実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

瀬越町・北前船主と白山神社

2013年04月30日 | 日記

隊員NO.4まこで~す(^_^)v

加賀市観光ボランティア大学第2回講座 「加賀海岸の自然と蓮如の里」で

北前船の歴史を今に伝える瀬越町白山神社を見学させていただきました。

瀬越は橋立や塩屋とならんで北前船主が多くいたところです。

1888(明治21)年には、瀬越に11人もの北前船主(橋立29人、塩屋14人)

がいました。中でも広海二三郎と大家七平は、明治期に橋立や塩屋の

北前船主をしのぐ大活躍をしました。また角谷甚太郎、角谷甚吉、

板谷吉五郎などの船主も大きな力を持っていました。

この瀬越白山神社は、瀬越の北前船主たちがたくさんの船絵馬を寄進した

ことで知られています。そしてその中の多くが、現在橋立町にある

北前船の里資料館」展示されています。

また境内には北前船主が寄贈した石碑も数多くありました。下の写真の石碑には、

廣海二三郎が設立した「広海汽船」の乗組員の名前が記されていました。

江戸時代の末期、大聖寺藩は大変な財政難に陥っており、瀬越や橋立の北前船主

多額の政治献金をして救ったといいます。大家家は1851(嘉永4)年には

御用金530両、1867(慶応3)年には4200両を大聖寺藩のために用立てました。

そのことと関係があるのか、大聖寺藩14代藩主前田利鬯(としか)が神社の鳥居の

題字を書いています。

さらに、瀬越北前船主大聖寺藩の宗家金沢藩とも関係が深かったようで、

金沢前田家の家紋が描かれた石碑がいくつもありました。

本殿の前に置かれた狛犬は「あ、うん」ととっても仲が良さそうでした。

「あ」と口を開けた犬の下には子犬がだっこされていて、すごくかわいかったですよ!

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北前船主・広海・大家御両家の歴史が残る瀬越町

2013年04月29日 | 日記

隊員NO.4まこで~す(^_^)v

 

4月27日(土)に行われた加賀市観光ボランティア大学第2回講座

 加賀海岸の自然と蓮如の里」で北前船の歴史が残る瀬越町を歩いてきました。

瀬越町はかつて「北前船主の里」として知られている橋立町よりも、

さらに大きな財力を持っていた広海(ひろみ)大家(おおいえ)家があった町です。

何と瀬越町には日本で最初に舗装道路が作られたんですよ(現在の竹の浦館前)。

今も残る大家家の屋敷の前を歩きましたが、北前船が盛んだった時代を

今に伝えていました。屋敷の門が立派で、塀の釘一本一本がとてもしっかりしていました。

広海家の屋敷は今はなくなり、整地されていましたが、とても広かったことが分かります。

19世紀後半、瀬越には12~13人の北前船主がいました。それ以外にも瀬越には

「知工」(事務係)、「表」(航路の案内係)、「水夫(かこ)」(水夫)、「炊(かしき)」(炊事係)を

つとめる人びとが暮らしていて、瀬越北前船は切っても切り離せない関係でした。

そして大家・広海両家のことを町の人たちは敬愛をこめて御両家と呼んでいたそうです。

大家・広海両家は瀬越小学校(現在の竹の浦館)の建設や瀬越町内にある白山神社の

鳥居奉納に大きな力を注ぎました。現在でも、北前船が盛んだった頃の面影が、

大家家の屋敷、町内に残るいくつかの倉、白山神社や公民館の船絵馬(北前船の航海の

安全を祈願して作られた絵馬)などから伺うことができます(白山神社や公民館にあった

絵馬は現在、橋立の北前船の里資料館に展示されています)。

みなさん、このゴールデンウィークに、竹の浦館でおいしいおにぎりでも食べて、

ゆっくりと瀬越の町を散策してみられてはいかがですか?

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塩屋海岸と鹿島の森に行ってきました!!

