実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

実性院・利治公に殉じた三人の大聖寺藩士

2012年08月31日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^;)

実性院」は、大聖寺藩約230年におよぶ歴史がまるでタイムスリップしたかのように、

ひっそりと静かに伝わってくる素敵なお寺です。

実性院」は、大聖寺藩歴代藩主の菩提寺で、御霊屋・前田家廟所などは当時の面影を残しています。

裏山を少し登ると、そこには大聖寺藩主前田家の墓地が広がっていて、36基のお墓が見えてきます。

お墓の形は「宇宙は空・風・火・水・地の5つの要素から成り立つ」という仏教観にもとづき、

すべて”五輪の塔”という不思議な形をしています。

中でも、左手奥にある一番大きなお墓が、初代藩主前田利治のものです。

初代から第14代までの歴代藩主の墓が一堂に祀られている例は全国的にも珍しく、

普通は藩主が亡くなるとその都度菩提寺を決めるものだそうです。墓地には14人の藩主の

もの以外に、子ども、正室、側室のものも20基あります。

 

さらには、1660(万治3)年4月に江戸で亡くなった初代藩主利治に殉じて追い腹を切った

中沢九兵衛小栗権三郎小沢三郎兵衛ら3人の従臣のお墓が、利治の墓に寄り添うように

建てられています。利治はとっても家臣思いのお殿様だったそうです。

そのとき、3人と同じように利治の寵愛を受けながら、殉死しなかった青山新右衛門にはとても

非難があがりました。

中沢小沢小栗にやひば立ち、青山が腹に青蝿が立つ』

非難を浴びた青山新右衛門はその後12年間生きぬき、1672(寛文12)年に病気でなくなりました。

その青山新右衛門も今はひっそり実性院に眠っています。 

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”白萩の寺”実性院・もうすぐ萩が咲きますよ!

2012年08月30日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^)/

私たちふれ愛隊が通う石川県立大聖寺実業高校のすぐ近くに”大聖寺山ノ下寺院群”があります。

←山ノ下寺院群の表示板

学校の裏手にある角助山(かくすけやま)から石堂山(いしどうやま)に至る低い丘陵地を背にした

地域は、古くから「山ノ下(やまのした)」と呼ばれており、江戸時代の初期、大聖寺藩は有事に備えて

意図的にこの地に浄土真宗ではない寺院を集めました。この地域に建ち並ぶ七寺・一神社のことを

”大聖寺山ノ下寺院群”といいます。なかでも大聖寺実業高校にもっとも近いのが、「実性院」です。

曹洞宗金龍山「実性院」

曹洞宗金龍山「実性院」は、1660(万治3)年、初代大聖寺藩主前田利治公が亡くなられたとき、

利治公の戒名の院号から、その名が付けられました。

実性院の萩(8月29日、白い花がチラホラ)

みなさん、よくご存じのように実性院」は「白萩の寺」として有名です。

実性院」の白色が多いのは、先代の和尚さんが純粋無垢”けがれのない心”であってほしい

という思いで植えられたからだそうです。

秋の七草(みなさん、全部言えますか?・・・答えはクリックで!)

毎日暑い日が続きますが、もうすぐ9月。秋の七草の一つが咲き誇る季節です。

実性院の見頃は例年、9月10日前後です。約2000株の純白の花が加賀路に

秋の訪れを告げてくれます。

可憐な白いが咲くのが待ち遠しいですね!

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復刊!『五色の九谷』

2012年08月29日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^)/

先日までこのブログで、いまの加賀市で生まれた「九谷焼」の魅力や歴史について

お伝えしました。そのうちの8月13日付け「NHK鑑賞マニュアル 美の壺 File186

 九谷焼」と8月21日付け「石川県九谷焼美術館10周年記念事業」の2つの記事が

それぞれ、にほんブログ村”地域生活(街)中部ランキング”の第3位と第4位に

ランクインしました。本当にたくさんのみなさんにご覧いただき、ありがとうございました。

みなさんのご支援を励みにこれからも頑張りたいと思いますので、よろしくお願いします!

