実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

加賀市中央公園・大聖寺実業高校マラソン大会

2012年10月31日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v

10月30日(火)、加賀市中央公園を会場に私たちが通う大聖寺実業高校校内マラソン大会が行われました。

全校生徒、教職員、PTA役員の総勢400人以上が集まる本校の一大イベントです。

雨が心配されましたが、とてもラッキーなことに秋空に恵まれました。(終わった瞬間ザーザー降りになりましたが。)

本校のマラソン大会は去年からはじまり、今年が2回目です。中央公園内の遊歩道を使って、

男子7Km、女子3.5Kmの距離を走ります。紅葉が始まった公園内の木々をくぐり、池で羽を休めるカモの姿や

芝生に立つすてきな彫像を見ながら走る、とても気持ちのいいコースです。

 

加賀市中央公園は、大聖寺市街地から北東約2キロメートル、標高50メートルほどの丘陵地にあります。春や秋の

遠足のシーズンには、県内やお隣の福井県から多くの幼稚園児や小学生の子どもたちがやってきます。

芝生広場はとても広々していて、のびのびと遊ぶことができます。また森の中の散策路には自然がたくさんあって、

加賀市民の良き散策コースになっています。

マラソン大会では、結果はともかく、わたしたち実高ふれ愛隊も完走することができました。

最後に、中央公園内にある加賀市陸上競技場で閉会式があり、西校長先生から上位入賞者に

表彰状と副賞が渡されました。ちなみに、男子の優勝タイムは20分48秒、女子の優勝タイムは18分50秒でした。

実高生のみんな、ご苦労様でした。そしてお世話いただいた先生方や声援を送ってくださったPTAのみなさん、

本当にありがとうございました。

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橋立漁港・10月はヤリイカがたくさん獲れました!

2012年10月30日 | 日記

隊員NO.6ちーろで~す(^_^)v

10月23日(火)の課題研究の時間に橋立町の石川県漁業協同組合加賀支所を訪問し、

参事の山口俊治さんから、橋立の漁業についていろいろお話をお聞きしました。

この季節、橋立漁港では、ほんとうにたくさんの種類の魚が水揚げされますが、今年の10月は

とくにヤリイカが多く獲れたようです。

10月1~10日の間に、橋立支所では5.6tのヤリイカが獲れました。(石川県漁海況情報251号』参照

ヤリイカの写真←「ヤリイカ」(石川県水産総合センターホームページより)

平線に並ぶイカ釣り船の「漁火」は橋立の夏の風物詩です。そして石川県の漁業生産額のうち3割がイカ類で、

その中心はスルメイカです。でもそれ以外にも「イカ」にはいろんな種類があって、石川県の代表的なものとしては、

ヤリイカ、アオリイカ、アカイカ、ソデイカがあります。どれも独特の風味があって人気があります。

ヤリイカは、胴体は細長く円錐形で、その姿形が槍の穂に似ていることから、このように呼ばれるようになりました。

外套長は大きい物で40cm程度で、オスの方が大きく、メスは一回り小さいそうです。ヤリイカの産卵期は春なので、

最も美味しくなるのは冬です。また夏から秋にはまだ小さい小ヤリイカが漁獲され、これも美味しく、

高値で出回るようです。ヤリイカは身質が非常によく、アオリイカと並び高級イカの仲間です。

刺身に向いていますが、焼いても煮ても身が硬くなりにくく美味しいので、色々な料理に活かせます。

旨みもイカの中では多く含んでいます。選ぶポイントは、目が美しい黒である事、表皮の色が鮮やかな赤身がある事

だそうです。刺身、煮付け、焼き物、揚げ物なんでも来いです。

みなさん、今年の秋はタウリン豊富で、低カロリー、高タンパクでヘルシーな健康食品、

橋立で獲れた「ヤリイカ」をどんどん食べましょう!

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橋立漁港訪問・お魚おいしいよ!

