余裕もない自分たちは、死んだら地獄に行くだけ。生きていくのもつらく苦しいし、

死んだ後も苦しみだけが待っている。」と絶望を感じていたのでした。

しかし、蓮如は、「ただあきなひをもし奉公もせよ、猟漁(りょうすなどり)をもせよ」と、

死の恐怖におびえながら、毎日をただひたすらに生活するしかない人びとに、勇気を与えたのです。

加賀の百姓たちに自信がめばえます。「罪深きわれわれまでも阿弥陀様は救ってくださるのだ!」

蓮如に出会った加賀の人びとは、自信を持ち、精神的な自立を果たしていったのです。

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加賀の一向一揆・人びとが行動するために必要だったものは?

2012年11月26日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す(^_-)/

11月20日(火)の課題研究の時間に、「加賀の一向一揆と蓮如」について勉強しました。

講師は家山勉先生でした。

1467(応仁元)年、ついに応仁の乱(おうにんのらん)がはじまります。そしてこの大乱は1477(文明9)年

までの約10年間にわたってつづきました。原因は8代将軍足利義政のあと継ぎ争いです。それに複数の

要因がかさなって、有力守護大名同士があらそい、九州など一部の地方を除いた全国が東軍と西軍に分かれて、

血を流し合いました。この乱の影響で幕府や守護大名の衰退がすすみます。かれらは権力の座から転げ落ち、

時代は「戦国」へと突入していくことになります。

いまの石川県加賀地方は、日本の歴史の中では、比較的新しく開けた所だそうです。時代はというと、

鎌倉時代の初めから中頃だそうです。平安時代の末期ごろから鉄製の農具が安くなり、まず関東平野が

開拓されます。その後開発がすすめられた一つが、加賀平野です。いろんな所から、人々がやってきて、鉄の鍬を

使って、溝を掘ったり、水はけを良くして、新しい田んぼを開いていったのでしょう。お米の生産量も増え、

新しい諸産業もめばえます。室町時代の人口は約1500万人と、鎌倉時代の500万人に比べ、3倍になった

といいます。ですから、まさしく加賀は自分たちの力で築き上げた室町時代を象徴する新しい国だったわけです。

ところが、その自分たちが築き上げた新しい国に、室町幕府から任命されてやってきた守護大名が

「税金を払え!」とドヤ顔をします。とくに、加賀には室町幕府の直轄領(御料所)も多く、京都の動勢に振り回される

ことが多かったという事情もあったようです。ですから、加賀の百姓たちは国人・地侍を中心に

自分たちの村・「惣村」を「自衛」していこうと決意したのです。

応仁の乱の頃になると、加賀の百姓たちは政治的にも経済的にも立派に自立する力を備えていました。

講師の家山先生は、ここでわたしたちに質問をされました。

加賀の百姓たちが、自分たちを守るために、あと一つ手に入れる必要があったのは何でしょうか?

なかなか難しい質問で、わたしたちは答えることができませんでした。

困った顔をしていた私たちに、家山先生はやさしく教えてくださいました。

「それは、精神的な自立です。自分のことを考えてごらん。文句を言える。アルバイトでお金もある。

でも、自分自身に自信がなかったら、何にもできないよね。同じように、当時の加賀の人々に、もう一つ

必要だったのが、精神的な自立、すなわち自信だったんですよ。」

そして家山先生は、

「その加賀の百姓たちに、自信を与えたのが、蓮如というお坊さんです。」とおっしゃいました。

わたしたちには、「自信を持って生きてください」という先生の言葉がとっても印象に残りました。

この後わたしたちは三木地区会館から吉崎御坊に移動して、蓮如についてお話を伺いました。

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加賀の一向一揆の背景・寛正の大飢饉(1461年)