『五色の九谷』(小納弘作・寺戸恒晴画、能登出版)

わたしたちは、「九谷焼」のことを勉強するときに、加賀市立図書館から『五色の九谷』

お借りして参考にさせていただきました。

『五色の九谷』は、児童文学者で大聖寺在住の小納弘先生が1970年に

福音館書店から出版された本です。

しかしその後長い間、絶版になっていたことを惜しみ、「『五色の九谷』を復刊する会」の

皆さんがご尽力されて、2010年3月に能登印刷(株)から復刊されました

『五色の九谷』の物語を読むと、「九谷焼が二十数年もの歳月をかけてでき上がった

こと」「石を砕き、練り、こね、鉱物から美しい色が浮かび出すこと」「流刑人・侍・九谷の

住人・朝鮮や明の陶工たちが、苦労を重ねて五色を生み出したこと」そして

「九谷焼が大聖寺・江沼九谷で生まれたこと」を感じ取ることができます。

この『五色の九谷』の復刻は、地域の312人ものみなさんの署名が力になったと

お聞きしました

「九谷焼」は地域の創作家の方はもちろんのこと、地元の多くの皆さんの「九谷焼」へ

の”愛”によって、受け継がれているのですね。

みなさんもどうぞ、『五色の九谷』をお読みください!

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片山津の紹介・動くマガジン『天晴本舗』

2012年08月28日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^;)

加賀市観光ボランティア大学第10回講座で、講師の片山津うきうきガイド山口美幸さんから

片山津温泉の新しい魅力をとっても楽しく紹介している動くマガジン『天晴本舗(8月号)』について

教えていただきましたので、お知らせします  

←講師の山口美幸さん

『天晴本舗』は、福井のグルメを中心にさまざまな情報が盛りだくさんのウェブサイトです。

まるで雑誌のようにページがパラパラめくれて、誌面が動き、音や動画も楽しめます

『天晴本舗』の田中編集長にご許可をいただき、リンクさせていただきましたので、

どうぞ下の写真をクリックして、ご覧ください!

『天晴本舗(8月号)』(クリックしてください!)

『天晴本舗(8月号)』では、4月にオープンした片山津温泉街湯や湯の花たまごを使った

「片山津バーガー」、ワンコイン(500円)で楽しめる片山津の魅力(屋形船・ナイトクルーズ・

晶子染め・源泉豆腐・雪と氷の実験教室・キャンドルワークショップ・玄米弁当など)の紹介が

わかりやすくされています。

それから、片山津うきうきガイド山口美幸さんが案内役を務められて、観光ガイドbookには

載っていないコアな片山津の魅力が3つ紹介されています。その3つとは、

芸妓検番「花館」・・・片山津の歴史の宝庫、2F展示室にはビックリするような珍しいデザインが!

愛染寺・・・片山津のパワースポット、片山津温泉街を一望できる最高のロケーション!

浮御堂・温泉配湯所・・・隠れハート探しができるカップルにおすすめのデートスポット、です。

山口美幸さんのとっても楽しいお話しも動画と一緒に楽しめますよ。

是非一度『天晴本舗(8月号)』を読んで、片山津温泉の魅力をお確かめください   

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片山津温泉・晶子染め体験

2012年08月27日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(*^_^*)

加賀市観光ボランティア大学第10回講座「湖畔のいで湯 -新装なる街湯周辺をブラ散歩-」で

”柴山潟クルーズ”の後に”晶子染め体験”をしました。私たちは、1学期の課題研究で

一度晶子染め”を実習させていただきましたので、その時のレポートを再録します。

どうぞご覧ください!

 

 4月に街湯がオープンして、ますます元気な片山津温泉の芸妓検番「花館」で、

わたしたち実高ふれ愛隊がとても楽しみにしていた晶子染め」の

ハンカチづくりにチャレンジしてきました

晶子染め」は柴山潟の湖底土と源泉を使って染める泥染めで、歌人与謝野晶子が

片山津温泉を訪れた際、「風起り うす紫の波うごく 春の初めの片山津かな

という歌を残したことから,この名前がつけられたそうです.

晶子染め」では、片山津温泉協会の角谷さん、片山津温泉インフォメーションセンターの鮒池さん

鮒池さんはLady Kagaのお一人です),片山津うきうきガイドの山口さんにお世話いただきました。

本当にありがとうございました!