2012年10月29日 | 日記

隊員NO.6ちーろで~す(^_^)v

10月23日(火)の課題研究の時間に橋立町の石川県漁業協同組合加賀支所を訪問しました。

お忙しい中、加賀支所の山口俊治参事に、橋立の漁業についていろいろをお話をお聞きしました。

山口さん、ありがとうございました。

橋立港には現在約300人の漁師さんがいて、大小あわせて約180隻の船が操業しています。

その中には、8隻の大型の底引き網船もあります。16時間以上かけて、30KM沖合の大和堆付近まで行き、

水深200~500Mの深さに網をおろして、この時期は甘エビ・赤ガレイ・あんこう・にぎす・ヤリイカなどを

獲っているそうです。また、5カ所の定置網では、サワラ・アオリイカ・フクラギなどが獲れます。

その他にも、刺し網・一本釣り・素潜りなどの漁法も用いられています。

年間の漁獲高は約1,500tもあって、夕方6時半から行われるセリにかけられた魚たちは、地元加賀市や

石川県内だけでなく、大阪・名古屋・東京築地市場などにも出荷されます。

1982(昭和57)年には、年間16億円ほどの出荷額があり、ピークでしたが、ここ最近食生活の変化の影響で、

魚の消費量が落ち込み、昨年度は8億5千万円まで減っているそうです。

「みなさ~ん、おいしい地元橋立のお魚をどんどん食べましょう!」

300人の漁師さんの中には、この春に地元の中学校を卒業した若者や、漁業にあこがれて大阪からやってきた

20歳代の若者もいるそうです。とってもたのもしいですね!

11月6日にはいよいよズワイガニ漁も解禁になります。とっても楽しみですね!