2012年11月25日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す(^_-)/

11月20日(火)の課題研究の時間に、「加賀の一向一揆と蓮如」をテーマに、

講師の家山勉先生から教えていただいたことをもとにレポートします。

1400年代の中頃(室町時代の中期)は、室町幕府の弱体化がはっきりとして、国内の政治は

とっても乱れました。そしてこの時期を生きた人びとは、つねに死と隣り合わせでした。

大風、洪水、兵乱、餓死、干ばつ、大地震が次々とおこり、加賀でも多くの人びとが親や兄弟、

子どもたちを失っていました。

とくに1459年(長禄3年)からは3年続けて、大雨による水害と干ばつが交互に訪れ、さらに虫害と

疫病も加わって飢饉が全国に拡大します。朝廷は、あまりにも不吉なことが多いので、

12月に元号を「長禄」から「寛正」に改めたといいます。しかし、翌年の1461寛正2)年には、

さらに事態が悪化します。これを「寛正(かんしょう)の大飢饉」とよぶそうです。

国中の人の半ばは死に絶え、西日本地方では死人の肉どころか、生きている者同士が殺し合って

肉を食べたといいます。また都があった京都には、村を捨て(逃散というそうです)、

京へさえたどり着けばなんとか生き延びられるのではないか」と、はかない望みを託して

大量の流民が全国から流れ込みました。

しかし、この京都では飢餓と疫病によって、寛正2年の最初の2ヶ月だけで8万2千人もの

死者が出たと言われています。京都を流れる有名な鴨川の河原には、死体がうずたかく積まれ

ついには川の流れはせきとめられてしまいました。そして今の京都駅の近くでは、毎日3,000体の

遺体が穴に埋められましたが、いつになっても遺体がなくなることはありませんでした

北陸の状況も同じで、越前国坂井郡の人びとが半分死に絶えたという記録が残されています。

このような地獄の日々が続いているのに、室町幕府の8代将軍足利義政は何にもしませんでした。

それどころか、この最中に花の御所を改築しようとして、多くの負担を人々に負わせました。

こうした混乱が、その後「天下の大乱」応仁の乱(1467~1477)へとつながっていくのでした。

こんな時代ですから、加賀の農民たちも困り果てました。「どう生きていけばいいかわからない」のに、

政治は何もしてくれないのです。

家山先生は、「今の時代と、とってもよく似ていませんか?」とおっしゃいました。

たしかに昨年3月11日の東日本大震災と原発事故で、16万人もの人々が家にも帰れない状況なのに、

国政は大混乱して、何も解決していませんよね。

このような時代背景の中で、加賀の人々は、一揆をおこし、自分たちの生活を守っていこうとしたのです。

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「加賀の一向一揆」とは何か?

2012年11月24日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す(^_-)/

11月20日(火)の課題研究の時間に、「加賀の一向一揆」について学習するため、

三木地区会館とお隣の福井県あわら市にある吉崎御坊に行ってきました。

今回わたしたちの講師を務めていただいたのは、庄町にある因乗寺というお寺のご住職・家山勉先生です。

家山先生は、以前高校の社会科の先生をされていた方で、大聖寺実業高校でも教えられたことが

あったそうです。先生は、わたしたち高校生の目線に立って、とってもやさしくお話しをして下さるので、

たのしく勉強することができました。家山先生、本当にありがとうございました。

また、三木地区会館では、加賀市観光ボランティア大学の竹本学長にいろいろとお世話いただきました。

今から約650年前の加賀市の歴史を、家山先生からいただいた年表(『加賀市史』より)で見てみると、

それは「加賀の一向一揆」と関係するものばかりでした。

この時代は、室町時代(1334~1573)とよばれていますが、京都にあった室町幕府の将軍の力は

弱く、反対に地方を支配する守護大名の力が強い時代でした。ですから、1441(嘉吉元)年には、

6代将軍足利義教(あしかがよしのり)が有力大名の赤松満祐(あかまつみつすけ)に殺害されるという

とんでもない出来事も起きています。

支配者の力が弱いと、いつの時代でもまとまりがなく、とっても不安定な状態になります。

まさしく、室町時代の中期がそういった時代で、人々は社会不安の中で生きていかなければ

なりませんでした。そして、何かが起こったときに、いつも苦しめられるのが、社会の下層にいる

「百姓」たちでした。「百姓」とは農民・手工業者などさまざまな職業につく一般人のことです。

この時代には、農業生産力が大きくなり、新たな手工業もうまれてきますが(石川県の輪島塗が

はじまったのもこのころです)、かれらは社会不安の中で、自分の土地や収穫物を自分の手で

守っていく必要があったのです。

そのような背景から、登場するのが武士です。ただ武士といっても、平安時代後期の平氏や源氏の

ようなエリートたちではありません。それは「足軽」といわれる地方の地侍(じざむらい)たちの

ことです。そして、百姓たちは地侍のもと、自分たちの身を守るために協力して生きるようになりました。

そこに成立したのが、「惣村(そうそん)」とよばれる地域的な結合です。かれらは、それまでの

守護-地頭-農民とか、領主-荘官-農民という縦の関係とは違う、横の結びつきをもって、

惣村」を「自衛」していくようになったのです。

加賀の一向一揆」は、このような時代背景の中で歴史にあらわれてくるのです。

これからしばらく、家山先生から教えていただいた「加賀の一向一揆と蓮如」のことをレポート

させていただきますので、応援よろしくお願いしま~す!