 

わたしたちの晶子染め」体験については、ブログ晶子染め日記」(←クリック)で

とても詳しく紹介していただいています。ぜひご覧ください  

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柴山潟・準絶滅危惧種ガガブタの群生

2012年08月26日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(*^_^*)/

8月18日(土)に行われた加賀市観光ボランティア大学第10回講座「湖畔のいで湯 -新装なるまち湯周辺を

ブラ散歩-」で、”柴山潟クルーズ”を体験させていただきました。

その時に屋形船の操縦士兼ガイドのカッパ1号さんに、準絶滅危惧種に指定されている植物が柴山潟に群生している

ことを教えていただきましたので、ご紹介します。

その植物の名前を”ガガブタ”といいます。英名はwater snowflake(ウォーター・スノーフレーク)といって、

柴山潟の湖畔に建つ「中谷宇吉郎 雪の科学館」と関係があるみたいで、とても不思議に思いました。

とってもかわいいハート型の葉っぱと白い花がキレイでした。

ウィキペディアによるとガガブタは、「アジア、アメリカ、アフリカ、オーストラリアの温帯域に広く生育する。

日本の本州以西や台湾などにも分布している。あまり深くない止水域に出現する。ただし池沼の改修工事や

水質汚濁などに伴い、日本では個体群が減少傾向にある。

←ガガブタの写真(ウィキペディアより)

浮葉性、または抽水性の植物で、地下茎をのばして生長する。スイレンに似た円心形もしくは卵心形の浮葉をつけ、

長さ8-20cm。抽水葉をつけることもある。・・・夏から秋にかけて、葉柄の基部にバナナのような形をした殖芽

をつくる。花期は7-9月で、多数の白い花を咲かせる。花は上記の葉の少し下の部位から出る。

水面から出た花には5弁があり、その白い花弁の周辺は細かく裂けていて、一面に毛が生えたような見かけに

なっている。自家不和合性をもち、結実するためには他家受粉が必要となる。」と説明されています。

カッパ1号さんは、湖北小学校の近くや「中谷宇吉郎 雪の科学館」周辺のガガブタの群生地を案内してくれました。

群生の中に見える白い旗が付いた棒は漁師さんが仕掛けた”ウナギ”を採る筒の場所を示す目印だそうです。

ガガブタの群生は、柴山潟の水質保全にも大きな役割を果たしています。そして水質が悪くなると絶滅する

おそれがあります。愛らしいハートマークをしたガガブタウォーター・スノーフレーク)をみんなで

大事にしていきたいですね!

←湖北小学校近くのガガブタの群生地

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片山津温泉・水とのたたかいの歴史

2012年08月25日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^)/

片山津温泉は今年、開湯130年を迎えました。4月に新しく街湯が完成したのにあわせて、周辺の街並みも整備され、

魅力的なお店もいっぱいオープンして、とても元気です。

片山津温泉の歴史は、柴山潟の水とのたたかいの歴史でもあります。「湯の元公園」に立っている

片山津温泉由来記”をもとに、その歩みをご紹介させていただきます!