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加佐ノ岬倶楽部ギャラリー・硲(はざま)伊之助の世界

2012年10月28日 | 日記

隊員NO.6ちーろで~す(^_^)v

10月23日(火)の課題研究の時間に橋立町の「加佐ノ岬倶楽部」にお伺いし、オーナーの宮本昭夫さんに

併設するギャラリーをご案内いただきました。宮本さん、ありがとうございました。

宮本さんは、1974(昭和49)年春に、大聖寺で硲(はざま)伊之助画伯の作品に出会い衝撃を覚えたそうです。

それは、まるで魂と五感を揺さぶられるような奇跡的な出会いだったそうです。そして、その年の10月に、

和歌山県立美術館での特別展『硲伊之助展』を展観し、1983(昭和58)年5月には加賀市立美術館の

春季特別展『硲伊之助展』(回顧展)を見られたのです。その時、宮本さんの心に火がつきました。

「このまま芸術を埋もれさせたくない。社会からもっと評価されて良いはずだ。」

宮本さんはその情熱で、いろんな方々に協力していただきながら、1986(昭和61)年4月にこの加佐ノ岬

硲伊之助美術館」を開かれたそうです。

現在、硲伊之助美術館」は、画伯が九谷焼を作陶された吸坂町に移転されています。

宮本さんは、「もっと硲伊之助に触れたければ、美術館に行くといいよ!」とアドバイスして下さいました。

硲伊之助画伯とは

1895(明治28)年11月14日 東京生まれ

1921(大正10)年 26歳で渡欧。パリを中心に活動。

1928(昭和3)年 フランス人ロゾラン・アデリア・エルビラと結婚。

1933(昭和8)年 世界的画家マチスに師事する。

1936(昭和11)年 一水会創立に参加。

1944(昭和19)年から1950(昭和25)年 東京美術学校(現東京芸大)助教授となる。

            マチス展・ゴッホ展など開催。

1977(昭和52)年8月16日 加賀市吸坂町で永眠。

という経歴の洋画家・陶芸家で、加賀市ととても深い関係がある方です。

また『ゴッホの手紙』の翻訳者としても有名です。 



わたしたちは、宮本さんに硲伊之助画伯の作品をたくさん見せていただきました。

芸術のことはあまりよく分からないのですが、絵画や九谷焼の作品の数々は、とっても美しいものでした。

宮本さん、貴重なコレクションをご紹介いただき、本当にありがとうございました。

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加佐ノ岬にある源平合戦戦死者墓

2012年10月27日 | 日記

隊員NO.6ちーろで~す(^_^)v

橋立町の加佐ノ岬には、地元の方々がとても大切にしている貴重な史跡があります。

それは、1183(寿永2)年6月1日の篠原での源平合戦にかんするもので、

加佐ノ岬にある旧木曾街道の近くに、篠原合戦戦死者埋葬地」と書かれた石碑が立っています。

1183(寿永2)年の春、平家は西日本の武士を総動員して、木曾義仲軍を討つために北陸に進行しました。

しかし、木曾義仲軍の勢力はすさまじく、越中の今の高岡市で平家の先陣を破り、倶利伽羅峠での夜襲に

成功し、加賀の安宅や篠原の戦いに圧勝しました。

平家一門の都落ちは篠原の戦いのわずか1ヶ月余り後のことでした。

篠原の戦いで一騎踏みとどまって手塚太郎光盛に討たれた老武者斎藤別当実盛が白髪を黒く染めていた

という物語は、武士の哀れを今に伝えています。

当時の加賀海岸は、今に比べてとっても海岸の浜が広かったといわれています。だから、木曾義仲軍を討とうと

平家が背水の陣をここでひいたのでしょう。しかし平家軍はすでに戦意が喪失し交戦能力がなく、

ほとんど無抵抗のまま大敗します。そしてここ加佐ノ岬には累々平家の戦死者の亡骸がならんだといわれています。

大正時代、ここ加佐ノ岬は、篠原の戦いの犠牲者がたくさん眠っているにもかかわらず、自然石が

積み上げられているだけの状態でした。

そこで、当時金沢にあった第九師団の神尾光臣(かみお みつおみ、1855~1927年)中将が発議し、

有志と謀って標石を建て、「篠原合戦戦死者埋葬地」という石碑を建てたのだそうです。

そこに刻まれた文字は今はとても読みづらくなっていました。

この神尾光臣中将は、中国語に堪能で中国問題の専門家であり、日清戦争では清国への降伏勧告書を作成した

といわれる人です。第1次大戦でドイツの租借地膠州湾を攻撃したときに最高司令官を務め、青島を陥落させました。

1915(大正4)年には大将に進み、男爵の位も受けています。娘の安子は作家の有島武郎の妻となっています。

今回の課題研究で、これまで知らなかった加佐ノ岬の歴史を新たに学ぶことができました。

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漁船の安全を守る白亜の加佐ノ岬灯台

2012年10月26日 | 日記

隊員NO.6ちーろで~す(^_^)v

10月23日(火)の課題研究の時間に橋立町の加佐ノ岬を訪問しました。

加佐ノ岬には、とってもきれいな白亜の灯台が立っていました。

越前加賀国定公園の景勝地に建つこの加佐ノ岬灯台は、1952(昭和27)年5月に建設されました。

加賀から能登半島に延びる海岸線は、塩屋・黒崎・小舞子・内灘・千里浜と平坦で長い砂浜が続くので、

変化に乏しく、航行する船舶や沖で操業する漁船にとって、自分の位置を確認するのが難しい所です。

ところがこの加佐ノ岬だけが突如として荒々しい岩肌を示す断崖の岬となっています。

そこで、加佐ノ岬の特異な地形を利用し、白亜の灯台が目印となるようにつくられました。

特に、岬に隣接する橋立漁港を出入りする船の安全のために、とても大切な灯台となっています。

現在の灯台は1981(昭和56)年につくられたものです。

灯台のある位置は、北緯36度21分05秒、東経136度18分00秒。13秒に3回ピカッと光り、

光度は8300カンデラ(光度の単位、カンデラの語源はキャンドルから来ていて、1カンデラは

1キャンドル、つまりロウソク一本の明るさです。)、光達距離は13.5海里(1海里は1852m)です。

また、平均水面から灯火までの高さは54m、地上から灯火までの高さは12.95mです。

この灯台は、白搭四角形の上に丸い灯篭が乗ったちょっと珍しい形の灯台です。

すばらしい景色が広がり、そして岬の先端には加佐ノ岬灯台がある。

加佐ノ岬灯台は、本当に灯台らしい灯台ですね!