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大聖寺・災害が忘れる前にやってきた江戸時代

2012年11月23日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v/

←錦城山と白山

天災は忘れた頃にやってくる」という有名な言葉があります。 一般には物理学者・

寺田寅彦の言葉として知られていますが、 最初に文字にして広めたのが、寺田の弟子に

あたる片山津出身で大聖寺で育った雪の科学者・中谷宇吉郎(1900~1962)であると

言われています。

しかし加賀市観光ボランティア大学第15回講座でいただいた資料「藩史略年表」を見ると、

江戸時代の大聖寺には「天災は忘れる前にやってくる」と思えるくらい、次々と天災が

襲いかかっていたことが分かります。

そしてそれは「地震・雷・火事・おやじ」ではなく、地震・洪水・火事・ききんだったようです。

←大聖寺川

大聖寺では江戸時代に、資料にあるだけでも次のような災害が起こっています。

1640(寛永16)年10月10日 大聖寺に大地震、町屋・人馬の被害拡大

1671(寛文 5)年   7月  4日 大聖寺川大洪水

1672(寛文 6)年   6月  2日 大聖寺川大洪水

1681(天和 元)年  7月      領内飢饉、この日までにの餓死者2587人

1701(元禄14)年  8月18日 大聖寺川大洪水

1707(宝永  4)年10月  4日 金沢・大聖寺に大地震

1712(正徳 元)年10月  4日 凶作のため、正徳の大一揆(~9日)

1723(享保 8)年  8月10日 大聖寺川大洪水

1729(享保14)年  4月29日 大聖寺大火、400軒余焼失

1758(宝暦  8)年  2月20日 大聖寺大火、200軒余焼失

1760(宝暦10)年 2月 7日 大聖寺大火、1252軒焼失

1768(明和 5)年 5月29日 大聖寺川大洪水

1773(安永 2)年 7月11日 領内大洪水、田畑流失

1783(天明 3)年 7月11日 大聖寺川大洪水。大凶作、餓死者多数

1796(寛政 8)年 4月 6日 大聖寺火災、121軒焼失

1799(寛政11)年 5月26日 金沢・大聖寺に大地震、藩邸内の土蔵倒壊

1820(文政 3)年 6月  8日 大聖寺川大洪水

1839(天保10)年 9月     凶作により年貢収納不能

1862(文久 3)年 5月20日 大聖寺川大洪水

6月の加賀市観光ボランティア大学第5回講座のときに、大聖寺には熊坂谷断層が走っていて、

記録によれば、111~112年周期に大地震が起こっているというお話も聞きました

1940(昭和15)年に大聖寺沖地震(マグニチュード7.0)が起きています。十分な備えが

必要ですね。それから、先日大聖寺で火事があって、なくなられた方が出ました。

いよいよ冬を迎えます。みなさ~ん、くれぐれも「火の用心」をしましょう!

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大聖寺藩・死んだ後、藩主になった13代利行(としみち)

2012年11月22日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v/

加賀市観光ボランティア大学第15回講座で、伊林永幸先生に用意していただいた

大聖寺藩歴代藩主一覧」を見ると、不幸にして若い時になくなっている藩主が多いこと

にビックリします。

←実性院にある大聖寺歴代藩主の墓

7代利物(としたね、1760~1788)29歳、8代利孝(としやす、1779~1805)26歳、

10代利極(としなか、1812~1838)27歳、11代利平(としひら、1823~1838)25歳、

12代利義(としのり、1823~1855)23歳、13代利行(としみち、1835~1855)21歳

と、歴代14代の大聖寺藩主のうち、6人もの人が20歳代にして、その生涯を終えている

のです。そしてその中の一人、第13代藩主前田利行は、何と亡くなった後で藩主に就いた

人なんです。

←大聖寺藩庁跡である錦城小学校グラウンド

利行は1835(天保6)年7月26日に、金沢藩13代藩主・前田斉泰の五男として金沢で

生まれました。利行1855(安政2)年4月20日に兄で大聖寺12代藩主であった利義

斉泰の三男)が23歳の若さで急死したため、その養子として跡を継ぐ準備をしていたの

ですが、その利行も正式に家督を継ぐ前の5月18日に金沢で病死してしまいます。こちらも

まだ21歳の若さででした。

本来、家督を継ぐときには、前もって江戸幕府の将軍(その時の将軍は徳川家定でした)に

御目見得しておくのが通例であったため、大聖寺藩も、宗家である金沢藩も改易(お取り潰し)

