実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

法皇山横穴墓群・死者を弔う家族のおもい

2012年09月30日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^^;)/

江沼三山(大日山・富士写ガ岳・鞍掛山)の眺望が美しい”さえぐさの里”加賀市勅使町にある

法皇山横穴墓群」は、古墳時代後期(6世紀初頭~7世紀後半)につくられたものです。

この時代は日本の古墳が小規模化し、群集墳(ぐんしゅうふん)や横穴群が増える時期だそうです。

法皇山横穴墓群」は、穴の入り口から羨道(せんどう)といわれる通路があり、最も奥に

棺(ひつぎ)をおさめた玄室(げんしつ)がある構造になっています。玄室の手前には前室(ぜんしつ)という

部分があり、家族が亡くなった人にお供えする土器などをおいていました。

まつりごとはこの前室で行われていたと考えられ、横穴の構造は『古事記』に書かれている黄泉(よみ)の国を

彷彿とさせるものです。

←横穴の中で写真を撮りました!

古墳時代の人々は、死ぬことは消えてなくなってしまうのではなく、現世を去って遠い所へ行くことだと

考えていたようで、この考え方が横穴のつくりかたにも現れています。

玄室は前庭部という「現世」から羨道(せんどう)を通って、「あの世」へ行った死者が現世と同じような

生活ができるようになっています。

死者に供えられた土器類は、家族が「これまでと変わらず不自由なく、元気に暮らして下さいね!」という

願いを込めて置いたもので、きっと亡くなった人が生前に使っていた物だったと思います。

みなさんは、どう思われますか?

 

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勅使町・法皇山横穴墓群

2012年09月29日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^^;)/

9月25日(火)の課題研究の時間、狐山古墳を見学した後、「法皇山横穴墓群」に足を運びました。

法皇山は「さえぐさの里・勅使町」にある標高30m程の凝灰岩でできた山です。

1922(大正11)年、石川県の史蹟名勝調査を依頼された上田三平さんにより発掘調査が行われ、

この時はじめて横穴という古代の墓であることが確認されました。

1929(昭和4)年には国の史跡に指定されています。

その後、史跡公園整備のため1967(昭和42)・1968(昭和43)年に発掘調査が行われ、この時までに

77基の横穴が確認されています。そして法皇山をすべて分布調査すれば、300基を下らない横穴が

見つかるのであろうと推定されていて、日本海側で最大規模の横穴群です。

出土品には須恵器を中心として直刀、鉄鏃、金環、銀環などがあり、これらの年代から6世紀後半から

7世紀末にかけてのおよそ150年間にわたって造られた横穴群であったと考えられています。

出土品のほとんどは法皇山の横にある収蔵庫に保管・展示されており、4月1日から11月30日まで

無料で開放されています。収蔵庫には、加賀市のシルバー人材センターから派遣されたお母さんがおいでて、

お話しをしていただきました。

現在は史跡公園として整備されていて、横穴の内部も実際に観察することができますが、中は真っ暗なため

懐中電灯が必要です。わたしたちは残念ながら、懐中電灯を持って行くのを忘れてしまいました。

法皇山はとても静かで、たくさんの人がここに眠っていると思うと、とても怖い感じがしました。

散策路には、しっかりと順路や掲示板が掲げてあるので、とても歩きやすかったです。見学はゆっくり歩いても

1時間ぐらいでできます。地元の歴史を知る上でうってつけの見学コースです。とってもおすすめですよ。

 

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食欲の秋・「片山津バーガー」を食べつくせ!

2012年09月28日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^^;)/

昨日ご紹介したように、9月25日(火)の課題研究の時間に、今話題沸騰の「片山津バーガー」の一つ

片山津温泉街湯前にある鉄板焼「なか伸」さんの「お好み焼きバーガー」を食べてきました。

片山津バーガー」とは、片山津温泉で飲食店を経営されている方々が有志で、片山津温泉の

「湯の花たまご」を利用して、創作されている片山津のご当地バーガーのことです。

わたしたちがいただいた「お好み焼きバーガー」を含めて、

6つの魅力的な片山津バーガー」がありますので、ご案内します。


バイカーズバーガーFACTORY PINE DINER パインダイナ)

お店でも人気の肉厚、ジューシーなハンバーグ、温泉玉子、チーズ、ベーコン、レタス、トマト、ピクルスを

特注バンズでサンド。ソースは自家製のデミグラスソースとタルタルソース。ボリューム満点バーガー。

かもねぎバーガー味屋だんご)