加佐ノ岬倶楽部・ピカソを鑑賞しながらのランチ

2012年10月25日 | 日記

隊員NO.6ちーろで~す(^_^)v

10月23日(火)の課題研究の時間に橋立町の「加佐ノ岬倶楽部」へお伺いしました。

本当は加佐ノ岬周辺を散策しながら取材するのが目的だったのですが、あいにくの荒天のため、

残念ながら散策は取りやめになってしまいました。でもその代わりにとっても素敵な加佐ノ岬倶楽部」の

カフェでゆっくりとランチを楽しみながら、幸せな一時を過ごすことができて、ラッキーでした。

加佐ノ岬倶楽部」のカフェがある建物は、ダムに沈む予定だった山中町我谷の古民家を、オーナーの

宮本さんが移築して使用されているそうです。もとは、「硲伊之助(はざま いのすけ)美術館」のギャラリーでした。

美術館が吸坂町に移された後、現在の加佐ノ岬倶楽部カフェとして使われることになりました

店内にはアンティークな物がたくさん飾られていました。照明や音楽もとっても落ち着いていて、じっくりと

ランチを楽しむことができます。(トイレもとてもおしゃれでしたよ!)

そしてとっても驚いたことに、壁にはあのピカソの作品がたくさん展示されていました。

オーナーの宮本さんのお話では、「素描だけど、もしピカソのサインがあれば、ビックリする高価なものに

なるだろうね。」とのことでした。

ランチメニューも豊富で、パスタ、カレー、ハヤシライス、ビーフシチュー、ワンプレートランチなど種類が多くて、

うれしいことにセットにすれば、ドリンクだけでなく、ケーキとアイスのデザートまでついてきます。

とってもお得感がありました。

みなさんも、ピカソを鑑賞しながら、加佐ノ岬倶楽部」でおいしいランチをお楽しみ下さい!

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加佐ノ岬は加賀のパワースポットだそうですよ!

2012年10月24日 | 日記

隊員NO.6ちーろで~す(^_^)v

すっかり秋らしくなりましたが、みなさんいかがお過ごしですか。わたしたち実高ふれ愛隊がブログを開設して

6ヶ月。この度おかげさまで2万アクセスを記録しました。いつも応援、本当にありがとうございます。

これからも頑張りたいと思いますので、よろしくお願いしま~す!

さて、10月23日(火)の課題研究の時間に橋立町の「加佐ノ岬倶楽部」へお伺いしました。

そして「加佐ノ岬倶楽部」代表の宮本昭夫さんから、加佐ノ岬のことやカフェに併設するギャラリーのことなど、

たくさんのお話しをお聞きしました。宮本さん、お忙しい中、ありがとうございました。

加佐ノ岬は越前加賀海岸国定公園の一部で、遊歩道が整備されていて、多くの人々が訪れる観光名所です。

わたしたちが訪れた日は、あいにくの荒天で歩くことができず残念でした。

加賀海岸は約35kmにわたって平坦でおだやかな長い砂浜が続くのが特徴ですが、

この加佐ノ岬は加賀海岸の南西端にあって、加賀海岸の中では最も日本海に突き出た岬になっています。

先端は海食によって軽石質砂石が侵食された20~30mの断崖が続き、周囲には小さな岩島が海面から顔を出して

います。この加佐ノ岬には、かつて「橋立」という地名の由来となる400mもつづく突き出た岩の崖「梯立」が

あったのだそうです。

ところで皆さん、この加佐ノ岬が今パワースポットとして注目を集めていることをご存じですか?

