隊員NO.5あやかで~す(*^_^*)/
これまで北前船の歴史についてレポートさせていただきましたが、ここで少し北前船と北海道の先住民族
であるアイヌの人々との関係について考えてみたいと思います。
←「蝦夷屏風」(北前船の里資料館)
アイヌの人々というと、狩猟や漁労をしながら自然と共生した少数民族というイメージがありますが、
かれらの生活にとって和人との交易はとっても重要なものでした。
中世にはアイヌから干鮭、クマや海獣の毛皮、猛禽類の羽根などを和人に渡し、和人の絹織物・漆器などのぜいたく品
と交換していました。また江戸時代までは樺太や沿海州とも自由に交易し、和人からえた鉄製品や漆器を
樺太経由で持ち込み、沿海州の民族が持ち込んだ清朝の官服など絹織物、鉄製品、ガラス玉と交換した
といいます。アイヌの人々はオホーツク海や日本海を船で自由に行き来する交易の民でもあったのです。
しかし、江戸時代となり江戸幕府が対アイヌ交易権を北海道の松前藩に独占させた頃から、アイヌの人々にとって
きわめて不利な条件で鮭や鰊などの交換レートが決められるようになり、アイヌの人々の不満が高まります。
そのような中で起こったのがシャクシャインの戦い(1669年)でした。しかしアイヌはこの戦いに敗れ、
その後クナシリ・メナシの戦い(1789年)でも敗北し、和人に隷属する地位にまで追いやられていったのでした。
アイヌの人々は松前藩が制定した場所請負制度により縛りつけられ、それぞれの地を担当している商人が雇った
番人によって、労働を強制されるようになります。その結果、男の人は遠い場所へ出稼ぎに行かされ、妻と離れ離れに
なり、離島で5年も10年も酷使させられたそうです。一家の働き手である男は問答無用で労働に駆り出され、
食べる物も満足にない、というのがアイヌの家族の一般的な姿となってしまいました。
実際、1822(文化5)年に2万4000人あったアイヌの人口は、32年後の1852(安政5)年には1万8000人にまで
激減しています。
このように実は華やかだった北前船の交易の影には、アイヌの人々の大変厳しい歴史があったのです。
『千石船で一航海するだけで、千両の儲けがあった』という北前船の商売は、アイヌの人々からするときわめて
不公平な交易でした。
江戸時代末期の探検家・松浦武四郎(北海道の名付け親)が1857年に記録した「天塩日誌」を見ると、
アイヌの生産物の対価が不当に少なかったことがわかります。
←松浦武四郎
アイヌの民族衣装アツシ一反を作るには、①山に行ってオヒョウニレの木の皮を剥いでくるのに1日、
②その皮を裂くのに1日、③裂いたものを紡ぐのに5日、④織機に仕掛けるのに2日、⑤織るのに6日、
と計15日かかりました。その一反のアツシを運上屋に持って行って本州から来た商品と交換すると、
①米なら玄米3升5合、②煙草なら2把、よくて2把半、③日本酒なら椀に3杯、にすぎず、
松浦武四郎も商人側の搾取を嘆いています。
10月2日から、わたしたち実高ふれ愛隊の後輩にあたる大聖寺実業高校2年生118人が、北海道修学旅行
に出かけます。旅程には、白老ポロトコタンのアイヌ民族博物館や小樽市総合博物館運河館も含まれています。
後輩たちには、北前船による北海道と加賀の結びつきについてはもちろん、
アイヌの歴史についても、しっかりと勉強してきて欲しいなあと思います!
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