←片山津温泉由来記の碑 

片山津温泉の始まりは江戸時代にさかのぼります。1653(承応2)、大聖寺藩二代藩主、前田利明が

柴山潟に鷹狩りに訪れた際、水面に水鳥が群れていたことから湖底の温泉を発見したと伝えられます。

利明はこの温泉を利用しようと湖面の埋立工事をしましたが、失敗に終わりました。また七代藩主前田利物も

もう一度藩の費用で施工しましたが失敗し、それ以降手つかずの状態が続きました。

1823(文政3)年、羽咋郡の畦鍬恒右門が水中に箱を入れ、水と湯分けに成功し、人々が湯を汲んで

切創治療をしましたが、すぐにすたれました。

1870(明治3)年、羽咋郡の久平、善平と片山津村の藤沢長三郎が協力してついに湯泉の確保に

成功します。でも冬の厳しい季節風のせいで、せっかく完成した設備は一夜にして壊れてしまいました。

また1876(明治9)年12月、旧金沢藩士近藤幸即や中西定一が片山津の村民と協力しながら、約1年をかけて、

埋立を行い、源泉の確保しました。しかし近藤や中西が旅館を建てたものの、湧出量が不足し、

うまくいきませんでした。

←片山津温泉の源泉←浮御堂

しかし1882(明治15)年6月28日、ついに片山津の人々の悲願が達成されます。

柴山潟で使用松材三万本、埋め立て面積一町歩(約1ヘクタール)に及ぶ大規模な埋め立て工事が行われました。

その結果つくられた人工島に湖岸から橋が架けられ、ようやく人々が温泉入浴できるようになりました。

そのときに活躍した片山津村の清水伊与門・広瀬次郎七・岡田五平・北出長与門・藤沢長三郎・惣谷小与門の

6人は「六名者」として、その功績がたたえられました。また掘削工事を担当した石川郡の森仁平は、

”湯出しの仁平”と称せられ、姓を湯出に改めたといいます。

1653(承応2)年の温泉発見から、実に229年の歳月をかけて片山津温泉が誕生したのです。

翌1883(明治16)年に片山津最初の温泉旅館が開業しました。

以後形成された温泉街には明治・大正・昭和と時代を超えて多くの湯治客が訪れ、昭和50年代には、

年間150万人を超える人々が訪れる北陸一の温泉地へと大きく成長しました。

←屋形船から眺めた片山津温泉街の風景

その後、人々の生活観の変化から、片山津温泉へのお客さんは減少傾向をたどることになりましたが、

片山津温泉の皆さんは、より魅力的な温泉を創り上げようとユニークな取り組みを進めています。

片山津温泉のこれからがとても楽しみです。

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柴山潟・人や物をむすんだ加賀三湖

2012年08月24日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^)/

片山津温泉といったら、何と言っても柴山潟ですよね。

柴山潟を隔てて仰ぐ白山の雄大なながめ、そして潟をわたる清らかな風は春夏秋冬と四季折々の

自然の美しさをかなでてくれます。

かつて柴山潟は小松の木場潟・今江潟(いまは干拓で姿を消しました。)とともに加賀三湖とよばれていました。

加賀三湖が誕生したのは、今から約2千年前のことです。古くは日本海が深く流入していたところで、

砂丘が発達したことによって海岸線が後退し、海水が封印されて潟湖(ラグーン)になったのです。

柴山潟をはじめとする加賀三湖があったことから、この地方は昔から「江沼(えぬ)の国」と呼ばれました。

そして加賀三湖は川で結ばれ、船で自由に行き来することができたので、物流の拠点となっていました。

平安時代には交通手段として加賀三湖が利用されていたという記録があります。

加賀守(かがのかみ)であった藤原為房(ふじわらためふさ)の日記には、加賀国府(小松市)から安宅湊近くまで

梯川(かけはし)を下り、今江潟、串川、柴山潟、大聖寺川、北潟、九頭竜川などを経て帰京したと記録されています。

明治から昭和初期にかけては、舟による貨物輸送業者が現れるなど、舟運(しゅううん)の最盛期でした。

北前船で栄えた小松の安宅港→前川→今江潟→柴山潟→動橋への船での移動が可能でした。ですから周辺

の町は様々な物資の運搬で栄えていたのです。

その証拠に南加賀地方には”津”という字がつく地名がたくさんあります。片山津・潮津・月津・粟津・符津など、

それらはすべて加賀三湖の船着場だったところです。柴山潟を囲む形の村だった月津は元は「着津」とも

表記され、その名は柴山潟船着場に由来するともいわれているのです。

ところで、みなさん。柴山潟って、かつては今の3倍の大きさがあったのをご存じですか?

加賀三湖周辺は、低湿地帯のため、たびたび水害や塩害の被害が出ていました。そして第2次世界大戦前後の

食料難の時代になると、農地開拓の声が上がり、国営干拓事業が開始されます。

1952(昭和27)年、加賀三湖干拓国営事業がはじまり、1954(昭和29)年、まず水を直接日本海に放流する

ために、柴山潟から伊切海岸にいたる新堀川が掘られました。1967(昭和42)年より排水が始まり、

今江潟の全面干拓(238ha)と柴山潟の約6割(576.2ha)の干拓をし、事業は1969(昭和44)年に

完成しました。この事業により、柴山潟の大きさは約1/3になったのです。

かつて柴山潟には様々な生物が生息し、漁舟による投網が盛んで、鮒・うなぎ・エビなどがたくさん採れたそう

です。投網の光景は片山津温泉の利用客に大好評で、観光面でも大きな役割を担っていました。

今、柴山潟は片山津温泉の観光拠点として、ますますその価値がクローズアップされています。

物流の拠点だった柴山潟の歴史についても、多くの人々に伝えていきたいものですね!

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片山津温泉・柴山潟クルーズって楽しいよ!