この加佐ノ岬は、白山、木曾御嶽山、富士山という3つの霊山を一直線上に結んだライン上に位置しているのです。

またその先には、太平洋側の神奈川県真鶴(まなづる)半島へとつながっていて、この半島にある貴船神社もまた、

パワースポットとして人気を集めているようです。正月の初日の出には大勢の観光客が訪れる有名な場所だそうです。

加佐ノ岬にたつと、朝日が白山からのぼり、夕日が日本海へと沈む幻想的な風景を両方とも拝むことができます。

パワースポットは大地の力がみなぎる場所という意味ですから、人に勇気や元気を与えてくれるはずです。

わたしたちも、加佐ノ岬に来て、不思議な力をもらえたのかな?皆さんも改めて加佐ノ岬へいらしてくださいね!

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曽良との別れ、山中との別れ

2012年10月23日 | 日記

隊員NO.1あさので~す(^_^)v/

これまで加賀市観光ボランティア大学で、西島明正先生から教えていただいたことを、

先生の著書芭蕉山中温泉』を参照しながら、ご紹介してきましたが、

いよいよ芭蕉山中を旅立つ時を迎えました。そして、この旅立ちは「奥の細道」で苦楽と共にしてきた

芭蕉曽良の別れの時でもありました。1689(元禄2)年8月5日(新暦9月18日)のことです。

二人はこれまでの旅を振り返りながら、それぞれの思いを句に託しています。

曾良は腹を病(やみ)て、伊勢の国長島と云う所にゆかりあれば、先立(さきだち)て行(いく)に、

 行行(ゆきゆき)てたふれ伏すとも萩の原    曾良

(病身のまま旅立ち、このまま行けるところまで行って倒れたとしても本望だ。できることなら萩の咲く

野原で死にたいものだ。それくらい旅にかける志である。)

と書置(かきおき)たり。行(いく)もの悲しみ、残(のこる)もののうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて

雲にまよふがごとし。予も又、

今日よりや書付消さん笠の露  芭蕉

(ずっと一緒に旅を続けてきた曾良とはここで別れ、これからは一人道を行くことになる。笠に書いた

「同行二人」の字も消すことにしよう。笠にかかる露は秋の露か、それとも私の涙か。)

また、立花北枝も山中を去る気持ちを

きくの里みるたびなかむゆの名残  北枝

とよみました。

昼頃になりました。芭蕉と北枝は、曽良山中の俳人たちの見送りを受けて、黒谷橋を渡り

那谷寺にむかって旅立ちました。

曽良もまた、燕が南に帰って行くその後を追うように、大聖寺に旅立ったのです。

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山中温泉・芭蕉もたたえる温泉の効用

2012年10月22日 | 日記

隊員NO.1あさので~す(^_^)v/

加賀市観光ボランティア大学で、西島明正先生から教えていただいたことを、先生の著書芭蕉山中温泉』を

参照しながら、ご紹介しています。

2,400kmにもおよぶ「奥の細道」のなかでも、山中温泉ほど芭蕉に対してあたたかいもてなしをした場所はない

といわれています。

芭蕉は、山中温泉を出立する前日、次のような句を詠んでいます。

湯の名残 今宵は肌の 寒からむ

(いつまでも山中の湯につかっていたいものだが、明日は旅立たなくてはならない。心がゆったりとなる

この湯と、思い出深い山中を去ることは本当に惜しいことだ。今宵はさびしさが一層つのってくる。)

昔から、山中温泉の泉質や効能について記された文書類はいくつかありますが、「熱くもなく、ぬるくもない、

やわらかでやさしい名湯だ」とされています。

『三州奇談』(加賀藩内の不思議な話しとして伝えられている口碑を集めたもの)にも、

「冷暖心に叶ひ、香芳ばしく水潔し」と書かれ、透明度の高い、癖のない泉質が讃えられています。

また『江沼志稿』(大聖寺藩士小塚秀得が1844年に藩主前田利之の命によって編纂したもの)には、

「痔を治する事妙なり」とも記されています。

研究によると、芭蕉は胃腸病と共にもう一つ痔の病だったという見方があるそうです。

変な話ですが、日本人の多くが痔に悩んでいるという話もあります。

みなさん、一度山中温泉の湯に浸かってみられてはどうでしょうか?