2013年04月28日 | 日記

隊員NO.4まこで~す(^_^)v

わたしは4月27日(土)13時30分から行われた加賀市観光ボランティア大学

第2回講座 加賀海岸の自然と蓮如の里-イソスミレ、鹿島の森を訪ねて-」に

隊員NO.6れいなと2人で参加しました。

講師は加賀市観光ボランティア大学竹本学長と自然観察がご専門の

村谷邦彦さんでした。とってもわかりやすい解説ありがとうございました。

朝はとても天気が悪かったんですが、午後からいいお天気になりました。

わたしたちが今回見学したのは、旧北前船主の屋敷が残る瀬越町

海浜植物が美しい塩屋海岸、たくさんのアカテガニが生息する鹿島の森

蓮如の里・越前吉崎です。

小さいときに何度か塩屋海岸には海水浴に行ったことがありましたが、

塩屋海岸にこんなに貴重な海浜植物がたくさんあることや歴史を感じさせる

防砂林の松林が広がっていることは知りませんでした

そして、鹿島の森が人間が手をつけなければ最終的にそういう森になると

いう大切な森だったんだということは初耳でびっくりしました。

明日から、このブログで今回勉強させていただいたことについてレポート

させていただきます。応援よろしくお願いします!!

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高持百姓と無高百姓のちがい

2013年04月27日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す(^_^)v

加賀市観光ボランティア大学第1回講座 大聖寺藩いいとこつかみどり」で

講師の江沼地方史研究会・伊林永幸先生から教えていただいたことをもとに、

レポートさせていただいてます。

江戸時代の人びとは1食につき1合(150g)、1日に3合のお米を食べていました。

一年間に直すと、1人の人間が約1石の米を消費していたことになります。

ですから、大聖寺藩の実高は約8.5万石だったといいますので、計算上は

8万5千人の人々が生活できるだけのお米がとれていたのです。

ところで、昔の日本の人々が使っていた単位って、とても便利ですよ。

大人が1食で食べるお米の量が1合、1年で1石です。そして1人の人間が

1年間で食べる分のお米がとれる田んぼの面積が1反(10反で1町歩)なのです。

昔の単位は、人々の生活実感にそくして使われていたのですね。

江戸時代の農民は、高持百姓無高百姓(水呑)に分けられていました。

高持百姓とは一般の農民のことで、藩や幕府に年貢を納める義務のある農民です。

一方、無高百姓は年貢を払えるだけの土地を持っていない農民のことで、

年貢の支払い義務はありませんでした。

高持百姓無高百姓は、1町歩(1ha)の田んぼを所有しているかいないかで

区別されてました。1町歩の田んぼを持っていると、10石のお米が作れます。

収穫高には年貢が課せられますが、仮に五公五民だとすると、半分の5石を藩に納め、

残りの5石が自分のものになるのです。ですから、1町歩の田んぼを持っていれば、

家族5人をなんとか養うことができました。

それに対して、無高百姓は1町歩の田んぼを持っていませんから、家族を養うだけの

収穫がないので、税金が免除されていたのです。江戸幕府は4代将軍家綱の

1673(延宝元)年に分地制限令というきまりを出し、無高百姓が増えるのを防ごうと

しました。これは納税者を確保すると同時に、農民の最低限の生活を保障する目的が

あったのです。

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江戸時代って、農民にとってどんな時代だったのでしょうか?