2012年08月23日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^)/

「わしゃ、長いこと加賀市に住んどるけど、柴山潟を船で乗るのは初めてやわ!」 

加賀市観光ボランティア大学に参加されている一人の男性の言葉です。

柴山潟から眺める景色はそれはそれはキレイで”柴山潟クルーズ”で、

「加賀市って、こんなにいいとこだったの?」と思えるぐらい、素晴らしい体験をさせていただきました。

加賀市観光ボランティア大学の第10回講座で、わたしたちは”柴山潟クルーズ”を体験させていただきました。

受講生は、14人乗り・10人乗りの2隻に分乗して、約40分間の”柴山潟クルーズ”を満喫しました。

浮御堂から出発した屋台船2隻は、波も静かな柴山潟へと繰り出しました。

 

山代方面には雷雲があって、ゴロゴロ音がしていましたが、片山津はとてもいい天気でした。

でも、本当ならとってもキレイに見えるはずの白山が残念ながら、かすみがかかってぼんやりでした。

加賀市の中でも源平橋付近から眺める白山の景色が最高だそうです。

14時には、柴山潟名物の大噴水が地上70mの高さまで吹き上げられました。

わたしたちを案内してくれたのは、いつもボランティアで観光客の皆さんを楽しませている”カッパ1号”さんです。

”カッパ1号”さんは片山津温泉を盛り上げるために、7人の仲間と一緒に、わざわざ船舶免許を取得して、

今から7年前より、船上ガイドをされているそうです。

柴山潟を訪れた観光客の皆さんへの余興で、カッパの格好をしたのが好評で、折に触れてカッパに変装されて

いて、”カッパ1号”と呼ばれるようになりました。

でも、今日は本来の人間の姿で、とっても楽しい解説をしてくださいました。

←カッパ1号さん

”カッパ1号”さんは、湖上小学校前の”ガガブタ”の群生地も案内してくれました。

そして、柴山潟をめぐる楽しいお話しや片山津温泉の今の様子をとってもわかりやすく話してくださいました。

柴山潟クルーズ」は毎日15:00~17:30出発で30分ごとに出航しています。

観光で片山津を訪れる皆さんだけでなく、加賀市に住むわたしたちにもとっても楽しい体験ができるクルーズです。

料金は1コイン(500円)です。是非一度お楽しみください!

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片山津温泉の伝説・竜神と娘

2012年08月22日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す!

加賀市観光ボランティア大学第10回講座「湖畔のいで湯 -新装なる街湯周辺をブラ散歩-」が

8月18日(土)13時30分から片山津温泉・湯の元公園、柴山潟で開かれました。

←浮御堂

今回の講座はいつもと趣をかえて、柴山潟クルーズや”晶子染め体験”など、実習が中心で、

とても楽しかったです。講師は片山津うきうきガイドの山口美幸さんで、とっても明るく元気に

片山津温泉の新しい魅力を解説していただきました。ありがとうございました。

←山口美幸さん←地下70mから湧き出る”源泉”

今年開湯130年を迎えた片山津温泉の歴史は、柴山潟からわき出た温泉を水と分ける苦難に

満ちた物語でもあります。そんな片山津温泉に、とっても不思議な伝説がありますので、ご紹介します。

「片山津の伝説・竜神と娘」

柴山潟が今よりもずっと大きく、片山津の村がとても貧しかった時代のお話しです。

いつしか柴山潟にはとてもおそろしいおろちが棲むようになっていました。

夜中になると村人を襲ったり、近くの家を荒らすのもしばしばでした。

←柴山潟←絶滅危惧種”ガガブタ”

困り果てた村人たちは「なんとか村をお守りください!」とお薬師さまにお参りをかさねたのです。

そんなある日、一人の大変美しい娘が柴山潟のほとりに倒れているのが見つかりました。

村人たちはこの美しい娘を一生懸命に看病しましたが、不思議なことに、その娘の姿が夜になると

見あたりません。娘はいつのまにか柴山潟のほとりに来ていたのです。

「あぶないっ。あんなところにいたら、おろちに食べられてしまう!」村人たちがそう思った瞬間です。

突然おろちが大きな口を開き、湖面から姿を現しました。しかし娘は逃げることなく、手に持つ

琵琶をかき鳴らし始めました。その音色はそれはそれはうっとりするもので、あの恐ろしい

おろちの顔つきまでやさしくなったそうです。そのときです。娘が大きな声でおろちにむかって叫びました。

「おまえは今、生まれ変わった。おまえは今日から竜神となって、片山津の村人を守れ!」

そう言うと娘は天へ、おろちは水中へと消え、二度と姿を現しませんでした。

その後、片山津には温泉が発見され、片山津は北陸屈指の温泉街へと発展しました。

柴山潟にある浮御堂と竜神像は、片山津の人々の娘への感謝の印として建てられました。

 

山口美幸さんにガイドしていただいた片山津温泉の魅力をこれからレポートさせていただきます!