 やまなかや 菊はたおをらじ ゆのにほひ

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河合曽良の「奥の細道随行日記」

2012年10月21日 | 日記

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加賀市観光ボランティア大学で、講師の西島明正先生から教えていただいたことを、

先生の著書芭蕉山中温泉』を参照させていただきながら、ご紹介しています。

1689(元禄2)年8月4日(新暦9月17日)、芭蕉山中温泉を去る前日です。

前日の夜から降り続いた雨は、朝にはやみましたが、午前9時頃からふたたび雨模様になりました。

この頃、腹痛が激しくなった曽良は、芭蕉の足を引っ張るのを心配して、一足先に伊勢に旅立つ決意を

したようです。芭蕉はそのことを知り、立花北枝と三人で曽良への餞別として、歌仙を巻くことにしました。

この歌仙を収録した『やまなかしう』には、他にはあまり見られない芭蕉の評語や添削の跡が残されていて、

芭蕉を研究する上で、大変貴重なものになっているそうです。芭蕉の山中での足跡ってとっても大切なのですね。

さて、河合曽良(1649~1710年、蕉門十哲の一人)という人は、深川芭蕉庵の近くに住んでいて、

芭蕉のお気に入りの弟子だったようです。曽良は誠実で几帳面な性格だったようで、江戸にいる時から芭蕉

身の回りの世話をしていました。そして「奥の細道」の旅における芭蕉の秘書的役割をこなしています。

「奥の細道」は紀行文といわれるもので、物語をスムーズに進めるために日にちが前後しているところがあったり、

現実にあったことをやや飛躍させるフィクションが書かれていたりします。

そこで、芭蕉を研究される方々は、曽良の綴った旅日記「奥の細道随行日記」と呼ばれる手控えを参考にし、

史実を明らかにするのだそうです。この日記が発見されたのは、意外と新しく昭和18年のことです。

この日記により、奥州行脚における実際の日付・天候・旅程・宿泊その他の芭蕉の動静がわかったり、

『おくのほそ道』と比較することによって、芭蕉の制作意識を探求することができます。

じつは、「奥の細道」と曽良の日記とでは、江戸深川をスタートした日にちから違っているそうです。

「奥の細道」では3月20日となっていますが、曽良の日記では3月27日になっています。

さて、どちらが本当なのでしょうか?

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『山中問答』・芭蕉が語る不易流行(ふえきりゅうこう)

2012年10月20日 | 日記

隊員NO.1あさので~す(^_^)v/

加賀市観光ボランティア大学第13回講座 「『奥の細道』-芭蕉山中温泉-」で、講師の西島明正先生

から教えていただいたことをご紹介しています。

 