2013年04月26日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す(^_^)v

加賀市観光ボランティア大学第1回講座 大聖寺藩いいとこつかみどり」で

講師の江沼地方史研究会・伊林永幸先生から教えていただいたことをもとに、

今日は江戸時代の一般の人びとのくらしについて考えてみます。

江戸時代って、徳川家康の「農民は生かさぬように、殺さぬように」という言葉から、

農民にとって、とっても苦しい生活を強いられていた時代っていうイメージがあります。

時代劇を見ていると、「お代官様、おねげーですだ!年貢を負けてくだせい!」って

いうような年がいつも続いていたような印象があります。

でも、伊林先生は「一概にそうとはいえませんよ」とおっしゃっていました。

実際に江戸時代は、1603年に江戸幕府ができてから、260年以上も続きました。

この260年の間には、天災をはじめ、さまざまな出来事があったのでしょうが、

幕藩体制はずっと維持されていたのです。

伊林先生のお話によると、元禄期(1688~1703年)以降人びとは一日3食を

とるようになったそうです。当時は米中心の食生活であり、生きていくために

大人は1食につき1合(150g)、1日3合が必要でした。

1年は太陽太陰暦で360日ですから、3合×360日で、年間1080合となり、

大人は1年間で、だいたい1石(10合で1升、10升で1斗、10斗で1石)を

食べた計算になります。

江戸時代には、1町歩(約1ha)で10石のお米がとれましたので、1町歩の田んぼが

あれば、10人が食べていける分のお米をとれたのです。

享保年間(1716~35年)より後、日本の農地面積は300万町歩だったといいますから、

1年に3000万石のお米が生産されていたことになります。そして、当時の日本の

人口はお米の取れ高と符合するように約3000万人でした。

ですから、江戸時代の日本では、人びとが1日3合のお米をちゃんと食べる

ことができる経済体制が続いていたことになるのです。

当時の日本人の9割は農民でした。江戸時代は戦国時代までと違って戦乱もなく、

比較的平和な時代だったといいます。

ひょっとしたら、現代の日本よりも当時の人びとの方が生活には格差がなく、

経済的に安定した時代だったのかもしれませんね。

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大聖寺藩・三河吉田橋の御手伝普請

2013年04月25日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す(^_^)v

加賀市観光ボランティア大学第1回講座 大聖寺藩いいとこつかみどり」で

講師の江沼地方史研究会・伊林永幸先生から教えていただいたことをもとに、

大聖寺藩が行った大変な御手伝普請のお話をご紹介します。

大聖寺藩は4代藩主利章が治めていた1751(宝暦元)年、幕府により

三河吉田藩(現在の愛知県豊橋市)の東海道に架かる吉田橋の架け替えを

命じられました。三河吉田藩は、譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に

入部することが、幕閣になるための登竜門といわれた藩です。

大聖寺藩は1752(宝暦2)年3月3日に工事を着工し、5月に橋を完成させました。

5月13日には渡り初めが関係者を集めて盛大に行われたといいます。

ところが、その年の秋頃になると、できたばかりの新しい橋が曲がるという事態が

起きてしまいます。このような事態が起こった背景には当時の江戸幕府が財政難で

あったことから、主要街道に架かる橋を監督する幕府の作事方(今の国土交通省)と

安く工事を行いたい勘定方(今の財務省)の幕吏が対立していたことがあるといいます。

とばっちりを受けたのが大聖寺藩です。橋の架け替えのために、御用金2万3650両

(現在の2億4000万円近く)を負担したあげく、工事のやり直しを命じられたのです。

大聖寺藩の工事担当者は抗議のため、みんなの前で切腹したと言われています。

そして工事のやり直しには、6カ月の時間と新たに3万両の費用がかかりました。

この工事は大聖寺藩にとって、とんでもない赤字をもたらしたのでした。

当時の大聖寺藩総奉行であった野口兵部は処分を受け、失意のまま

1755(宝暦5)年に亡くなったそうです。野口兵部の墓は現在、大聖寺鉄砲町の

松縁寺にあります。