よろしくお願いしま~す!

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「石川県九谷焼美術館」10周年記念事業

2012年08月21日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^)/

これまで加賀市観光ボランティア大学第9回講座「これであなたも九谷焼博士

-こだわりの人吉田屋伝右衛門-」で石川県九谷焼美術館副館長中矢進一先生に教えて

いただいたことを中心にレポートさせていただきました。

講座では中矢進一先生に、今年で開館10周年を迎えた石川県九谷焼美術館の記念事業について

ご紹介いただきましたので、お伝えします。

まず、10周年関連事業として”古九谷産地論争”について考える番組がこの秋、北陸朝日放送で放映されます。

中矢進一先生が監修をつとめられ、「開運!なんでも鑑定団」でおなじみの中島誠之助さんがナビゲーターを

担当されるそうです。放送されるのがとても楽しみです。

また、東京や大阪などで2つの九谷焼に関する展示会が企画されています。一つが「加賀赤絵の九谷展」。

11月から東京高島屋→京都高島屋→名古屋松坂屋で巡回展示されます。そして来年1月には、大阪阪急うめだ

本店のリニューアルオープンにあわせ、「古九谷再興物語 青手九谷・吉田屋の魅力展」が開かれます。

その初日には、古美術鑑定家の中島誠之助さんが記念講演をされるそうです。(来年2月16日からは、凱旋展が

石川県九谷焼美術館で行われます。

そして、 石川県九谷焼美術館では、11月10日(土)~来年2月11日(月)にかけて、

特別展「雪古九谷展」が開かれ、館長である地元出身の作家・高田宏さんの代表著作『雪古九谷』の作中に

登場する焼き物のモデルとなった古九谷をはじめ、原作の世界観を形づくるさまざまな古九谷が一同に集め

られます。11月11日(日)には、女優・坪井美香さんによる朗読劇『雪古九谷』が2回上演される予定です。

みなさん、石川県九谷焼美術館をあらためて訪ねてみませんか?

石川県九谷焼美術館のホームページ(←クリック)をリンクさせていただきました。

詳しくはホームページをご確認ください!