加賀の代表的な郷土料理の治部煮(じぶに)、ネギ、温泉玉子を甘みのあるやわらかパンでサンド。

ソースはわさびマヨネーズと醤油。和風のあっさり系バーガー。

ばーがーどーねベーカリーカフェ パンドーネ)

身の詰まったエビのフライ、オニオンリング、温泉玉子、レタス、トマトを丁寧に焼き上げた自家製

バンズでサンド。ソースはタルタルソースと塩。素材の良さを活かしたシンプルバーガー。

シュ・ラスコバーガーSHU/LASCO シュラスコ)

鶏つくねのハンバーグ、温泉玉子、レタスを特注バンズでサンド。世代を問わず人気のテリヤキソースに、

味噌を加えたオリジナルソースとマヨネーズ。片山津バーガー1号店

男前バーガー村カフェ アレ・コレ)

ハンバーグ、チーズ、レタス、トマト、スライス玉ねぎを自家製バンズでサンド。ソースは温泉玉子入り

タルタルソース、テリヤキソース。食べ応えのあるガッツリバーガー。

お好み焼バーガー鉄板焼き なか伸)

お店No. 1人気のふわふわぶた玉、軽く焼きを入れた温泉玉子、バーナーでとろとろに炙ったチーズを

マフィンにサンド。ソースは自家製のお好み焼きソース。味わいとともに、具材のコンビネーションを

楽しむバーガー。

の6つです。

食欲の秋、観光の秋です。皆さん、ぜひ片山津温泉を訪れたら、「片山津バーガー」をお試しください!

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片山津温泉・ご当地「お好み焼きバーガー」

2012年09月27日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^^;)/

9月25日(火)の課題研究の時間、昼食休憩を利用して、今話題沸騰の「片山津バーガー」を体験するために、

片山津温泉街湯の前にある「なか伸」さんにお伺いしました。

片山津バーガー」とは、片山津温泉で飲食店を経営されている方々が有志で、片山津温泉の

湯の花たまごを利用して、創作されているハンバーガーのことです。

現在6種類の片山津バーガー」があるのですが、わたしたち実高ふれ愛隊は、鉄板焼き「なか伸」さんの

お好み焼きバーガーを体験することにしました。

店長さんは、地元で40年続く「なか伸」を引き継いでいる前田真吾さん(36歳)です。

前田さんは地元加賀市の高校野球部キャプテンを務めた経歴を持つスポーツマンで、

ランチで訪れた多くのお客さんを相手に、とても手際よく応対されていました。

次から次へとお客さんがおいでる中、前田さんはお好み焼きを仕上げ、湯の花たまごを使い、

レタスやチーズをあしらって、「お好み焼きバーガー」を作ってくださいました。

その味は、今まで食べたことがないようなとっても美味なものでした。(かぼちゃソフトも最高でした!)

みなさん、片山津温泉を訪問されたなら、是非片山津バーガー」を体験してみてくださいね。

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狐山古墳・彼岸花に囲まれて眠る江渟の支配者

2012年09月26日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^^;)/

9月25日(火)の課題研究の時間に、加賀市二子塚町にある狐山(キツネヤマ)古墳を見学してきました。

狐山古墳彼岸花(別名・曼珠沙華)の名所としても有名です。

わたしたちが訪れたときは、ちょうど咲き始めといった感じで、つぼみのものがたくさんありました。

放射状に真っ赤に咲いた彼岸花とってもキレイでしたよ。是非、みなさんも足を運んでください!

←彼岸花

田んぼの中にこんもりした林が見えてくると、そこが狐山古墳でした狐山古墳は石川県内では極めて

珍しい平地に造られた5世紀後半の前方後円墳です。全長56mで、幅10m前後の周溝があったとみられ、

当時としては県内最大の大きさで、国指定史跡になっています。

箱型の石棺からは身長170cmと当時にしては大柄な40才代男性の遺骨とともに、鏡や銀製装飾品、

玉類、甲冑(かっちゅう)、刀剣など豊富な副葬品が発見されました。

中にはこの時期としては全国的にも珍しい「桂甲(けいこう)」と呼ばれる鉄片をつなぎ合わせたよろいもあり、

出土品の多くが、現在東京国立博物館に保存されています。

狐山古墳は、非常に多くの鉄製品が出ていることから、この古墳に眠る支配者が、武器や農耕具として

鉄を活用し、強大な国力を有した江沼=江渟(えぬ)権力者であったことが分かります。

また狐山古墳は天皇陵に近い造りを持っています。二段に築かれ、外周には水濠(ぼり)、墳丘には葺石(ふきいし)や

埴輪(はにわ)も備えられており、皇族との深い関係がうかがえるそうです。

5世紀初めにお隣の越前国から継体天皇生まれました。継体天皇製鉄王ともいわれた人で、北陸から天皇になった

重要な要素として、「鉄」が考えられるそうです。そして、継体天皇の母は振媛(ふりひめ)といい、その振媛の母・

阿那尓比弥(あなにひめ)は余奴(よぬ)臣(おみ)の祖で、余奴は江沼を指すというのが研究者の間で定説

になっているそうです。

鉄を使って大きな力を持っていた江渟(えぬ)権力者が眠る狐山古墳は、継体天皇との関係から

今後ますます注目されるにちがいありません。

狐山古墳の石棺(福井新聞社ホームページより)

