隊員NO.3せりかで~す(^_^)v
課題研究の時間に家山勉先生から「加賀の一向一揆と蓮如」について教えていただくために、
福井県あわら市の吉崎御坊へ行きました。
白山市にある白山比(はくさんひめ)神社に『白山宮荘厳講中(しょうごんこうちゅう)記録』と
いう文書が残されています。
この史料の1474(文明6)年7月26日の記述には次のようなことが書かれています。
「本願寺威勢ニホコ(誇)リ、寺社ノ領知諸所免田年貢無沙汰」
この記録は、蓮如の信者たちが力を持って、全然年貢を納めなくなってしまったと、嘆いているものです。
また、当時の日本のトップ・室町幕府と関係が深かった京都の相国寺にある
『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』という記録には、
いまの加賀市横北町あたりの有力農民たちが6年間の年貢滞納を領主と話し合って、無しにしたうえで、
年貢の額を4分の1値切ったという記事が残されています。
これらの記録を見ると、政治的、経済的に自立をしてきた百姓たちが、加賀の地で蓮如の教えによって
精神的にも自立を果たして、自信を持って、自らを守るために行動を起こし始めたことがわかります。
「農民はただただ黙って、年貢を納めるだけの存在だ」なんてタカをくくっていた領主たちは、
この革命的な変化に驚くだけだったようです。
蓮如は「講」を大変重視しました。「寄り合いを重ねよ」「とにかく、みんなで話をしなさい」と、言い続けました。
北陸には、雪に閉ざされる長い冬があります。それぞれの村の人たちは、冬のあいだ暇を見つけては
村の有力者の家に集まり、蓮如のありがたい御文をもとに、仏の教えを一生懸命学び合ったのだと思います。
そして、お勤めの後には、いろんな情報交換もしたことでしょう。
「あっらの村で年貢まけさしたんやといや!」「うららんとこの領主だちゃかんさけ、なんかせないかん!」
なんていう話し合いもあったかもしれません。
そのような話し合いの様子は、塩や鍬を売り歩いた商人たちによって他の村々へ伝えられていきました。
これらの情報をもとに、それまでバラバラだった惣村同士が横のつながりを強め、行動をともにするようになります。
蓮如が加賀の人たちにもたらした思想は、蓮如の意図とは違ったベクトルで爆発していくことになります。
加賀の百姓は、冬の間にじっくりとため込んだ自信をもとに、支配者を驚愕させ、時代を揺り動かす行動を
起こしはじめます。