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日本最大の磁器窯跡・「九谷焼窯跡展示館」

2012年08月20日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^)/

古九谷再興を夢見た大聖寺の豪商「吉田屋伝右衛門」は、文政7年(1824年)ついに九谷の地で九谷焼を

よみがえらせました。そして2年後、その窯を山代越中谷に移した後も、多くの九谷焼を世に残しました。

それらの作品は「吉田屋窯」とよばれ、古九谷と並ぶ名品として高い評価を受けることになります。

以後この山代越中谷の「吉田屋窯」は、大聖寺藩政時代には「宮本屋窯」⇒「藩営九谷本窯」へと変遷し、

明治以降も、「民営九谷本窯」⇒「九谷陶器会社」⇒「九谷陶器本社」⇒「大蔵寿楽窯」⇒「嶋田寿楽窯」と

受け継がれ、現在に及びます。

九谷焼はなんといっても私たちの住むこの加賀市を中心としてはぐくまれ、数々の名品が世に生み出されて

きたのです。

山代温泉の「九谷焼窯跡展示館」は、再興九谷にかけた先人の深いこころざしと、180年におよぶ

継承の歴史を目のあたりにすることができる貴重な展示館です。

九谷焼窯跡展示館」の館長さんは北出不二雄先生がつとめられています。

九谷焼窯跡展示館」はみどころ満載です。

(1)旧九谷壽楽窯母屋兼工房・・・明治30年代に現在地に移築されたと推定される民家で、以降

  九谷焼窯元の社屋や経営者の住居兼工房として使われてきました。蹴ロクロ場から絵付場にかけては

  かつての姿に再現され、店の間は常設展示室になっています。建物自体が加賀市の指定文化財です。

  九谷焼の歴史や、製作工程、独特の道具などをわかりやすく展示する常設展のほか、「吉田屋窯」

  「宮本屋窯」「九谷本窯」「松山窯」などの再興九谷諸窯およびそれ以降の九谷焼の名工からテーマを

  しぼって年4回の企画展が行われています。また、ロクロ成形体験・九谷焼絵付け体験のコーナーがあります。

(2)九谷磁器窯跡・・・国指定史跡です。吉田屋伝右衛門が築き、受け継がれてきた連房式登り窯の底面遺跡で、

  その大きさは日本最大規模といわれています。巨大な窯跡は九谷焼のロマンを語ってくれます。

  遺跡を保護するため、建築家内藤廣氏が作られたシェルター覆われています。

(3)山代九谷焼磁器焼成窯・・・昭和15年~40年まで実際に使われていた、九谷焼としては現存最古の窯で

  加賀市指定文化財です。昭和40年頃まで 実際に使われて一回の窯入れで約1000個入ったそうです。

  燃料のアカマツもたくさん積んであります。

加賀の先人たちが九谷焼を通じて追い求めた美意識やものづくりにかけた情熱を九谷焼窯跡展示館」で

体感できます。お時間を見て是非見学してみてください!!

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九谷焼再興・伝右衛門を動かした花魁(おいらん)の一言

2012年08月19日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(*^_^*)

豪放、重厚、そして何ものにもとらわれない自由さを特徴とした古九谷が忽然と姿を消してから約130年後、

九谷焼を見事に蘇らせたのが、4代吉田屋伝右衛門というおじいさんです。

吉田屋伝右衛門は、数々の功績によって大聖寺藩から豊田の姓を賜り、武士並の待遇を受ける豪商で、

儒学・詩・短歌・絵画・書にも精通した当時の超一級文化人・風流人でした。

吉田屋伝右衛門自画像(九谷焼窯跡展示館HPより)

1823(文政6)年、伝右衛門さんが、なんと72歳のときです。ご隠居さんとなっていた伝右衛門は、

加越能3州(現在の石川県・富山県)でただ一つ公認されていた大聖寺藩領の串茶屋(現小松市)遊郭で

余暇を楽しんでいました。この頃の串茶屋は最盛期を迎えており十数軒の遊郭がひしめき合い、

金沢・小松・大聖寺からたくさんの豪商や文化人が集まって、とても賑わっていました。

その時伝右衛門さんは一人の花魁(おいらん)を相手に、「なんで九谷窯は廃絶したのかなぁ」と嘆いたそうです。

すると花魁が九谷焼の運命を決定づける一言を伝右衛門さんに伝えました。

「伝右衛門さん、若杉(窯)の若い人たちが、遊びに来てますよ。

                呼んで(古九谷の)話でもされたらどうでしょう!」

この若杉(窯)の若い人たちというのは、加賀藩御用窯・小松若杉窯の職人である本多清兵衛

(若杉窯の祖・本多貞吉の養子)と本多貞吉の門人粟生屋源右衛門(あおやげんえもん)でした。

この二人は加賀藩の命により、若杉窯の職人として、ただただ磁器の量産化につとめる毎日に飽き、

古九谷のような芸術としての九谷焼を再興することを夢見ていたのです。

吉田屋伝右衛門と本多清兵衛・粟生屋源右衛門は、すぐに意気投合しました。

このとき、吉田屋伝右衛門は「自分が古九谷のような美しい九谷焼を絶対に復活させてみせる!!」と決意したのです。

伝右衛門はこの後、まるで自らの残された生涯をかけるかのように、私財を投げ打って九谷窯を再興します。

←串茶屋の遊女の墓

今思うと、伝右衛門に言葉をかけた花魁をしていた一人の女性が九谷焼を蘇らせたようにも思えます。

現在、串茶屋には多くの遊女のお墓があります。このときの女性もここで静かに眠っているのでしょうか?

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九谷焼中興の祖・吉田屋伝右衛門のこだわり

2012年08月18日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^;)