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北前船・アイヌの人々の視点

2012年09月25日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(*^_^*)/

これまで北前船の歴史についてレポートさせていただきましたが、ここで少し北前船と北海道の先住民族

であるアイヌの人々との関係について考えてみたいと思います。

←「蝦夷屏風」(北前船の里資料館)

アイヌの人々というと、狩猟や漁労をしながら自然と共生した少数民族というイメージがありますが、

かれらの生活にとって和人との交易はとっても重要なものでした。

中世にはアイヌから干鮭、クマや海獣の毛皮、猛禽類の羽根などを和人に渡し、和人の絹織物・漆器などのぜいたく品

と交換していました。また江戸時代までは樺太や沿海州とも自由に交易し、和人からえた鉄製品や漆器を

樺太経由で持ち込み、沿海州の民族が持ち込んだ清朝の官服など絹織物、鉄製品、ガラス玉と交換した

といいます。アイヌの人々はオホーツク海や日本海を船で自由に行き来する交易の民でもあったのです。

しかし、江戸時代となり江戸幕府が対アイヌ交易権を北海道の松前藩に独占させた頃から、アイヌの人々にとって

きわめて不利な条件で鮭や鰊などの交換レートが決められるようになり、アイヌの人々の不満が高まります。

そのような中で起こったのがシャクシャインの戦い(1669年)でした。しかしアイヌはこの戦いに敗れ、

その後クナシリ・メナシの戦い(1789年)でも敗北し、和人に隷属する地位にまで追いやられていったのでした。

アイヌの人々は松前藩が制定した場所請負制度により縛りつけられ、それぞれの地を担当している商人が雇った

番人によって、労働を強制されるようになります。その結果、男の人は遠い場所へ出稼ぎに行かされ、妻と離れ離れに

なり、離島で5年も10年も酷使させられたそうです。一家の働き手である男は問答無用で労働に駆り出され、

食べる物も満足にない、というのがアイヌの家族の一般的な姿となってしまいました。

実際、1822文化5に2万4000人あったアイヌの人口は、32年後の1852(安政5)年には1万8000人にまで

激減しています。

このように実は華やかだった北前船の交易の影には、アイヌの人々の大変厳しい歴史があったのです。

『千石船で一航海するだけで、千両の儲けがあった』という北前船の商売は、アイヌの人々からするときわめて

不公平な交易でした。

江戸時代末期の探検家・松浦武四郎(北海道の名付け親)が1857年に記録した「天塩日誌」を見ると、

アイヌの生産物の対価が不当に少なかったことがわかります。

松浦武四郎

アイヌの民族衣装アツシ一反を作るには、①山に行ってオヒョウニレの木の皮を剥いでくるのに1日、

②その皮を裂くのに1日、③裂いたものを紡ぐのに5日、④織機に仕掛けるのに2日、⑤織るのに6日、

と計15日かかりました。その一反のアツシを運上屋に持って行って本州から来た商品と交換すると、

①米なら玄米3升5合、②煙草なら2把、よくて2把半、③日本酒なら椀に3杯、にすぎず、

松浦武四郎も商人側の搾取を嘆いています。

10月2日から、わたしたち実高ふれ愛隊の後輩にあたる大聖寺実業高校2年生118人が、北海道修学旅行

に出かけます。旅程には、白老ポロトコタンのアイヌ民族博物館や小樽市総合博物館運河館も含まれています。

後輩たちには、北前船による北海道と加賀の結びつきについてはもちろん、

アイヌの歴史についても、しっかりと勉強してきて欲しいなあと思います!

