実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

吉崎御坊・蓮如はなぜ北陸を布教の地として選んだのか?

2012年11月29日 | 日記

隊員NO.3せりかで~す(^_^)v

課題研究の時間に家山勉先生から「加賀の一向一揆と蓮如」について教えていただいたことを

レポートさせていただきます

わたしたちは、蓮如について知るために、吉崎御坊(御山)を見学することになりました。

講師の家山先生は、吉崎御坊(御山)へ行く前に、わたしたちを吉崎東別院会館に

案内してくださいました。そして吉崎東別院会館では、僧侶の道場さんからパンフレットをもとに

蓮如がなぜ吉崎に来たのか」ということについてご説明いただきました。

←1747年に建てられた本堂

蓮如は1457(長禄元)年、父存如が亡くなったのを受けて、京都にあった本願寺の第8世住持職に

なりました。蓮如43歳の時です。浄土真宗の開祖は親鸞ですが、親鸞が寺を持たず、弟子も持たずの精神を

もった人だったために、信者の獲得という点では、とてもさみしい状態でした。そのため本願寺は

とってもまずしく、延暦寺の末寺として、ほそぼそと活動していました。

1461(寛正2)年、「寛正の大飢饉」が起こり、京都には飢餓による死者があふれかえりました。

蓮如はこの事態に直面し、「なんとか貧しい民を救わねば」と、必死にボランティア活動をしたといいます。

また、「この誰も訪れなくなっていた本願寺を何とか立て直したい」と、自らに大きな課題を課しました。

蓮如は、親鸞の直系として、善人なをもて往生をとぐ。いわんや悪人をや 」という開祖・親鸞の正しい

教えを広め、一部の貴い身分の人、知識や学問のある人、寺や塔などを寄進できる金持ちや領主だけを

相手にする旧来の仏教を改革するのだという決意を固めたのでした。

しかし、蓮如の前には大きな障害が立ちふさがりました。蓮如の必死の活動は、「専修念仏のみを重視し、

念仏以外の三宝である仏、法、僧をあなどる誤った考え」であるとして、延暦寺西塔院から敵対視されます。

本願寺は徹底的に破壊され、蓮如は滋賀県の金森道場や堅田道場に移って活動することになります。

しかしここでも本願寺の信者が拡大することに警戒する延暦寺によって攻撃を受け、蓮如は近畿地方で活動を

続けることが困難になったのでした。

このような状況の下、1471(文明3)年の夏、蓮如は越前吉崎にやってきたのです。

蓮如が新たなる根拠地として吉崎を選んだ理由としては、この吉崎蓮如長年にわたって懇意だった

興福寺大乗院の経覚大僧正の土地であったこと、またこの吉崎が新たに発展した北陸における交通の

要所だったこと、そして北陸にはもともと阿弥陀信仰を持つ、白山天台の信者や時宗・真宗他派の人たちが

多くいたことなどが考えられています。

蓮如はひょっとして、この新興の地・北陸で大いなる実験を行おうと考えていたのかもしれません。

「この時代、仏教を広めて行くには、生きることに不安を抱えている民衆の心をいかにつかんでいくかに

かかっている。」「従来の仏教では、民衆の心をとらえることはできない!」

蓮如は北陸の民衆の前で、みずからの罪多き姿をさらけ出しながら、「阿弥陀如来の救い」について説いた

のです。

蓮如の直感、洞察力はある意味あたっていました。この加賀を中心とする北陸は、その後、「南無阿弥陀仏」を

となえる人びとによって、大きな変革が行われていくのです。

石川県ブログランキングへ