1689(元禄2)年8月3日(新暦9月16日)、久しぶりに夕方まで雨が降り続きました。

松尾芭蕉山中温泉に逗留して7日目のことです。

この頃、芭蕉は金沢から同行している立花北枝の質問に答えて、俳諧のこころを語っています。

その芭蕉の言葉を北枝が書き記したのが『山中問答』です。この『山中問答』は、芭蕉が唱えた

正風俳諧を研究する上でとっても貴重な史料なのだそうです。

『山中問答』

正風の俳道に志あらん人は、世上の得失是非に迷はず、烏鷺(うろ)馬鹿(ばか)の言語になづむべからず。

天地を右にし、萬物、山川・草木・人倫の本情を忘れず、落花散葉の姿にあそぶべし。

其すがたにあそぶ時は、道古今に通じ、不易の理を失はずして、流行の変にわたる

然る時は、こころざし寛大にして物にさはらず、けふの変化を自在にし、

世上に和し、人情に達すべしと、翁申たまひき。


自然と人生に基礎をおく民衆的な文学を、「俳諧」という芸術に創り上げたのが芭蕉です。

そして芭蕉自身が諸国を行脚し、深く自然と人生に思いを込めながら広めた俳諧を「正風俳諧」とよびます。

「正風俳諧は万葉集の心なり。されば貴となく賎となく味うべき道なり。」とは芭蕉不滅の名言です。

『山中問答』の中にある「不易の理を失はずして、流行の変にわたる」(=不易流行)という考えは、

芭蕉が『奥の細道』の5カ月の間に体得したものといわれています。

「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、流行(変化)を知らなければ新たな進展がない、

しかもこの不易流行のもとは一つ、不易流行を、流行不易を動かす

不易」は変わらないこと、すなわちどんなに世の中が変化し状況が変わっても絶対に変わらないもの、

変えてはいけないものということで、「不変の真理」を意味します。

逆に、「流行」は変わるもの、社会や状況の変化に従ってどんどん変わっていくもの、あるいは

変えていかなければならないもののことです。

不易流行」はもともと俳諧に対して説かれた考え方ですが、何か人生すべてのことに通じているように

思えますね。

芭蕉堂←『芭蕉と山中温泉』(西島明正著)

 (ブログ作成にあたっては、西島明正著『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきました)

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黒谷橋・「行脚のたのしみここにあり」

2012年10月18日 | 日記

隊員NO.1あさので~す(^_^)v/

1689(元禄2)年8月1日(新暦9月14日)、松尾芭蕉山中温泉に逗留して5日目。

この日芭蕉は、黒谷橋に出かけました。この黒谷山中温泉から山越えして、那谷寺に通じる

黒谷越え道にあり、当時は木造でした。

いまも美しい黒谷橋周辺の鶴仙渓の景色を芭蕉近くの平岩に座ってながめました。そして

目の当たりにこの絶景を見た芭蕉は、手をたたきながら、こう叫んだそうです。

「此川のくろ谷橋は絶景の地なり。行脚(あんぎゃ)のたのしみここにあり」

芭蕉堂

ですから、いまの黒谷橋の欄干には上のような陶板が飾られています。

1910(明治43)年10月、正風俳諧最後の俳人といわれる渡辺萎文(いぶん)は、全国の同士に呼びかけ、

ここ黒谷橋のたもとに芭蕉堂」を建てました。萎文は堂を建てるのなら芭蕉が「絶景なり」と叫んだ

ここ黒谷橋しかないと考えたようです。

 「芭蕉堂」の前には、石碑があり、次のように刻まれています。


芭蕉翁、正風を倡(となえ)、雲の流れに従い各地を遍歴した。

たぐいまれな足蹟を残して芭蕉翁が、かつて奥州からの帰途、北枝と曾良を伴ってやって来た。

山中の温泉に数日くつろぎ、山中問答を著す。黒谷の勝地にあり。奇岩層列にして、流れる水は渕に

たまり、その間に橋が架っている。ここを翁、徘徊賞心して、盤蛇石という坐りやすき石に坐して

きん然と拍手して曰く。「雲に遊ぶこの楽しみ、まさにここにあり」と。

山中の名は、翁によって有名となり、はや二百有余年になる。山河は当時のままであるが、人の世の

出来事だけが日々変っている。その中でただ正風のみが輝いている。凡(おおよそ)翁の足蹟や

堂宇樹石などは、永く滅びないことを乙い願うものであるが、この地に一つ欠けたものがあると思われる。

それであるから、萎文久しく全国の同志に呼びかけて、芭蕉堂を創建した。

これは実に明治43年10月の事である。のち、この堂で遊ぶ者は、芭蕉来遊の当時をしのび、

風流を聴き、渓を聴き、林恍(りんこう)を聴いて拍手し、世のわずらわしさに思いなげかず、

また文等を尊ぶ者の志を、長く伝えるべきである。

 明治43年10月                五香屋休哉嘉撰(ごこうやきゅうさいかせん)

                            渡辺萎文 謹著

                            

ちなみに渡辺萎文(いぶん)は、1841(天保12)年、金沢城下上材木町で10代続いた

酒造業・柄崎屋渡辺太兵衛の3男として生まれた人です。 大きな器量の持ち主で、外国貿易をこころざし、

2度アメリカに渡ったといいます。また仮名垣 魯文(かながき ろぶん)と共に「我楽多文庫」を発行し

情歌や戯曲も書きました。

いま、「芭蕉堂」は山中温泉を訪れる人々の多くが尋ねる観光スポットになっています。

 (ブログ作成にあたっては、西島明正著『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきました)