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北前船が衰退していった理由

2012年09月24日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(*^_^*)/

江戸後期から明治の中頃まで北前船は隆盛をきわめました。

「下り」では、大坂の酒・木綿・雑貨、瀬戸内の塩・紙・砂糖・ろう、山陰の鉄や米、東北の酒・米を、

函館・松前・江差に送りました。「登り」では、北海道の海産物(ニシン・〆粕・数の子・昆布・サケ・マス)などを、

大坂や瀬戸内で売りました。

明治に入り、北海道に開拓使が設置されてから北海道開拓が本格化します。その玄関港となった小樽は、

全国からの開拓移民でにぎわい、かれらの生活を支える大量の生活用品や開拓物資が必要になりました。

明治新政府はそうした物流の問題を考え、東京・小樽間に蒸気船の航路を開設して、次々と貨物船を就航させました。

しかし、年に一度の往復が一般的であった北前船にとって、開拓移民の急増に対応できるだけの供給能力は

ありませんでした。危機感を持った北前船の船主は、物資の安定供給を目的に大型倉庫を建設し、

物資の保管をしながら問屋の形態を作り上げていきます。

小樽に残る倉庫群や運河は、こうした北海道の開拓や、北前船の歴史を物語る貴重な遺構です。

北前船にとっては、明治維新によって封建制が崩壊し、電信、郵便の登場によって相場の地域差が小さくなったことで、

一攫千金的な意味合いが急速に薄れていきました。さらに日本全国に鉄道が敷設されたことによって、

国内の物資の輸送は鉄道に移っていき、明治中期には、約150年続いた北前船は、ほぼ役割を終え、

歴史の表舞台から姿を消していくことになりました。

 

北前船主の里・橋立」には、北前船が賑わっていた頃の様子を知ることができる多くの歴史遺産が残されています。

先人たちの営みを勉強しながら、わたしたちが住む加賀市のこれからを考えていきたいと思います。

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北前魂・函館に残る西出孫左衛門の足跡

2012年09月23日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(*^_^*)/

北海道函館市の函館山には、その美しい景色を一目見ようと、全国からたくさんの観光客の方が訪れます。

Mount Hakodate.jpg 

上の写真はウィキペディアより

成層火山でもあるこの函館山からは、昼間の晴れた日には函館市街ばかりか、津軽海峡・下北半島までも望めます。

そして夜ともなると、陸繋島のくびれた形の市街に輝く街灯りと漆黒の海の部分のコントラスト、

さらにイカ釣り船が灯すランプ(集魚灯)が織り成す美しい夜景が見られ、神戸・長崎と並んで

「日本三大夜景」といわれています。

ところでみなさん、この函館山が、かつて「西出山」と呼ばれていたことをご存じでしたか?

実はこの函館山は、明治中頃まで、橋立の北前船主・11代西出孫左衛門が所有するだったのです。

橋立の11代西出孫左衛門は、幼少の時から北海道の動勢に注目し、開拓事業の発展と共に、

1889(明治22)年に、北海道の海陸物産の要だった函館西浜町に支店を設けました。孫左衛門25歳のときです。

北前船の斜陽を感じとった孫左衛門は、事業を北洋漁業に転じ、カムチャッカに漁場を開き、活動しました。

汽船栄久丸、福重丸を備え、漁期に際しては、物資及び漁獲品の輸送に従事し、また函館沿岸に倉庫を設けて

物資を収容しました。ロシア領の漁業は、カムチャッカ・デジマチスキの3カ所、ムヒスキーの1カ所、合計4カ所で、

その年々の収穫は年の豊凶によって違いがありましたが、それでもサケ・マスの漁獲高は3万石あったといいます。

孫左衛門は実業家としてだけでなく、函館の区会議員、商業会議所特別議員や株式会社函館銀行の

取締役としても活躍するなど、北海道経済界の重鎮でした。1915(大正4)年の函館区公会堂で行われた

大正天皇即位御大典に招かれ、食事を賜ったという記録も残っています。その温厚篤実な人柄は、

北海道の人たちからとても親しまれていたそうです。もちろん孫左衛門は、ふるさと加賀においても、

八十四銀行の取締役、大聖寺水電株式会社の社長として活躍しています。 

  第十一代目 西出孫左衛門   

昨年5月、11代西出孫左衛門の孫にあたる横浜市の原正子さんから加賀市に、中谷宇吉郎が孫左衛門

描き贈った「雪は天から送られた手紙である」と書かれた掛軸(対幅)が、寄贈されました。

加賀市出身で、ともに北海道で活躍した2人は深く結ばれていたのです。

北前船研究家・牧野隆信先生はこういわれています。

『北海の荒海に生命の危険をかえりみず万難を排して未知の世界に挑んだ"北前魂"とも言うべき精神です。

これこそ子孫に残された最大にして最高の遺産です』

11代西出孫左衛門は、1938(昭和13)年に、75歳で亡くなりました。

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北前船・加賀と小樽をむすぶもの

2012年09月22日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(*^_^*)/

橋立をはじめとする加賀の北前船主たちは、江戸後期から明治の時代にかけて、全国各地で大活躍しました。

その加賀の北前船主の歴史は、石川県から遠く離れた北海道の小樽市に今でもはっきりと残っています。

 正面写真シャチホコ小樽市総合博物館運河館(小樽市ホームページより)