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かつて「水害の町」だった大聖寺

2013年04月24日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す(^_^)v

加賀市観光ボランティア大学第1回講座 大聖寺藩いいとこつかみどり」で

講師の江沼地方史研究会・伊林永幸先生から教えていただいたことをもとに、

今回は「大聖寺川水害」についてレポートさせていただきます。

大聖寺を流れる大聖寺川は全長約40kmで、石川県内で2番目に長い川です。

大聖寺はかつて「水害の町」だったそうです。毎年、梅雨の時期には必ずと

いっていいほど、大聖寺には洪水があって人びとを困らせていたそうです。

藩政時代の230年の間にも100回以上の洪水の記録が残っているそうですし、

近年でも1934(昭和9)年、1953(昭和28)年、1958(昭和33)年、

1981(昭和56)年に大変な洪水被害があったといいます。

ですから、大聖寺の年配の皆さんは、水害への対策を常に心がけて、家を造るのに

床を高くしたり、床板に釘を打たずすぐに畳を上げて、床板をめくることができるように

したり、工夫されているそうです。大聖寺の家では今でも畳をあげる「台」を

常備しているお宅が多いそうですよ。

←クリックしてください!

大聖寺にある法華坊町は、江戸時代の1673(延宝元)年までは、大聖寺川右岸に

位置し、上福田村の一部だったそうです。しかし、大聖寺藩2代藩主前田利明のとき、

たび重なる氾濫のため犀ヶ淵(さいがふち)とよばれる危険な場所を改修する工事に

乗り出し、現在荒町にある水守神社の地から福田橋にかけて、まっすぐに新しい流路を

掘って、それまでの河道を埋めたのだそうです。

法華坊というのは、新しい川の流れとそれまでの川の流れの間に残った半月形の地

だったのです。(今でも法華坊の老人福祉センターの横に旧河道の跡が伺える溝が

残っています。)上福田では、この地を長らく「中村」と呼び、畑地として耕作していたと

いいます。上の写真の案内板を読むと、当時の法華坊のことがよく分かりますよ。

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三木地区で旧北国街道を体感しよう!!

2013年04月23日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す(^_^)v

石川県と福井県の県境に位置する加賀市三木地区には、東西にわたって

古くから京都と越の国をつないでいた「北国街道」という古道が残されています。

加賀IC近くの橘町の入り口には写真のような「旧北国街道」という石碑もあります。

記録によると、橘町には室町時代中期頃には宿場があったそうです。

それは上橘と下橘からなり、上橘には茶屋があって、おいしい粽(ちまき)が

売られていたそうですよ。どんな味だったのでしょうか?

橘町は昔宿場町だった風情を今に残しています。町はとてもいい雰囲気で、

たくさんの人びとが「北国街道」を歩いていた当時がしのばれます。

道をまっすぐ行くと、「右吉崎(蓮如道)、左細呂木(一里)」という石碑が建っています。

左にまっすぐ進むと、昨日ブログでご紹介した奥谷の梨畑に行きます。

きれいな梨畑が望める高台には、かつて「橘村御使者改番所」があったそうです。

5月18日(土)の加賀市観光ボランティア大学第4回講座では、

旧北国街道を歩く-細呂木関から橘宿-」をテーマに

実際に三木地区の古道を歩いて勉強することになっています。

実高ふれ愛隊からは、わたしとNO.2ゆきち、NO.3ゆかぴの三人が参加する

予定です!講師をつとめていただく「みきを知る会」のみなさん、

よろしくおねがいします。

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真っ白なじゅうたんみたい・奥谷町の梨畑

2013年04月22日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す(^_^)v


4月も後半になろうというのに、寒い日が続きますね。

昨日、本校の野球部が春の北信越大会県予選1回戦で羽咋工業に

5×ー4で12回サヨナラ勝ちしました。2回戦は29日(祝)11:30に

飯田高校と金沢の県立野球場で対戦します。応援よろしくお願いします。

             