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山中の情景・いさり火にかじかや波の下むせび

2012年10月18日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(^_^;)/

←芭蕉堂

山中温泉はその名が示すとおり四方を山に囲まれたとても美しい山あいの温泉街です。

この山中温泉には、山中八景とよばれる名所があります。それは、「医王寺」・「富士写ヶ岳(ふじしゃがだけ)」

「こおろぎ橋」・「黒谷橋」・「道明淵(どうめいがふち)」・「高瀬」・「桂清水」・「采石巖(さいせきがん)」の8つです。

江戸時代の文政年間に山中に来た漢学者大窪詩仏(おおくぼしぶつ、1767~1837年)が撰しました。

松尾芭蕉は、山中逗留3・4日目の1689(元禄2)年7月29・30日(新暦9月12・13日)の2日にわたって、

山中八景の一つとなる「道明淵(どうめいがふち)」を訪れています。この淵は大聖寺川でもっとも深い淵と

いわれています。その昔、ここには大蛇がすみ、里人を困らせましたが、道明と名乗る者がこれを退治したという

伝説があります。芭蕉が来た頃には、ここに丸木面付きの三本並び投げ渡しで、長さ約4.5mの

橋があったそうです。

←昭和初期の山中温泉

芭蕉はこの頃、夜にこおろぎ橋の上流・「高瀬」付近にも出かけました。そして、近くの里人が漁り火で

魚を追っている光景に接し、一句よみました。

いさり火にかじかや波の下むせび

(清流の小石に身を伏せているかじかを漁り火で追っているのであろう。さやさやと聞こえてくる瀬の音は、

かじかがつかまるのを怖がって、川底でむせび鳴いている声であろうか。)

この句でよまれている「かじか」は、”むせび”という一字からみても、鮎やウナギではなく、小エビかゴリで

あっただろうといわれています。

たいまつの火で魚を追う里人、じっと川の底にかくれているかじか。当時はごくありふれた情景だったのか

もしれませんが、芭蕉が句にすると、美しい一場面として目の前にあらわれてきますよね。

 

(ブログ作成にあたっては、西島明正著『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきました)

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松尾芭蕉・桃の木の其葉ちらすな秋の風

2012年10月17日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(^_^;)/

西島明正先生から教えていただいた 「『奥の細道』-芭蕉山中温泉-」についてご紹介しています。

 

松尾芭蕉山中温泉に逗留中、宿舎にしたのが湯本十二軒の一つ泉屋でした。湯本とは、山中温泉草創

から宿舎を営む旧家のことです。

芭蕉が滞在したとき、泉屋の当主だった久米之助は14歳でした。

そして、まだまだ若い久米之助の後見役をしていたのが、叔父の自笑(じしょう)でした。

自笑は加賀の俳壇で人気のあった人で、芭蕉が金沢に着いたとき、金沢まで出かけ、山中温泉に芭蕉

誘ったとも言われています。

芭蕉は若くて多くの可能性を秘めた久米之助への期待から、自分の俳号である「青」のの一字を与えて、

桃妖(とうよう)」と名付けています。の字は、源郷のでもあります。

そして、

   加賀山中桃妖に名をつけ給ひて

 桃の木の其葉ちらすな秋の風  芭蕉 『泊船集』

(今日から俳諧の道を歩もうとする若々しい桃妖よ、どうかそのすばらしい才能を伸ばして大成してくれよ。)

という句を詠んでいます。

桃妖は、その後芭蕉の期待に応えて、山中の俳壇の中心となって活躍をしました。その後、その桃妖をたずねて

全国各地から多くの俳人たちが訪れることになります。

桃妖は、1751(宝暦元)年12月29日、76歳で亡くなりました。桃妖のお墓は、今も医王寺の境内の中に

静かに建っています。

←芭蕉150回忌の時につくられた芭蕉像

(ブログ作成にあたっては、西島明正著『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきました)

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