小樽(おたる)は石狩湾に面し、古くから港湾都市として発展した都市で、人口は約13万人。

明治末から大正期にかけての小樽は、まさに北海道を代表する商業都市に成長していました。

なかでも色内町かいわいにはさまざまな銀行が軒を連ね、北海道のウォール街といわれたほどで、今でも

歴史的建造物が数多くあり、とても人気がある日本有数の観光都市です。

 第十一代目 西出孫左衛門

小樽の観光スポットはなんといっても「小樽運河」ですが、ここに橋立の北前船西出孫左衛門、西谷庄八が

つくった倉庫が、小樽市総合博物館運河館として残っているのです。この倉庫は、1893(明治26)年築で、

屋根には福井県産の瓦と高さ1.5m、重さ120kgもある銀瓦製のシャチホコが上げられています。

また日の字型に中庭が配された倉庫は左右対称の均衡美をそなえ、現存する木骨石造倉庫群の代表格とされ、

歴史的建造物に指定されています。

そしてこの建物に隣接するように並んでいるのが、加賀市瀬越出身の大北前船主、大家七平や広海二三郎の倉庫です。


当時の北海道は、「ニシン漁によってその基盤が築かれた」と言えるほどニシン漁を中心とした漁業が重要な産業で

ことに、小樽周辺には好漁場がたくさんありました。獲れたニシンの多くは、しめ粕に加工され、重要な農作物肥料として

全国に運ばれました。北前船は北海道からニシンや昆布等の海産物を積み出し、本州からは米、雑穀、衣類等の

生活物資を運んで来ましたが、一年に1~2度の航海なので物資を保管する場所が必要となり、

小樽倉庫業が誕生することになったのです。

江戸時代の北前船の利益の多くは「登り」にありました。しかし、明治になって、開拓民の移住により、

北海道の人口が急増します。移民の生活物資は、北前船で運び込まれる産品に頼らざるを得なかったこともあり、

北前船の需要は高まりました。北前船の利益も「登り」から「下り」へと移行していったのです。

開拓時代の初期は、小樽に陸揚げした品物は「何でも売れる」という噂を呼びました。北海道は米が採れなかったため、

ワラやゴザでさえ、慢性的な物資不足になっていたのです。

小樽に残る倉庫群や運河は、北海道の開拓や、北前船の歴史を物語る貴重な遺構であるとともに、加賀の北前船主が

大活躍をした証ともいえます。

 

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橋立を代表する2人の北前船主

2012年09月21日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(*^_^*)/

 