さて、顧問の先生が「梨の花、満開!!」のニュースを見て、

奥谷町梨生産組合梨畑の写真を撮ってきて下さいました。

丘陵地一面が、まるで純白のじゅうたんがひいてあるようで、とてもキレイ

わたしは加賀市に住んでいるけど、こんな素敵な場所があるなんて

知りませんでした。

この写真は、北陸自動車加賀IC近くの橘町から福井県の細呂木町へと続く

旧北国街道沿いの高台からながめた写真です。

この梨畑はなんと石川県一の出荷量を誇るそうです。広さは32ヘクタール、

約1万5000本のの木が丘陵地に植えられています。

「愛甘水(あいかんすい)」「幸水」「豊水」などの品種が栽培されていて、秋には

とっても甘くてみずみずしいがいっぱい収穫されます。

「早くおいしい梨、食べたいなぁ~

7月になると、今度はここからながめる夜の景色がとても見物だそうです。

梨畑一面には、の果汁を吸いに来る害虫から実を守る防蛾灯(ぼうがとう)

という光が1,500基も灯され、山あいを黄色い光で幻想的に照らし出します。

夏になったら、ふれ愛隊全員で見学に来たいなぁと思います

でも、奥谷の梨園は観光施設ではありませんので、生産組合の皆さんに

ご迷惑をおかけしないよう、くれぐれもご注意下さい!

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「実高ふれ愛隊」隊員紹介(4)

2013年04月21日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^_^)v

今日はNO.6れいなとNO.7ゆっこの隊員紹介です!!

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

隊員NO.6れいなで~す。

庄小学校→山代中学校の出身です。

現在商業部に所属をしていて、ワープロを練習しています。毎年春と秋に

商業部の県大会があって、上位入賞を狙って、みんなで頑張っています。

いま私は庄小学校のすぐ近くに住んでいますが、おねいちゃん夫婦が

同居していて、甥っ子のかわいい1才半の男の子がいるので

とってもにぎやかです。名前を”れん”くんっていうんですが、

とってもかわいいんです。10月にはおねいちゃんにもう一人赤ちゃんが

できる予定で、楽しみです。

趣味はショッピングで友達とよく買い物に出かけます。

今年は「実高ふれ愛隊」として、みなさんに加賀市の素敵なお店のご紹介も

できたらと思います。よろしくお願いします!

(好きな食べ物)刺身とチョコ(星座)しし座(血液型)A型

(好きなタレント)石原 さとみ

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隊員NO.7ゆっこで~す。

山代小学校→山代中学校の出身です。

わたしは中学校時代吹奏楽部に入っていて、パーカッションを

やっていました。だからドラム・木琴・シンバルなどの打楽器が得意です。

高校に入ってから、友達(オール女子)と「pierrot」というバンドを結成して、

定期的にセミナーハウス「アイリス」で練習をしています。

わたしの担当はドラムです。9月の本校の文化祭「聖実祭」で

バンド演奏を計画中です。応援して下さいね!

そしてわたしはおじいちゃんが書道の先生をしていることもあって、

5歳から中3までずっと書道をしていました。一応書道3段の腕前です。

(でも筆を持つとうまく書けるのですが、ペンはどうも苦手です。)

今年一年間隊員7人で一生懸命頑張りますので、応援よろしくお願いしま~す!

(好きな食べ物)オムライスとあんぱんまんちょこ(星座)おとめ座(血液型)

(好きなタレント)水原希子ちゃん

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「実高ふれ愛隊」隊員紹介(3)

2013年04月20日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^_^)v

今日はNO.4まこNO.5いくのの隊員紹介です!!

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隊員NO.4まこで~す。

山代小学校→山代中学校の出身です。

わたしの家は黒瀬町にあります。4歳から中3までずっと

ピアノ教室でピアノを習っていました。いまでも、

時間があったら、楽譜を見たり、音楽を聴きながらピアノを

引くのが趣味です。とくに加藤ミリヤの曲がお気に入りです。

中学校時代はブラスバンド部で、トランペットを吹いていました。

加賀市中学校管弦楽コンクールで優勝したこともあります。

加賀市は自然がきれいで、水もとってもおいしいですよ。

一年間いろんな所へ行って、加賀市のことを勉強します。

よろしくお願いします!

