実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

「大聖寺藩いいとこ つかみどり」

2012年11月14日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v/

11月8日(木)1930分から加賀市民会館を会場に、加賀市観光ボランティア大学

15回講座 大聖寺藩いいとこつかみどり-たった1時間であなたは歴史通に-」

が開かれました。

  

講師は江沼地方史研究会の伊林永幸先生でした。

伊林先生は現在、大聖寺町民館長として、大聖寺町史を編さんされていて、大聖寺

詳しいお話しをしていただきました。先生、本当にありがとうございました。

伊林先生は、今回わたしたちのために、「幕末の大名石高表」の資料を準備してください

ました。廃藩置県直前の1871(明治4)年に、わが国にあった藩は全部で270藩前後。

その中で、われらが大聖寺藩十万石は、何と表高(幕府が認定していた石高)で

53番目、実高(実際にとれた石高)で70番目で、270前後あった藩の中でも、上位ランク

だったのです。わたしたちは、お隣の金沢藩が103万石もあるので、大聖寺藩って

小さい藩だってイメージがありますが、大聖寺藩は、実は日本を代表するほど

大きな藩だったのですよ。

同規模の藩でいうと、小田原(現人口19.5万人)、弘前(同18.1万人)、

富山(同42.1万人)大垣(同16.1万人)、高崎(同37.2万人)です。全国にあった藩の

ほとんどが、3万石以下の小藩だったといいますから、大聖寺ってすごかったんですね。

関ヶ原の戦いがあった1600(慶長5)年から1871(明治4)年までの間には、527の

藩が存在したそうです。すなわちそれは、527の城下町があったということです。

そのうち、廃藩となったのが、247藩。ですから、江戸時代にあった藩のうち、最後まで

生き残ることができた藩は、半分しかなかったことになります。

大聖寺藩って、いろんな苦難を抱えながらも、どっこい最後まで生き残った藩

なんですね。最大の外様大名加賀前田家の支藩として、大聖寺藩はどんな歴史を

歩んだのでしょうか。伊林先生から教えていただいたことをもとに、隊員NO.2りかが

レポートしますので、よろしくお願いしま~す!

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