九谷焼中興の祖といわれるのが、4代吉田屋伝右衛門という人です。

この4代吉田屋伝右衛門は、「伝右衛門なくして、今の九谷焼という焼き物はこの世になかった」と

いわれるくらい九谷焼の歴史にとって大切な人です。

←加賀市観光ボランティア大学「これであなたも九谷焼博士 -こだわりの人吉田屋伝右衛門-」

吉田屋は代々大聖寺の豪商として知られた家柄町人で、大聖寺藩に多額の献金をし、

名字帯刀が許され、豊田の姓を賜っていました。この4代伝右衛門は、かつて素晴らしい焼き物を

焼いていた古九谷をぜひ復活させたいという一途な想いで、あえて大きなお金をかけてまで

1824(文政7)年に九谷の聖地である九谷古窯跡の横に窯を作りました。

吉田屋伝右衛門がめざした九谷焼は古九谷の中でも”青手”です。

落ち着きのある色、そして器の作りまでもわざわざ江戸前期の古九谷に非常に近いものにしました。

ですから吉田屋が作らせた九谷焼は、その絵も江戸後期としては非常に珍しく大胆な構図のもので、

すべて手作り手描き、器の作りも非常に手間ひまを惜しまないものになっています。

しかしこの九谷の窯は2年もたたない間に山代の越中谷に移されました。その理由としては九谷が

非常に山奥で雪が多いこと、交通の便が非常に悪く、出来上がった作品を運び出すのにとても

障害が大きかったことが考えられます。

しかしそれらのことは、もともと伝右衛門十分分かっていたことで、それでも彼があえて九谷で

窯をつくったのは、「九谷で焼かなければ九谷焼ではない」という強いこだわりからだったのです。

吉田屋伝右衛門さんって、本当にこだわりの人だったのですね。

 

伝右衛門山代の越中谷に移した吉田屋窯は、長らくその所在が明らかではありませんでしたが、

平成2年に木を移植するため穴を掘ったときに偶然、吉田屋特有のねずみ色をした素地、

焼き歪んだ大きな皿の破片が見つかったことをキッカケに、調査がおこなわれ、山代の窯の存在が分かりました。

現在その窯跡は「九谷焼窯跡展示館」として整備され、全国的に見ても大変価値のある歴史上貴重な

史跡であることから、平成17年に国の文化財として追加指定を受けています。

「九谷焼窯跡展示館」

展示棟に展示されている数々の資料を通して、吉田屋伝右衛門が愛した九谷焼ってどういうものか、

九谷焼というのはどういうふうにして現在に継承されてきたのか間近に見て感じ取ることができます。

みなさん、是非一度見学に行きましょう!

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古九谷窯が突如廃止されたのはなぜか?

2012年08月17日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す!

ゴッホの油絵を思わせる力強い色彩を持ち、かの北大路魯山人が「恐ろしく芸術的」と絶賛した

古九谷をつくっていた古九谷窯は1655年頃に始まったと見られています。ところがその古九谷窯は、

わずか50年あまりで突如廃止されました。

加賀市観光ボランティア大学第9回講座で、その廃止の理由について

石川県九谷焼美術館副館長の中矢進一先生から教えていただきましたので、ご紹介します。

加賀市観光ボランティア大学第9回講座

中矢先生によれば、廃止の原因は定かではないものの、6つのことが考えられるそうです。

イ)中心人物の死・・・初代藩主利治の遺志を継いで九谷焼に情熱を燃やした2代藩主利明が1692年に

    没し、後藤才次郎忠清も1704年に亡くなりました。

ロ)財政上の問題・・・1681年大聖寺藩は飢饉で餓死2千余人を出し、1693年には大聖寺大火により

  藩主の居邸、役所が焼失しています。また古九谷窯の維持にはかなりの費用がかかり、

  藩の財政を圧迫していたと思われます。

ハ)量産に成功した伊万里焼の大量流入・・・肥前では戦乱で衰えた中国の景徳鎮に代わって、ヨーロッパ

  に輸出する陶磁器の生産拠点として、色絵町とよばれる職人集団が出来上がり、大量生産できる体制と

  なったため、九谷の陶磁器生産は、市場を独占され、廃窯を余儀なくされたことが考えられます。

ニ)藩政の混乱・・・肥前藩と姻戚関係にあった初代、2代の藩主が亡くなり、また3代藩主利直は九谷焼に

  興味を待たなかったことや、家老神谷内膳と次席家老村井の権力闘争で、九谷焼推進派の神谷が

  失脚したことなどが影響したと思われます。

ホ)工人確保上の問題・・・1693年、肥前鍋島藩が「有田工人出稼ぎ禁止令」を発し、新たな技術者の確保が

  難しくなりました。(2代藩主利明が亡くなり、肥前鍋島家との姻戚関係がとぎれたことも影響か?)

ヘ)幕府嫌疑の回避・・・幕府から「中国人が九谷窯にいるのではないか」、「島原の乱(1637年)で有田から

  追放されたキリシタンの工人を九谷がかくまっているのではないか」という嫌疑をかけられ、それを回避する

  必要があったと推測できます。

古拙ながらも、豪放、重厚、何ものにもとらわれない自由さを特徴とする”古九谷”が忽然と姿を消した謎

にとても歴史的なロマンを感じます。みなさんはどう思われますか?

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