になっては大変と、大慌てします。

そこで苦肉の策として、「家督を継ぐ予定の利行が江戸に向かう途中病気になってしまった

ので、代わりに弟・桃之助(斉泰の七男)が挨拶をします」と言って、御目見得を終わらせます。

そして御目見得が終わった後、「実は、利行が結局病気が悪化して、江戸に行く途中死んで

しまいました」と幕府に報告をして、急場をしのぐのです。

江戸幕府はうすうすこの事情を知っていたのでしょうが、大聖寺初代藩主前田利治の母が

2代将軍秀忠の娘・珠姫であることや、利行の母(金沢藩13代藩主・前田斉泰の側室)が

将軍家定の養女であったことから、特別に跡を継ぐことを許し、利行は正式に13代大聖寺藩主

就くことができたのです。

利行の亡骸はその年の12月16日に金沢を出発します。途中、松任・小松に宿泊しながら、

18日には大聖寺藩陣屋前を経由し、実性院に運ばれ、密葬が執り行われました。また本葬が

翌年1月28日に執行されています。

このようなことから、13代藩主前田利行は、本当は死んでいたのですが、1855(安政2)年

7月12日から10月29日までの3ヶ月間、大聖寺藩主を務めたことになっているのです。

←利行の亡骸はこの前を通過したのでしょうね。

14代藩主には、弟桃之助が利行の末期養子として着任し、前田利鬯(としか)を名乗ります。

そして、この前田利鬯大聖寺藩最後の藩主となるのです。

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大聖寺藩の危機・3代利直の時の出来事

2012年11月21日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v/

加賀市観光ボランティア大学第15回講座で、伊林永幸先生にお話しいただいたこと

もとに、レポートしています。

←加賀市観光ボランティア大学にて

大聖寺藩の体制は初代利治、2代利明の時期に築かれました。そしてその後を引き継いだ

のが利明の三男として江戸で生まれた利直(1672~1710)でした。利直は、1684

(貞享元)年に5代将軍・徳川綱吉に御目見得して以降、綱吉の寵愛を受け、外様大名の

立場にもかかわらず、1691(元禄4)年に奥詰に任じられ、生活のほとんどを江戸で送る

ことになった人です。

5代将軍・徳川綱吉は犬公方といわれ、「生類憐みの令」を発しました。利直が綱吉の

お気に入りであったことから、大聖寺藩は1695(元禄8)年に御手伝普請として、大久保・

中野に犬小屋の建造を命じられることになります。その仕事は半端なものではなく、なんと、

敷地16万坪の中野に、25坪の朱塗りの犬小屋を290棟、7.5坪の犬の日除場を295棟、

子犬の養育所を459ヵ所も設置しなければならないものでした。この御手伝普請により、

大聖寺藩はたちまち財政困難に陥っていきます。

また、利直がほとんど大聖寺に戻らない定府大名だったことから、藩政を家臣団に任せ

ざるをえませんでした。利直初代利治、2代利明のときの功臣・神谷守政よりも、

若い村井主殿(とのも)を重用したために、藩内で「元禄騒動」とよばれる神谷派対村井派の

権力闘争が起こってしまいます。背景には元禄バブルの中で生活に困った家臣団の不満が

あったと考えられています。

この騒動は、公金使い込みを理由とした村井主殿の切腹と神谷守政の子・守応の金沢召還

で決着しますが、大聖寺の藩政は混乱をきわめました。

さらに、利直が晩年の頃には、不幸な出来事が続きます。1709(宝永6)年、5代将軍綱吉

が死去し、奥詰を解任されます。そして弟・利昌が「采女(うねめ)事件」というとんでもない

刃傷事件を起こしてしまうのです。

利直1692(元禄5)年に父利明の後を継いだとき、弟の利昌(1684-1709)に1万石を

分与して支藩である大聖寺新田藩を作りました。この大聖寺新田藩は独自の藩庁などの

行政機関も持たず、最初は荻生村の「采女屋敷」で、のちに新町の役所で1万石分の米の

経理を行うようなものでした。

1709(宝永6)年2月15日、上野の寛永寺で綱吉の葬儀が行われました。

このとき、利直弟の利昌は中宮使饗応役を命じられましたが、同役の大准后使饗応役は

犬猿の仲であった大和国柳本藩の織田秀親(織田信長の弟織田有楽齋の子孫)でした。

翌16日に事件が起きます。利昌が寛永寺吉祥院の宿坊で秀親を刺したのです。秀親は

即死だったそうです。

凶行の前日、利昌は家臣に赤穂事件について感想を求め、家臣「内匠頭は斬らずに刺せば

本懐を遂げられた」と答えたという記録が残っています。