9月18日(火)、わたしたち実高ふれ愛隊は課題研究の時間に、北前船主の里・橋立を訪問しました。

橋立には「北前船主の里」とよぶのにふさわしいほど、たくさんの船主がいました。

1796(寛政8)年につくられた橋立船主の仲間規約「船頭定法」には、42人もの船主の名前が書かれています。

そして橋立を代表する北前船主としては、久保、西出、増谷、酒谷、増田、寺谷、梶谷、角谷、町野、

忠谷、西谷など挙げられ、今日なお家屋を残すものが十戸近くあります。

中でも、久保彦兵衛西出孫左衛門橋立北前船主の双璧といわれています。

 第七代目久保彦兵衛 久保家跡 

◇久保彦兵衛 久保家の総本家で、もとは小餅屋といいましたが、五代目の彦兵衛の時、大聖寺藩の仕事に

協力して、久保の姓を許されました。1845(弘化2)年財政難だった大聖寺藩を立て直すため、

みずから進んで金一万両を献上し、藩を救いました。その功績により百三十石を与えられたといいます。

1853(嘉永6)年にペリーの黒船が来航したときにも三千両、廃藩置県の際の藩札整理にも五千両を出しました。

久保家の豪勢さはいまでも、金沢の武家屋敷野村邸に残る「御殿」、大聖寺の蘇梁館として残る住居で

知ることができます。七代彦兵衛は銀行を設立し、教育にも力を尽くし北浜小学校(現橋立小学校)に高等科を設け、

久保文庫を寄付しました。

 第十一代目 西出孫左衛門  西出家跡 

◇西出孫左衛門 朝倉家の家老の子孫と伝えられ二代目から船乗りをしていました。五代目孫次郎は藩に

出入りし三人ぶちをもらっています。六代目孫左衛門は城下大聖寺に移って武士となりました。

しかし娘を養子にして依然として船商売を続けました。寛政の頃(18世紀末)すでに六隻の船を持っていました。

1856(安政3)年七千両を藩に献上しています。その他弘化年間には二千両、嘉永年間に二千両、

1871(明治4)年には久保と同じく五千両を献上しています。1889(明治22)年には和船五隻を所有し、

この他にも汽船も持っていました。明治三十年の所得税調査議案では所得額4.881円と査定されています。

なお同家は十一代孫左衛門の時函館に支店を作り北洋漁業に進み、大正初期には千島に移り定置網を成功させ

1937(昭和13)年には北洋水産を創立しました。現在でも函館で13代目が活躍しているといいます。

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橋立・北前船の里資料館

2012年09月20日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(*^_^*)/

9月18日(火)の課題研究の時間、北前船主の里・橋立を歩いた後、「北前船の里資料館」を

見学させていただきました。講師は橋立の名物ガイド・呉藤光次さんです。

資料館の建物は、1876(明治9)年、旧北前船主、酒谷長平が建てたものです。酒谷家は江戸から

明治時代にかけて、6隻の船を所有し巨額の富を築きました。敷地面積はなんと約1,000坪で、敷地を取り囲む

土塀はとても見事です。玄関前には大きないかりがおかれていました。

館内にはいると、オエとよばれる大広間があります。8寸角のケヤキ、巨大な松でできた梁(はり)、

大戸には秋田杉の一枚板など、めちゃくちゃ豪華です。囲炉裏(いろり)の前で、講師の呉藤さんは、

わたしたちにクイズを出されました。

Q「囲炉裏にある自在釘によくさかなの飾りが付いているのはな~ぜだ?」(答えは文末にありますよ!)

オエには、北前船で使われた「ベザイ船」の20分の1大の模型が飾られていました。船首のそりが強いのは、

少しでも船の長さを短くし、蝦夷地でかかる税金の額を抑えようとしたからだそうです。

館内にはとても立派な展示品がいっぱい展示されています。

仏間に当時のまま置かれた2つの仏壇、船箪笥(金庫、デスク、衣装箱の役割をしたそうです)、

蝦夷屏風(アイヌの風俗がわかります)、さまざまな古文書など、どれもとても見応えがありました。

中でも呉藤さんは、「これ、よう見とけや!」と、船絵馬引札(ひきふだ)を紹介してくださいました。

船絵馬には必ずといっていいほど、大きなお日様が描かれていました。きっと天候に恵まれた安全な航海を

願ったからでしょうね。引札は現代風にいえば商店のチラシのことで、当時豪華な暮らしをしていた北前船主の家

には、全国各寄港地の船問屋から多くの引札が集まったようです。引札をよく見ると、地元大聖寺の呉服商や

山代の温泉旅館のものもありました。

呉藤さんには、わかりやすく北前船の里資料館をご案内いただき、とても勉強になりました。

呉藤さん、本当にありがとうございました。わたしたち実高ふれ愛隊は、もっともっと勉強して、

加賀市の魅力を発信しま~す!

クイズの答え:「さかなはまぶたがなく、四六時中まばたきすることなく、火の安全を見守ってくれるから」で~す!

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北前船主の里・初秋の橋立を歩きました!

2012年09月19日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(*^_^*)/

9月18日(火)、2学期2回目の課題研究の時間に、実高ふれ愛隊の5人で、

北前船主の里・橋立を訪問しました。(隊員NO.3せりかは就職試験のため残念ながら欠席でした。)