(好きな食べ物)焼きそば 抹茶味のお菓子(星座)みずがめ座(血液型)O型

(好きなタレント)MILITAH(*´∀`*)

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隊員NO.5いくので~す。

東谷口小学校→山代中学校の出身です。

中学校・高校と女子バレーボール部に所属しています。

ポジションはリベロで、後衛を守るのが役目なので、とくにレシーブの

練習を中心に頑張っています。

もうすぐ春のバレーボール祭りという大会があります。そして5月末には

県インタ-イハイ予選があるので、みんなでベスト4入り」を目標に

夜遅くまで汗を流しています。

私が住んでいるのは塔尾町です。東谷口校下でも奥の方にある

町で、緑に囲まれた美しい町です。小学校時代には、当時東谷口小学校の

校長先生をされていた竹本利夫先生(加賀市観光ボランティア大学学長)に

車でいろんなところに連れて行っていただいて、楽しかったです。

竹本学長に久しぶりにお会いできるのが楽しみです。

みなさん、一年間よろしくお願いします。

(好きな食べ物)フルーツ アイス(星座)しし(血液型)

(好きなタレント)土屋アンナ

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「実高ふれ愛隊」隊員紹介(2)

2013年04月19日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^_^)v

今日はNO.2ゆきちNO.3ゆかぴの隊員紹介です!!

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

隊員NO.2ゆきちで~す。

福井県のあわら市立吉崎小学校→錦城中学校の出身です。

吉崎の子どもたちは中学校から越境入学で加賀市の学校に通います。

わたしもその一人で、中学校は錦中でした。

部活は女子バレーボール部ですが、バレーの他に、女子サッカーを

しています。サッカーは小2の時からずっと続けていて、現在は

リオペードラ加賀レディースの一員として、主にボランチをしています。

女子サッカーが今とっても盛り上がっています。自分ももっともっと

うまくなりたいと思っています。

3年になって課題研究をするのを楽しみにしていました。

実高ふれ愛隊」としてがんばります。よろしくお願いします!!

(好きな食べ物)コシヒカリ(星座)さそり座(血液型)B型

(好きなタレント)つよぽん

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

隊員NO.3ゆかぴで~す。

湖北小学校→片山津中学校の出身です。

小学校の時は水泳、中学校ではソフトテニスをしていました。

ソフトテニスでは優勝もしたことがあるんですよ。

好きな授業は体育とこの課題研究です。これから加賀市のいろんな所に

行けるので、とっても楽しみにしています。

わたしが住む柴山町には古い時代の貝塚があります。小学校の時には

片山津の中谷宇吉郎雪の科学館に行って勉強しました。

家の近くには、首洗池実盛塚などの名所もたくさんあるんですよ。

そしてわたしのすむ片山津地区の自慢は何といっても柴山潟です。

真夏の花火はとってもキレイですよ。

今年一年間よろしくお願いします!!

(好きな食べ物)ちーずごはん(星座)カニ座(血液型)

(好きなタレント)かぴばらさん

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「実高ふれ愛隊」隊員紹介(1)

2013年04月18日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^_^)v

新しい隊員の紹介をさせていただきます。

まずは、わたしが隊員NO.1いぶです。リーダーをします。

錦城東小学校→錦城中学校の出身です。好きな教科は体育。

今日から始める「実高ふれ愛隊」の課題研究がとても楽しみです。

現在、女子バレー部に所属していますが、中学校までは体操をしていました。

小2~4は週2回、小5~中3までは週5回、加賀市体操クラブで

練習をしていました。中3の時には千葉国体の少年女子体操で

石川県代表になったんですよ。(エヘッ!!)

家の近くにある菅生石部神社で2月10日に行われる「竹割祭り」は

とても有名です。そして中学校に通う通学路にあった江沼神社の長流亭

すごくキレイですよ。一度見学にいらしてください!

春には桜がきれいに咲く加賀市が大好きです。

一年間一生懸命頑張りますので、応援よろしくお願いしま~す!

(好きな食べ物)アイス・焼肉(星座)かに座(血液型)O型

(好きなタレント)EXILE TRIBE・ももクロ

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新『実高ふれ愛隊』活動開始で~す!!