犯行後、利昌は女装して、現場から大聖寺上屋敷に逃げました。しかし事の重大さから宗家で

ある金沢藩が幕府に通報し、利昌は山城国淀藩主石川義孝に預けられ、18日には切腹と

なったのでした。

その後、大聖寺新田藩は廃藩となり、幕府に一旦収公されますが、すぐに大聖寺藩に1万石は

還付されました。不幸が続く中で、利直は1710(宝永7)年12月13日に永眠します。

←利直も眠る実性院の大聖寺歴代藩主の墓

桜の咲く季節、また晩秋の紅葉の頃にとっても美しい長流亭は、この利直の休息所として

1709(宝永6)年に建造されたものです。

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大聖寺藩の十村制度

2012年11月20日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v/

今日は、加賀市観光ボランティア大学第15回講座 大聖寺いいとこ つまみどり」

勉強したことをもとに、レポートをお送りします。

←白山、鞍掛山をバックに広がる江沼平野

大聖寺藩では、町奉行が大聖寺城下の町人たちを、郡(こおり)奉行が領内の村々に住む

農民を支配していました。そして村々を支配するために、大聖寺藩では、加賀藩にならって

十村(とむら)制度」というしくみを採用していました。この「十村制度」は、地元の

有力農民を「十村として藩の味方につけ、農村全体を管理・監督し、年貢の収納を

スムーズにするためにつくられた制度だそうです。

十村制度が導入された背景には、加賀前田家と加賀一向一揆との関係があるといいます。

加賀藩の藩祖である前田利家は、織田信長の命を受けて加賀一向一揆を鎮圧しましたが、

その際に門徒1000人以上を虐殺したといわれます。そしてこの一揆に対する弾圧により

加賀の労働人口が大幅に減少したため、加賀藩内では年貢の徴収がはかどらなかった

ようです。一方、前田家は100万石を有する強大な外様大名であったため、江戸幕府から

度重なるお手伝い普請や軍役を命ぜられ、その支出はかさむ一方でした。そのため徴税に

あたる「給人」(家臣や代官)が農民からきびしく年貢を取り立てようとしましたが、父祖を

殺りくされた加賀の農民たちの怒りは増大し、捨て身のサボタージュや逃散が相次ぎました。

加賀藩はもしこれ以上農民を追いつめて、大規模な一揆でも起こったら、幕府に介入の

糸口を与え、減封改易を受けることを免れない危機的な状況に追い込まれていたのでした。

現に、3代藩主利常は、1631(寛永8)年から3年間、謀反の疑いをかけられ、江戸の上屋敷で

軟禁されるなど、江戸幕府からにらまれていました。

だから、利常は前田家のおかれた危うい立場をしっかり胸に刻みながら、藩政の安定化を図る

必要がありました。農政改革をすすめる利常は、加賀地方の農村部に一向一揆の際に

組織された門徒指導者を中心とする社会秩序が江戸時代に入ってもしっかり機能していること

に着目します。そして、思い切って農村の監督・徴税を農村の有力者に委ねることにしたのです。

この「十村制度」には3つのメリットがありました。まずは「農民にとってのメリット」です。

徴税するのが仇敵である前田家の侍や役人ではなく、昔からよく顔を知る信頼あつい農民なので

抵抗感が少なくなりました。

2つめは十村にとってのメリット」です。十村につくことで、自分の持っていた既得権を藩から

公認された形となります。また扶持も与えられ、その権利は多くの場合世襲となって継承され

ました。

そして「藩にとってのメリット」です。万一、徴収が厳しく農民が不平を訴えたとしても十村

農民であるため、この制度により、農民同士の争いとして処理することが可能になったのです。

←小塩辻にある十村屋敷跡

大聖寺藩内の村々は、8行政区=組(西ノ庄・北浜・潟端・能美境・那谷谷・四十九院谷・紙屋谷・

奥山方)に分けられ、それぞれ十村が置かれました。十村は、郡奉行や改作奉行の下位、

肝煎の上位に位置し、大聖寺藩の農政実務をおこなう上で、大きな役割を果たしました。

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大聖寺・どんどん膨れあがった城下町

2012年11月19日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v/

今日は、加賀市観光ボランティア大学第15回講座 大聖寺藩いいとこ つまみどり」で、

伊林永幸先生からお伺いした城下町・大聖寺のことをお伝えします!