今回は特別に橋立さわやかガイドの呉藤光次さんが講師として、わたしたち高校生にわかりやすい形で

とっても親切にガイドしてくださいました。呉藤さん、本当にありがとうございました。

わたしたちは呉藤さんのご案内で、北前船の里資料館を出発点にして橋立町をじっくりと散策しました。

まず最初に、現存するもっとも古い北前船主の館増谷(ぞうや)家【1810年築】についてご紹介いただきました。

橋立町は平成17年に国の伝統的建造物群保存地区に指定されました。そして平成21年には朝日新聞社により、

全国4,474カ所の応募の中から、”日本の里100選”にも選ばれたそうです。選定の基準は、景観、生物多様性、

人の営みの3つで、橋立町はこの3つすべてを満たす里として高く評価をされたのです。実際に歩いてみると、

本当にそのすばらしさが実感できます。

橋立北前船主屋敷の特徴は、①赤瓦、②舟食い虫の跡がある壁板(二枚貝が寄生した跡が残る船底の板が

再利用されている)、③笏谷石(しゃくだにいし・・・福井の足羽山で採れた高級石)が見られることです。

呉藤さんにはこれらのことをとっても愉快に解説していただきました。

途中、橋立を代表する北前船主の屋敷跡も見学しました。まずは、西出孫左衛門邸です。

西出家は久保家と並ぶ橋立船主の双璧で、もとは越前朝倉家の家老の子孫と伝えられ、2代目から船乗りを

始めました。その後、深田石(加賀市深田で採れる火山灰でできた石)の石垣の間の細い坂道を上がっていくと

(都会から来た皆さんはこの道を歩くと、その美しさに感激されるそうです)、今度は久保彦兵衛邸跡の前にきます。

びっくりするほど立派な石段(1840年頃のもの)が残っており、その御殿を見て、

十四代大聖寺藩主前田利鬯(としか)が感嘆したというのもうなずけます。

元々の家は今は二分され、「御殿」は金沢武家屋敷野村邸として、住宅部分は大聖寺の蘇梁館として

公開されています

橋立の町を1時間くらい歩きましたが、ガイドしていただいた呉藤さんからは、むくげの花や和くぎのこと、

呉藤さんが小さい頃やった葉っぱや花びらを使った楽しい遊びや井戸の汲み方なども教えていただきました。

そして人生を生きる上でとっても大事なこと(「チャンスは自らつかめ!」など)もたくさんお話しいただきました。

とっても楽しくて勉強になる橋立の街歩きでした!!

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北前船・「昆布ロード」と「にしんそば」

2012年09月18日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す(^_-)/

北前船」が大坂から北海道へ行くことを「下り」、反対に北海道から大坂に帰るのを「登り(上り)」と

いったそうです。北前船」が積む荷物も「下り」と「登り」では全く違いました。

「下り」では、4月のはじめに大坂で酒・木綿・雑貨などを積み、瀬戸内で塩・紙・砂糖・ろうを買い込みました。

特に塩は北海道で捕れた魚の処理をするのにたくさん必要でした。日本海側では、山陰で鉄や米、

北陸で縄・筵(むしろ)などのわら製品、東北で米や酒を仕入れ、津軽海峡を渡って、箱舘・松前・江差に入りました。

「登り」では、荷物の中身のほとんどが海産物になりました。ニシン・〆粕・数の子・昆布・鮭・鱒(ます)などで、

登りの荷物の多くは瀬戸内海各港で売りさばきました。

北前船」は、よく「千石船一航海の利益は千両(今の約1億円)」といわれますが、特に利益の大きかったのが、

「登り」で、その最大の目玉はニシン昆布でした。中でもニシンは、身欠き、干し数の子、干し白子、

〆(しめ)かす、ニシン油などに使われたことから、大量に運ばれました。

当時、〆(しめ)かすは、瀬戸内の藍や近畿の木綿などの商品作物の肥料として絶対欠かせないものに

なっていました。(小樽や江差ではこの頃海が真っ白になるくらい多くのニシンが獲れていたそうです。)