2013年04月17日 | 日記

実高ふれ愛隊隊員NO.1いぶで~す(^_^)v

今日から新メンバーで活動を開始します。先輩たちに負けないように

頑張りますので、応援よろしくお願いします!

4月16日(火)4限目に、大聖寺実業高校情報ビジネス科今年度初の

課題研究の時間があって、40人の生徒が、6つのグループに分けられました。

その中で、実高ふれ愛隊の二期生になったのが、いぶ・ゆきち・ゆかぴ・

まこ・いくの・れいな・ゆっこの7人です。

昨年より1人増えた分パワーアップしましたよ。

わたしたち7人の活動のコンセプトは、「歩く」「出会う」「学ぶ」「発信する」の

4つです。今年度も「高校生が発信する加賀市の魅力」をテーマに

よりアクティブに一年間活動していきます。

明日のブログで新メンバーをご紹介します。

今年1年間、実高ふれ愛隊として加賀市観光ボランティア大学や

課題研究を通じて、たくさんの加賀市の皆さんとの出会いを大切にしながら

頑張りますので、よろしくお願いします!!

 

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「生類憐れみの令」と大聖寺藩

2013年04月16日 | 日記

実高ふれ愛隊臨時隊員ももこです!

加賀市観光ボランティア大学第1回講座 大聖寺藩いいとこつかみどり」で

講師の江沼地方史研究会・伊林永幸先生から教えていただいたことをもとに

レポートします。

1685(貞享2)年、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉は「生き物を大事にするように」

という意味から「生類憐みの令」を発しました。

一説には、世継ぎに恵まれなかった綱吉が、僧侶から“子が欲しければ

殺生を慎め”と言われたのがキッカケだとか、特に犬が大切にされたのは

綱吉の干支が戌(いぬ)だったからだ、ともいわれています。

最初は「犬・猫・牛・馬を大事にせよ」というようなの4つの条文から始まった

生類憐みの令でしたが、その内容は徐々にエスカレートしました。

傷ついた犬を放置していたら町中の落ち度とする」「犬同士のかみ合いを

ふせぐ喧嘩水の用意せよ」「傷ついた犬は犬医者に治療させよ」など。

そのような中、将軍綱吉に寵愛されていた大聖寺藩3代藩主前田利直に対して、

1695(元禄8)年12月6日、「江戸の角筈(つのはず、現在の西新宿)

犬小屋を普請するのを手伝うように」という命令が下されました。

そしてその普請の内容は2万坪の土地に、長さ40間(72.7m)の犬舎を

次々と建て、江戸で増え続けていた犬の数がこれ以上増えないように、

江戸中の牝犬を残らず収容するというもので、毎日五、六千人の人夫が

動員されました。

その結果、この土地にはなんと8万2千匹もの牝犬が集められ、犬1匹につき、

1日に米2合と銀2分が支給されたといいます。 この工事により大聖寺藩

負担させられた金額は6986両にものぼりました。

(幕府は1年に9万8千両以上を支出したともいいます。)

仮にこの時代の1両を現在の約10万円として計算すると、大聖寺藩

6億9860万円を支出したことになります。 このために、大聖寺藩は焼失した

江戸屋敷を新築したかったのですが、資金が不足し、本家の加賀藩から

多額の借金をすることになってしまいました。

このとき大聖寺藩が造営した犬小屋を「四谷犬小屋」といいますが、2年で

西中野に移されます。なぜかというと、幕府は西中野にさらに大きな16万坪規模の

「お犬さま御殿」をつくったからです。

総工費は20万両(約200億円)。東京ドーム20個分というスケールだったようです。

そこには25坪の御犬小屋が290棟、7坪半の日避け場が295棟、犬の養育所が

460箇所もあったそうです。

「お手伝い普請」は「参勤交代」とならんで、大聖寺藩にとってとても大きな負担でした。

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