みなさん、江戸時代の大聖寺城下町に一体どれぐらいの町人が住んでいたかご存じ

ですか?残念ながら当時の戸籍のようなものは残っていないので、人口は不明です。

しかし、1786(天明6)年にあった町方の戸数が865軒、そして86年後の1872

(明治5)年に大聖寺全体の戸数が2,058軒あったことが分かっています。1872年

軒数には武家の戸数も含まれていますので、幕末の時点では町人の家はざっと

1,000~1,500軒程度であったと考えられます。

ですから、江戸中期から後期にかけて、大聖寺城下町には周辺の農村からとっても

多くの人々が流入し、大聖寺人口が急増し、町の数がどんどん増えていったことが

分かります。そして農村からやってきた人々が城下町の町末に居住し、下層民として

大聖寺を支えていた様子が感じ取れます。

大聖寺に最初にできた町人の町は、いまの京町でした。京町山口玄蕃が統治した時代

に、都から招かれた町人たちが核になってできたものです。そして本町や最初は旅籠町と

いわれた山田町にも有力商人が住んでいました。また、文字通り片側は荒地だった片原町

紺屋町といわれた寺町、鍛冶職人が集住してできた鍛冶町親方層と職人達が混住して

いた福田町などもできました。

その他にも魚類の振売商人が集住した魚町や当初は町名を持たなかった町並に、中町

関町下新町(いまの荒町)、木挽・大工が住む五軒町という町ができていきました。

財政難であった大聖寺藩にとって、大きな収入源となった商品作物は、茶・絹・紙の3つでした。

このような産物をもとに町の商人たちが納める運上銀は藩にとって大変重要なものだった

のです。元禄期以降、武家社会が充実してくると、武家の奉公人である小者・草履取・中間と

呼ばれる人々が不足がちとなり、農村から1年契約で奉公人を雇い入れるようになります。

農民にとって、武家での奉公は大変な仕事でしたが、ご飯が食べられ、少ないながらも給金が

もらえるので、農業に比べればはるかに楽なものでした。そこで武家に奉公する農民が増えて

いきます。そして年季が明けると農村に帰ることなく、今度は町屋に奉公し、そこから才覚次第

で給金を貯めて商人になったり、あるいは地子町に家を建てて城下町の町人となる者も

続出しました。

このような小商人、職人の居住する地が、魚町の南側や荒町(下新町)の末端、越前町

大聖寺川を越えた道路沿いの敷地新町相生町を築き、大聖寺の町は拡大していったようです。

このような町は、農村から出てきた人が住みついた町なので、「在郷町」と呼ばれていたそうです。

大聖寺藩は、先進諸国で貨幣経済に転換しつつあった時代になっても、農民の年貢に頼った

しくみをとっていたので、農民の生活は困窮していたようです。そのことから、元禄期以降、

農民の階層分化がすすんだこともあって、農民の大聖寺城下町への流入が増えていったようです。

村に残った農民たちも、都市向けの商品作物を作るようになります。また、山中村と山代村が

温泉地として湯治客を集客したり、海に近い村では製塩、そのほかに真綿、蚕種を生産して

利益を上げる村がでました。

貨幣経済の浸透は大聖寺藩に大きな変化をもたらすことになったのです。

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大聖寺藩の新田開発と正徳の大一揆

2012年11月18日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v/

加賀市観光ボランティア大学第15回講座 大聖寺藩いいとこ つまみどり」で、

伊林永幸先生から教えていただいたことをもとにレポートを続けます。

←一面に広がる加賀平野と白山

大聖寺藩は1639(寛永16)年6月に初代藩主前田利治によって立てられました。