さらに京都の祇園では、北前船が運んだニシンを使ったニシンそば」が売り出され名物になりました。

そして昆布江戸時代の終わりから明治の初めにかけては、北海道で1円で仕入れ、瀬戸内・大坂でそれを40円で

売ることができるくらい儲けになっていたそうです。

そんなことから、北前船が、北海道の昆布などの海産物を運んだルートに加え、長崎から中国へ輸出されるルート、

薩摩(鹿児島)から琉球王国(沖縄)を介して、中国へ昆布が交易されたルートを合わせ、「昆布ロード」という

のだそうです。この「昆布ロード」の各地域では、昆布を使った独自の食文化が生まれました。

関西では、醤油で煮た昆布の佃煮や塩昆布が有名で、料理には昆布の出し汁は欠かせないものになっています。

北陸でも、昆布の表面を削った「とろろ昆布」や「おぼろ昆布」が生産され、ニシン昆布巻き、刺身の昆布じめなどの

料理が根付いています。また沖縄では、「クーブイリチー(昆布の炒め物)」や「クーブジューシー(昆布と豚肉の炊き込み

ご飯)」といった家庭料理があるそうです。これらの地域では現在も昆布がとっても多く消費されています。

北前船」が運んだ昆布が今でもさまざまな食文化として受け継がれているのですね。

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北前船のはじまり

2012年09月17日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す(^_-)/

加賀の男たちが活躍をした「北前船(きたまえぶね)」は、日本海各港と大坂をむすんだ航路を

さらに北海道(蝦夷地)へと結んで、江戸時代中期(1670~80年ごろ)に完成したといわれています。

この時期の日本経済の中心は多くの人口を抱える「上方」(大坂・京都)でした。

諸大名は大坂に蔵屋敷をおき、各藩から米を廻送し、金に換え、その金で武器・衣服をはじめとする必要物資を

手に入れなければなりませんでした。従来、日本海側の物資は、もっぱら福井の敦賀・小浜の港を経由し、さらに

琵琶湖を利用して上方に運ばれていました。しかしこのルートは、海と陸を何度も経由することから、

荷物の損傷や運賃の高コストという問題があり、新たなルートの開拓が待たれていたのです。

そのような中で誕生したのが、東北・北陸より山陰や瀬戸内を回って大坂に入る「西廻り」航路です。

この西廻り航路最初に挑んだのが加賀藩三代藩主、前田利常でした。1639年、加賀藩の蔵米を

大坂に運ぶため、試験的に実施しました。これを機に1650年代より大坂に大規模な蔵米輸送を行っています。

その後1671年に、河村瑞賢が東北の幕府米を運ぶため西廻り航路を開いたといわれますが、

元々の生みの親は加賀藩だったといえます。大聖寺藩は大聖寺川河口の塩屋から蔵米を輸送しました。


加賀の「北前船主」の多くは、この西廻り航路が確立した頃、まず今の滋賀県の「近江商人」に雇われる

船頭として活動を始めました。近江商人は内地から最初に北海道(蝦夷地)に入った商人といわれ、

蝦夷地開拓によってもたらされた交易品を一手に引き受けていました。そして船頭や水主(かこ)として、

加賀・越前若狭の船乗りたちを重用しました。彼らは、航海を任され、商品売買を経験するにつれて、

次第に商才を身につけていったのです。

北前船」の特徴のひとつとして、「買積船(かいづみふね)」(=船主と荷主が同じ)であることがあげられます。

これは単なる「賃積船(ちんづみふね)」(=船主と荷主が別で、運賃をもらって稼ぐもの)とは違います。

寄港地で新たな物資を買い入れ、それを次の寄港地で高く売るもので、加賀・越前若狭の船乗りたちは、

「買積船」の船頭として、商売感覚を学んだのです。「板子一枚下は地獄」の危険と戦いながら、

北方で買い取った物資を上方などで売りさばき、もうけを得る。

これがのちの「北前船主」たちに巨大な利益をもたらしました。そして、1770~90年代頃には、

かれらは近江商人から完全に自立し、自らの船を持ち、加賀の「北前船主」として活躍を始めるのです。

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北前船(きたまえぶね)・「北前」の意味

2012年09月16日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す(^_-)/

加賀市観光ボランティア大学第11回講座「日本一の富豪村 北前船の里」で、

講師の江沼地方史研究会・見附裕史さんから教えていただいたことをつづけてレポートします。

これまで北前船の「北前」という意味については、いろいろな説が主張されてきました。

たとえば、①北を前にして進んだから、北前船と呼んだ。

      ②北海道松前から来る船を略して北前船と呼んだ。

      ③北回り船の呼び名が変わって北前船になった。

      ④北の米(きたのまい)が変わって北前船になった。などです。

しかし、その後のさまざまな研究によって、これらの説は覆されることになりました。

1579(天正7)年に安芸の武将吉川元春(きっかわもとはる)が厳島神社にあげた戦勝祈願文の中に、

「今度、北前之弓矢本意に任すに於ては一所寄進し奉るべきものなり」という文章が発見されました。

そのことから、「北前船」という呼び名はもともと、日本海港の船が瀬戸内や大坂港に入港した時、

その土地の人が呼んだ名前であったことが明らかになってきたのです。

この史料の戦いは、広島から日本海側へ攻め込む戦いでした。

この言葉の使い方からすると、瀬戸内や阪神からみて、北前」は、日本海側の陸地をさすのです。

また、瀬戸内地方の人々は、京・大坂のことを「上口」、九州地方を「下口」、山陰地方、すなわち日本海側を

北前」と呼んでいたようです。

北前」とは瀬戸内・阪神地方で、もともと日本海側の陸地をさす語だったものが、

海をもふくめる意味に拡大解釈されていきました。そして日本海側から下関を回って瀬戸内・阪神地方に

入っている船を北前船」と呼ぶようになったわけです。

日本海側では、北前船」という呼び方はなく、加賀では「ベザイ船」・「千石船」、越前三国では「どうばらがき」、

北海道では「青タガ」・「ベザイ船」といわれていました。

以上をまとめると、北前船」とは、北国の船主の持ち船で、日本海側から下関を回って大坂などにくる船をさす

瀬戸内や阪神地方の呼び名といえるのです。

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