立藩当初は7万石、1821(文政4)年、9代藩主利之(としこれ)の時に10万石に

高直しされました。そして1871(明治4)年、14代藩主利鬯(としか)の時に廃藩置県で

なくなるまで、230年以上にわたってこの地域を治めました。

江戸時代の日本は農業国家です。大聖寺藩の約230年間はいかにたくさんお米を作る

かが、藩にとっての最大の課題でした。ですから、少しでも米の生産量を増やすために、

新しい田んぼづくり(新田開発)に力が注がれました。

加賀市の里山の山すそは、そのほとんどが「ストン」と切れ落ちているそうです。それは、

切添新田といって、大聖寺藩が少しでも水田を増やすために開発をしていた証拠です。

また、市ノ瀬用水や矢田野用水がつくられて、それまで荒れ野だったところが、次々と

水田に生まれ変わっていきました。特に、矢田野用水は、ときの家老神谷内膳が、

1673(延宝7)年11月に、自ら矢田野に引越し、総延長11.1kmの難工事わずか

6ヶ月で成し遂げたことで知られています。この矢田野用水は、いまの横北町の動橋川

から取水し、法皇山の下をトンネルで抜け、宇谷川を水路橋(28.8m)で渡り、

那谷川の下をサイフォンで潜っています。そして難所といわれた「小手ヶ谷」を通過して、

分校・箱宮の境に89mのトンネルを作って、二ツ梨・矢田野へたどりつかせるものでした。

しかし、このように苦労して完成した用水も、1675(延宝9)年6月の田植えの後、

難所「小手ヶ谷」が陥没し、昼夜兼行で改修作業にあたらなければなりませんでした。

この時、多くの犠牲者が出たといわれます。地元では、毎年蒸し暑い日の日没頃、

どこからともなく何億という白い蝶があらわれて、夜明けになると力尽きて川面を埋め

つくしたというお話しが残っています。それは、その工事で亡くなった人の霊である

言われました。

←現錦城小学校に場所に大聖寺の陣屋がありました。

大聖寺町の周辺部は、今でも地方(じかた)町と呼ばれていますが、これは大聖寺の町人の

資本で新たに開発された水田があった所です。財政が苦しかった大聖寺藩では、新田開発も

町人の力を頼る必要がありました。今の大聖寺東町(加賀体育館周辺)は、大聖寺山田町の

町人が、そして今の大聖寺西町や西栄町などは、大聖寺本町や京町にいた町人の力で

開発されたそうです。大聖寺東町周辺は、三谷川の氾濫原だったところで、何万本もの松くいが

打たれて、やっと田んぼができたそうですよ。

これらの新田開発によって、大聖寺藩は実高(実際にとれるお米の量)が8万石になった

のですが、江戸幕府から申しつけられるお手伝い普請や天災によって、慢性的な赤字に

陥っていたようです。

1712( 正徳2)年には、大聖寺藩全域で北陸最大級の一揆、正徳の大一揆(全藩一揆)が

起こっています。この年台風や塩害の影響で米が不作だったにもかかわらず、大聖寺藩

年貢の減免を認めなかったことから起こった一揆です。大聖寺藩は、財政難から、年貢の

取り立てが厳しい藩だったようです。この一揆は、15歳から65歳までの男は1人残らず、

しかも肝煎(きもいり、名主)などの村役人から水呑百姓・下人(げにん)にいたるまで、

十村以外のすべての農民諸階層が参加した惣(そう)百姓一揆の典型として、日本の歴史に

おいても特筆されるものだそうです。

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山口玄蕃・大聖寺がこよなく愛す悲劇の城主

2012年11月17日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v/

昨日は天気が良くて、白山の眺めが最高でしたね!実高から見る白山がとっても

きれいでしたよ。

↑大聖寺から見た白山(2012年11月16日)

さて、加賀市観光ボランティア大学第15回講座で、伊林永幸先生に習ったことを

ご紹介しています。

今日は大聖寺の人々が今でもこよなく愛している元大聖寺城主のお話しです。

その人の名は、山口玄蕃宗永(げんばむねなが、1545~1600年)です。

大聖寺には、「げんば通り」、「げんば堂」、「玄蕃供養祭」など山口玄蕃ゆかりのものが

たくさんあります。関ヶ原の戦いの前哨戦といわれる「大聖寺城のたたかい」で非業の

最期を遂げた山口玄蕃に対する大聖寺町民の親しみがよくわかります。

←山口玄蕃の首塚

山口玄蕃は豊臣秀吉に才を認められ、一時小早川家の筆頭家老として小早川秀秋

(秀吉のおい秀俊)に仕えていました。そして秀秋の越前・加賀南部(江沼・能美)への

転封にともない、大聖寺やってきたのでした。その後小早川秀秋は旧領に帰りますが、

山口玄蕃は秀吉の直臣に戻り、1598(慶長3)年4月、大聖寺領主として江沼郡7万石

を支配することになったのです。

その年の9月18日、豊臣秀吉が亡くなりました。日本は石田三成方(西軍)と徳川家康方

(東軍)へと分かれ、天下分け目の決戦となる関ヶ原の戦い(西暦1600年10月21日)へ

となだれこみます。

山口玄蕃は豊臣家への恩義から三成につきます。一方、金沢の前田利長は家康につく

ことになりました。いよいよ関ヶ原の戦いがはじまる直前です。1600年7月26日に

前田利長は約2万の大軍を率いて金沢城を出ます。当初、玄蕃と同じ西軍の丹羽長重がいる

小松城を攻撃するかに見えましたが、利長は戦上手で知られる丹羽長重を避けて、

8月1日に加賀の松山城に入城します。玄蕃は知らせを聞いて大聖寺城の防備を固め、

小松城の丹羽長重や近隣の西軍方の仲間に救援依頼の使者を派遣しましたが、

間に合いませんでした。翌2日、利長は使者を送って玄蕃に降伏を勧告しました。

しかし彼は利長の攻撃に憤激して勧告を拒否したのでした。その後和睦を図る動きも

あったのですが、ついに大聖寺城の戦い」がはじまります。

←大聖寺城跡がある錦城山

大聖寺城に立てこもる山口玄蕃勢はわずか500余人。それに対して前田利長勢は

何十倍もの大軍です。前田勢は後続の軍勢もぞくぞく参戦して、2昼夜にわたり、城の

外周で激戦が展開されました。山口玄蕃の長男修弘は果敢に出撃して、前田勢に

被害を与えましたが、前田勢の鉄砲隊の一斉射撃を受けて、やむなく城内に退却します。

前田勢の猛攻撃に対し、玄蕃父子が率いる軍勢もひるまず反撃しますが、

数の差はいかんともしがたく、ついに玄蕃は塀の上から降伏の意思を伝えました。

しかし、800人もの戦死者が出た前田勢は復讐に燃え、これを許さず、城内に突入します。

8月3日の夕方、大聖寺城は陥落、山口玄蕃・修弘父子は福田橋のたもとで自害を

果たしていきます。

←げんば通り

山口玄蕃宗永と長男修弘の墓は大聖寺の全昌寺にあります。また次男の弘定は父の

遺志を継いで大坂城に入城し、大坂の役で戦うことになったのでした。

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城下町大聖寺の基礎をきずいた溝口秀勝

2012年11月16日 | 日記

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加賀市観光ボランティア大学第15回講座大聖寺いいとこ つかみどり」で、

伊林永幸先生から教えていただいたことをもとにお伝えします。

大聖寺という名前が初めて歴史にあらわれるのは、1163(長寛元)年にできた

『白山之記』という本です。白山五院の一つとして「大聖寺」というお寺の名前が

書かれています。このお寺は、たぶん錦城山の上にあっただろうと考えられています。

大聖寺で起こった出来事が明らかになるのが、多くの侍たちが誕生し、全国を舞台に

活躍する南北朝時代以降です。『太平記』には、1335(建武2)年に敷地方天神の

神官狩野氏を中心とした郷党が、錦城山にあった大聖寺城で北条氏の残党である

名越(なごや)太郎時兼を破ったことや、2年後の1337(延元2)年に南朝方の

畑時能(ときよし)が狩野方を味方として、荻生山の津葉城を攻めて大勝利をあげた

ことなどが記録されています。ちなみに、畑時能という人は『太平記』に日本一の

大力の剛の者と書かれている人で、忠犬”犬獅子”を従えて活躍したそうですよ。

さて、城下町大聖寺の基礎を作り上げたのは、前田家だったように思われがちですが、

実はそうではなく、溝口秀勝(1548~1610年)という人です。

溝口秀勝は、尾張国中島郡西溝口村出身で、織田信長の家臣・丹羽長秀に仕えて

武功をたて、1581年に長秀の与力大名として若狭国高浜城主となり、5千石を与え

られました。1583(天正11)年の賎ケ岳の戦いでは、敦賀にあった羽柴秀吉軍に

味方して、柴田勝家を破るために大活躍しました。溝口秀勝その功績により、

1584(天正12)年8月に大聖寺城主となり、4万4千石を

与えられました。また翌年には、主君の丹羽長秀が病没したことを受け、独立した

一大名となりました。

溝口秀勝はその後15年の長きにわたって、大聖寺を治めましたが、とっても忙しかった

ようです。1587(天正15)年には、700人の兵を率いて秀吉の九州島津征伐に従軍、

1590(天正18)年には、秀吉の小田原北条攻めに北陸軍団の第一線部隊として

従軍しています。さらに、1592(文禄元)年から1598(慶長3年)まで続いた秀吉の

朝鮮出兵のさいには、肥前名護屋の本営勤務を果たしました。

このほかにも、大坂城の普請手伝い、京都東山の大仏殿造営の手伝いなど、

溝口秀勝従軍と普請手伝いに明け暮れたようです。

1598(慶長3年)4月、溝口秀勝は越後の新発田藩6万石に移封され、初代藩主に

なります。6万石といわれて新発田に乗り込んだ秀勝は、領地の大半があばれ川である

阿賀野川がつくる湿地帯だったので頭を抱えたという話です。しかし、秀勝は同じく湿地帯

である大聖寺での経験を生かして治水・排水・新田開発に努めたといいます。

溝口秀勝はその経歴をみると、土木や建築に長けた人物だったのでしょうね。

城下町大聖寺の街並みには、溝口秀勝の頃の歴史がしっかりと刻まれているのです。

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